喜びとは目的を暖め続け、知性を輝かせ続ける神聖な炎である。 作:Alphecca
数週間後。
ロドス本艦はウルサスとリターニアの国境地帯を抜け、カジミエーシュの南方辺境、ヴィクトリアとの国境線沿いから数十キロ地点へと差し掛かるところだった。
途中、ウルサスの降雪地帯を進んできたことで凍結した装軌のメンテナンス作業のために半日ほど停止し、艦はさらに西へ。ヴィクトリアを横目に抜け、クルビアへと向けて移動を続ける。
数千人から一万人までの収容を可能とし、内部に医療施設は勿論のこと研究施設、また居住区画や商業区画、工業区画と農業区画までもを備えるロドス本艦は、小~中規模の移動都市と比べても全く見劣りしないほどに巨大な船だった。
数百メートルを数えようかという広さの基礎を支える装軌は、航行経路上の小さな岩や瓦礫などといった小さな障害物を砕き、もうもうと土煙を上げながらその巨体を進めていく。艦内に伝わる微細な振動や源石動力エンジンの唸りは、そこに乗艦する者たちにとっては既に慣れたもの。自らの立つ地面が多少揺れたところで気にも留めず、いつも通りの生活を送っている。
もっとも近頃は、航路上の障害物がロドスに接触する前に細かく破砕する技術が実用化の目をみたとのことで、むしろ人々の生活に根付いていた振動が軽減され、安定性の格段に増した生活に若干の違和感を覚える者も少なくはないようだった。
源石病による重度の難聴を抱えるエイヤフィヤトラも、そんな違和から来るちょっとした問題に悩まされる者の一人だ。
遮光カーテンの間隙から朝日の光が零れだし、羽獣の羽を詰めた掛け布団に無機質な直線のラインを形成している。光は床に敷かれた伝統的なリターニア様式の模様のラグを通り、直射日光が当たらないよう気をつけて配置された大きめの本棚を避け、ラグに合わせてリターニア様式の意匠があしらわれた暖色の壁紙に反射し、そして窓際に据えられた木造の書き物机の上にある便箋と封筒に光を投げかけている。
そこにたどり着く頃には、無機質だった光は部屋を舞う微細な塵などに散乱してプリズムになり、柔らかな環境光となって未だ暗い部屋の中へと広がり、厳かな朝の訪れを告げた。
机に備え付けの棚に置かれた小さな多肉植物と、そこから生えた細かな透明の棘に光が当たり、きらりきらりとベッドの中に居る若い研究者の滑らかな頬を暖める。
静かな部屋には、未だ小さく穏やかな寝息がすうすうと響いている。熟睡するエイヤフィヤトラは、しかし未だ目を開く様子を見せない。小さく開いた薄い色の唇が、甘い眠りを享受して穏やかな笑みの形を象っている。まるで、幸せな夢を見続ける子供のように。
小さな置き時計型のアナログ時計が、秒針の音を規則正しく響かせている。短針はそろそろ、文字盤の『9』に差し掛かろうかというところ。
脇に置かれた通信端末が断続的に振動し、何者かからの着信を告げている。履歴には同じ番号からの着信が、ここ一時間で数件。
「ん。んぅ……」
小さな声と共に暖かなベッドの中で身じろぎ。ローズグレイの瞳がゆっくりと開いていき、緩慢な瞬きを繰り返す。掛け布団の蠱惑的な重みになんとか抗い、上半身を起こしてカーテンの隙間から射す光を浴びた。 一つ伸びをして寝ている間に凝った身体をほぐせば、背や首、指先に新鮮な血液が流れ込んでいって、もうろうとしていた意識がスイッチを一つずつ入れるように覚醒していくのを感じる。
視線を動かして、時計を一瞥。しばらくそれが示す時刻をエイヤフィヤトラはぼんやりと見つめた。視覚情報が齎すシンプルな事実を脳が理解し受け入れるまで、なぜか若干の労力を要する。
が、次第に何が起きているのかを理解しはじめたエイヤフィヤトラの睫毛が、ぴくりと震えた。
さっと一気に顔が青ざめていく彼女は、横で振動を続ける端末に気が付き……。
「ぁ痛ぁっ!」
端末に飛びつこうとして、ごとんっ! と鈍い音を立てながらベッドから落ちた。
今日はエイヤフィヤトラの定期検診日。指定された時刻は午前八時半。現在時刻、午前九時。
慌てて電話に出ると、案の定担当医のワルファリン先生が今にも受話器越しに噛みついてきそうな剣幕でぐるる……と獰猛に唸っていた。
ロドス・アイランド製薬の社員用居住区画36-22F-8。それが今の彼女の在住地であり、帰る家だ。
家とはいっても、沢山の階層に分かれた広大なフロアにいくつもの廊下と個室が並ぶ、例えるなら大規模な集合住宅地のような住まいだ。職員のそれはある程度まとまって位置しており、内勤業務を割り当てられたオペレーターたちが自らの職場に出勤する際には不都合にならないよう、ある程度距離的な便宜が図られている。
エイヤフィヤトラも研究の傍ら、皆からは一般に“事務室”と呼ばれる場所で働いていた。
天災トランスポーターが提供する艦外の周辺状況を基に航行ルートに存在する危険がロドスの定めた規定を超えるものでないか、ルートの修正が必要か否かを判断し、総務へと連絡する重要な仕事だ。
彼女が担当する業務の殆どはデスクワークのため、フィールドに出て調査を行うのは本職のトランスポーター、プロヴァンスやレオンハルト、ツキノギたちの役目。本当はエイヤフィヤトラ自身も彼女らに同行し、実地で調査を行いたいところではあったが……それについては医療部の方からNGが出され、現在のポストに到る。
本来ならその事務室へと向かうはずのエイヤフィヤトラの通勤は、今日ばかりは慌ただしく通院と名を変えて別のルート、ロドスアイランド医療研究区画へと足を向けることになった。
指定された病院のロビーで受付を済ませてから上がった息をなんとか整え、整理番号が呼ばれるのを待って定例の検査をいくつか従順にこなしていく。健康診断も兼ねたそれはお決まりの身長体重測定から始まり、血圧測定、レントゲン、採尿、採血、源石共鳴画像検査法(Originium Resonance Imaging)、視聴力検査、呼吸機能検査、またエイヤフィヤトラの場合は婦人科検診も受診して最後にワルファリン医師の内科検診と、ほぼ丸一日掛けて行われる。
足首に装着していたサーベイランスマシンを看護師に預け、検査着に着替えてしまえば、あとは何も考えずに流れに任せるまま。
もう何度もこういった定期検診をこなしているエイヤフィヤトラは、初めこそ大遅刻をやらかした後ろめたさで心なしか縮こまっていたが、次第にそれも無くなり、つつがなく検診のプログラムをこなしていった。
「で? 本艦の走破性が増した結果、普段から目覚まし代わりにしていた艦の揺れが無くなり、よく眠れ過ぎて遅刻したと」
「本当にすいません……」
「なるほどな。そういった事情ともあれば妾も強くは責められん。ま、あまり気にするな。生死のかかった作戦ならともかく、定期検診に遅刻した程度でそう心をすり減らすこともなし」
