『正直な所をお話いたしますと、補習授業部の試験結果などは気にしていません。試験に合格しなければ退学──それはあくまで最終手段』
『シャーレの先生と関係を持つ貴方が、情報を集め裏切り者を出来る限り早く探し当てる。とても苦労の多い依頼ですが、受けて貰えますね』
『──。シャーレの先生はあくまでも、ゴミ箱からゴミが飛び出ないようにする為の蓋です』
『……分かっていますよ。それでも、やるしかないんです。貴方だけにしか頼めない事だというのは、理解して頂けますか?』
『──私達はもう誰も、失う訳にはいかないのです』
阿慈谷ヒフミに課せられた任務は、補習授業部に潜むトリニティ学園の裏切り者を見つける事。
エデン条約に伴って動き始めている各派閥、何者からか襲撃を受け失踪した百合園セイア、自ずとヒフミの脳内には巨大な闇が浮かんでくる。
受けるしかない任務を背負い、ナギサへと向き直った時、ヒフミの目に映ったのは、
『貴方も、同じ末路にはなりたくないでしょう?』
ティーパーティーホストとしてあるまじき、疑心暗鬼の宿った暗い瞳を持つ桐藤ナギサの姿だった。
■
『──うん』
男にとって、その問いに嘘を吐くことは教師として否の判断を下した。学びを受ける場には、相応のされるべき扱いがある。
余計な、不必要な不安と重責を背負わせて学ばせる行為は、教育方法として悪手。
『あらあら…そうでしたか』
『…何よ、理由なんてあるの?補習授業部は補習授業部でしょ』
『──うふふ。そうですねコハルちゃん♡』
『っ、一々肌を擦り寄せようとしないで!?』
ハナコはチラリズムが刺激される服装で、コハルの視線を集めに集める。──規則から外れた押収品を整理すると抜かしピンクな本を盗み見る様な、好奇心旺盛な思春期少女にはムッツリという言葉が相応しい。
『自信満々に試験を受けて、合宿が決まってしまった今…──コハルちゃんと私はこれから、ひとつ屋根の下で、夜な夜な交友を深め合う仲になってしまったんです』
『こうやって夜闇の帳が降りた中、手と手を──』
『みぎゃぁ───!?』
エロティックな動きでコハルの細い指を絡め取るハナコから、腰の抜けた様子でナメクジが如く逃げ出そうとするコハル。
一瞬の内に教室の中がピンクな雰囲気に包まれそうになるも、色気を理解しないアズサがハナコを簀巻きに拘束する。
『コハルが嫌がってる』
『うふふ…ふ…。その…少しキツく縛りすぎでは…。ですがこれもまた、胸の奥から事言えぬ情熱が湧き上がってくるような…!あぁん♡』
『…ハナコちゃん。さっきの言葉は──』
『うふふ、お気になさらないで下さい。少しテストの形式に疑問を持っていて、先生に話すべき事を話してもらおうと…』
『ですが先生は…素直に、正直に、答えて下さったので私からはもう何も』
口を止めて、ハナコの顔は微笑に戻る。補習授業部の担任である男が担任に相応しいか試した、聞こえは良いが、ハナコの問いは極秘の筈の情報に足を掛けるもの。
ヒフミの瞳から力が抜ける。
補習授業部を先導する立場として、桐藤ナギサから命令を受けた彼女からすれば──『貴方だけにしか頼めない』。その言葉に預けていた信頼が、丸ごと裏切られた。
担任となる男が知っていた事は、心の折り合いがついていたけれど、
『…………』
もしかすると、桐藤ナギサが命令を下したのは自分一人では無い可能性に口の端を歪める。
自分も、裏切り者と見られているのだろうか。あの疑り深い目で、ゴミ箱と評した補習授業部の中に居る自分を──。
『ヒフミ』
『…先生』
『──大丈夫。必ずみんなで合格しよう』
不思議と、男からは安心が伝わってくる。ヒフミからすれば、利用される事を承知したのかしてないのか、穏やかな笑みの裏に何が潜んでいるのか分からない相手だというのに、既に好意を抱ける程。
第一次試験の不合格によって始まる、補習合宿。桐藤ナギサの一つ目の策にして、裏切り者を逃さない為の牢獄を前にして男は、ただ生徒と向き合う。
補習授業部は、補習授業部でしかない。生徒は生徒でしかなく、先生は先生。
