──男、一人の男が居た。
男は脆弱であった。男は常に求められる存在であった。人の悲しみに敏感で、身の危険を考慮せず無謀を犯す。無謀ではあるが、愚行ではなく、他者への奉仕を、無償の愛を抱いていた。
男が関われば、人知れず涙を流す少女達は救われる。絶望が、苦痛が、落胆が、失意が、誰にも伝わらなかった物語が、掬い上げられる。救い、報われる。
何度悲痛を叫んでも、信じるものに裏切られても、訪れる蹂躙に身動き一つ取れずとも、救いが訪れない世界で男は──世界を恨んだ。
男は幸福である。裕福とは言えずとも貧しくあらず、非力といえど人を動かす力を持ち、舞台の上においては特別な立ち位置を持つ者である。
そして、男は情けない人間だと自称する。ろくでもない人間の一人だと自認する。
傷つく事を運命付けられた、運命に呪われ、囚われた少女達を生み出した世界に憤怒した。世界の責任は大人が背負うものだ、だとすれば、この世の子供の不幸は全て自らの責任。
その憤怒は、あまりに傲慢に満ちていたが、私欲を滅し奉仕を続ける男の姿に、数多くの生徒達が真の愛を垣間見た。
満ち足りていないことを少女達は知る。足りぬを認め、足りぬを足す。それは男にとって至福であり、少女達にとっても幸福である。
男は世界を奔走する。少しでも見捨てられる子供を減らす為に、少しでも悲しみで落ちる涙を止める為に。
男の前で、生徒は善悪すら超越される。とある問題を抱えた生徒は、己を化け物だと自称した。学園の一つを陥落しようとし、薬物によって支配を試み、それらの罪を罪とも感じない仙丹の開発人。
知識の探求は悪なのか、どうして居場所を奪われたのか、外道であれ悪であれ、望みを持つ事自体に善悪を問うてよいのか。男が全ての生徒の味方だというのなら、自分にすら味方してくれるのだろうか。と。
男は答える。化け物ではなく、少女に対し。
彼女の何故──に。彼女のどうして──に。彼女の分からない──に。
教え導くからこそ、男は先生であった。
「私は出来れば…どんな生徒も諦めたくないんだ。私には、それ以外出来ることが無いからね。だから、君も君自身を諦めて欲しくない」
悪逆を尽くし、非道を貫き、外道である事を認め『悪役』となった少女にとっては、まさに青天の霹靂。男の言葉は救済である。自分が、『悪役』が変われる事を諦めないで欲しくないと言うのだ。
悪行を目の前に突き付け続けた者へ、そんな言葉を送れるのだろうか。本気で諦めないと、本当に見放さないというのか。
「私たちは皆、自分の現在を、自分の選択の責任を背負う必要がある。いつかは過去になる今の上に立っているからこそ、最善を願い尽くしていくしかないんだ」
「──いつか訪れる未来に、胸を張って恥ずかしくない言葉を返す為に」
男は常に道を示す。男は常に手を差し伸べる。
男は救済を与えない。男は自己救済を与える。
輝かしい未来に旅立つ時には、己の存在等忘れ去っても大丈夫なように。居なくとも、前に歩けるように。
男は同じ選択肢をする。男は同じ選択肢を選ぶ。
男は同じ道を歩む。男は同じ想いを抱く。
こんな世界にも変わらないものがある。理不尽で、恐ろしくて、逃げ出したくなるような世界でも、信じて欲しいものがある。
男は審判者ではない。男は救済者ではない。
男は絶対者ではない。男は裁定者ではない。
この世に、抗いようのない絶望と苦しみによって、罪を犯し悪が育み未来を夢見る事すら奪われる子供達が居るとするのならば、男は罪を赦し悪を救い未来へ導く。どうしても少女達に、信じて欲しいものがあるから。
「────」
未来を、信じて欲しい。
明日を望み、なりたい自分になっていい。選択の責任は、自らが背負おう。だから自分自身の選択を信じて欲しい。
男は走り続ける。終わりの無い救済を成す為に。届かぬ声と叶わぬ願いが放つ嘆きによって世界が覆われるより前に。
前に、前に前に前に前に。拭われない悲しみが報われないまま終わるより先に、両の足が燃え尽きるまで、前に進む。
いずれ、全ての物語を見届けるまで。己の無力が、どうにか子供を救うまで。
──故に、男は命を落とす。