スクリーン型の医療用バーテーションで仕切られたスペースに、医師用のデスクを左にしてエイヤフィヤトラとワルファリンはそれぞれ椅子に腰掛け、対面して座っていた。
朝のことを平謝りする彼女に、ルビーのような瞳を細めるブラッドブルードの医師は手を振りながら応えた。けらけらと笑いつつ、カルテに目線を向ける。
「確かに、近頃のロドスは静音化が著しいからなあ。そなたが寝坊をかますのも無理からぬことか。ちと気の毒だが、どうにか他の方法を見つけることだ。
さて、とはいえそなたのお陰で後はつかえている。雑談はこの程度にして、取り急ぎ伝えられる検査結果だが」
吐息を一つ。エイヤフィヤトラは心の中で軽く身構えて、医師の宣告を待つ。
良い結果でないことは既に理解している。これまでの全ての検診で、エイヤフィヤトラの病状は毎回必ず悪化していたからだ。今回もきっと例外ではないだろう。故に、医師の言葉を受け止める為の心構え。
で、あったのだが。
「……正直言って、ちと驚いたぞ。僅かではあるが、血中源石濃度が減少。源石融合の度合いや、聴力・視力の目立った悪化なし。そのほか目立った合併症の兆しなし。多少寝不足なようだが、まあ研究者ならこれくらいは見逃してやってもよかろう。どうせ言っても聞かんだろうし」
「へ……? 悪化、なし?」
エイヤフィヤトラは瞬きを何度か。首を傾げ、怪訝そうな顔でワルファリンの言葉を聞き返した。まさかそんな、またいつものごとく自分の耳が重要なところを聞き取り間違えたのでは? と。
「おう。言っておくが聞き間違いではないぞ。経過は良好! ふふ、やるではないか」
聞き間違いではない。楽しげな医師の言葉を口の中で反芻しても、エイヤフィヤトラの裡は喜びよりも困惑の方が割合多く占められていた。
悪化なし。むしろ病状は快方に向かっている。
その事実はたっぷりと時間を掛けてエイヤフィヤトラに染みこんでいき、若い研究者の表情にもようやく春の陽光のような笑みがゆっくりと拡がっていく。感極まるように両手を胸の前で組み合わせるように握って、小さく言葉を零す。
「ワルファリン先生、私……!」
「うむ。だが油断はするなよ。今は喜んでもよい、が浮かれてはならん。
この結果を受けても、そなたが依然鉱石病の重病人であることに変わりは無い。前に申請していたようなフィールドワークなども当然許可できんので、そのつもりでいるように」
「あはは……分かりました。でも、それでも良いんです。今は。これでまた、病気の怖さとしばらく闘っていけると思いますから」
その言葉を聞いた瞬間、医師のまぶたがぴくりと動いた。
ワルファリンは目の前の研究者が発した言葉に初めてカルテから顔を上げ、紅玉の瞳で彼女へと視線を向けた。その瞳の中にきらりと灯る興味が、老獪な医者に口を開かせたようだった。
「ほう……? して、その心は?」
「え?」
「恐怖を隠さなくなった。以前のそなたは“そう”ではなかったはずだろうが。何があった? どれ、ちとこの妾に教えてみよ」
「え、あ、えっと」
狼狽えるエイヤフィヤトラに、ワルファリンは言葉を挟まずただじっと待つ。その沈黙がいかにも『話さなければ帰さないぞ』という圧力を孕んでいて、若いキャプリニーは恥ずかしさに視線を泳がせた。
おずおずと、口を開く。できれば自分の心の内に留めておきたいな、と、これはよこしまな気持ちだ。ドクターの横顔が不意に思い出されて、頬が熱くなった気がした。
「あのぅ、これは全然、病気とは関係ないと思うんですけど」
にんまり。先に相手に口を開かせた医者は、有利を取ったとばかりに用意していた答えをつらつらと並べ立てた。おろおろと圧倒されるエイヤフィヤトラに構わず、医者の威厳もたっぷりに。
たぶん、興味の半分以上は野次馬根性である。
「そんなことが在るものか。病は躯のみならず精神を冒すのだぞ? 炎国の辺境には“病は気から”などという愉快な故事が在ると聞く。
精神的な状態の変化は時に、人体に医学では説明の付かない事象を引き起こすものだ。それが鉱石病なら尚更な。ゆえ、関係ないなどということはない。いいから話してみよ」
「うぅ~。それはまあ、そうかもしれないですけど~」
これはもう話さない限り意地でも逃がしてもらえないだろう。結局エイヤフィヤトラはロドス古参のサルカズに圧し負け、数日前のドクターとの一幕をワルファリンに余さず打ち明けることになったのだった。
「ははあん。慕情を向ける相手にそこまでされては、さしものそなたも舞い上がらずにはいられんということか? うふふ、いいのういいのう、若きことは佳き事かなあ! 羨ましいなあ!」
「ぼ、ぼじょ……っ!?」
ドクターとの間の出来事をあらかた聞き終えたブラッドブルードの医師は、カルテを机の上に放り投げて背をチェアの背もたれに預け、脚を軽くばたつかせながら思い切り伸びをした。
ワルファリンの口から出た特定のワードに何やらあたふたとしているエイヤフィヤトラをほったらかして「わしも若い頃に戻りたーい!」と駄々をこねる。
通りがかった看護師があきれ顔で溜息をひとつ。またいつものやつだよ、と無言で歩き去った。
「──あやつめ。また背負いおったか」
通り過ぎる看護師を薄目で見送ってから視線を天井に戻し、ワルファリンは姿勢を変えないままぽつりと呟いた。
「先生? 今なにか」
「エイヤフィヤトラよ、そなた有頂天になるのはよいがな。狙った魚は中々大きいぞ? ロドスの中だけでも、表に出さずともあの男に思いを寄せる女子は多いのだ。
ましてや各国から集まるオペレーター達とくれば……直視すれば目が潰れんばかりの眩い美男美女! 金、地位、力なんでも揃ってお買い得な化け物どもが皆して、あの唐変木を獣の如く狙っておる」
一瞬、怪訝そうな顔をしかけたエイヤフィヤトラの声に被せるようにして。底意地の悪い表情をしたサルカズの医師は、声を低めて純粋なキャプリニーを脅しにかかった。
案の定、分かりやすく顔色を変える患者を内心面白がりつつ、ワルファリンはエイヤフィヤトラの方へと前のめりになって顔を近づけ、囁くように続ける。
「……かもしれぬ」
「ちょっと! ワルファリン先生っ!」
「あっはっは! まあまあ落ち着け若輩よ。少々悪戯が過ぎたか」
両手を胸の前で握りしめ、顔を真っ赤にして憤慨するエイヤフィヤトラ。彼女の主治医は鋭い八重歯を剥きだして大笑した。
少し開けられた診察室の窓から涼しい風が入り込み、白く清潔なカーテンを僅かに揺らしている。
今日も大忙しな医療棟の喧噪。呼び出しアナウンスの声はフォリニックのものか。子供の泣き声。沢山の話し声。看護師たちが行きかう足音。ワゴンの車輪の音。
未だ溜飲下がりきらぬ様子のエイヤフィヤトラは、しかしそう言った沢山の音には一切意識を向けている様子がない。キャプリニーの耳も、一切動いていない。
ワルファリンの深紅の瞳が、大笑いしながらも患者のそう言った様子をつぶさに観察していた。
