喜びとは目的を暖め続け、知性を輝かせ続ける神聖な炎である。 作:Alphecca
ロドス本艦の履帯は砂煙をもうもうと上げながら、荒涼とした大地を進む。
ヴィクトリアとカジミエーシュの国境沿いに広がる降雪地帯を抜け、聳え立つイェラグの山々を南方遠くに眺めながら、一路西へ。
雪こそ降らないものの、クルビアの開拓地域にはひどく乾燥した北風が吹きすさんでいる。思わず身を縮めてしまうような厳しい寒さが、本格的な冬の訪れを告げていた。
ロドス・アイランドはクルビアへの道中、以前から交流のあったいくつかの移動都市や村落、小さな街と合流、停泊した。
不足している物資や薬品を譲渡し、対価として近辺の情報や食料、水などの基本的な消耗品を補充する。停泊中は外勤資格を持った医師が出張し、必要な患者の診察、治療を行う。
以前からロドス・アイランドが行ってきた基本業務の一つだ。補充できる物資は当然、艦内で消費されるそれらを賄える量ではない。纏まった補給は大都市で行うが、それでも航行の合間に得られる現地食は長期間を似たような食事、酷ければレーションで耐え凌ぐ人員たちにとって貴重な気分転換になる。
そんなことを何度か繰り返しながら荒野を抜ければ……クルビアの一大都市、トリマウンツはもうすぐそこだった。
「エフィ、先生のポッケからカードキー出して! 私が支えるから」
「はいっ。ワルファリン先生、失礼しますね」
「うわ重っ、も。先生ちょっと、脚にもうちょっと力入れて、自分で立ってよぉ」
「う~~~」
ピピ、と小気味よい電子音と共に、個室の自動扉が開いた。
ヒトの侵入を感知したセンサーが反応し、玄関の室内灯が点灯する。エントランスに放り出すかの如く脱がれたパンプスとスニーカー、申し訳程度に揃えて置かれたショートブーツ。
エイヤフィヤトラとアンジェリーナは二人の間に屍の如く唸るだけの塊と化したワルファリンを抱え、ずりずりと引きずるようにして彼女の自室の中へと牽引していった。
「のみすぎた……うぶ」
「ちょっと先生!? 吐くならトイレ行くよ!」
「アンジェさん、こっちに!」
普段から白磁のごとく白いワルファリンの顔が、今回ばかりは蝋のようだ。もう少し忖度せず表現するならば、土気色。
眉根に皺を寄せて唸った後、急に喉の奥でえづくような仕草を見せる。慌てふためいたアンジェリーナが進路を休息変更し、シャワー室と一体型の手洗いへと泥酔医師を連れていく。あらかじめ扉を開けてくれていたエイヤフィヤトラに感謝しつつ、今にも口から虹色のなにがしかを高圧放水しそうになっている酔っぱらいを放り込んだ。
『*エチケット的な唸り声*』
閉めたドアの向こうからは殆ど間を置かず、断続的に水を流す音が聴こえ始める。アンジェリーナはほっと一息ついて肩をすくめ、それを見たエイヤフィヤトラも小さく苦笑。
暫くしてワルファリン医師が(土気色の顔はそのままだが)自分の脚で手洗いから出てくるまで、しばしその場で待つことになった。
以前、健康診断の場で三人が会話をしてから数週間ほど。
ワルファリンが予約を入れたトリマウンツ市内のレストランで和気藹々と食事をし、恥ずかし気に語られるエイヤフィヤトラの恋の話に二人で大いに盛り上がること、数時間。調子に乗ったワルファリンが一人でワインボトルをいくらか空け、椅子から立ち上がれなくなったところから……怪訝な表情をした店員に見送られ、残った二人でどうにかこうにか現在に至る。
水の注がれたグラスを豪快に傾けているワルファリンの喉元が、ぐび、ぐび、と動くさまが伺えた。一息にそれを飲み干したブラッドブルードは大きな吐息をひとつ。口元を拭い、先ほどよりかは多少焦点の定まった視線を二人に向けた。
「いやあ、すまんな二人とも。久々に羽を伸ばしたゆえ、少々加減が利かなんだ」
あっはっは、と少々ばつが悪げに笑う医師は、いつもより少し二人の身近に感じられるようだった。
「先生がご馳走してくれたんだし、許してあげるけどさあ」
「はいっ! ワルファリン先生、とっても素敵なお夕食でした」
屈託なく笑うエイヤフィヤトラの様子に、ふよふよと宙に浮いた状態で胡坐をかいていたアンジェリーナも、毒気を抜かれたように眉を緩めた。
自らのベッドに腰かけるワルファリンの傍、寝台横のローテーブルに置いてあったデジタルクロックが、夜半の入り口を示している。
「ご飯も勿論美味しかったし、エフィちゃんのドクターへの想いを聞いてるとこう……ずっと胸があったかくてさ。なんだか私、これまで以上にエフィちゃんの恋を応援したいなって思っちゃった!」
アンジェが真っすぐにエイヤフィヤトラを見つめてそう言うと、彼女は耳をにわかに赤らめてはにかんだ。
椅子に腰かけた足の上で重ねた手を撫で合わせながら、少々小さな声で「お話聞いてくださって、ありがとうございます」とお礼を言う。
「私、やっぱりドクターともっと沢山お話したり、他にも……あの、ちょっとでも意識して貰えたら嬉しいなって、思えるようになりました」
「そなたもそなたで抱え込む性質ゆえな。たまにはこうして、あけすけな内情を誰かに晒すことも必要であろ」
「そうそう! これからは困ったり、悩んだら何でも相談してよね。私、どんなことでもぜったい真剣に相談乗るから!」
大切な友達だもん。とはっきり言い切るアンジェリーナに、ローズグレイの瞳が細められる。
──エイヤフィヤトラ。君は君が思っているよりも、ずっと多くの人々の手を借りて、前へと進んでいくことができるんだよ。
脳裏に、彼女が想う男の声が追想された。
何週間か前、死ぬのが怖くてあんなに泣いていた自分なのに。今はもう“みんな”の手を借りて、自らの裡に生まれた小さくも熱い火を育まんとしている。
死がエイヤフィヤトラの心を絡め取っていた指を解き、彼女は一歩ずつ前に進む。
ヒトがヒトとして生きる間に感じる数多の感情をひとつ手繰り寄せ、そしてそれを何らかの形にしようとしている。
ドクターがエイヤフィヤトラに示してみせた未来があり、それは事実となって今彼女の前に開かれようとしている。
エイヤフィヤトラは微笑んだ。僅かに頬を染め、ローズグレイの瞳を煌かせ、小さな唇を穏やかに緩めて笑った。
アンジェリーナとワルファリンは、思わずそれに見入ってしまった。僅か、部屋の中に静寂が降りる。
暖かな灯火のような、嫋やかな地のぬくもりのような。そういう恋する女の幸せそうな笑みは、二人からしばし言葉を奪うのに十分すぎるほどの力を持っている。
