──紙袋から零れていた美しいブロンドの髪の毛は、穢れを知らない聖女のようだった。
差し伸べられた手にガスマスク越しに目を惹きつける。これといった理由も無く、心のあるままに視線を奪われた。いや──わざとらしい理由を付けるのなら、
『大丈夫ですか?』
花よりも綺麗な魂が彼女を通して見えていたからだ。
私には、まぶし過ぎたと思う。まだ私から何かを求めた訳でも、彼女からしてくれた訳でも無かったけど、誰も彼もが足を通り過ぎさせる大通りの片隅で私達は出会った。
──花は、花であるから美しい。
──花は、花であるから愛される。
眩しさの理由も同じようなもので、つまりはそう、無意識の内に私は彼女を愛していた。複雑な言葉で誤魔化す事を辞めれば、単純に──運命様に導かれたとでも。
私は大勢を不幸に陥れて、絶望の感情を抱かせた。なのに今は道行く人々に踏み潰されそうな道端の花を守ろうとする。
その救いを、ほんの少しでも私の手の届く相手に分けてあげられれば良かったのに、ほんの少しも考えてあげられなかった。
それが正しい筈も無く、拒むべき罰。この世に意味のない苦しみは無い、私の道は憎悪と怒りによって続いていく。
例えこの世界の正体が、欠片の救いもないおぞましいものだったとしても、前に進み続ける事だけが、
『──花、お好きなんですね』
『私も大好きです。でも、ずっとここで守ってあげるのは大変だと思います』
『どうぞこれを使って下さい!』
────。
渡されたのは、カバの様な見た目をしたヨダレを垂らす謎生物をモチーフとした牛乳瓶。キラキラと目を輝かしながら渡すものでは無い、と言う訳にもいかず頭がハテナのまま受け取って、彼女の言う通り土を詰め──、
『これで、移動させてあげられますね!』
『牛乳瓶は水捌けが悪いので、持ち帰った後はちゃんとした入れ物に挿して貰えれば…──』
ツラツラとこの花の育て方を話す彼女に向けてはとても、『この花はここで咲いているからこそ綺麗に見える』なんて、風流な言い草はできなかった記憶がある。
真剣に、真っ直ぐにこの花の未来を語る口に何を付け加えても蛇足だから、困惑で口が動かなくて良かった。
説明を受け終えて、彼女にとある質問をする。感傷に満ちた、とてもくだらないものだったけれど、
『──え?』
『い、いえいえ…。その、別に花屋さんでは…』
──声を掛けた理由が花でないとするのなら、なんだというのか。
『──。あうぅ…でも、えっと……』
『お、お気に障るかもしれませんが、貴方が…誰かに助けて欲しそうに見えて…丁度セールの帰り道でしたし、手持ちで解決できる事なら助けたいと』
『……──?はい、それ以外には』
『……………。───。大丈夫ですよ、見返りは求めません。求める気もありません』
『人を助けたい。そう願い行動する事に、私は特別な理由を作りたくありません』
『あはは…。というよりも、多分出来ないんです』
──ああやはり、花は花なのか。
その日から、廃墟の窓際に飾られた花からは、濃厚な思い出の匂いが漂うようになった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
誰かが悪者になる事でしか終わらない物語が嫌だ。
図書館で手に取ってページを捲る本の一冊一冊に、報われない役がいる。物語が前に進むために、誰かが憎まれ役になって、誰かが泣いて、誰かが傷ついて、そして最後には正しくないと報われない。
悪役や悪者が退治されるのが嫌なんじゃなくて、悪役や悪者が勝つのが好きという訳でも無くて、むしろ悪い事をすれば真っ当に償って欲しいと思うだけで。
好きなものがあって、嫌いなものがあるだけです。暗くて憂鬱なお話が嫌いで、努力がきちんと報われて苦難を仲間と乗り越えるお話が好きなだけなんです。
だから、世界の真実がとても優しい者であって欲しい。どんな人でも、誰かに向けた優しさや思いやりがいつかは巡って、帰ってくるような世界がいい。
何をしても辛い事が待っているだけの人生に、何をしても虚しさだけが待っている人生に、嫌って言い返してハッピーエンドを目指したい。
──みんなの幸せを望む事って、多分それほど難しい事じゃないだろうから。
『…先生』
『先生は、全部知っているんですね』
大掃除の後、太陽の輝きがプールの水面に反射して、キラキラとプリズムが跳ね遊ぶのをヒフミはプールサイドに座り見つめる。
背筋に汗の浮かぶ空模様で、水に浸かる気持ちよさを味わう足はヒフミのほかにもう一足。