一通り笑い終えて、多少真剣な面持ちに戻った主治医は声のトーンを落ち着けて話を続けた。純粋なのか世間知らずなのか、エイヤフィヤトラはそれに惹き込まれるように彼女の話を傾聴する。
「とはいえだ。妾の推測はあながち間違っておらんかもだぞ? なにせこのロドスの長が一人。仕事柄オペレーター達と接する機会は多く、人柄良し能力良し、加えてあの謎めいた風体に謎めいた来歴ときた。本気でとまでは行かずとも、大なり小なり興味を持っている女子は案外多いかもしれん」
「それは、そうかもしれませんけど……」
自分が健康診断を受けに来たことなどすっかり頭から抜けている様子のエイヤフィヤトラは、視線を泳がせて何やら考えているようだ。水が少しずつ凍っていくように徐々に青ざめていく彼女の顔を見、ワルファリンは思わず眉を下げた。
苦笑する。あの男が顔を合わせるたびにうんざりするほど自慢してくるものだから、どんな尖り切った後輩なのやらと思いからかってみれば、だ。
「うう~。やっぱり私、もうちょっと積極的になった方が」
耳を赤くしながら、エイヤフィヤトラが目の前の意地悪医者に相談しようとした、その時。彼女の背後の扉が、来客を告げるインターフォンを鳴らした。
「ワルファリンせんせーい! 診察の時間過ぎてるけど、もう入っていいの~? あれ、扉開いた」
認証の必要なく開いた自動扉に少し驚いた様子で入室した少女に、ワルファリンはこれ幸いと笑みを向けた。
「おお、丁度いい所に来たな」
「アンジェさん?」
やたら深刻そうな表情でうんうん唸っていたエイヤフィヤトラも、やってきた人物に目を丸くする。安心院・アンジェリーナはキャプリニーの研究者に「エフィちゃんも健康診断? 一緒だね~」と手を振り、続けてワルファリンに視線を向けた。
「ワルファリン先生、まだ私、外で待ってた方がいい? 私この後一件お仕事があるから、できれば早めに済ませちゃいたいんだけど……」
「よく来たな安心院。安心せい、そっちは直ぐに終わる。それより一つ面白い話を聞いていかぬか。実は今、このエイヤフィヤトラが懸想をかけておる男の話をしておってな」
「エフィちゃんの恋バナ!? うそ聞きたーい!」
「わ、わ、先生そんな、アンジェさんにまで……!」
仕事があるという話はどこへやら、瞳を輝かせて身を乗り出したアンジェリーナをどうどうと宥める。耳も顔も真っ赤にしたキャプリニーの訴えは悲しいかな、この時ばかりは全力でスルーされた。
ワルファリン医師は人差し指をぴんと立てると、デスクの上に置いてある卓上カレンダーとペンを手に取った。
「ひとまず、今日はみな忙しいからな。二人とも、近々の夜で空いている日を教えい。休みを合わせて食事に連れていってやろう」
「ご飯会? やったー! ちょっと待ってね、今スケジュール帳出すから」
無邪気にバッグを漁り始めるアンジェリーナを苦笑しながら眺めていたエイヤフィヤトラは、ワルファリンの視線がこちらに向けられていることに気付いた。
真っ赤なピジョン・ルビーの瞳に見据えられると、どことなくそわそわと落ち着かない気分になる。例えばコータス族はサルカズ族を前にすると本能的な恐怖を感じるというけれど、この居心地の悪さもそれに類するものなのだろうか。
エイヤフィヤトラは無意識に自らの髪に触れながら、彼女に尋ねる。
「あの、先生。どうかされましたか?」
「いいや、ただの老婆心よ。大人とは常に、話すべきこととそうでないことを選びながら生きるものゆえに」
そう言って笑うワルファリンは、手帳を開いたアンジェリーナと楽し気に予定の相談をし始めた。エイヤフィヤトラは首をかしげるが、医師は今はそれ以上を語るつもりがないらしい。
「ほれ、エイヤフィヤトラも早う。ロドスの若者代表と酸いも甘いもかみ分けた長寿代表がそなたの恋愛相談に乗ってやるというのだぞ?」
「うう~。絶対、話のタネにして面白がろうとしてるだけじゃないですか」
「そんなことないって~。私、エフィちゃんの恋愛なら全力で応援するつもりだからね!」
言葉の割にはにまにまと口元があくどい二人に溜息をついて、エイヤフィヤトラはついに観念することにした。自らもスケジュール帳を出し、自らの予定を調べ始める。
彼女の初恋に関する相談会は、数週間後の夜に決まった。
『痛いっ……いだい……っ!』
『ママぁ、たすけてえ』
『あんたらのとこに居たら、俺達生き続けられるんじゃないのかよ!?』
『嘘つき……“救う”って、いったのに!!』
『げほっ』
『もう、死なせて』
『ねえ、観てよ。体中石だらけ』
『あなたは感染者じゃないの? そう。じゃあもういいわ』
『先生。いいの、自分を責めないで』
『どうして俺なんだ、どうして俺だけが』
『こんな痛みに耐えつづけるくらいなら、いっそあの人も感染させてやればよかった』
『ねえパパ、私どうしてお外にでちゃいけないの?』
『先生見て! わたしね、遺書書いたの!』
『せめて、清潔なベッドで死にたかったな』
『薬! くすりを頂戴! はやく!!』
『僕のからだはね、閉じ込めるよりは、荒れ野に棄ててほしいなあ』
『くそ、痛ぇな……はは、何だこの脚。めちゃくちゃじゃねえか』
『息がしづらいの。胸が痛くて、唄えない』
『手が動かないから、もう絵も描けないわ。唯一の楽しみも持っていかれちゃった』
『桟橋嘲り 拐す夕凪 そよ風に揺れる生首 竜宮に消ゆ芋虫 銅像はかく語りき 桟橋嘲り……』
『“ドクター”だ? ハッ、自分だけマスク被って感染対策は万全ってか』
『自分はまだやれます! 引鉄はまだ引ける、味方の居ない最前線に自分を!』
『救うってんならさ、まずは私たちと同じところに堕ちてきてくんない?』
『あはは、あんなに下手だったアーツ、我ながら上手くなったなあ。でも、嬉しくないや』
『どうせ死ぬんだ、いいだろちょっとくらい』
『高い金を払っているんだ。もし治せなかったら、分かってるんだろうな』
『どうして、あと一日早く来てくれなかったの』
『先生、私、何を食べても砂みたいなの』
『次は、御伽噺みたいな源石の無い世界に生まれたいなあ』
『いいなあ、感染してないひとは』
『この手術が終わったら、私の病気は治るの?』
『先生……助けてください。お願いします』
『怖いよぉ』
『いやだ! もういやだ!! こんな病気、こんな世界、こんな私っ!!』
『お前も、私たちのように不幸になってくれ』
『死なせてくれて、ありがとう』
『私の遺体。誰も引き取って処理、してくれないんだって』
『ばいばい、先生』
『先生は、こんな病気になっちゃだめだよ』
『初めまして。私はエイヤフィヤトラです。
ここに来る前は火山の研究をしていました。鉱石病の影響で耳が悪いので、ご迷惑をかけるかもしれませんが……よろしくお願いしますね。先輩〜』
『どうして後ろにいるのがわかるのか、ですか?