「ふたりとも、ありがとうございます」
花が開くように、恋する女は言う。
「私、頑張りたいです。あの人に、いつか、この気持ちを伝えられるようになりたい」
「できるとも」
ワルファリンは、ただそう言葉を発することしかできなかった。
満面の笑みで頷くエイヤフィヤトラを見、己の中で確かに一つの確信と、そして迷い見定め続けてきたことにひとつの決心をつけようとしている自分がいることに気付いた。
ローテーブルの上のデジタルクロックが、夜半過ぎを知らせている。
今日は夜も遅いからと二人を帰し、ワルファリン一人となった居室で、彼女はチェアに腰かけデスクに肘をついて、電源を入れたラップトップのディスプレイに映し出される資料をぼんやりと見つめている。
「……ドクターよ」
静かな部屋に、応答のない呼びかけが響く。
「すまんな。今回は、妾が其方を裏切ることになるやもしれん」
端末に表示されている資料の表題はただ一単語。
“SmaragdOZ”と表記されたそれに、医師は語り掛ける。
「ドクターよ。其方はきっと、この筋書きですら予期しているのだろう? ならば、其方はあの子の想いを受け止めねばならぬ。ほかならぬ“スマラグドス”が救うべき病人である彼女が、何をそなたに言うのか。
そなたがそれすら説き伏せ前に進むというなら、もはや妾も覚悟を決めよう。だがな──」
「──妾は思ったよ。病が必ずしも人を絶望に至らしめ、そこから立ち上がる脚を永劫に奪うというのなら。ならば、あの子のあの目は何だというのだ?」
ワルファリンは端末をプライベートモードに切り替えてメールソフトを呼び出し、そして宛先にとあるアドレスを打ち込んだ。
打ち込んだ文字列がアドレス帳を自動検索し、ヒットした宛先を自動変換して宛先欄に表示させる。
……其処には、『トリマウンツ科学倫理連合宣言』の文字があった。
「妾は、そなたらは。黒い石が此の世と此の世の命を食い荒らす様を見せつけられすぎて、いつの間にやら絶望してしまったのやもしれん。掛けてやるべき期待を、忘れてしまったのやもしれん」
メールにファイルを添付。文面を打ち込み、カーソルが送信ボタンの上へと滑る。
ワルファリンはマウスから手を放し、アルコールに浸されて酷く重たい身体をオフィスチェアの背もたれに投げ出して、目元にその腕を乗せて覆った。
瞼越しに射しこむ室内灯の光すら遮られた暗闇の中で、ドクター、そしてドロシー・フランクスが語る“夢”が去来する。
日々務める病棟に響く痛みや苦しみの嘆き、残された者たちの悲痛の声、そう言ったものが幻聴のように耳の奥へと囁きかけてくる。あれらを、ほんの少しでも。
わずかの一人でも救ってやれると、隈の色濃い瞳をそれでも希望に高鳴らせ、あの男は語った。やっと、やっとこの世界を腐らせる苦しみの坩堝を塞いでやれると。
送信ボタンを押すことができないのは、やはりワルファリン自身もそんな希望に焦がれているからに他ならない。
否、焦がれぬものなど居るものか。
鉱石病が治るとまでは言わずとも、死なぬ病になるなどと。
例え、病への対処法が見つかるまでの幾年とも知れぬ年月を、長い眠りの裡にやり過ごすことになるのだとしても。
マウスに乗せられた手が、僅かに震えている。ワルファリンには、それを押すことができなかった。押せば全てはひっくり返る。ドクターが敢えて考慮しなかった、彼をたった一手で“詰み”に陥らせる禁じ手。
彼らが進める医療プロジェクトの最奥。このままことが進めば誰一人として知ることなく闇に葬られるであろう、ドクターとドロシーの秘密。彼らの狂気。
“スマラグドスの治験データは如何にして収集されたのか”。
それがはっきりと記載された添付ファイルをクルビアの化学倫理の防人たちが受け取ったなら、間違いなく彼らの計画は破綻する。場合によっては、その情報はドクターを破滅させる可能性すら孕んでいる。
ワルファリンがリークという裏切りを働き、秘密が白日の下に晒されれば、下手をすればドクターはロドスを去ることにすらなりうる。それは実質、ロドスそのものの破綻をすら意味する。それをワルファリンが手にしているのは、ひとえにドクターが彼女を信頼してのことだ。
そんな致命の刃を、ワルファリンは己の最後の武器としてその身に携えようとしていた。
「使わずに済めば、それでよいがな」
自らを宥めすかすかのように、つい口を衝てそんな言葉がこぼれ出た。
ワルファリンは端末を慎重に操作し、そのメールを自らの携帯端末に転送する。
そしてそれとは別のメッセージを作成し、明日の午前中に宛先へ送信されるよう予約設定する。メッセージの相手はエイヤフィヤトラだ。メッセージの内容はただ一文。
『ドクターがそなたに隠していることを教える。聞けば後には戻れない。どうするかは、そなたに任せる』
△▼
「エイヤフィヤトラ。そなた、現時点で自分の余命が幾ばく残っていると思う?」
「……え?」
大きな窓から射し込む陽光が、外の常緑樹を透かした光の粒になって室内に差し込み、様々な医療器具を有機的な木漏れ日で柔らかく照らしている。
そこは沢山の医師や看護師、また患者でごった返す病院の筈なのに、エイヤフィヤトラの耳には殆ど何の音も入っては来てくれない。水が鼓膜を押しているかのような静寂に包まれていて、まるで二人だけが別世界に隔離されてしまったかのようだ。
髪も肌も常人離れして白いワルファリンの真っ直ぐに伸びた背を陽光が照らし、できた影が白衣の上に白と黒のコントラストを造り出している。ゆるい逆光の中でルビーのごとき赤い瞳だけが、真っ直ぐにエイヤフィヤトラのローズグレイを射抜いていた。
つん、と消毒液の臭いがエイヤフィヤトラの鼻を衝いた。あまりにも唐突な問いに、言葉がつかえる。
「ど、どうして」
「よい、応えよ。妾は今そなたを試している。ここからの応え如何で妾はそなたに、ドクターに関する非常に重要な事柄を教えるつもりで居る。またはそれを教えず、このままそなたを帰す。そうなれば、もはや何も知ることは許さぬ。そう思え」
医師の口調は静かだった。そして、これまでの彼女の態度はまるで幻か何かであったかのように重く、真剣だった。エイヤフィヤトラはそこに、初めてワルファリンという一人のサルカズの心を見る。
彼女は何か、自らが抱える重大なものをエイヤフィヤトラに託そうとしているようだった。そのためにこれから彼女は“試される”。
自然と居住まいを正し、背筋を伸ばして、エイヤフィヤトラは毅然と応える。