腹部を貫く弾丸が美しい赤に彩られ、戦場にて命を散らす。それが選択の結果である限り、決して避けられないものであった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「────」
先生、と呼ばれる男を観察する。何の変哲もない一般男性。ことキヴォトスにおいては異質な存在。
スバルを除いて、キヴォトスに『普通』の人間は居ない。大体はメカかケモ、バリエーションが少ないなと苦情を言えるほど。
アダムとイブはどうした、神様も知恵の実を適当に食われすぎじゃないのか。ケモノは分かるがロボはどうやって口にしたんだよ、と当初は純粋な人間を求めていた。
「────」
本当に、極々普通の人間。頭の上にヘイローが浮かんでいる事も無ければ、肌感溢れる肉体は義体でも無い。
セイアの発言を顧みるに、この男が『嚮導者』なのだろう。スバルの様な別の世界からの来訪者ではなく、真に主人公枠と言える相手。
一通りの観察を終え出てくる感想は、普通の一言。かなり整った顔立ちの高身長イケメンを普通と呼んで良いのかは分からない。
「──、────」
声が出ないのを承知で、戦火とは程遠い元のトリニティに感嘆の息を吐く。道行く生徒達は談笑を楽しみ、小鳥のさえずりさえ聞こえてくる程の穏やかな世界。
木々は灰に、冷たすぎる静寂と橄欖さに覆われていたあのトリニティとは、あまりに違いすぎる。
これが──本来のトリニティ総合学園。
広場を行き交う生徒の中には見知った顔も居る。当たり前の様にイチカが広場のベンチで、ギターを弾いているのだ。
傍には小さな後輩達が詰め寄っていて、彼女の演奏に聞き入っている。ツルギも足を運び、軽く頬を赤く染めながらイチカは演奏を続けて、
「────」
湧き上がるのは、底の見えない怒り。
こんな平穏を奪ったのか、こんなにも温かい友情を壊したのか。業を煮やし我慢もままならず、イチカの元へ歩こうとして──。
「──…!?」
更に、驚愕の人物がスバルの視界に飛び込んできた。──浦和ハナコが、生徒三人と共に笑顔を浮かべ道を歩いている。自然過ぎて見落としかける程に、浦和ハナコは普通の生徒として広場を散歩していた。
あの鉄仮面が、死を前にして少しも揺らぐ事の無かった顔がこうも容易く、朗らかに笑んでいる。それだけでも衝撃モノだが、纏う制服も驚きだ。
扇情的で、色欲を唆るチラリズムを搭載した若干の痴女っぽさも感じられる丈の足りない上着。スバルが見た彼女は、ウイの様な図書館に佇む清廉な乙女の様だったというのに。
こちらがねじ曲がった果てなのか、スバルが見たものが壊れてしまった後なのか、頭の中が真っ白になっている間に、景色が移り変わる。
早送りのビデオテープの様に、高速で動く世界に連れられたのはスバルもよく知る茶会の席である。
白い席は三つ。一つは男が、一つは聖園ミカが、最後の一つは、
『──へー、これが噂の先生かー。あんまり私達と変わらない感じなんだね?』
『……ミカさん』
──聖園ミカの品定めと捉えられる発言に苦悩を示す、ブロンドヘアの少女。花飾りを頭に付け、凛とした佇まいが似合うティーパーティーの一人。桐藤ナギサがそこに居た。
ついぞ姿形すら見ることが出来なかった相手にこうもあっさりと、正しくズルと呼べる抜け道は、この先スバルに多大な有利を与えてくれると予感する、そして同時に空恐ろしさも。
ティーパーティーの席は、彼女達二人だけでは無い。今現在切実に、姿を目に収めたいと願う相手が居ない。
──百合園セイアは、何処にも居なかった。
「……」
スバルの不安が物語の進行を遅らせる事は無く、先生と聖園ミカ、そして桐藤ナギサ三者間の対談は前に進む。
ティーパーティーの成り立ち、身の上の話、途中途中で話の邪魔をするミカを『どうしても黙れないのなら、その小さな口にロールケーキをぶち込みますよっ!?』と、謎の脅しを行うナギサ。あまりイメージ通りの人物では無かったが──イメージと違うとなれば、聖園ミカにも当てはまる。
「─────」
『ひえっ。……ナギちゃんったら怒るとほんと、怖いんだから…』
──ここまで、陽気な生徒だったのか?