ふふ……それはですね、先輩の体温を感じたからです。耳も目も悪くなりましたが、その分ほかの感覚が鋭敏になっているというか。
こう見えても私、なかなかしぶといんですよ〜』
『聴力だけでなく視力も悪化してきていると、ケルシー先生から聞きました。
……鉱石病は私を、どこまで連れて行く気なんでしょうね?』
『研究を続けたいんですっ……死にたくない、目も耳も閉ざされていくのがたまらなく怖い、私ちっともしぶとくなんてないんです。ただ平気なフリをするのが上手いだけで』
『先輩』
クルビア辺境、都市部より離れた荒野の只中。ライン生命がかつて運用していた実験基地の跡地は存在する。
359号基地とかつて呼ばれたその建物群は今や荒れ果て、一部の建物を除いてはまるでヴィクトリア蒸気兵の砲火の嵐が通り過ぎたかのように、完全に破壊され尽くしたまま放置されていた。
荒涼とした荒れ地と、ほんの僅かばかりの草原。さび色と濃紺の夕暮れ空に星が瞬いている。乾燥した風が通り過ぎて、どこかから獣の遠吠えが聴こえてくる。
基地の中心地、実験棟は最早影も形も無いほどに破壊されており、辺りには瓦礫の残骸ばかりが散らばっている。地面を建物ごと巨人の手が掬い取って圧し潰したかのような椀型クレーターが其処には在って、その底部には雨が降って水が溜まったのか、澄んだ浅い水たまりが空の色を反照していた。
頭の中にぐるぐると渦巻く声が、心臓の鼓動のように脈動して聴こえてくる。
それは怨嗟、諦観、安堵、怒り、悲しみ、恐怖。この世界を冒す病への、ありとあらゆる絶望。
もうずっと、起きているときも寝ているときも、仕事をしているときも休んでいるときも、誰と話をしているときも声たちはドクターの頭の中を朗々と響かせ続けている。
救えなかった患者たち。守れなかった患者たちがドクターに遺したもの。涙の代わりに流れたもの。
己に向けられた、それら全てを男は一つも余すことなく背負い続けていた。
「……」
男は人形だ。ただ“ヒトを救え”と己に銘じ続ける無記銘人形。
鉱石病からヒトを救うという命題を、この地に生きる誰もが馬鹿にするような使命を、最短直線で完璧に実行しようと邁進するヒトガタ。それがその男の、本性。
ゆえに男は、己の掌の中と外、何処でいかなるヒトが鉱石病に苦しみ死んでいくことも許すことができない。このテラにあの黒い粉塵がひとひら舞うたび、男は自らを地獄の罰の如く責め続けている。
たとえ己がどれだけの地獄をその心の裡に抱えることになったとしても、ドクターは死にゆく者たちが託した思いを過去にすることができない。男は生き物としては、どうしようもなく欠陥していた。
かつて己の記憶を失った男は、己の患者が死した思い出を、ただのひとつたりとも思い出にできない人間になっていた。
「大丈夫? ドクター」
クレーターの淵に立ち、その底を見つめている仮面の男。その隣に近づいたザラックの女が、水のように澄んだ甘い声で話しかけた。
トパーズ色の大きな瞳が、マスクの奥の淵のような瞳を覗き込む。
「顔色が悪いわ。装置のリブートにはまだ六十分以上あるのだから、屋根のある所で少し休んだら?」
ドクターは、こちらを見つめるドロシーと視線を合わせた。無言の中で、ドロシーが手を伸ばして男の服の袖に触れる。乾いた荒野の風が瞳と同じ色の前髪を揺らし、死にゆく夕陽が二人の影を大地に長く伸ばす。
「ほら、こっちに。此処はひどく寒いもの」
遠慮がちにくい、と引かれた腕を、しかし男の痩せ腕は引き戻した。
「此処で良いんだ」
そう短く言い切った男の瞳は、目の前のクレーターの底をすら見透かして、このテラの大地の底を見通しているような雰囲気すら感じさせる。ドロシーはそれ以上男を引っ張ろうとするのをやめ、しかし自分も建物内に戻ることはなく、彼の隣に立った。
「君は、暖かい所に居ていいよ」
「今のあなたの顔、まるであの頃の……まだ夢を見ていたときの私のようだわ。だから、心配なのよ」
隣に居させて、と呟く声が紫紺の空に融けていく。男は是とも、否とも返さなかった。
「何を考えていたの?」
「救えなかった患者たちの声を」
「いつから考えているの?」
「ずっと前から」
「エイヤちゃんのことも?」
淀みなく、淡々とした答えがぷつと途切れる。
二人で見つめる夜の始まりの空を、星々が照らしている。ドクターとドロシーは、そこで待ち人の到来を他愛もない話と共に焦がれている。
男は感慨深げに、ぽつりと。
「……ああ」
ドロシーの端末がメールの着信を告げ、彼女は一言ドクターに断ってからディスプレイを操作し、メールの内容を読んだ。小さな吐息と共に、その場でドクターに報告する。
「ライン生命とクルビア政府への打診、返事が来ていたわ。『全面的に協力する』とのことよ。
報酬についても事前の取り決めから変更なし。ラボとは別口で雇った複数の弁護士にも裏を取らせてあるから、契約内容に穴は無いわ。マイレンダー機関とも連絡が繋がっているし、軍にも大きな動きはない。予定日までメディアには緘口令が敷かれて、リークについても大丈夫ね」
「そうか。ドロシー、君の働きかけが無ければここまでスムーズにはいかなかっただろう。助かった」
「お礼される程のことじゃないわ。これも私の仕事だし、あなたの夢は私の夢でもあるもの」
都市部では見られない大きな空に、月が昇り始める。ゆっくりと宵闇に沈む二人の姿を照らし出すのは、施設の屋外照明が投げかける無機質な白い光だ。
ロドスの首脳である男の交渉と、元よりライン生命の主任研究員であるドロシーのコネクションを利用した契約は、男の予想通りにすんなりと締結された。
「ありがとう、ドロシー。今回は最後まで、君の力を借りる結果になったな」
「いいえ。これは私の愚かな夢を笑わないでいてくれたあなたへの、せめてもの恩返しだから。感謝すべきなのは私の方よ、ドクター。
この研究成果を、本当に正しい用途に、正しいやり方で使うことができる。“スマラグドス”が完成すれば、沢山の人を悲しませた私の研究が、ほんの少しでも誰かの希望を灯す手助けになれる──」
それが心の底から嬉しいのだと、ザラックの研究者はそういって笑った。
「あなたと私の研究が、テラに生きる全ての生命を存続させる。十年、百年、千年後の未来まで掛かったとしても、それでもヒトが歩み続ける限り必ず技術は発展し、鉱石病に対抗するための医療は完成するわ。
だから、私たちはそこに至るまでに死に絶える筈だった命を、できる限り保存する。いずれ訪れる平和が、幾億の犠牲のもとに成り立つほかない欺瞞ではなかったと証明するの。
私の創り出した伝達物質と、あなたが解明した“石棺”のメカニズム。私たち二人で発案した“翠玉計画”とそこから生まれたスマラグドスあれば、夢は実現する。必ず成功する。だから」
