指揮を執る者の居ない教室で、ヒフミは懸命にその任を背負おうとしていた。
普段触れない紙媒体の教科書を片手に、机に身体をめり込ませんとする勢いで頭を悩ませているコハルの前に立つ。用紙へラインを引くように指先を走らせ、彼女の思考の妨げになっている問題に解決の道を示す。
『ここの計算は公式で省略できます。基礎の応用で回答できる問題もあるので、テストの際は簡素に解けるものから解いていきましょう!』
『うぅ…分かってるわよ…』
コハルの視界に映る文字と数字は理解不能と解釈不能の怪生物へと変わる。まるでミミズの様にぐにょぐにょと形を変える文字たちは、公式として形を与えられ無ければ到底コハルに解ける問題では無かっただろう。
『ヒフミ、少しいいか』
『はい!なんでも聞いて下さい!』
『ここの問題文、Aに追いつくために戦車を利用するとあるが…AとBは何故無線を使わないんだ?』
『あはは……えっと、その』
問題と向き合う二人以上に、今不安を抱えているのはヒフミだ。
先生の不在は相応に、補習部へ負担を掛けている。それは奇行の常習犯、収監理由が全裸での徘徊というあまりにもな理由の浦和ハナコの行動さえ抑制していた。
『あぁん…ダメですよコハルちゃん。無理矢理暗算で解こうとしてますよね~』
『むぐっ…。いいでしょ別に、省略できる所は省略しても。テストは時間との勝負なんだから!』
『だからこそ、です。理解の為に理屈を知る、本番でない今こそ反復しなければいけません』
『──うわべだけの理解では、あの手この手で数字と表現だけは変えられる問題文に苦しめられちゃいます。問題の本質と向き合う、その力を磨く時間なんです。』
『ハ、ハナコがまともに話してる…!?』
でもでも戦法を胸に封じて、ハナコの真面目な姿勢に毒気を抜かれるコハル。
彼女がこうして、以前の様に言葉の数々に卑猥なイメージを想起させる言葉使いを行わないのも、相応に補習部と向き合ってくれているんだろう。一回目のテストでは零点、空白で用紙を提出したぶっちぎりの不良生徒だというのに。
『───』
コハルの瞳には既に、過去彼女に向けていた軽蔑の感情は無くなっていた。
人に勉強を教えられるぐらい頭が良くて、それなのにテストは白紙で提出する生徒は十中八九──単なる不良生徒で終わらない理由がある。
『ねぇ、ハナコ』
『なんですか?コハルちゃん』
『…あー。えっと……』
『ハナコって───』
──言葉を遮る様に、教室に地響きが轟く。
顔を見合わせ何事かと爆心地へと駆け出す四人。ただし一人、思い当る節があるような、それでいて喜びに満ちた艶のある顔で走っていたが。
『けほっ、けほっ…き、今日も、平和と安寧が、貴方と共に…ありますように…』
ともかくとして、煙の晴れた玄関先で四人が目にしたのは──伊落マリーの煤だらけの姿である。シスターフッドの一員への無体、ヒフミの脳内は白く染まり、何故こうなったのかの原因をきょろきょろと探して、
『設置しておいたトラップは無事に起動したみたいだな』
『ト、トトト、トラップって…アズサちゃんっ──!?』
主犯白洲アズサは堂々と戦果を誇っていた。
慌てるヒフミへ『襲撃者に備えておいた』と策の成功を喜ぶ彼女の姿には何も言えず、ただ閉口するばかり。
苦い顔をしてマリーと向き合い、詰まる息を飲み下して『大丈夫ですか…?』と彼女の安否を問う。だが返答は涙ぐんだ視線で、
『じ、事前に連絡をせず訪問した私が悪かっただけですので』
『あぅぅ…その、どうして急にこの場所へ訪問を?補習授業部の合宿場所だと知っている方は少ない筈で…』
『有志の方からアズサさんの合宿先を教えて頂いて──お礼を、言いに来たんです』
『お礼ですか?』
『アズサさんの補導の理由、上級生の暴力は…上級生による虐め行為から下級生を守る為だったんです』
『──!』
『恐らくは、アリウスから転校した事も起因して…虚実取り交ぜた報告のせいで、アズサさんは──』
