「…もう使い物にならなくなっちまったな」
ぶらり、ぶらり。重力に逆らえず、自由気ままに動く自身の左腕を眺める。
家中を拭いた雑巾のように、長年使われてきた箒のように、長年付き添ってきたスバルの左腕は壊れかけていて、それが今壊れてしまっただけのこと。
ムツキはスバルに抱きつくと、赤子をあやすような仕草で頭を撫でる。何を発するでもなく、彼女の小悪魔ムーブにしては…らしくない行動。
「──俺が、傷付くのは……嫌だけど、取り返しがつく。最終的に誰も失ってないのなら…それで」
──罵詈雑言を、非難を、スバルから吐き出されるであろう黒い感情を全て受け入れる姿勢。聞こえが悪いさえずりをムツキの前で晒しても、彼女は目の前のスバルから離れようとせず、
「ムツキらしくねぇ…けれどこのバブみ、なんだか懐かしいものが込み上げてきて…!」
「──スバルきゅん」
「スバルきゅんはさ、この後たっくさん叱られるでしょ?でも今は違う、甘えてもいいんだよ」
スバルが戸惑っている間に、ムツキは重ねて「叱られる分、沢山、沢山甘えていいよ」と付け加える。
──甘えてもいい、その言葉の真意は許容だ。少なくともスバルは今、行動に伴う責任を、その果ての過ちを許され、許容されていた。
許容とは慈愛であり、許しとは慈悲である。本来は受け取っていい筈のないものを、ムツキはスバルへと差し渡しているのだ。
ぶらり、ぶらり。肉と骨から離れようと、自立しようとしている片腕のせいで、ムツキを抱き返すには一本不足してしまう。
いい、別にいい。犠牲を前に、揺れる心など押し殺してしまえばいい。
──いずれ取り戻せる、全員の幸せの為に自らの身体を消費することを躊躇ってはならない。惜しむべきものなど、今は何一つないはずなのだから。
「……甘えるより先に傷塞がないとセナに怒られちまう」
「血は止まっても、その腕はもう二度と戻らない。スバルきゅんはこれから先ずっっと、永遠に、片手しか使えなくなっちゃった」
「そうかもしれ──…違うか、そうだな、もう使えない。腕の取れたお人形さんみたいに繋げられないし、充電したら動き出すおもちゃでも無い。正真正銘、ナツキ・スバルの腕は壊れたんだ」
ムツキの言う通り、ナツキ・スバルがこの後、どれだけ美しいパーフェクトゲームを繰り広げ、ノノミを救い出しアビドスを救っても、スバルは片腕のまま。
これが失うという事、これが無くなるという事。命懸けで歩く事が普通になってしまったせいで、自分の身に起きている不条理への理解は薄れている、いや、分かっていたとしてもスバルには『腕』と『命』は同じ天秤には乗せられない。
身体を治す為に死に戻るか、現状を継続するか。この世界がゲームであったとしたのなら、スバルはコレを『究極の二択』とでも評しただろう。
素晴らしいセーブデータは作れたものの、主人公には永久に解けない呪いが掛かったまま、治すには…セーブデータを消すしかない。
「…キヴォトスの超技術で復活〜…とかの線も無いか」
「んー、骨はともかく…肉がこんなにちぎれ飛んじゃってたら厳しいかも、スバルきゅんは普通の人間でしょ?全身グチャグチャになっても復活する子だっているけどアレは自前だし」
「一の常識に百の非常識ぶつけんの止めてくんねぇかな!?こんな気持ち悪い見た目になっても何も言わねぇから分かってたけど、割と見慣れてるのね!」
「見慣れてなんかないよ」
「───」
「くふふ〜、でも気持ち悪いなんて思っちゃダーメ。これはスバルきゅんの大切で可愛い腕だからね♪」
「大切で可愛い腕って…きょうび聞かねぇ単語だな…」
スバルには顔見知りの超人が数多く存在するが、もしかするとヒナやホシノも某B級映画さながらの超再生を見せてくれたりするのだろうか?