ドロシーはそこまで言うと、ドクターの手を取った。
骨ばった男の手を両手で包み、トパーズの瞳が黒い防疫マスクの中を見つめている。女の表情は力強く自信に満ちていて、口元は穏やかに弧線を描く。
「私たちで、この文明を存続させましょう。この世界に息づく色とりどりの生命と一緒に、未来へ。そして、あなた自身も」
声が、僅かに小さくなった。呟くように、蛇足のように、その後を続ける。
「……あなた自身ももういい加減、救われるべきなのよ」
▼△
一年前。
「異動……ですか?」
「ああ。書面は既にメールで送付済みだが、フランクス博士。あなたは今月末付でアーツ応用課主任の地位を解かれ、特別外勤研究員としてロドス・アイランド製薬へと出向してもらうことになった。
君の優秀さは我々もよく知る所だ、ライン生命の名を汚すことのないよう、頑張ってきたまえ」
──クルビア、トリマウンツのライン生命本社。
ドロシー・フランクスはその社屋内の片隅、普段は使われもしない小さな会議室に呼び出しを受け、コンポーネント統括課の人事部長から辞令を言い渡されていた。
それは、ドロシーが自らの夢の為に行っていた研究がライン生命の他主任に利用され、そしてドロシー自身もまた己の意志で多くの人間の人生を永久に奪いかけた、359号基地での事件のすぐ後のこと。
あまりに唐突に言い渡された時期外れの異動辞令は、ラボ職員への見せしめやクルビア国防部へ立てる面子や、その他にもいろいろと理由があったのだろうけれど。
本社戻りの日付や時期すらも記載されていないそれは、実質的な解雇通知。
巨大な組織の中で越権行為を働き、会社に損害を与えた者への処置。社会を騒がせた一件に終焉を告げる、追放宣告であった。
「君なら判るだろう?君は“あの基地で実験ミスを冒し、結果として基地設備をすべて失う大崩落事故を起こした”」
人事部長の並べる言葉を聞きながら心の何処かで、ああそういう筋書きなのね、と妙な納得を覚える。
どうやらあの場所で起きたことの真実は、つつがなくトリマウンツのビル陰に葬り去られるようだ。そう思うと反射的に両拳に力が入り、ドロシーは手をぐっと握り込んだ。
が、彼女は何も反論の言葉を口に出すこともない。唇を引き結んで、ただ受け容れなければならない。
処分の判断そのものは妥当なものだと、ドロシー本人も思っていた。あれだけのことをしたのだ、何の処分もなしに今まで通り、という方がかえって有り得ないことだった。
「当然、ラボとしても何らかの対処を行う必要がある。今回の人事措置はイレギュラーではあるが、現存する全ての課の主任からも承認はいただいている。これはライン生命の総意と思ってくれたまえ。
……まあ、ロドス・アイランド製薬にも優秀な研究者が多く集まっていると聞くし、設備もうちほどではないだろうが、悪いものでもないだろう。案外、今までよりもいい環境が手に入るかもしれん」
リーベリの男の語り口は、後半にいくにつれて薄笑いの色が滲んでいた。
会議室のチェアに腰かけて嘯く人事部長の前で、姿勢を正して「かしこまりました。拝領いたします」とお辞儀をして、ドロシーは踵をかえし殺風景な部屋の扉へと向かう。
「フランクス博士」
ドアノブに手を掛け、押し開けようとしたところで背後から声を掛けられる。ドロシーはその姿勢のままに振り向き、人事部長を見た。
「クルーニー博士のことは残念だった。まさかあの基地の事故に巻き込まれるだなんて、私も一研究者として心が傷むよ。だが、起きてしまったことは仕方のないことだ」
眉根を寄せ、腕を組んだ人事部長の視線が、振り向いたドロシーに突き刺さっていた。
「偉大な研究者というのは、己の研究のためになら時に驚くほど非情になれる生き物だ。それこそ、人の命など道端の虫のように踏み潰してしまえる程度にはね。君もそう思うだろう? フランクス博士」
まるで世間話のように何気なく放たれる言葉はしかし、その語気の毒々しさもあいまってひどく威圧的に響く。ドロシーは困惑し、短く返すほかに無かった。
「……何がおっしゃりたいのか、分かりかねます」
「いや、ただ私は君におめでとうと伝えたかっただけさ。誰の目が光っているか分からないライン生命よりは、どこぞの弱小企業を蓑にしていた方が、人の命を奪ってでも止められない狂った探求欲を満たすには都合がいいだろうと思ってね」
「!? 私はそんな……!」
人事部長はこう言いたいのだ。ドロシーが同じ主任の一人であるフェルディナンドを、己の研究の邪魔であったために手に掛けた、と。
思わず反論しようとしたドロシーの言葉を遮り、人事部長は苦々し気に吐き捨てて彼女にハンドサインで出ていくように合図をした。
「改めて“栄転”おめでとうフランクス博士。ロドス・アイランドのスタッフを全員生贄にしても、もうこっちには戻ってこないでくれよ。いくら情熱的だろうが、他人の人生を奪ってまで進めて良い研究などあるわけがないだろう。常識だろうが」
それを、ライン生命から消えゆく研究者への最後の言葉として。
重たげなドアが、ライン生命とドロシー・フランクスという一人の研究者を断絶するかのようにバタンと閉じて。
そしてドロシーは、ライン生命の研究者ではなくなった。
力を込めて握っていた両手が、ふっと脱力していく。奥歯が痛い。
肺から空気を何もかも吐き出して、なんだかふいに自分がとんでもなくか弱い生き物になってしまったような心地がした。
丸まりそうになった背筋をどうにか伸ばして、無機質な青白い照明が眩しい廊下を歩く。
すれ違う研究員たちが、歩いていくドロシーの背を見て何ごとかを囁き合っている。皆、アーツ応用課の主任がその地位を解かれることも、またその理由が先日の実験基地で起きた大規模な事故と、エネルギー課主任の失踪とも関わっているようだという噂に熱狂しているようだった。
顔を俯けそうになる。意志の力でなんとか堪え、ドロシーは歩みを進める。
目指した地位は、ただ背を押してくれた家族に報いるため。母を、かつて共に暮らした人々に手向ける何かが欲しかったから。研究さえできれば、ドロシーには地位など必要なかった。
今はもう、ドロシーに家族はいない。一心に積み上げてきたものも、夢も、もう無い。
彼女が持っていたちっぽけな宝物は、彼女自身の業によってすべて喪われた。
社屋から外に出ると、エントランス前の広場には人気が無く、もう陽の沈み切った空には星が瞬いていた。
トリマウンツの均整の取れたビル街が、それらをズタズタに切り裂いている。ここから百キロメートルも離れた実験施設では、夜の闇はこんなにも無残な姿ではなかった筈だった。
「……はぁ」
耐えきれずにぽろりと、溜息が零れた。人気のないところまでは頑張って来たけれど。