恐怖を隠さない。だが、希望を抱くこともやめない。
ドクターのこと。目の前の人物はロドスの三首脳ではなくとも、此処に古くから在る重鎮だ。
そんな彼女が、エイヤフィヤトラに何かを伝えようとしている。
それがドクターのことであるのなら、エイヤフィヤトラは知りたかった。
「──あと、数年だと思います」
「そうか。ならばエイヤフィヤトラよ。“あと何年研究者でいられるか”というそなたの問いに、あやつは何故。なぜそなたですらおおよそ想像のついている当然の事実について、その場で言及しなかったのだ?」
「それは……それは」
「私のことを、思いやってくださって」
「違う」
「というのはあまりに酷で、正しくもないな。三割はその理由であったとしようか。これは蛇足だが、あやつはそなたを本当に大切に思っているぞ。今の自分を研究者として慕ってくれるたった一人の“後輩”なのだと、あやつは顔を合わせる度に実に楽しげに妾に自慢する。全く毎度毎度飽きもせずにな」
若い研究者は驚愕に目を見開いた。自分の知らない所で、自分がどれだけドクターから気に掛けられていたのかを知って。
あの日あの時、あの図書館で自分の人生を変えてくれた人もまた、エイヤフィヤトラの存在によって彼女が知らない、分からない欠けを埋めていたのだろうか。
そしてエイヤフィヤトラはふと、本当に突然気が付いた。
今から自分は、ドクターが抱えるその欠落が何なのかを知ることになるのだと。だがそうだとして、尚更ワルファリンの話は不可解でもあった。
「な、なら、残りの七割は。私、ドクターに希望も絶望も貰ったんです。怖がることも、立ち向かうことも教えてもらったんです。余命のこと、教えてもらえなかったのは……どうして、ですか?」
「うむ。では最後の問いだ。
「この先を知れば、そなたは戻れなくなる。あのドクターという愚か者を知り、そしてその患者であるというだけの甘く優しい関係ではいられなくなる。あやつのしようとしていることを知れば、そなたは決断せねばならなくなる。知った上で“どうするのか”を」
「あやつを止めるもよし、止めぬもよし。だが確実に、今まで通りでは居られない。今まではあやつを止められるものはおらなんだ。ケルシーも、アーミヤでさえな」
「だがそなたなら、選べば止めてしまえるやもしれぬ。そなたが声を発すれば、あやつは歩みを止めるやもしれぬ。
そなたは鍵だ。故に慎重に選ばねばならぬ。それでも進むか? ナウマン夫妻の忘れ形見……いや。
ドクターの、たった一人の後輩よ」
そこまで言い終えて、ワルファリンは言葉を切った。沈黙し、赤い瞳がエイヤフィヤトラを真っすぐに見据えた。
きっと、此処が分水嶺だった。
ここで踏み出さなければ、エイヤフィヤトラは今まで通り彼女のままで居られるだろう。両親の研究を受け継ぎ、ロドスで働き、希望を以て絶望しながら病と闘う、いずれは死にゆく只の鉱石病感染者。そんな、ありふれたひとりで居られる。ドクターとの関係も、きっとこれまで通りだ。
自らの手を強く握り、唇を引き結び、目を閉じてエイヤフィヤトラは一瞬迷った。
捨てることになるかも知れない。何かを。もしかしたらそれは、本当に大切にしたかったものを。そうでなくとも、きっとなにがしかの変化は避けられない。
少なくとも、そう感じられるだけの気迫が、目の前の医者からは漂っている。それだけの覚悟を以て望めと、言外に伝えられているのだ。
──『泣き止むんだ。アデル』
エイヤフィヤトラは閉じていた目を開く。ワルファリンの目線に、ひるむことなく返した。
それでも。
今此処であなたに背を向けたら。
私は、きっとこの短い生を後悔することになるだろう。あなたから目をそむけたことを、死ぬまで後悔するだろう。それだけは。
それだけは、死んでも嫌だ。
「ワルファリン先生」
「うむ。決めたか?」
「はい。教えてください。ドクターのこと」
サルカズの医師が吐いたため息は、安堵のそれのようにも聴こえた。
いつの間にか、診察室には音が戻ってきていた。
「……踏み出すか。まあ、あやつの後輩ならな。
では、教えよう。いいかエイヤフィヤトラ。ドクターはな──」
「──ドロシー・フランクスと結託し、“クライオニクス”を鉱石病患者の終末医療に導入しようとしておる」
「クライオニクス……ですか?」
エイヤフィヤトラの整った眉が僅かに顰められ、聞き覚えの無い単語を念のためと聞き返す。
それは若き研究者のこれまでの人生の内には見かけることの無かった単語で、また日常生活でもそういった言葉を目にする機会は記憶の限りは無かったはずだった。
膝の上で行儀よく握り合わせた両の手が、その手の甲を落ち着きなさげに撫でる。知らない単語ではあったが、どうにも心のざわつく、耳に触りの悪い単語だった。
ワルファリンはエイヤフィヤトラに向かって頷きかけ、聞き間違いではないぞと肯定する。湯気を立てるブラックコーヒーを二つのマグに入れて戻ってきて、一つをエイヤフィヤトラに手渡した。
唇を飾り気の無いマグにつけてため息を吐くと、言葉を続けた。
「知らないのも無理はなかろうな。ミノスの古語が語源で、寒さとかそういった意味だ。終末医療の分野で一時期論文が発表されて騒がれていたものの、技術的な問題や倫理的観点から批判を浴び、次第に忘れられていった過去の遺物よ」
医師の細く白い指が、デスクにあったペン立ての中から一本のボールペンを選んでつまみ上げた。その手で横に置いてあった再生紙のメモ用紙を一枚剥がすと、「ちょい、もうちょい近う寄れ」とエイヤフィヤトラに手招きする。
「あ、はいっ」
慌てて頭を寄せ、机の上のメモ用紙をのぞき込む彼女の様子。ワルファリンはさらさらとボールペンで人型のモチーフを描くと、それを縦長の六角形の枠で囲んだ。遺体を収めるような棺のマークだ。
「例えばここに、余命宣告され死を待つばかりの患者がいたとする。この患者は現時点で治療法の確立されていない難病に冒されており、これ以上の治療は不可能と判断。本人と周りの同意もあり“終末医療”に移行しているところだ。終末医療については知っておるか?」
「はい。病気を治すための治療行為ではなくて、残りの人生を患者さんが痛み無く、穏やかに過ごせるように……そういう医療の方法、ですよね」
「うむ。よく知っておる。で、この終末医療だが。