恐る恐る、瞼をしかめるマリーは元気そうに胸を張るアズサに目を合わせられず俯く。目線が泳ぐ内、覗き込むように顔を合わせてきたハナコが三日月に瞼を曲げ、探るように言葉を紡いだ。
『アズサちゃんは正しい事をして、そして今、正しく感謝を受け取っている。それが一番…喜ばしい事だと私は思いますよ?』
『そう、ですよね』
『……それにしても、有志の方とは仰いましたが一体何方が──』
ハナコの言葉に従い、マリーの視線は玄関口の方へ。有志の方と呼ばれた生徒がその方向に居るのかと皆の視線が集い──、
『────』
『初めまして』
その場の内、二人の身体が硬直する。
予想外、予想だにしない、予想し得ない会遇。入念に積み上げられてきた陰謀が、複雑なパズルのラストピースが、精密な時計の歯車が正に今、ピタリと嵌った音を鳴らす。
『私は梯スバル、後輩を助けてくれたお礼を言いに来ました』
『──ありがとうございます。白洲アズサさん』
■
子供にとって、生徒にとって、教育というものをどう理解しているのかを知りたい。
『私もまだまだだなぁ……』
ゲヘナに向かう途中の車内。思い浮かべるべきは目先の出来事、エデン条約への模索の筈だ。
しかし、男の頭に思い浮かぶのはいつも自らの不徳と不足による生徒の不幸。男から見る世界と、子供から見る世界が当然異なる様に、理解し合えないと感じた瞬間から不幸は生まれる。
死んでも、男は相互理解を諦めるつもりは無い。だがそれは自分の幸福を諦めた生徒にとってまた新たな苦痛を生むものでもある。『私』と『貴方』は遠く、かけ離れた別人だと思う者と、『私』と『貴方』は本来近く、支え合い寄り添う事を常とする者とでは、他人の見え方はあまりに違うから。
だから、知りたい。
いつもいつでも、彼女たちの事をもっと知る必要がある。
『…──ナギサは補習授業部を…』
男の苦悩を知るのは、携帯しているタブレットの住人のみ。男が悩み故、運転に集中できず危険運転すれすれで操縦している男の不注意をサポートしているのも彼女だ。
男による生徒の献身、その健康面への悪影響を指摘しても聞かん坊の主人の為に、この仕組まれた出張の手伝いを行う。それも一重に、愛によるもの。
『………』
──補習授業部を潰さんとする彼女の意思は本物だ。
男を補習授業部から切り離すために、恐らく万魔殿を焚き付けた。そうでなければ、男が今回招集されたゲヘナトリニティの合同会議に出席しないと即刻条約破棄、なんて無茶を言い出さない。
生徒を守りながら、悪意を持つ生徒を指導する。
その両立を目指すには、あまりにも男と補習部に向けられる悪意の数は多かった。
『……?…っ、先生!』
『───!』
──目線の先、銃を構える少女たちの群れ。
獲物に狙いをすました眼光が、銃口と共に放たれる。トリニティで蠢いていた悪意の影はアリウスでもゲヘナでもない。男の目に焼き付いたのは、自らが献身を捧げる学園、その学徒達の紛れも無い裏切りだ。
『《チェックメイトですよ、先生》』
■
──予想外。
それは、出会う筈が無い。そう信じていたからこその感情であり、そう胸に抱き瞳を震わせたのは白洲アズサである。
彼女にとっての予想外とは即ち、今この瞬間、トリニティでは起きてはいけない出来事だった。絶望と恐怖を湧き上がらせて、震えながら喉を締める事しか出来ずに、ヒフミとスバルの話し合いを見守るしかない。
『……アリウス親衛隊…ですか?』
『はい。かなり内密な話にはなってしまうんですが…──実はアズサさんと同じ様に、アリウスからトリニティへ転校を申し出ている生徒がかなり存在しています』
『ですが…確かな正義と優しさを持つアズサさんが、この様な目に会うと分かれば彼女らは不安がる。そして居場所を見つける事もままならない……要は受け皿が必要なんです』
『…………』
『現在、ミカ様が立案、主導し…私がリーダーとして動きを進めています。そうした中で今回のアズサさんの活躍は正に、我々の旗印となるものでした』