背筋の凍るような神聖さは、知略と謀略に長けた狡猾さは、今の聖園ミカの何処にもない。
むしろ隙だらけの年相応な少女である。到底今の彼女がアリウスと繋がりを持っている等と想像出来ないぐらいに。
「……」
話の話題は『補習授業部』へと。
先生の手には四枚のプリントが渡される。四枚、つまりは四人。スバルがウイの元で調べさせてもらったあの四人で間違いない。
先生の背から覗き込み、補習授業部の対象者を再度目視する。内容は調査の時と依然変わりない、阿慈谷ヒフミ、浦和ハナコ、下江コハル、白洲アズサの問題児達のプロフィール。
彼は微笑を浮かべ、ナギサからの提案『補習授業部の顧問』の立場になる事を承諾した。
『新聞に載ってたよ!シャーレの活躍!猫探しに街の清掃、宅配便の配達まで八面六臂の代活躍!貴方になら、面倒事を任せられそうだなって』
『──。ミカさん!』
『冗談だってー。それにほら、先生って…先の道を生きると書いて先生、でしょ?教え導く貴方なら、補習授業部の顧問にピッタリだと思うんだ』
──根底の意地悪さは、何も変わっていなかったか。
補習授業部を面倒事だと切って捨てる姿勢に、趨勢に関与しない言葉の扇動、これでは元から衝突が絶えなかったように思える。
ナギサの人柄が変わらないのなら、狙いも変わらないだろう。スバルにそうしたように、シャーレの強大な権力をどうにかして関わらせたい。
だが、それは何故か。内紛を止める為にスバルを誘い込んだ時とは違い、先程の平穏を見るに差し迫った脅威は特に無い筈。
首を傾け疑問を抱くと、その疑問に答えるように数秒風景がコマ送り。いきなりの従順に驚いてしりもちをつき、ツッコミを言い放とうとして、自分から出る音全てが無音になる寂しさを味わう。
「…──。…──声ぐらい…って、おぉ…!?」
「──言う事聞くのか聞かないのかシャンとしろよ…」
相も変わらず音は伝わらない様子だが、自分の声を自分で拾えるようになる。スバルの要求を次々応える空間に好意すら感じて、いよいよもってスバルが女難の相から逃れる事が難しくなってきた。
「……先に見逃してるものがないか、巻き戻してくれるか?」
──強く念じれば、映像が過去に。目に焼き付けたかった平穏が再び姿を表してくれる。本気で従って貰えるとは思いもしなかったが、僥倖と周囲を見渡した。
足を運びたい相手は大勢居る。静止した時の流れの中、ウイの元にでも、ミネやツルギ、イチカの元に、誰にでも触れられる。揺れ動く心の針が、動きを止め指し示したのは、
「────」
「誰のせいでも、ないのか。誰も、壊したくねぇよな」
「──なぁ。ハナコ」
「最後、どうして俺をあんな目で見たんだ?…全部分かってるから、全部自分の手でどうにか出来るって…──」
「本気で人の憎しみを背負う様なヤツが、こんな…こんなっ…」
──こんな、満面の笑みを浮かべるものか。
下江コハル、阿慈谷ヒフミ、白洲アズサに向ける顔。その顔に、指先で触れに行く。頬に触れる寸前、すり抜けて伸ばした手は空を切った。
陽炎には触れられない、洞窟に映る炎の影でしかない彼女の笑みには、ナツキ・スバルの手が届く事は無い。
何がどうねじ曲がれば、『和平派参謀浦和ハナコ』が出来上がるのだ。死を簡単に踏みつけて、それでも尚前に進もうとする修羅は、どのように生まれてしまったのだ。
奥歯を噛み締めるスバルの目に映るのは、たった一人の、唯の女子高生である。
「……」
「………こっちの子が、白洲アズサ…?」
────。
トリニティの生徒に多く見られる天使の羽。そこに色とりどりの花々が飾られている。種類は判別できないが、気品溢れる花達は白洲アズサの可憐さを底上げしていた。
ゴシックか、ロリータ系に近いジャンパースカートを端にも同じく花の飾り。彼女にとってのマストファッションなのか、似合い過ぎるのも罪というもの。
しかし──しかし、あらゆる要素を差し置いて、スバルの目を射止めているのは、彼女の顔である。
「──ガスマスク」
顔の様子が一切伺えないガスマスク。
周囲の生徒の視線も奇っ怪な物を見る目であり、スバルにとっては更に大きな意味を持ったメタファーだ。
白洲アズサは、アリウス分校の元生徒。
変えられない事実を前に、どう立ち向かう。突き付けられる真実の形なんて、疑いを持てばすぐに消えてしまうものだ。
「──。もし、俺の願いを聞いてくれるってなら見せてくれ」
「──真実って奴を…!!」
願いを聞き届ける者は誰も居ない。スバルの願いを受け止める者が存在するのかどうか。
それでも、風景は移り変った。昼から夜に、広場から狭い茶席に。ナツキ・スバルの求めるものを差し出そうとする姿勢は、暗に、
──救ってくれ、と願う姿なのかもしれない。
※冒頭がモロ本編のパク──オマージュなのは、単にやりたかっただけなので深い意味は無いです。多分後一話か二話続きます。
この『先生』は本編『先生』でもなければプレ先でもなく、何処か別の世界線の先生ですが、当然先生は同じ選択肢を、同じく責任を背負うので本編と少しも変わらない方です。