ドロシーは顔を俯けて、もう一度深いため息を吐いた。
夢の世界で見たもの、“覚醒”の崩壊、積み上げてきたものの喪失。ここ数週間の色々が背中と肩にあまりにも重たくて、溜息と一緒に涙もこぼれそうになる。
「だめよね」
両手で頬を挟んでぺしぺしと叩き、とりあえずは借りている社宅に帰ろうと思いなおした。何を悲しもうが、何を後悔しようが、全ては自分の自業自得でしかない。
ドロシー・フランクスは大人だ。大人はどれだけ泣いて助けを求めても、誰にも助けてはもらえない。
脚を前に出し、歩かなければ。トパーズの瞳で前を見据え、また全て、ゼロから始めなければ。
明日からはさっそく動き出さなければならない。まずは今の賃貸を引き払う準備をして、銀行からお金を纏めて下ろして……と、指折り数えながら歩き出そうとした、その時。
うまく上がらなかった足が欠けひとつないコンクリートのタイルに引っかかり足がもつれ、ドロシーは身体のバランスを崩した。
瞬間、内臓が浮きあがり、冷や汗が噴き出す。
「あっ」
時間が飴細工のように間延びする。何が起きたかも理解できないままに無様な星空が空転する。
まるで自分のものではないような、頓狂な声が口からこぼれ出る。それを置き去りにして身体が前に倒れていき、地面に吸い込まれていく。
腕で身体をかばうとか、脚を動かしてバランスを取り直すとか、そう言った反射がこの時ばかりは働かない。疲労ゆえか、それとも別の理由か。
「危ないっ」
夜に響く、男の声。僅かな衝撃。腕と肩が引っ張られる、微かな衝撃と痛み。
被っていたハットだけが地面に落ち、ぽす、と小さな音を立てた。金色の髪がさらりと流れ、街灯の光をぼんやりと反射している。
「──ま、にあったか。良かった。
大丈夫ですか?」
驚いて目を開けたドロシーが見たのは、黒いフードつきウインドブレーカーと白衣に身を包んだ、黒い検疫マスク、中肉中背の男。研究者だろうか? にしてはやたらと重装備というか、過剰なほどの防菌ぶりだ。
心配げな声色で、転びそうになったドロシーの腕を取って支えている。彼女はその男には見覚えが無かったから、少なくともライン生命の社員ではないのだろう。
顔の見えないこの人のお陰で、彼女はどうやら転ばずに済んだようだった。
「えと、私……あら……」
見ず知らずの男に助けられ、恥ずかしい所を見られたやら情けないやらで顔が熱くなる。耳の先がぼうっといやな熱を持つのを感じて、こんな経験も久しぶりかも、と変に客観的な自分が居た。
ともかく、脚に力を入れて立ち上がろう。いつまでもこの人に支えてもらいっぱなしでは……ひとこと礼を言うことも忘れ、人の目もあることだし、とまで考えて、ドロシーは眉をしかめた。
となりの男が「ん?」と小さく疑問の声を発する。
言葉を待つ小さな沈黙。へたり込んだままのザラックの女が立ち上がらないのを不思議に思ったのか、自分も膝を折ってしゃがみ、彼女に視線を合わせた。
まるで、子供にそうするかのように。マスクの奥の眼と視線が合ったような気がして、ドロシーは自分の裡にぱちぱちとはぜる羞恥がもう一段ボルテージを上げたように感じた。
言わなければ。なにか。なんでもいい。
何より、このまま沈黙を通すのは、今のドロシーにはちょっと耐えられそうにない。
でも、ダメだった。
じわりと目が熱く沁みて、視界がぼやける。暖かい水分が瞳からぽろりと零れ、頬を伝って落ちていく。
どうしてこんなに、何もかもが。
小さなことをきっかけに、感情の濁流が堤防を圧し崩すようにして飲み込んでいき、混沌にする。
「えっ、あの、大丈夫ですか」
転ぶのを助けただけの女が、突然ぼろぼろと泣きはじめるのだ。目の前のマスクの男性は随分と焦ってしまうだろうし、迷惑だろう。それがまた恥ずかしくて、顔が熱い。
でも、もうだめだ。
「ごめ……なさっ」
ごめんなさい。泣ける立場の私ではないのに。
生きてきた意味も、これから生きる意味も、何もかもが己の自業自得で消え去っていった。
もうドロシーには何も残っていない。生きてさえいれば何度でもやり直せるのだと自分を叱咤しても、幾万積み上げた時間をまたゼロからやり直すのは、言葉で軽々しく言うほどに簡単なことではない。
最後にやって来た痛みを、見も知りもしない誰かに助けられて。
救われてしまって、涙が出た。
男は無理にドロシーを泣き止ませようともせず、周りの目を気にすることもなく、ただ彼女の背に手を置きゆっくりとさする。人間離れした風体の男なのに、その手は暖かい。
突拍子もない女の様子を訝しむでもなく。
迷惑そうな素振りなど欠片も見せず、ずっと。
「……大丈夫です。自分も突然赤ん坊みたいに泣きわめきたくなること、ありますよ」
悲しいのか辛いのか、唐突にとぼけ始めた男が面白いのか。なんだか訳がわからなくなってくる。
不器用なのか。けれど優しい人だった。それだけが、彼女の茹だった頭で理解できるひとつのことだ。
それが、彼との邂逅。
「ふふっ……なによ、それ……」
人一人の人生を変えてしまうには随分とちっぽけな、なんとも締まらない出逢いだった。
そしてその後ドロシーは、彼こそがロドス・アイランドを率いる“ドクター”であることを知った。
ドロシー・フランクスの移管手続きは、驚くほどスムーズに進んだ。
入職に関するテストや検査の結果曰く、彼女の操る共振アーツとドローンの精度、また体内を血液の代わりに満たす伝達物質が齎す生理的・物理的耐性は極めて優秀。
以上を踏まえ、彼女のロドス内での職分は特殊区分オペレーターであると。研究職についても、引き続き継続することが許可された。
当面の間は、彼女のアーツを応用し艦の航路上に存在する岩などの障害物を安全に破砕、除去することで安全を確保する自律ドローン開発稼働プロジェクトの主導研究員として。これまでは人員不足で使用されていなかった第五研究区画が、彼女に与えられることになった。
「うお、フランクス博士! いいんですよォそんなことは。俺たちが指示通りに全部やりますから、あなたが自分で搬入なんてやるこた無いんです!」
空室同然だった研究区画を清掃・除菌し、機材を運び入れる段でも、彼女は持ち前の誠実さを発揮した。普通であれば係の業者に任せるような仕事も率先して手伝い、業者の男を苦笑させる。
「ふふ、ドロシーで良いわ。此処が新しい仕事場だって思うと、いてもたっても居られなくて。お邪魔でなければお手伝いしたいの。駄目かしら?」
「いやダメじゃないっすけどォ……オーイお前ら、ドロシー博士が仕事したいってよぉ、なんかあるかァ!」
「こっち来て設備のレイアウトがマズくないか確認してくださーい!」
部屋の向こうがわから声が帰ってきて、ドロシーはそちらに目を向けた。