病に対してもう現代の医療で打てる策が無い、また患者の体力が治療に耐えられない、あるいは患者自身がこれ以上の治療に伴う苦しみを望まないなどと……色々理由はあるものの、最終的に患者は必ず命を落とす。時間の長短はあれど、そこは織り込み済みで行う行為なのだ。
患者の痛みと恐怖をぎりぎりまで和らげ、ヒトとしての尊厳を保ったままで送ってやる医療。現代医療としては、まあ、病への敗北と言ってよかろうな」
「これは当たり前の話だが。患者が程度を越えた苦しみを受けず、命を落とさないのならそれに越したことは無い。
ヒトの技術は進歩する。今は治療法が確立されておらずとも、五年、十年、或いはもっと先には画期的な方法が発見されているかもしれぬ。そこまで患者の命を無理なく長らえることができれば、本来の意味の終末医療は必要なくなるのだ。
……“死を待つほか無いならせめて楽な生き方をさせてやろう”などという、情けない言い訳を医者が医術と言い張る必要はなくなる訳だ」
話を聞きながら、エイヤフィヤトラはこっそりと横目で説明を続けるワルファリンを盗み見た。彼女の言葉には所々が刺々しく、自ら説明している事柄を嫌悪している様子が窺えた。
だがその表情はその言葉と打って変わって淡々としており、内側に収まった人型ごと棺の内側を黒く塗りつぶす彼女の手もまた、淡々と涼しげだった。
「想像は付いているだろうが、鉱石病が正しくこのケースに当てはまる。我々は現状あの病に対する治療法を持たず、せいぜいが進行を可能な限り抑え、症状の痛みを和らげる程度だ。だが」
ワルファリンはそこで、棺の内側を塗る手を止めた。紅玉の瞳が、塗りつぶした黒を見つめ続けている。
「クライオニクスは患者の人体を特殊な方法で凍結し、病を進行させないままに長期間保存し、治療法が見つかる希望を未来に託すことができるのだという。いつかそのときが来たら、凍結した身体を解凍し、蘇生した上で、打つ手の無かった病を治すことができるのだと」
棺の下から右へと矢印を伸ばし、その先に新たな棺と人型が描かれる。
棺は塗りつぶされておらず、人型には簡単な笑顔が描かれており、その下には。
100years after? と小さな文字が書き込まれていた。
「身体を凍結して、保存……不治の病でも、死を待つばかりでいなくても、よくなるんですか?」
「うむ。理論上はな。当然のごとく超技術だ、実用化など夢のまた夢と、学会でも一笑に伏されたのよ。だが、こともあろうにあやつはそれを実現してしまった」
エイヤフィヤトラはまるで雷に打たれたかのように硬直し、目の前のワルファリンを見つめていた。
もし彼女が説明したことが、今ドクターが押し進めているというその医療法が本当に実現するのだとしたら……。
自分がそのような問いを口にすること事態が信じられないというように、言葉をそっと押し出して質問する。
「それは……鉱石病にも、有効な方法なんですか?」
ワルファリンもその問いを予想していたのだろう。エイヤフィヤトラの質問に対する答えは、直ぐに帰ってきた。
「勿論今までは不可能だった。言った通りクライオニクスそのものが様々な技術的問題を抱えていた上、また鉱石病ともなれば凍結中も体内で源石の融合が進む可能性が高かったゆえ。だが」
「ドクターはそれらの全てを解決した。ライン生命の元アーツ応用課主任、ドロシー・フランクスとの合同研究によってな。
かの研究者が開発し、ドクターが改良した伝達物質を体液と入れ替えた上で凍結すれば、人体凍結による不可逆的破壊はナノマシンによって抑制しつつ、血中源石による融合率の上昇をほぼ完全に近いかたちで抑えられる。何せ、血液は全て抜き取っておるのだからな。
加えてドクターは自らがバベル時代から現在までを過ごした石棺の人体保存技術を解析しおおせた。これを利用すれば、血液すらも新鮮な状態で共に保存することができる。解凍時に適切な処置を施しさえすれば、“凍眠”していた患者は問題なく目覚める。
それが“スマラグドス”。翠玉の名を冠する、まったく新たなクライオニクス医療。
鉱石病は今……治る病気にはならずとも、死なない病気になろうとしているのだ」
医師の話を食い入るように身を乗り出して聴くエイヤフィヤトラの中で、ドクターの言動やワルファリンの話や、散乱していた疑問や不可解が一つ一つ音を立てて正しい場所に収まり、ひとつの理解となって完成していく。
彼女の理解と驚愕を代弁するようにして、ワルファリンはそれを言葉にした。
「さあエイヤフィヤトラ、そなたに送ったメッセージの答を渡そう。
ドクターの秘密とは、スマラグドスという現代のテラを根底から覆しかねない医療技術の存在。あやつはドロシー・フランクスと出会ってからというもの、碌に睡眠すらとらずに研究に打ち込んできた。
あやつは今、凄まじい精神的荷重と自律神経の乱れ、薬剤の乱用から来る重度の幻聴とストレス障害に悩まされておる。しかしその甲斐あってというべきか。スマラグドスを使えばそなたの命は数十年、ともすれば数百年先まで永らえることができよう」
「ドクターはな。エイヤフィヤトラ」
「『鉱石病を治す』というそなたとの約束を単なる気休めでは終わらすまいと、文字通り命を削って世界を救う術を編み出してしまったのだ」
そう言葉を締めくくって、ワルファリン医師は手に持っていたボールペンをデスクに置いた。
『恐怖して良い。そして希望を持って良い』。ドクターが言った言葉がエイヤフィヤトラの耳の中でこだましている。膝の上で組み合わせた手に痛いほど力がこもって、気付かぬうちに自らの呼気が浅く、速くなっていることに今更気が付いた。
心臓がどくどくと早鐘を打つ。自らの陥った病という名の袋小路を彼はいつだっていとも簡単に、平然とした顔で打ち破り、未だこの先に道はあるぞと手を差し伸べてくる。
これが、ドクターが本当に見せたかったもの。言葉よりも後に伝えたかったこと。
死ぬ必要は無いと、未来に希望を託して良いと、たとえ百年先に目覚めることになったとしても、君の生きる意味は君の病に重複されはしないと。させはしないと。
誰もが諦め気にも留めない、当たり前のようにそこに或る絶望を打ち壊す。己の人生の何もかもを捧げ尽くして、誰にあざ笑われようと探求を辞めず、ただ独りでも立ち止まりはしない。
これは、そんな研究者が造り出した成果だ。それは世界を冒す病を治すことは叶わずとも、それでも間違いなく歴史に刻まれる偉業であることは疑うべくもない。
その気持ちは、エイヤフィヤトラがあの大学の図書館で感じたものと同じだ。初めてドクターの論文を目にして、ドクターという研究者の存在を知ったときに感じた想い。