だとしても、プラナリア的な再生か、不死身系の再生かでジャンルがあっちこっち行ったりする。
なるべくグロテスクな再生はして欲しくない、これまで保たれていた美少女と怪物のラインが崩壊してしまう恐れがある。
──あの二人がそんな傷を負う訳がないな、そう思いムツキから離れ立ち上がり、
「……いいの?スバルきゅん」
「ああ、もう十分だよ、大丈夫」
「本当に?私は…全然そうは思えないから…──また今度、甘えに来てもいいよ♡」
「──ムツキは……っ…ムツキは、俺とアルの事似てるって言ってたけどよ、俺もムツキに似てる人、思い出したよ」
「くふふ〜、思い出すのが誰だってムツキちゃんはいいけどね〜。そんなに泣きそうな顔してると、サービスしたくなっちゃう」
「おもてなし精神満載なのはいいけど、先にノゾミとヒカリを……──っ、待ったそういや…!」
歯を噛み後ずさる。そうする理由は襲撃される直前でのヒカリの行動だ、急変した彼女の手により戦闘は始まった。因果関係を考えれば、ヒカリが暴走していた事と侵入者には何かしらの関係がある、それこそ、
「ムツキ、まだ動けるか?ヒカリがワンチャンもう一回暴走するって可能性がある、一旦縛り付けたいんだが…」
「くふふ、動けるかって…ちゃんと自分の身体見て言ってるの〜?スバルきゅんが動けて私が動けない、そんなダサい事しないってば」
ヒカリがアリウスに属する者で、仮の姿としてハイランダー学園に入学している…とか。
考えたくは無いが、考えざるを得ない凶行。アロナが十全の対応が出来るのなら、この場を任せノゾミだけを退避させるのだが、
「アロナ」
《…………………》
「…──休んでて、俺が何とかする」
初めて、スバルは自ら補助輪を外す。外さざるをえない場合とは違う、彼女を慮った上での自立。
しかしそれは──、
《っ…》
自分自身の失敗と向き合っていた彼女にとって、更なる『不慣れ』を叩きつけるものだった。
不慣れ。守られる、助けられるのに免疫が無いアロナは、己が失態と共に味わう苦痛を受け入れられない。
後悔の隣を歩けば、背後から聞こえてくる足音は自分のモノ。過去と未来を繋げる自分は、後悔と苦痛に苛まれる。
一言で表せばそれは『ストレス』。負荷であり、普通の人間であれば発散や解消が出来るもので、筋トレの後に休んだり…──精神へのストレスなら愚痴を吐いたり。
《申し訳…ございません…》
──アロナは、現実に肉体を持たない。そして精神というものはプログラムで作られた無機質で冷たいモノ、感情から生まれるエネルギーを処理する能力というものが、本来の彼女には存在しなかった。
感情とは目に見えない強烈で、熾烈で、苛烈であり熱烈のエネルギー。その発散方法を知らないというのは、余りにも、
《…──》
《あ…ぁ…》
満天の星空が世界を覆うアロナだけが存在する空間で、お世辞にも整ってるとはいえない教室の中。無いはずの心を表すかのように、夜空の光を映す水面が波立ち、教室には乱雑に机が積み上げられている。
椅子と机の摩天楼は、アロナの傍で積み上がり続け、問いを吐き出す口はエラーを垂れ流す。まるで隠していた大事なものを暴かれ、今にも泣き出してしまいそうな子どものような表情になって、
《スバル、様…──》
《スバル様、スバル様、スバル様、スバル様、スバル様、スバル様、スバル様…》
ただ主人の名前を繰り返すだけの、泣くでもなく苦しむでもない機械が叫んでいた。
■
「つんつん、起きてますかー。返事して下さーい、寝坊する悪い子にはご褒美も没収しちゃいますよー、お菓子抜きだぞー」
「え!?話が違っ…──あれ、お兄さん?なんで、ヒカリに……それで…」
「おっはー、眠れる森のお姫様。目覚めたとこイキナリだけど事情は説明出来るか?」
苦しそうに寝言を漏らすノゾミのほっぺにちょっかいをかけて、目覚めるノゾミに問いをかける。何があったのかと、たった数時間の間にヒカリの身に何が起きたのかと。
隣ではムツキが未だに気絶しているヒカリを縛り付け、スバルが話を聞く為の万全の状態を整えていた。
「わぁ!?ボロボロじゃん!どうしちゃったの…?」
「んー、奇抜なファッションってところかな」
「いやファッションとかそういう訳じゃないでしょ…──何があったって私が先に聞きたいんだけど…事情って言ったら、ヒカリを起こしに行ったら気絶させられただけなんだけど…」
「スゲェ、一文で説明終わってる!」
ノゾミが裏切り者なら、今までスバルを殺すチャンスなんていくらでもあった。列車で襲撃してきたときなんかは、一切手を貸す理由が無い。