十人弱の作業員がてきぱきと搬入を進める室内には、肌に黒い結晶をのぞかせる者たちもちらほらと。鉱石病の感染者たちも、一般の人々に混ざって仕事をしていたのだ。
目を丸くして小さく口を開き、感嘆のため息を漏らすザラックの博士に、作業員は笑いかける。
「珍しいですかい? 感染者が皆に混ざって仕事をしてる光景ってのは」
「そうね。クルビアでも、有り得ないことでは無かったけれど」
まるで魅入られたように呟く彼女に、作業員は言葉を続けた。
「ここで暫く暮らすなら、慣れておいた方がいい光景でさァ。……『高濃度活性粉塵の吸引による感染』と、『外傷に活性源石が触れることによる経皮感染』」
「えっ?」
「俺達みたいな、外からロドスにやって来た人間が一番最初にここで教わることですよ。鉱石病感染の要因は、九割以上がこの二つなんだそうで。
逆に言えばこの二つをきちんと気を付ければ、無理に感染者を遠ざける必要もない。俺たちはそれを、全員ドクターから耳にタコができるまで叩き込まれてる。
だから、俺たちは一緒に仕事をするのが当たり前なんです。ま、勿論体調の問題はありますがね」
鉱石病だからって余らせておける人材は無いってことでさァ、と。ループスの壮年の男は髭面を柔和に歪めて笑い、それじゃあ手伝い頼みます、と言い残して歩いて行った。
ドロシーは改めて、これから自分の仕事場になる第五研究区画を見渡した。
そこに広がる作業の喧噪が、それまでとは少し違って、大きな意味を持って響いているように聴こえてくる。
自らの胸に手を当てる。吐いた息と一緒に、以前の職場で働いていた自分と、その環境が思い起こされた。
「……あっ」
物思いに沈んでいた時間は刹那だけれど。ドロシーはハッとして、自らが言いつけられた仕事をこなしに現実へと帰っていく。
「ええと、ああ。この装置だけは壁際に移動してもらえるかしら。こっちの方が動線がすっきりして都合が良いから。あとは──」
『入職おめでとう、ドロシー!』
鳴り響くクラッカーの、乾いた軽い破裂音。弾ける紙吹雪と、パステルカラーのテープ。
ロドスの食堂の一角は、今夜だけはちょっとしたパーティ会場に変貌していた。天井からは手作り感溢れる色紙の飾りと、“Welcome Dorothy!!”と書かれた大きな横断幕。
「あ、ありがとう」
ほんのり困ったように、けれど嬉しそうに下げて微笑むザラックの研究者。ドロシー・フランクスこそがライン生命の一部署を統括していた主任なのだと言われると、彼女の素性を知らぬものは驚いてしまうだろう。それほど普段の彼女は“普通”だった。
テーブルには、マッターホルンやグムたちが腕によりをかけたご馳走の数々が並ぶ。
賽の目に切った羽獣の肉とたっぷりの野菜にサルサソースをかけ、ふわふわのパンケーキで挟んだタコスや、トウモロコシをすりつぶした粉を伸ばして焼いたトルティーヤ。沢山の野菜と香辛料をペーストにしたワカモーレ。肉獣をほろほろになるまで煮込んだスープに、鱗獣とオニオン、トマトやパプリカをライムで和えたセビーチェ。
ふわりと立つ湯気と香り。舌鼓を打てば、皆の表情は和らぎ笑顔がこぼれる。
酸味や辛みが強くなりすぎないよう料理人たちが気を回してアレンジした料理は、どれもとても食べやすい……ともすれば、ニェン辺りは少々苦い顔をするのかもしれないけれど。
「改めて、ロドスへようこそ。ドロシー。今日はクルビア南部の料理を再現して貰ったんだけど、どう?」
穏やかな喧噪だった。白い皿に慎重に料理を取り分けながら、相変わらずマスクとフード姿のドクターがドロシーに問いかけた。
「とっても美味しいわ。それに……」
料理は暖かく良い香りで、食堂や食器は質素ながらに清潔で、普段は小食なドロシーすら食欲が搔き立てられた。
ただそれ以上に、と彼女は言葉を続ける。その視線は料理というよりも、その場に集ったオペレーターや職員たちに向いていた。
「皆、こんなに笑ってる」
向こうのテーブルに、ドロシーのよく知る顔が並んでいた。
元警備課主任のサリアに、かつてパルヴィスのもとで治療を受けていたはずのジョイス・モルと、オリヴィアという研究員。それにブロンドの髪をふたつに縛った、サルカズの少女。一目で、その少女は病状がかなり進んだ感染者だと分かる。
サリアとオリヴィアの間には笑顔こそなかったが、その距離や仕草に険は感じられない。白い平皿にたっぷりと料理を乗せたサルカズの少女がたたた、と走り寄って行って、活発そうな笑顔で二人にずい、と皿を差し出した。あとからジョイスがゆっくりと歩いて、三人に合流する。
会話を止めた二人は一時顔を見合わせると、オリヴィアが眉を下げて微笑み、グラスを置いてから皿を受け取ってタコスを手に取り、そしてサリアにも皿の上のそれを差し出した。
僅かに躊躇するように口を締めていた彼女だったが、ジョイスが横からナプキンを差し出すと観念したように受け取って手を拭き、タコスを手に取った。
これうまいぞ! という元気な声が、こちらにもよく聴こえてくる。一瞬、そちらを見つめていたドロシーとサリアの視線がかち合った。もと警備主任の目つきがすっと厳しくなる。
だが……元警備主任はそれ以上は何も行動することなく、視線から棘を消してドロシーに目礼した。
色とりどりの料理が並ぶカウンターの近くでは、ライン生命の外勤研究員であるマゼラン、そしてラボ・ルトラのメイヤー研究員。その隣には白銀の髪を揺らして笑うウルサスの少女と、なんだか少々不機嫌そうなサヴラの女性が。
この二人のことをドロシーは知らなかったが、だが四人はとても仲良しな様子で食事を囲んでいた。
サヴラの女性も、表情や態度の割にはその場から離れて行こうとはしない。時折三人の話に合いの手を入れて軽く頷いて、自分はマイペースにがつがつとサラダやスープ料理をかき込んでいた。
「ドクター!」
「アーミヤ、ケルシーにロスモンティスも。忙しいのに時間を作ってくれてありがとう」
「毎日お仕事ばかりでは、気が滅入ってしまいますから。ドクターこそ、私たちも招待してくださってありがとうございます」
ドクターに駆け寄ってくるコータスの少女のことは、ドロシーも知っていた。
此処にやってくる前に読んだ資料にあった、ロドス・アイランド製薬の対外的最高経営責任者。内部では“三首脳”と通称されるうちの一人。
その弱冠で、権力と陰謀渦巻くテラの大地の只中に立ち続ける小さな女傑。
「ドクター、そちらの方が?」
「ああ、ドロシー・フランクス博士だよ。ロドスに赴任してきたライン生命の研究員で、オペレーターも兼任してもらうつもりだ。ドロシー、こちらはアーミヤ。後ろのふたりはケルシーとロスモンティス。
ケルシーはロドス・アイランドの医療部門最高責任者で、ロスモンティスはエリート・オペレーター。二人とも、頼りになる私たちの仲間だ」