ただただ真っ直ぐに、狂気的なまでの一途さで到った名の無い研究者の魂の輝きだ。ヒトが生きて行くにはあまりにも厳格なこの大地にあって、それは眩しすぎるほどの人間賛歌だ。
それを若き研究者は恐怖し、欽慕し、憧憬し、そして目指した。
エイヤフィヤトラは男の真意とその目的を理解して、ぽつりと呟いた。
「……ああ。やっぱり、格好良いなあ」
エイヤフィヤトラは目を閉じる。長い睫毛を伏せて。
憧れた。その背を追い、自分も遺された研究を携え同じように生きたいと思った。その傍に身を置き共に働くようになったとて、彼が放ち続ける輝きは何一つ変わらない。
彼女が『先輩』と呼びかけるとき、彼はその淵のような瞳を細め、顔をほころばせる。彼が『後輩』と呼んだとき、彼女はほんの少しだけ男の背に近付けたような気がして、心が浮き立つ。
隣に座って彼の講義を受けるときは、聴こえない耳を必死に集中する。彼は真剣な表情で、身を乗り出すように彼女の未熟な論文に向き合ってくれる。
彼が必要とするとき、彼女はその身のうちに流れる熱をアーツと成して振るう。
彼は決まって、彼女が戻ると礼を言い、その後で『悪かった』と謝った。
「そっか。私──」
治ったら伝えようと思っていたこと。彼は待っていると言った。でも、もうそんなことでは遅いのだ。
目を開く。光を灯したローズグレイの瞳が真っ直ぐに前を向き、顔を上げ、唇をひき結んだ。
「──嬉しく、ないんですね」
だからこそ。
だからこそ、エイヤフィヤトラはおそらく、これまで生きてきた短い人生の中ではおそらく、どんな事柄にもまして激怒していた。
怒っている。烈火の如くとんでもなく。当然怒りの矛先はドクターだ。
これはもう、ちょっとやそっとのことでは収まるはずも無い。己を火山に例えるとするなら、もう噴火の臨界点をとうに超え、エネルギーを溜めに溜めて噴火の時を待っているかのよう。
ドクターは今、エイヤたち感染者のために一つの偉業をなそうとしている。けれどそれはたった一つの致命的な勘違いの上に成されていることで、それをエイヤフィヤトラはどうにか彼に教えてやらなければならなかった。
なんとしても、彼に伝えてやらなければならない。彼がしている壮大な勘違いと間違いを突きつけて、その後で私は、エイヤフィヤトラはもう一言だけ言ってやらなければならない。
まだ伝えないでおこうと隠していた想いを、しっかりと刻んで、疵にしてやらなければならない。
ドクターが己の間違いを認めるまで、懇切丁寧に説明してやらなければならない。
オペレーター達のために自分の執務室のものを片端から売り払ったり、研究と仕事の為に幾晩も徹夜を強行したり、栄養剤を注射してなお動き続けようとしたり、仕事のために痛めつけた身体を医者に見せるのを厭がったりと……等々。
よくよく考えてみれば、ドクターは研究者として素晴らしく尊敬できる一方で、その至上目標を遂げるために己のためにあるあらゆるものを棄てすぎるのだ。端から見ていても痛々しいやら心配やら格好悪いやら、もうどうしようも無い。
次から次へと怒ってやりたい事柄が湧き出してきて、どうして自分は今までそういったことに腹を立ててあげられなかったのだろうと疑問に思う。
何だかもう本当に伝えたいこととはさっぱり関係の無いことにまで腹が立ってきて、エイヤフィヤトラは心の片隅でそんな自分に困惑する。
マグマのごとく耳が熱い。燃えるみたいに。
でもこれが病気の所為などではないことは、自分でもはっきり分かる。
だから、会いに行きたかった。話をしたい。彼の許へ行きたい。
「さあ、エイヤフィヤトラよ。話はこれで終わりだ。
妾はそなたを誘い、そなたはそれに乗ってここに来た。これまで通りではいられまい。なれば其方はこれから、どうする?」
答えは当然。
エイヤフィヤトラは立ち上がり、ワルファリンに頭を下げた。
「先生。私を、ドクターのところに連れて行って下さい。お願いしますっ!」
エイヤフィヤトラの剣幕は、普段穏やかで取り乱すことも殆どなく、誰に対しても物腰柔らかな普段の彼女を知っているものが見れば驚愕に目を見開いたことだろう。
勢い込んで頭を下げたため、彼女の牧獣のように柔らかな髪がふわりと宙に浮き、そして垂れる。急に動いたための立ち眩みだろう。ほんの少しだけ身体がよろけ、しかしエイヤフィヤトラはお構いなしに踏ん張って耐えた。
──若いな、と思った。
ワルファリンはルビーの瞳を細め、エイヤフィヤトラに見えないところで人知れず、慈しむようにその薄い唇を柔らかく曲げる。
この子はきっと今、ただ身の裡に巻き起こった衝動に突き動かされ、脚を踏み出そうとしているだけだ。
ドクターは、ドロシー・フランクスと関わりを持つようになってからこちら、アーミヤやケルシー、勿論ワルファリンもそうだが……そう言った者たちの理性的な反論や代案、そう言ったものの悉くを説き伏せてきた。
プロジェクトそのものの危険性や、ドロシー・フランクスが進めてきた研究を使うことの意味、ドクター自身が被るリスク、ロドスの未来についてに至るまで。
そのたびにドクターは、傍らから見ていて恐怖すら感じるような執念でもって、指摘された問題点を技術的、或いは運用法やそのほかの方法で克服してきた。
強行はせず、しかし誰にも邪魔をさせない。全ての手続きは合法的に進められ、理論武装は完璧で、彼らが推し進める新たな医療技術はいまや何一つ文句のつけようもない。
完成すればそれはまさしく人類の進歩となって、この地球に生きる感染者たちを救うための希望の夢となる。それは、目の前の少女も例外ではない。ドクターの研究を止めること、咎めることはそれ即ち、鉱石病研究に対する反逆となるだろう。
そうなってしまえば、最早彼を説得などできはしない。感染者を救うという命題に於いて義は常に彼の側にある。それはまさしく、ロドスが追い求めてはつかみ取れずにいた、鉱石病に対する明確な対抗策そのもの。
だが、今。ワルファリンはこのエイヤフィヤトラという少女をもって、ドクターとドロシーが進めるプロジェクトを批判しようとしていた。
確かに、夢のような話ではあるだろう。
今は例え治すことができなくとも、己の命は完全な形で保存され、鉱石病など最早治る病となった先の未来で再び目覚めることができるというのだ。
ただ病に喰われ、理不尽に喪われるはずだった生を、存分に謳歌することができる。
……本当に?