ヒカリも、理由が何であれ、アリウスから絶対的に敵視されているスバルへ力を貸す暇があるのなら、先に殺せばいいだろう。
なら、最も可能性として考えるべきは洗脳、もしくは薬物による精神操作、ベタな所を突けば地下生活者の介入etc.....どっちにしろヒカリ本人での行動とは考えづらい。
「寝てるだけでアイツが洗脳出来るってなら今までやってこなかった理由が無い、アリウス関係?そこは違うって結論出しただろ」
「お、お兄さん!ブツブツ言いながら擦り寄らないで!?なんかチクチクして痛いんだけど!」
モチっとしたノゾミの肌に、硬い無精髭を擦り付ける。最近剃れる環境では無いので許して欲しいと願いつつも、スバルのヒラメキ力元い推理能力を高めるためには幼女パワーの充填が必須。
理由が無い、無い無い尽くしのその果てには何時も『ありえない』が待っているものだ。今は、戯言として思考のゴミ箱に捨てるモノを一から拾い直す必要があって、
「………」
「いたただだだ!お兄さん!おに…スバル!止めてってば!」
「うーん、もう一擦り…──ぷげらッ!?」
「肌が削れる!!」
スバルとは違うノゾミのうる艶の肌が悲鳴を上げ、見事なヘッドバットを喰らいムツキの方向へ倒れるスバル。
後ろに回して見せないようにしていた、ちぎれかけの腕。それがベチョッとたっぷり水分を含んだ雑巾の様な音を立てて叩きつけられる光景にノゾミが顔を青く染める。
感覚が無いとは便利なもので、普段なら過呼吸になり音にもならない悲痛な声で泣き喚いているのだろうが、「ナイス頭突き」と返せる余裕まである。
それに今時義手だって、人工皮膚やらなんやらで付けてても分からない位、見た目が同じなのだから装着して人生を過ごしてみるのも──、
「───」
「う、腕が…!ぁ、うぁ…──お兄さんやっぱり先に治さなきゃダメじゃんか!」
「分からないくらい、見た目が同じ」
「あの救急医学部の…お姉さんの所に早く行こうよっ!お兄さんの身体が、こんな…ダメ、絶対ダメ!」
「……ノゾミ、大丈夫だから。それよりノゾミにしか分からないことを聞きたい」
「だからッ、先にっ…!」
「──そこに縛られてるヒカリは、本人なのか?」
■
「…………」
荒れた息を整えながら三人は捕縛されたヒカリの前で、この後に待ち受ける展開が最悪の方向に転がらないことを祈っていた。
カヨコの推察は、少なくともゲヘナ陣営にアリウスから紛れ込んだ生徒がここにきているという事、身分証すら必要としない無法地帯のゲヘナは、アリウスなどの傭兵、身分を隠したうえでの活動が必要な存在に対して寛容な場だ。
『そのためにアコの力を借りて、食事に全員を集めた。ムツキはその間に外敵の侵入ルートを潰して欲しい』
ムツキは当初からこの展開を予想していた。スバルの指揮能力、その後合流するヒカリとノゾミ、そして自身の戦力を考えれば、大概の相手は処理できるはずだった、その目論見は即座に破綻してしまったのだが。
「…ヒカリ」
「────」
「返事してよ」
「…………」
「それとも、声は真似できなかったの」
「──ヒカリ!」
ゆっくりと目を開けたヒカリに、ノゾミが決意を固めた声を出す。問いを含んだ、疑問を含ませた望みの声を。
──その切望の音を聞いた瞬間、彼女は恍惚をはらんだ微笑を浮かべ、どす黒い憎悪を瞳に宿した。
「──黒だ、スバルきゅん」
「整形か、何か分かんねぇけど───悪趣味が過ぎるだろこれは…!」
姿形はヒカリにしか見えない彼女は、決して彼女が宿らせない感情を抱いていた。
悪趣味、学生にしていい筈の無い処遇は胃の中を気持ち悪くさせる、作戦の為に一人の人生を狂わせるなどと正気の沙汰ではない。
ヒカリが偽物だと分かってしまったことで、新たな問題が降ってくる。いつ入れ替わったのか、本物のヒカリは何処に行ったのか、
「なんでこんな、クソ…おかしいだろ、なんとも思わねぇのか…!」
「アリウスなら多分だけどそれ位するかな、取り合えず自白剤はセナちゃんに借りて後は私が…」
「────ぁが」
「…ぁ?」
「あぶ、ぶ、ぶ、ぶぁ…」
──何かをかみ砕く音が聞こえた。
「やめろ」
ガクガクと体を震わせ喉から血とうめき声を絞り出し、泡の様な血を吐いて血のカーテンをかけ、明らかな拒絶反応が奥歯を割る程に歯を食いしばらせている。
「駄目だ、それは」
惨状が、広がろうとしていた。目の前の命が自ら消え失せようとして、風前の灯火に到達し、スバルの手から居なくなる。
「ッ!!毒…!」
「待て、待て、待てって!逝くな!死ぬなよッ──!!!」
「だめ!スバルきゅん行かないで!!」
死ぬのなら、誰より先に自分が死ねばいい。