──生徒の成長の場を、悪趣味なゲームに変えられる事態は、死力を尽くして避けてみせる。凡人たる男の胸に宿っていたのは、そんな強い決意だ。
『…………』
『…うふふっ』
──そんな二人の微笑ましい貢献に、ついハナコは笑ってしまった。嘲笑ではなく、ハナコ自身こういった光景が好みだからだ。
好みだった、と言い換える方が適切かもしれない。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
浦和ハナコという個人が、他者と心からの関わりを断ったのはいつからだったか。
浦和ハナコは唯の一生徒である。特別な能力と呼べるものは持っていたものの、生真面目さが取り柄と自分で思う程几帳面で慎重な性格で、自分の力をひけらかす事に生理的な拒否感を抱いている。
浦和ハナコの思考は極々普通な価値観に基づいている。天才と呼ばれようが只人とそこまで違いは無いとも考えていた、人によって習得の速さが違うだけ。
──では、普通の価値観とは何か。
普通は、人の顔色を見ながら会話をあわせるもの。普通は、自己主張は控え相手が求めた姿を出力するもの。
普通は、相手の心情を考察しながら不快にならない言葉を吐き出すもの。
普通は、一々のやりとりに効率性を求めたい欲求を抑えて人と関わるもの。
普通は、非効率を容認してその過程に価値を見出すもの。
普通は、自分の発言を省みて己の心の形を理解して長所を伸ばし短所を縮めるもの。
普通は、普通は普通は普通は────。
普通は、普通を相手に押し付けない事。心というものを、重んじる事。軽んじる相手に、共感の道を、チャンスを与える事だ。
浦和ハナコは唯の一生徒である。隣人、もしくは友人の笑顔が見たいだけの子供である。
普通の人生を生きたいけれど、少しだけ障害の多い道を歩いているだけの子供だと、
『────』
『……』
──そう定義する。
知識を得て、理解を通じ、定義を行う。人生はその繰り返しだと気が付き始めたのはいつ頃だろう。浦和ハナコはとにかく、壊れた色眼鏡でしかモノを見る事が出来なかった。
探究し理解し構築し、定義を行った形でしか自分も、他者も見る事ができない。ハナコ自身、それがとてつもない悪癖である事は把握していた。
子供が陥りがちな視野狭窄──特に思春期の頃は自分も、自分以外のものもバカバカしく映ることがある。
けれども神は、浦和ハナコに才を与えてしまった。BD教科書に載る大人達に負けず劣らない才能、ハナコにとって挑戦、恋愛、葛藤や克己は遠い何処か別の場所に置かれている様な、才気溢れる少女。
予測を違えた事は無かった。
浦和ハナコにとって人との会話は解答用紙。空白の欄に適切な言葉を当て嵌めるだけの行為である。
自分の言いたいことを、相手の視点で百点満点の点数を付けられる形で吐き出す。最初は皆も同じことをしているのだと思っていた。
──そうか。私の知る人々は、自由に生き方を選べるのに、私は出来ない側なのか。
到来する落胆と苦しみの理由もすぐに分かった。
自分と他人に期待していたからだ、自分はそれでも前を向いて歩ける人間だと思っていたし、他人も同じように生きていると。
すぐに分かってしまうことが、この上なく辛いことも理解している。知恵は毒、期待は罪、数々の自己探求は慰めにしか過ぎない。
このまま浦和ハナコは根腐れて、根腐れて根腐れて終わる──そんな不安を幼い頃に抱いてから、ずっと人生の意味を探し始める。
無意味だとしても、草木が生い茂り朝露を垂らす事に誰の意図も含まれていないように、『浦和ハナコ』という生き物は自然と求めた。
自分が人の紛い物で無いことを証明する。思考は輝きシナプスは弾け、心に火が灯る感覚。
自分が何者であるかを証明することが、浦和ハナコが生きていける唯一の道なのだと。
『──お手伝い、致しましょうか?』
人の役に立つ。人から求められる存在になる。自分だけじゃもう、自分を慰めきれないから。
『お困りですか?』
誰かの笑顔を作る人間になる。誰かを幸せに出来る人間になる。今すぐ意味を持つものでなくとも、非効率で非合理的であっても、いつかは実を結ぶと信じて。