家族も知り合いも、暮らしていた街や国も、今月の給料も、明日の夕食も、何もかもがまっさらに無くなっているかもしれない未来に目覚め、いったい何を己の意味として生きるのか?
生まれてから今この瞬間までに得て、失い、積み上げ崩れた全ての人生を置き去って眠り、ただ命だけを永らえた不死者のごとき、動く死体のごとき生に、ヒトはいったいいかなる意味を見出せばよい?
ワルファリンはシステムチェアから「どっこらせ」と腰を上げると、隅に置かれたコーヒーメーカーにインスタントの粉末を適当に放り込み、スイッチを押した。黒い液体が抽出されるのを白衣のポケットに両手を突っ込んで眺めながら、「顔を上げて座るがよい、エイヤフィヤトラ」と未だお辞儀の姿勢のままだった少女に声かけた。
燃えるマグマのような、感情的にひた走る若さ。そして彼女の場合は、よりプリミティヴな感情。
ドクターに響き、その顔を上げさせるのは。
チェルノボーグで彼が目覚めたその瞬間、いやさそのもっとずっと前から、そういったモノだけだった。空虚な自らを愛することができないが故に、自らに向けられる個人的な感情にこそ、あの男は狼狽える。
ワルファリンは、己の中の不安を彼に吐露することができなかった。彼の狂気と執念の前では、一人のブラッドブルードの懸念など、砂粒の如き些事に思えてしまったから。ゆえに、もう彼女にドクターは止められない。
だが、少女は違う。
「VTOLは第八発着場から離陸する。必要だと思ったゆえな、既にひとり、協力者に声を掛けてもある。妾も共に行き手を貸す。だが、ドクターはそなたがひとりで止めねばならぬ。そなたにしか出来ぬ」
「ワルファリン先生、じゃあ!」
「手ごわいぞ、あやつは。ま、失敗しても死ぬわけでも怪我をするわけでもない。胸を借りるつもりで気楽に挑むがよい。いつもそうしているのだろう? エイヤフィヤトラよ」
「あ……はいっ!」
その心地良いまでの若さと一途さはきっと、ドクターを救うたった一つの冴えたやり方。たとえ己に遺された生が短く儚いものだったとしても、それは人間を老成させ諦観の裡に乾かす理由にはならない。
つまらない健康診断の担当医をきっちりまじめにこなすのも、たまには良いものだなと、帰ってくる頃には冷めているであろうコーヒーメーカーの中身を見ながら。
ロドスに身を置く乾き切った不死者は、小さく苦笑した。
▼△
ドロシーの長い耳がピクリと動き、煮詰めた蜂蜜のような色の地平線へと視線が向いた。
少し待っていれば、ドクターにもその音が聴こえてくる。夕陽の向こう側からやってくるロドスの作戦用高速輸送機の耳慣れた音が。それは見る見るうちに大きくなり、しかしドクターたち二人の近くに着陸するのではなく、その頭上高くを通り過ぎた。
通り過ぎた空に、小さな人影。それは、風を切って落ちて来ていた。重力制御アーツ要員をサポートに付けた、広範囲殲滅要員の無装備ヘイロー投下。ドクターのよく使う手だ。
そして、このタイミングでドクター達のいる359号基地にやってくるものなど、一人しかいない。
「高濃度アーツ反応。辺り全域をレンジにされているわ」
「対アーツ障壁を起動。全機を第Ⅲ実験棟の上空に集中して展開するんだ。他はいい」
ドクターの声色に、初めて微かな色が付く。
それは二人が待ちわびた者。或いは者たち。ドクターの授けた戦術を忘れていなかった後輩に、賞賛の笑みを浮かべた。
「ドロシー。頼りっぱなしついでに悪いが、恐らくアンジェリーナとワルファリンがいる。下手をすればサリアやサイレンス、最悪ミュルジスとナスティもセットだ。力づくで拘束されるのは困る。抑えてもらえるか?」
「勿論。私これでもね、悪役のノウハウがちょっぴりあるの」
ザラックの研究者は、その年齢と本性に似合わぬ天使のような笑顔でそんなことを言う。乾いた声で軽く笑って茶化すドクターに、頬を膨らませて反論するところすらまるで子供のようで。
けれど、実際の所。
今のドロシー・フランクスは、ドクターの為なら真面目な顔で世界すら敵に回すだろう。
「はは、笑える。君に悪役は無理だよ」
「あら! その言葉、あとで間違いだったって認めさせてあげるんだから」
「でも……いいの? ワルファリン先生がああまでして反対するなら、臨床に関する機密事項があの組織にリークされるかもしれないわ」
ドロシーが問いかけた、唯一の不安要素。二人が積み上げてきた夢を一撃で崩壊させる鍵は、彼らにとって致命的なアキレス腱となる筈だった。
男は暫く、星空を見あげたまま答えなかった。
沈黙が流れる。だが、それも一瞬のことだった。
「罪は償う。でも俺は、それでもこのテラに生きる人々の希望のはじまりになりたい。あの星の向こうまで行ってしまった、身勝手な偉人のように。
ワルファリンがあれに気付いていて指摘するなら、俺はそれを受け容れるつもりだよ」
ふいに、ドロシーは男が星空を見あげていた理由を察した。彼が見上げていたものを。
今やっと、二人は同じものを同じ地平に立って見つめている。だから、ドロシーは恥じることなく、男の言葉に返すことができた。
「なら、その時は私も一緒に罰を受けるわね。一人じゃ寂しいもの」
「子供じゃあるまいし」
「私が寂しいのよ」
「また、後でね」
「ああ。また」
端末を操作しながら歩いていく彼女に笑いかけて、男は空を見上げる。
濃紺の夜空は晴れ渡り、星々は眩いばかりに輝いている。あれらの幾つかには、こんな悪夢のような世界より少しはましな居住環境が広がっているだろうか……。
そして、空から
──空から火山が落ちてきた。
嗚呼、それは絶望の象徴。
我らヒトが畏れてやまない、やまなかったものたちの原型。
我らは畏れ、ゆえにこそそれらを解き明かそうと知識を接ぎ、継ぎ、注ぎ足してここまで来た。
神秘という名の死。決して逆らうことのできない死の波。太刀打ちできないもの。
それは海。
それは雷。
それは飢え。
それは……火。
無限の時を積み重ね、培った技術で克服したはずのものはいとも簡単に覆された。火は消えず、水は引かず、風は収まらず、病は治らない。