『全部──全部は知らないかな。それに、知っていたとしても…全てを知っているからこそ、見えなくなるものもあるからさ』
『ナギサが補習授業部を作った理由。それぐらいかな』
『………』
冷やこい感覚と背中の暑さ、その寒暖差に夏を感じながら男は簡素に告げた。二面性はかくあるもの、『知っている』の裏側に『知らない』が在るのは当たり前。
ナギサがどんな目的で補習授業部を作ったのかは知っていても、どうしてその選択肢を選んだのかは、男にだって知りようがない。
真実はある、暴くこともいずれは出来る。けれど同時に、苦痛も生まれる。男にとっては生徒が消えない傷を作らないように、ただそれだけが全力を尽くす理由になった。
『何もかもを知っている事。それはそこまで重要な事じゃないと思う、ヒフミや補習授業部のみんなが、今この瞬間にプールを楽しんでいる時間がある。そっちの方がよっぽど大切だし』
『ヒフミも、友達はなるべく笑顔になって欲しいから頑張ってる……私にはそう見えたよ。それは私の思い込みかもしれないけど…どうかな、ヒフミ』
『──。思い込みじゃありません!そ、そうですよね!今は何より、補習授業部のみんなで楽しみながら合格を目指す方が…!なんだか安心しました…』
──視線を水面に戻し、自分の足に伝わる波に誘われる。遠くで水をかけあうハナコとコハルに目が留まった。傍で二人を見つめるアズサにも、その白銀の髪が靡く姿はまるで妖精のようで、
『───』
ヒフミの瞳には、この光景に対し裏切り者という単語が浮かぶに至らない。トリニティを破滅させる悪が、彼女達であっていいはずが無いと、切に祈りながら水中へと沈んでいった。
預けられた秘密を未だ内に秘め、誰も傷つかないエンディングを目指し歩き始める。それが悪路であろうとも、道無き道であろうとも、友と呼べる者たちの悲しみを拭う為に。
■
『───はぁ』
水の張られたプールの上で太陽とにらめっこをして、右手で軽く視界を遮りコハルは頭に浮かぶ無意味な単語を溶かし捨てる。
自分の判断で補習授業部に入部する事になったのではなく、シンプルな成績不振によってこのヘンテコな生徒集まる場所に押し込められた。
不審な行為を行ったことで、収容とも呼べる扱われ方を受けた三人とは違うのだと、コハルは自分に任せられた任務を胸の中で反芻する。
任務があるから補習合宿を行う羽目になったのか、それとも自分の学力不足なのかは思考に含めずに、ただ重大な任務を任された瞬間の胸のトキメキを頼りに。
副委員長、羽川ハスミから託された極秘任務。──それは補習授業部の真の姿を暴く事。
落第者となったコハルは何の手続きも工作も無く補習授業部へと入部出来る生徒だった。勉強における理解力は同年代の生徒に比べていくらか劣っている上、知識の吸収率は低い。吸着力は高いが集中力が持たず、いつかは頭角を表すと思いつつ、一年生の身分でありながら二年生の定期試験を受ける等見込みが甘い事も多い。
『………』
補習授業部に潜む闇を暴き、心を鉄にしてハスミ先輩とツルギ先輩へと報告する。難しい任務ではあるが、それでもコハルにとって唯一自分の実力を証明できる機会だ。
正義実現委員会に所属する以前から、コハルは自分以外に訪れる理不尽を見逃せない性分であったものの、問題を解決しようとしては失敗する。
結果的に全てが丸く収まる事が殆どでも、失敗は失敗。慰めを受けたところで、それに甘んじていてはダメだ。という自責も併せ持つコハルにとって、見栄っ張りと虚勢はコハル自身を鼓舞するための武器。
戦闘力は並、学力はいつも平均以下。焦ることは無いと先輩たちからいつも言われても、頭に残るのは後悔と羞恥だけ。
だから、ここしかない。この機会に下江コハルはいつまでも足手まといの人間ではないと証明する、筈だったのに、
『…──何も起きない、平和ね』
『勿論平和、ですよ。何も不思議がることはありません』
『…あっそ』
『不思議に思う──という事は、つまりもっと風紀が乱れに乱れたカオスをお望みなんですね!?』
『何言ってんのアンタ…』
想いは実らず、浮かぶ水草となって遊泳する。
真面目そうに見えて裏がありそうで、その実真面目な阿慈谷ヒフミ。噂ではとんでもない不良生徒と聞いていたが、変な所は沢山あるけれど悪い感じはしない白洲アズサ。
──隣の変態はどうしようもない。補習授業部の正体が何であれ、彼女だけは今後も牢屋に仕舞い込んでおくのが適切な処置な浦和ハナコ。