『一緒に頑張りましょう!貴方ならきっと、乗り越えられます!』
全部自分の為だとしても、それでいい。探究も定義も、身勝手で自分勝手なもの。
いや、そんな思考すらない。浦和ハナコはただ、人の幸せを願っただけだ。笑った顔を見たかっただけだ、喜ぶ姿を目にしたかっただけだ。
それで良かった。誰かに胸を張って自慢できる人間になりたい、胸を張って私の『定義』を助けてくれた人達が居たのだと自慢したい。
がむしゃらに生きて、そのがむしゃらが素晴らしかったと言えるような人間に、
『───』
『───』
『────』
『────ぁぁ』
──そんな錯覚を浦和ハナコの才能は消し去った。
求められたのは、浦和ハナコという器に収められた脳の中身だけ。
真の知恵とは形式的な、例えばテスト等で測るものでは無い。分解と理解によって真理への到達を目標にその構築過程の───。
『えっと、難しい事は後でお願い出来ませんか?私達、次のテストで九割以上を取りたいだけですので』
『────』
難しく、話した覚えは無いのだけれど。
『あの…浦和さんの仰っている事はあまり分かりませんが、今やっている事と何か関係が…?』
口に出した言葉はちゃんと、貴方達にも理解出来る代物の筈。
『もういいです!他の方を頼ります!』
周知の事実、周知の思考回路。分かってはいた。
『浦和さん!貴方には是非とも、ティーパーティーホストになって頂きたいのです!』
『私達からもお願いします…!』
ああでも、分かる。私を頼れば白紙の問題用紙が埋まる。
それ以外の何も考えていないだけ。面倒な相手だけど、問題を解けないから仕方ない。
何人目か、何十人目か、何百人目か。少しずつ、少しずつ、信じていた世界が消えていく。
『──浦和さん!浦和さんはまだ何処の派閥にも所属していないと聞きます!ならばどうでしょうか、私達パテルの元に…』
『いえ、浦和さんは私の友人としてフィリウス派に所属するのが摂理というもの。今更浦和さんにおもねるなんて、恥を知って下さい』
『それを言うなら、幾度も勉強会を開いて共に学び合った身としてサンクトゥス派へ──』
細々とした争いも、だから何だと言う訳でもない。権力争いがどうした、人とはそういうものだ。それに彼女達だけの責任じゃない。友人関係に派閥争いを必要とする学園が、世界の形そのものが歪み切っているというだけ。
歩み寄れば、理解し合えばいつかは──、
『──。何を、しているんですか』
『あら?見て分かりませんか?──私達とは釣り合わない未熟で愚かな生徒を間引いているだけです。貴方の才は、貴方の力は誰よりも輝かしい。余計な虫がつかないよう、貴方を守る為の行為ですよ』
──足蹴にされる、旧い友人。
か細い戦で繋がった数多の『ユウジン』とは違う、『友人』と呼べる相手は汚水で濡らされ、暴行を受けている。
ああ分かる。これが初めてじゃない。分かる、どの程度の期間、どれ程のイジメを受けていたのかが。
分かる、分かってしまう。理解出来てしまう。理解した癖に心が動かない。
『さぁ行きましょう浦和さん。次期ティーパーティーホストになる貴方には、もっと相応しい─────』
友人だと思っていたモノは。
私が友人だと勘違いしていたモノは、始めからただの阿呆だったのか下衆だったのか。
そんな事はどうでもいい。今やるべきは彼女を助け、今後一切のイジメを見逃さず、私に関わる全ての『ユウジン』を操作する事。
天才だからきっと出来るとも、何を考え何を感じ、何を求めているかなんて、
『────』
──理解出来る。
『友人』が浦和ハナコをどう見ているのかなんて、簡単に。地に伏せ見上げる瞳に何を映しているのかも、どんな恨み言を溜めているのかも。
人生は失敗と間違いの連続──今この瞬間に、『友人』は浦和ハナコと関わっていた事を失敗と間違いの箱に入れた。
浦和ハナコの存在は、誰かの人生において『間違い』になってしまった。
全てが錯覚だと分かったその日から、浦和ハナコは『浦和ハナコ』を身に纏うようになる。殻の中に心をしまって、仕舞ってしまった事に絶望した。