愛するものも、愛したものも塵となって最期には風に攫われ消える。そんな世界が嫌いだった。
ヒトは襲い来る厄災に抗えない。抗えないままにあまりにも多くの命が失われてしまったから、何時しかそれに抗うことすら忘れてしまった。そんな世界が異常だと、狂っていると声をあげることすら忘れてしまったようだ。
そんなヒトが嫌いだった。どうかしているとすら思う。身近にいる大切なひとが、明日の朝には黒い石となり果てて、友を殺す毒となっているかもしれない世界。
そんな狂った世界にあって、やれ差別が何だ、戦争がなんだと見当ちがいな憎しみを振りかざしては傷つき、その数を減らしていく人々が堪らなく嫌だった。それを救えず見守り続けるだけの自分のことは、最早殺してしまいたいくらいに憎らしかった。
だから、反逆しよう。
お前のような、抗いようもなく襲い来る熱は耐熱性のシェルターでやり過ごしてやる。
やり過ごした後で、お前の熱を使って引かない海を干上がらせてやろう。
冷やされた熱が作った石で、吹きすさぶ風などそよ風にも感じない
そうして作った楽園で、ただ眠って時を待てば病が治せる日が来ると、全ての人々を安心させてやろう。
反逆しよう。世界を作り替えよう。
そして、それが君の為の世界であると教えよう。
“カトラの火よ。”
耳元でごうごうと風鳴りが爆ぜている。
体中を剛風が打ち付け、ゴーグルをしていても目元に風を感じるかのようだ。
“エルドギャゥを割り、ヨークトルを割り、その姿を現そう。”
彼女──栗色の髪のキャプリニー。エイヤフィヤトラは落ちていた。
クルビア郊外の乾いた星空から、廃墟となった359号基地の施設が墓標の如く立ち並ぶ地上へ向かって墜ちていた。
上空にはVTOL輸送機。視線の先には明かりの消え、黒くいびつなシルエットだけが立ち並ぶ建物たち。
そこに居るはずのドクターやフランクス博士は、彼女の弱った視力では捉えきれない。
だが、彼女はその記憶に叩き込んだデータを思い出した。味方と敵の戦闘地域、その移動予測線。それを信用していれば、絶対に大丈夫。
それは世界でいちばんか、二番目くらいには信頼できる情報だと断言できる。何故ならそのデータの作り方は、彼女が世界でいちばん信頼している男に教えてもらったものだからだ。
予測地点に目を向ければ、その一区画だけはぼんやりと、いくつかの建物に灯りが灯っているのが見えた。
“土を割り、氷を割り、その姿を現そう──。”
降下装備もつけていない彼女では、十秒も経たないうちに地面に激突してしまうだろう。それでも少女は言葉を紡ぐ。彼女にとってその詠唱は、精神を集中させ、アーツの収束効率を高めるためのおまじないだった。
何かの呪文というわけでもない、ただ彼女の精神を安定させるためのルーチンワーク。
彼女は近づく地面に構うことすらなく、自らが移動都市に轢かれてぺしゃんこになったオリジムシのようになるかも、という危機も厭わず、父の研究室で読んだ旧い詩編に見たリターニアの自然の叙景詩、お気に入りの一篇の朗読を優先する。
なぜなら彼女──エイヤフィヤトラは。
「いきますっ。アンジェさん!」
≪降下地点に反重力展開中! いけるよエフィ、ドクターに見せてやろうよ!≫
すさまじい圧迫感をもって近づいてきていた地表が、ふと遠くなる。吹き付ける風が弱まる。
ふわり、暖かなアーツのにおいに包まれる。
身体が軽くなったような感覚。気を抜くと空中で宙返りしてしまいそうな軽さで、けれどきっとそんなことはない。エイヤフィヤトラは、彼女の友人のアーツのことも信頼していた。
──彼女はこれから、彼女が恋してやまない男の許へ落ちていくのだ。
≪アーツ起動、着弾まで5、4、3……指定地点に高エネルギー反応! 対アーツシールドだよあれ! 建物を護ってる……だめだ、ひとつだけ破壊できてない!≫
≪ま、当然防がれるだろうな。だがこれで目標ははっきりしたぞ。二人とも、あの建物が“スマラグドス”に利用する伝達物質を最終調整している建物だ。つまり≫
「あれを壊せば、ドクター達の計画はっ!」
濃紺の星空を赤黒く焦がして、無数に放たれた──ように見えて、実は綿密な計算のもとに全弾がエイヤフィヤトラの照準通りに着弾している火山弾が、明かりのついていた実験場の残滓を完膚なきまでに破壊する。
だが、その内の一棟だけはその火の中に在ってなおも健在だった。六重に重ねられた対アーツシールドが彼女のアーツを土壇場で防ぎきり、直後には小さな爆発音とともに装置が破損しシールドが消失する。
通信機から大音量で聞こえてきた声にエイヤフィヤトラが施設の破壊を問うと、ワルファリンからは直ぐに静止の声が飛んできた。
≪現状での破壊は禁止だ。これ以上の攻撃、戦闘行為は許可できん。あれを破壊すればドクターの歩みは一時留まるが、同時に多くの感染者たちの死を確定させる結果にも繋がる。
優先順位を間違えるでないぞ。我らはドクターと話をせねばならんのだ。武力で押さえつけては、我らはドクターに勝利したとは言えんぞ≫
≪エフィ、間もなく地上だよ。すぐそこにドクターもいる!≫
アンジェリーナの通信が入るのと丁度同時に、エイヤフィヤトラもそれに気が付いた。
黒いフードの男が、燎原の火の只中に立ち尽くしている。
燃える荒れ地の枯れ草が夜の平原を照らす中、男の周りだけが不気味なほど暗く沈んでいた。それはエイヤフィヤトラのアーツ制御の賜物であり、彼女がドクターやドロシーがアーツに巻き込まれるようなことが絶対にないよう慎重に計算と照準を行った故の光景であったが、彼女はまるで、男が自分からあらかじめその安全地帯の中に移動して待っていたかのようにも感じられた。
男はじっと、アンジェリーナのアーツの力を借りてゆっくりと降下してくるエイヤフィヤトラを見上げていた。手をコートのポケットに突っ込み、いつものように淡々とした感情を外に滲ませない様子でただ待っている。