『下級生を上級生の虐めから守る。──親衛隊の名を授かった者として、貴方の行為は我々の活動内容を左右する代物です』
旗印、と聞いてコハルの眉が動く。正義実現委員会として活動するコハルは、部活動が掲げる『正義』を信じ前に進む集団。
となれば進む先を示す旗印を、たった一人の行動に重ねる事がどれ程の負担かを容易く想像出来たが故、口を挟む。
『だったら何。わざわざアズサ本人を訪ねてきたって事は、その後に続ける言葉なんてどうせ──』
『ええ。我々の元で活動して欲しいのです。階級も副部長…いつかは私の部長の座をお譲りして…』
『ふんっ!そんなの駄目ったら駄目よ!』
『…貴方が口を挟むことでは無いと思いますが?』
『挟んでいいの。だってアズサは私達、補習授業部として活動中なんだから!勝手に横から手を出さないで貰える?』
スバルがアズサに向ける視線を断つ様に、間へ割って入ったコハル。ヒフミは慌てて落ち着かせようと立ち上がるが、ハナコが手を伸ばし静止させた。
『…………ああ、今すぐという訳でもありません。ただ後々…』
『それもダメ』
『…………』
身勝手な口出しにスバルは目を細め、眼光を鋭く磨く。ティーパーティーの名を出しても引き下がらない強情さは、補習授業部等という部活に押し込まれるだけはあるか。
そんな物言いをした視線を向けられるコハルも睨み返すが、間を割って入ったのは、
『っ…。すまない、私は…彼女の案に賛成だ…』
『アズサ!?ちょっと、その言葉の意味ちゃんと分かって言ってんの!?』
『………アリウスの関係者での部活なら…私は顔が広い。親衛隊を取り纏める役も出来るだろうし、それに…この前助けた生徒と同じ目に合っている子が居るのならば、私は助けの手を差し伸べたい』
『──。ありがとうございます、アズサさん』
『だが、少なくとも補習授業部である内は……貴方の案に参加出来ないの事は了承してくれ……』
『勿論』
苦虫をすり潰し、飲み干した顔で親衛隊への参加を申し出たアズサに何事かと踏み込むには──友愛と友情が僅かに、足りなかったのだろう。
承諾の言葉を残し、笑みを浮かべて帰ろうとするスバルは、思考の棚に置いてあった餅を取り出すかのようにわざとらしく、『そういえば』と付け加え、ヒフミを見やった。
ヒフミとしては、見知らぬ三年生が始めた無茶な問答。退学が掛かっている事を知らない生徒からすると、この補習部の物語も単なる成績不振者が集ったものでしかないと思われている筈で、そこへ上乗せされる『そういえば』に不安を増やす。
『何か、お手伝い出来ることはありませんか?恩を返したい…という程でもありませんが、これでも三年生。勉強の事ならお力になれます』
『勉強…──それは、そのっ、私達には今教鞭を取って下さっている方が…』
『へぇ?その方は今どちらに?』
『…ど、どうしても外せない用事があるとゲヘナに』
『つまりは今現在、その方は皆さんから目を離してしまっている、という事ですか』
『あぅぅ…』
否定したくとも否定しきれない状況、やむを得ない事情は真に、やむを得ない代物ではあるが、それでも男は今この場に居ない。
──それが致命的な空白である事は、誰にも知られずに。
『その方は何とお呼びすれば?』
『えっと──■■、と』
『ふむ。ならば彼が不在の間、私がその役目を受け継ぐ、というのは如何でしょう?』
その名は剥奪されたものである。
その名は剥がれて落ちて、奪われたものである。
その名は世界に寵愛され、悉くを裁定するものである。
その名を持つ事が許されるのはこの世でたった一人であり、その名を被る事が許されるのはあまねく奇跡を導く者であり、その名が持つ意味は、
『私が、先生として貴方達を導きましょう』
先に生き、そして道を紡ぐ。
たった一人に与えられた名前ではあったが。
──それでも、この場に男は居なかった。