後は、そんなおバカばかりが集まった補習授業部の担任を務める物好きな先生。仕方がないけれど、状況を冷静に俯瞰し皆を纏める役目は自分しかできないようだ。
『ふふん。試験なんて簡単に合格してやるんだから』
『ちょちょいって勉強して、すぐに七割以上取れるようになって──』
真実を見つけ正実に舞い戻り、先輩たちから褒めてもらおう。
完璧な未来設計に顔に乗る水滴がプールに混ざる、これまでの不幸は振り子の様なもので、この試練を乗り越えれば晴れて──胸を張り正義実現委員会の名を背負える。
もう、虐めを前にして足がすくまないように、自分の強さを証明する──、
『えいっ♡』
『わぶっ……!?……こ、こんのぉっ…!待ちなさいハナコ!!』
『うふふふふっ、追いかけてきて下さい〜♡』
■
『……結局疲れちゃって少しも勉強出来なかった…』
『あはは…。一日くらいは大丈夫ですよきっと』
『ああ。だが、とても楽しい時間だった』
『はぁ…とっても良い青春でした…♡』
『何が青春よ…!このまま不合格が続いてもいいの…!?』
暗闇の帳の中で、寝室に灯る僅かな光を浴びながら一日を振り返る。それは勉強合宿とは名ばかりの、遊びに呆けた自堕落な一日だ。
別館の清掃から始まり、プール清掃、遊泳、就寝。ここまでくると普通の夏休みと変わらないではないかと、コハルは不満げな口振りでハナコの能天気さを改めさせる。
手を頬において、それはいけませんね。と言いたげな表情をしていたハナコは、寝室に響くノックの音で引き締められた。
この時間の訪問者、彼ならば心配ないがそれ以外の存在であれば──様々な不安が浮かび上がる。
僅かながらアズサと時間を共にしたヒフミとコハルも、彼女が生粋の軍人、戦闘思考である事を踏まえ、今すぐに罠をしかけようとするアズサを引き止める。
『──お邪魔しても大丈夫かな?』
『む、先生か。いや…先生に変装した誰かかもしれな──』
『ある訳ないでしょ!…ほら、ハナコ。ドアを開けてあげたら?』
『はい、皆さんがよろしいのなら』
皆の了解を受け、ハナコがドアの鍵を開ける。内部が錆びた古いドアノブだからか、不愉快な音を立てながら男を招き入れた。
白い上着に白いシャツ、連邦生徒会所属という事がありありと分かる格好は光に照らされずとも夜闇に浮いて見え、真白い故に首からぶら下げる名札を繋ぐ赤い紐が映える。
──手に持つタブレットの淡いブルーライトもまた、彩りに一筆加えていた。
男は『勉強は明日からにしようか』と、プール遊泳を終えた皆の前で口にした事もあり、今こうして生徒の秘密の園を覗きにくる理由もさして無いだろう。
それでも、様々な思惑が重なる補習授業部に、暴いておかねばならない事情があるのならば別。無意識の内に、ヒフミの枕を抱く腕に力が入った。
椅子に腰掛け、男は深刻そうな表情で悩みを吐露する。告解とも言えるその姿勢は、男の『教師』としての矜恃に関わるものだとその場の全員に示していて、
『──。ごめんみんな、明日、少しだけゲヘナに向かう事になった』
『──!?せ、先生それって、っ、少しだけってどれぐらい…』
『明日のお昼下がりには帰るよ、それまでは、このタブレットを通して課題を出させてもらうね』
──苦悶の表情で語る外出には、言葉以上の罪がある。
担任として、男はその役目と責務を全うしなくてはならない。男にとって『担任として』とはつまり、補習授業部の全員をテストに合格させる役目である。
離れる時間の問題ではなく、ヒフミ達は一度の前例を許せば二度目の訪れを予期しておかねばならない。
その事実を聞かされる側がどんな風に男を捉えるか、ヒフミの不安げな顔を見れば分かること。
『ゲヘナ…──先生、説明してくれ。どうしてここを離れるのかを』
『そうよ!あれだけ合格させるとかなんとか言っといて、見放すなんて許さないんだから!』
『先生…』
『…………』
男が口を閉ざせば、今までの、そしてこれからの信頼は全て崩れ去る。例え口を閉ざすべき情報であっても、男に突き付けられた二択には選択の余地等ありはしなかった。
『ゲヘナで、補習授業部がエデン条約に関わる秘密組織だって噂が流れてる。調査や内部検査で皆の勉強と試験の邪魔にならないよう、出来る限りの誤解を解かないといけない』
『っ…!?』
『私は、必ず補習授業部のみんなを合格させる。みんなの頑張りが……少しでも実るように…それでも、道の先には困難が沢山待ち受けているだろうから……』
『──少しでも、ヒフミ達には歩きやすい道を示したいんだ』