「仲間? 違うよ。私たちは、家族」
少し眠たげな瞳を揺らして、ロスモンティスと呼ばれた白髪のフェリーンの少女はドクターの服の裾を軽く握りながら、男を見上げるように言う。
ドクターはひざを折って屈むと、何も言わずにロスモンティスの頭へ手を置き、ぽすぽすと撫でた。「にゃ」と目を閉じてされるがまま満足げな少女に、ケルシー医師が語り掛けた。
「ロスモンティス、ドクターとフランクス博士は話がある。
折角の席だ、アーミヤと私と共に料理を貰いに行こう。パーティが楽しみだからと、今日の昼食を抜いていたんだろう?」
「行きましょうか、ロスモンティスさん。あちらにあるお皿を使っていいみたいですよ」
「ん、わかった。また後でね、ドクター」
「お腹いっぱいにしておいで、ロスモンティス。行ってらっしゃい」
アーミヤと手を繋いで離れて行くロスモンティスを見送って、ロドスの主要な一角を担うフェリーンの医師はドロシーに向きなおった。
少なくとも和やかではないその雰囲気に、ドロシーは居住まいを正す。
間違いなく、ライン生命で起こした事故のことを問われるだろう。これまでまるでそれだけを避けているかのように、ドロシーの過去の行いについて説明を求められることは無かったのだ。
彼女は身構えた。何を問われても、きちんと説明をしなければならない。これは自分の責任だ。
「ドロシー・フランクス。君には、このロドスはどう見える?」
向きなおり、柔らかな笑い声と話し声が響くそこで、ケルシーは淡々と静かにそう訊いた。
その声色にはなんら強い感情も含まれていない。ともすれば相手の回答にすら興味が無いような、そうとすら思えてしまうような超然とした姿勢。
ドロシーは思っていた言葉と実際が違うことに戸惑うと共にふと、己が試されているような予感を覚えた。
どんな検査もテストも意味はない。己の過去すら、この医者は頓着しない。そんなことよりも優先すべきことを、面と向かって問われている。
今この瞬間こそ、自分がこの優しい場所を護り育んできたものに厳格に試されているのだ。そんな予感だった。
だから、考えた。
クルビアの地で生きて、夢を見て、そして夢から醒めた自分が今、ロドスに巡り合い何を思うのか。
それは、内省にも似た応えを促す問いだ。
「……私が、」
荒野に生まれ、育ち、クルビアの夕陽と夜明けが彼女を育て、絶望させ、立ち上がらせそして夢を見せた。
「私が見ていた夢。目指したかったもの。それがこんなにも簡単に、何の技術的な革新もなくここに実現されている。そう思ったわ。
平等な世界。誰もが自分の立場も能力も思い悩まずに、他者を理解し合い生きていく。そんな世界。普通の世界。
それは私がただ短い間、此処で過ごす中で見た甘い幻想かもしれない。
現実は夢のように甘いものではないわ。ここにもきっと、沢山の苦しみや悲しみ、怒りがあるのでしょう」
「でもね。それでも、私は感染者も非感染者も分け隔てなく、こんなに沢山の笑顔を浮かべて暮らしている場所を他に知らないし、想像することもできなかったの。
ここは、素晴らしい場所だわ。私の夢は、本当は、こうして叶えるべきものだったのね」
一度言葉を切り、ドロシーは目の前の医者の瞳を真っすぐに見つめた。
ケルシーの瞳には相変わらずなんの色も感情もない。けれど、ドロシーの答えを正面から受け止めてくれていると分かるような真摯さがあった。
彼女は自分の答えを受け止めてくれる。ヒトとは違う、狂っていると言われようが構わないと見続けた夢を受け止め、そしてそれが間違っているなら正面から糺してくれる。
彼女は、ドクターは、このロドスは。
そう、期待する。
「ここで働く人たちに、ドクターのことを聞いたの。みんな、彼のお陰で鉱石病への偏見がなくなったと笑っていた。信じられないような、不思議な気持ちだったわ。此処には誰一人、鉱石病だからと差別される人はいないのよ。
このパーティだってそう。かつてライン生命で見た人たちも、そうでない人たちも、皆笑っている。病気のあるなし、能力の多寡がどれだけあっても、共に笑って生きていける未来があると私に証明してくれている。
わたしには、ロドスがいつかヒトがあるべき未来の生き方の一つに見える。そして私が間違えてしまった夢の続きを、より正しいかたちで未来に繋げてくれる場所に見えるわ。
だから、私はここでそれを護る人たちの支えになりたい。
夢の中で道を間違えた私だけれど、もしもう一度、この夢の続きを見せてもらえるなら」
「私は、あなたたちと共に生きてみたいわ」
苦笑するサリアが、イフリータの頬に付いたソースを拭っている。
アスベストスやオーロラ、マゼランが、メイヤーの拡げた図面と肩を寄せ合って論議を繰り広げている。
ロスモンティスとアーミヤが、楽し気にカウンターを眺めながら食べる料理を選んでいる。
ドクターが仮面を外した。淵のような目をした男がタコスにかぶりついて、小さく微笑んだ。
「そうか。君の過去の行動やそれに基づく君の感情については把握している。罪悪感や贖罪といったパーソナルな事情の処理に関しては、最終的に君自身が答えを見出す必要がある。私たちがそれを与えることはできない」
「いいのよ。それでいいの。もう十分すぎるほどに貰っているから」
初めて、ケルシーが微笑む。控えめに唇を曲げるだけのそれだったが、少しだけドクターに似た笑みのように感じた。ドロシーにはそれが、とても暖かいものに思えた。
「……ロドス・アイランドは君を歓迎するだろう。ドロシー・フランクス」
「ドロシー博士!」
「えっ、エレナ? どうしてここに?」
「ラボに外勤申請出して、当面はロドスで仕事をすることにしたの! 此処には鉱石病の治療に来たこともあるから、オペレーター登録はもう結構前にしてるんだ!」
「そんな……なら、またあなたと一緒に仕事ができるの……?」
「勿論! というかドロシー、私がいないと本当にだらしなくて、ドクターに恥ずかしいんだから!」
「ちょ、ちょっと!」
「あーあー。聴こえてないよ。私は今ごちそうに夢中なんだ」
「ドクタ~……」
あはは、と笑いが巻き起こった。アーミヤですら、口元を手で隠しているが小さく微笑んでいる。
ドロシーは顔がぼっと熱くなるのを感じる。自分らしくないな、と思った。
脳裏に、母と父と沢山の開拓者に囲まれ暮らした、クルビアの荒野が思い起こされた。本当に久しぶりに、あの頃のことを思い出したような気がした。
それは、久しく感じていなかった“幸せ”の。
その、ほんの始まりの一欠けら。
△▼
ドロシーが、その男がこれまで救えなかった鉱石病患者全員の末期の声を記憶し、いかなる時も常に頭の中で反芻し続けているのだと知ったのは。
それから、半年後のことだった。