もともと、相手の狙いは自分だったはずなのだ。おこがましくとも、任務に失敗したところで命を奪われる理由にはならない。
どんな命だろうが、死んだら終わる、死んではダメなんだ。スバルのおこがましさはスバルのせいで誰かが死ぬことを許さない。それが例え憎むべき敵だとしても――、
「死んじゃ、駄目なんだよ…!そこで、終わったら!」
無くなりかけている生命力が、本当に尽きる前に走り出す。救え、走れ、死なせるな。死ぬのはナツキ・スバルだけでいい、犠牲はナツキ・スバルだけでいい。誰だとしても、どんな相手でも死んだらそこで終わりなんだ。
終わらせない為に、ムツキもノゾミの事も気にせずに走り抜いていく。みるみるうちに元気を無くしていく、陸にあげられた魚のようになってしまう命を守るために、あれだけ苦労した外廊下も駆け抜けて、
「セ…──がふぅぅあ!?」
「っ!?」
開かれた体育館の扉に、勢い余って突っ込んでしまう。
開け放ったのは小鳥遊ホシノであり、よたよたと彼女の盾を使って身体を立て直す。
この際負傷なんて幾らでも見られても構わないと、「ごめん!」とだけ告げてセナに抱えている子を渡そうと、
「────え?」
スバルはなけなしの気力を振り絞って目を見開けば、中の様相は緊迫を表していた。
爆薬の香りに、散らばる調理道具や寝床の残骸、複数の負傷者にいかにも厳戒態勢といった状態で、スバルが離れている間に戦闘があったのが丸わかりだ。想像したくはないが死者が出ているかもしれないと想起させるほどで、
「スバル、その子は──ぁ…?腕……は………」
「───スバル」
「私、行ってくるよ。君を、後輩を守る為に」
盾を持ち、髪をひとつに結んだホシノはそう言い残して砂塵の闇に消えていった。
混雑した情報を処理しきれずに、スバルは戸惑うままに世界の動きは止まらない、ひたすらに身体を動かして考えも追いつかないまま体育館を駆け回る。
「スバ──!」
「───!!」
途中、自分の名前を呼ぶ声が聞こえたかもしれない。自分を求める声が聞こえたかもしれない、それなのに現実を考えないようにしなければ、感じないようにしなければ、心が先に諦めてしまうから。
──生きる気力を失った時点で、スバルの負けだ。
「軽い火傷と擦り傷はこれを塗っていてください、その他重症の方は今ここで私が直接治します。身動きを取れなくなる程の傷がある方を最優先に……──」
漸くセナを見つけ安堵でその場に崩れ落ちそうになるが、膝を立て直し負傷者が並んでいる列を配給の時とは真逆に無視する。随分と軽くなってしまった片腕の中の少女を差し出して、
「────」
セナは、この子を受け取ってくれなかった。
「……──っ」
何もかも見えなくなって、雨水が降り掛かったかのように顔を濡らし、何度も何度も喉をキツく締めながら、喚き声を出さないようにセナへと手渡そうとする。
受け取らない、受け取れない。医学は人を治すもので、医学はひとを──、
「スバル!!」
医学は人を蘇生させる事は出来ない、だから受け取れはしない。
蛇に締められながら出したみたいな音が、嗚咽の代わりに彼女の名前を呼ぶモノへ、
「セナ」
「……」
「セナ──セナっ、頼む、まだ……生きて…」
「その方はもう亡くなっています」
「…」
「遺体は置いて、今は貴方の失った腕を」
──その時、頭によぎったのはこの世で最も最低な考えだった。
禁忌であり、最低の、最悪の、忌避していた、してはいけないあの行為。すぐさま頭の中から追い出しても、霞のようにすぐ付き纏ってくる。
「何が、あったんだ。何でみんなは怪我してる」
「襲撃を受けました、丁度貴方が離れた瞬間だったのは幸運でしたが……──ホシノさんは襲撃者の発言を聞いて、飛び出してしまい戦闘に。襲撃者は逃亡し、ホシノさんはその追跡を」
「………相手は、なんて」
「私は会話に出ていた方を存じ上げてはいませんが…」
「──梔子ユメの遺体と、彼女の後輩の事を述べていました」
そして、スバルが大事に大切に、踏まないようにしていた彼女の、過去の傷を抉られて。
──ナツキ・スバルは、初めて大切にしてきた命の中から、『悪』を除外する覚悟を決めた。
キヴォトス人の身体の強度について: 物理的な行為による負傷は大概が軽傷になる。毒物、ガス、薬物に関しても一定の耐性を持ち、強力な物品も死に致す程のものは存在していない。
但し、その頑強さと耐性を維持しているのはヘイロー、元い殺意や意思、精神によるものが大きく、『長時間の継続した射撃』『常人が数分で死に至る行為を数時間分行う』等の、加害者側の明確な殺意、そして被害者側の『死の意識』が増幅する程に死へと近づいていく。