普通に生きるにはあまりにも、浦和ハナコは下手くそに真面目だったのかもしれない。
自分は『最低限』を相手に求める事を辞められなかった。試し行為で人をラベリングし、自分の行動に自己嫌悪を重ねる。
本当は本心を見抜いて欲しくて堪らないくせに、苦心と努力を認めて欲しいくせに、殻に閉じ篭る。
下品な言葉遣いを覚えた。下品な行動を取って人から離れた。裸で校内を散歩したり、破天荒を繰り返して『浦和ハナコ』を作り上げた。
その裏で自己嫌悪は重なり続ける、向いてないことを向いてない性格で向いてないまま進む自分は、本当にどうしようもない。
『…………』
『……──。あら?』
そうやって、『浦和ハナコ』が完成しきる直前、最後に出会う相手が居た。それは摩耗した浦和ハナコとして、最後に助けたいと願った相手。その日から、普通の女の子として生きる道は捨てた。
『………』
──花を慈しんでいる。
踏みつけられねじ伏せられ、道端で枯れていくだけの花とは思えない雑草を、花と思わさせる程の温もりで包んでいた。
何処の生徒かは分からない。トリニティ学園から退学しよう。そう悩んでいた頃、気分転換に郊外へ散歩をしに来ただけ。ここは様々な学園の生徒の交流の場、ガスマスクを付けているのは珍しいけれど──、
『────』
ハナコの視線は、慈しまれる花と、それを抱く少女の背中だけに吸い込まれる。何をするでもなく愛される花。花は愛してくれる相手に、満面の笑みを返す。
少女の優しい仕草が、手つきが、妙に頭の中に残り続けた。息をすることも忘れて見つめ、血の巡りが悪い頭がぼんやりと、とんちんかんな言葉を紡ぎ始める。
理解しようとすれば、きっと陳腐で下らないものに変わってしまう、そんな言葉を。
紡がれたものが音になったかは覚えていなかった。
──『あの花になりたい』。
舌の上で転がした感覚が忘れられない。まろやかで、とろけるような甘さ。同時に始まる感情による脳の蹂躙。脳を暴れまわった、全てを焼き尽くす感情に名前を付けるとするのなら。
嫉妬、と。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
『──試験に合格する為の合宿。なのよね?』
『あはは…そうですね…』
『……だったら、なんで』
コハルの手には──デッキブラシ。
向ける先は、勿論大敵である緑の沈殿物達だ。壁面、床に広がる彼ら彼女らをこそぎ落とし、この場所をあるべき姿に戻す。
ヒフミ達が行っているのはそうズバリ、
『プール清掃なんてしてる訳──!?』
『楽しいよ?』
『そういう問題じゃない!』
お気楽な男の言葉に憤慨する。しなくてはならない。
合宿所に到着して最初にする事が清掃──教室や物置、寝室の清掃はまだ分かる、勉強には環境も大切だからまだ納得できる。
けれどプールを泳いで遊ぶ暇など無いのだから、この清掃に意味は無い筈。むしろ勉強の時間を減らす、とても不真面目な行為。
『大体、ハナコが遊びたいなんて言い始めるから!』
『学生の本分は青春を全うする事ですよコハルちゃん。そうは思いませんか?』
ハナコのパスへ男は応え、水圧の強めたホースを向ける。先をつまみ、空色のレーザービームをハナコへ命中させて、制服は薄く透けて見えるように。
その下にある筈のものが見当たらないのを──コハルは手で目を覆ったその隙間から覗いていた。
『ちょ、制服を濡らしちゃったら──』
『コハルちゃん、水着を着る理由を考えたことはありますか?』
『着る理由?それは、その…濡れてもいい格好にならなきゃ、プールには入れないでしょ?』
『そうです!濡れない為の服装ではなく、濡れてもいい格好イコール水着ならば、私にとってコレこそが水着という事!』
『────』
『見た目や形に囚われず、自由に青春を謳歌する。コハルちゃん、どうでしょうか……──今の私、とても『良い感じ』ではありませんか?』
『な、何が良い感じなのかちっとも……』
『本当に?ちっとも分からないのなら…もっと近くで──』
『わァ──!もうっ!清掃再開っ!再開ったら再開っ!!』