一棟だけ残った実験施設を背にするその様子は、今この状況にあっては逆に異様で。
エイヤフィヤトラはつと、そこに立っているだけの男に言い知れぬ恐怖を感じた。それは、誰かが命の如く大切にしていた宝物を壊してしまったときのような。
絶対にするなと何度も言い含められていた禁を破ったかのような、そういう恐怖。
決して超えてはならない一線に近づいているのを、大いなる庇護者に見られているかのような。
そんな、感覚だった。
「──随分と大胆にやるじゃないか。私が最重要施設を防御する手段を持っていなかったら、どうするつもりだったんだい? エイヤフィヤトラ後輩」
ふわりと地に降り立つ少女に掛けられた声も、いつも通り粛々と、淡々としている。相変わらずエイヤフィヤトラには、彼が今何を感じ考えているのか、推し量ることはできなかった。
彼の許まで、あと十五歩。走れば駆け寄れるはずなのに、こんなに遠い。
「聞いたんです。ドクターが一番困るのは、策を講じるために行動したり言葉を使う前に制圧してしまうことだって」
「ああ、サルゴンの。あれは確かに困ったな……今でも、トミミを見かけるとあの時のことを思いだす程度にはね」
男は過去の思い出を呼び起こしているようだった。フードに覆われた後頭部に手をやり、やれやれと苦笑する。
だがすぐに、その視線はエイヤフィヤトラへと向けられた。
「いいのかい? プロジェクトの要である第Ⅲ研究棟は破壊できず、私はこうして君と話している。君の戦略的優位性は失われてしまったようだが」
「私は、先輩に勝ちに来たんじゃないんです。先輩に会いに、話をしに来たんです」
「そうか、嬉しいね。君がちょっと本気を出せば、私など何の抵抗もできずに制圧されてしまって、それで全てが終わりになるだろうから」
男は渇いた笑いを最後にして、その表情からゆっくりと色を消し、そしてエイヤフィヤトラに問いかけた。
「エイヤフィヤトラ。それじゃあ、用件を聞こう。何をしに来たんだ?」
「先輩。先輩とフランクス博士が進める“スマラグドス”という医療技術のプロジェクト、考え直していただけませんか」
普段、エイヤフィヤトラに接する態度とは全く違う。いつもは隣に居てくれる男が、今は彼女の正面に相対している。
けれどキャプリニーの女は一歩も引かず、はっきりと自らの意見を彼に告げた。男が僅か、仮面の向こうで微笑んだような気配を感じる。が、それは一瞬のことだった。
ドクターはエイヤフィヤトラの来訪にも、唐突に齎された破壊にも、大して心を動かしていないようだった。まるで全てが彼の想定内で、幾億通りの可能性が既に検討され尽くした後のような徒労感。けれど、それはもう了解の上だ。
エイヤフィヤトラは諦めない。そして、男は口を開く。
「エイヤフィヤトラ。もうすぐ、このテラにも夜明けが来るよ」
「鉱石病は死を待つばかりの病ではなくなる。死者が感染を蔓延し、人々がそれを怖れ、同胞の差別と迫害を続ける日々が終わる。
大切な人々が石へと変わっていくのを、ただ見ていることしかできない日々が終わる。
病がヒトの心を食い荒らし、荒らされた心がテラに不和と不信をまき散らす時代が終わる。
……私の、たった一人の後輩がくだらない石ころに音も光も奪われ、生きる意味も奪われ、そして死んでいくのを待つことしかできない世界は終わる。
この、狂った絶望のるつぼのような時代は終わる。私が終わらせる。
エイヤフィヤトラ。希望は確かに此処に在るんだ。
“スマラグドス”が、君を未来へと連れていく。君は眠り、十年、百年先の未来で目覚める。そこは鉱石病など、ただの治る病になった世界さ。君は身体に巣食う源石を取り除き、そして自らの生きたいように生き、生きるべき時間すべてを生き切ってから人生を終えられる。
それは単なる祈りでも、希望的観測でもない。ただ君を勇気づけるための嘘でもない。それは生きるための具体的な方策であり、方法であり科学技術だ。エイヤフィヤトラに、本当に渡したかった答えなんだ。
私が何十、何百と繰り返してきた下らない嘘と楽観を、もう君には伝えずに済む。逃れ得ぬ死を前に恐怖する人々を前に吐いてきた嘘を。君にだけは吐かずに済む。
エイヤフィヤトラ。君を死なせはしない。私が全てをかけた研究が、君の未来を繋いでみせる。
もうこれ以上、誰一人私の前で塵にさせはしない。
どうか受け入れてくれ。不安はあるだろうが、それでもだ。必ず成功する。私が保証する。
だから」
「もうこれ以上、私の前で死なせない。死なないでくれ」
ドクターの言葉は、それはエイヤフィヤトラに対する説得であると同時に、懇願だった。
差し出された手は救いのそれであると同時に、赦しを求め痙攣する指先だった。
男の成果と自信と確信と、そして苦しみと痛みとが、その言葉に詰め込まれている。エイヤフィヤトラの弱った耳と目は、音や光が生み出すノイズを越えて男の思いを鋭敏に受け取った。
男は自信に満ち溢れている。同時に、今にも倒れそうなほど疲弊しきり、心を消耗しきっている。
きっと彼に身を任せてしまえば、エイヤフィヤトラは助かるだろう。
遥か先、鉱石病が治る未来までを冷凍保存され、凍りの眠りのなかで過ごすことになるだろう。
エイヤフィヤトラは痛いほどに両手を握りしめ、歪みそうになる眉を必死に堪える。
震えそうになる唇をぎゅっと抑え込む。
迷ったからではない。すべきことは全て決まっていて、エイヤフィヤトラの心は決まっている。
その痛みは、己の裡にマグマの如く渦巻く怒りと。
目の前で微笑む男への──。
少女は、ドクターの方へと一歩を踏み出した。
閉じていた瞳を開く。
荒涼とした荒れ地に揺れる火を、塵交じりの乾燥した風が揺らしている。
藍色の空と、その向こうに消えた夕陽の残光が混ざり合う空を熱ぼったく滲ませる。
瞬く星と月を無様に切り取るトリマウンツのビル群は、此処には一つも存在しない。
地平線まで広がる荒れ地は、ヒトが生きていくにはあまりにも過酷すぎるけれど。同時に、ヒトが生きる場所には無い美しさと雄大さを内包している。
ドロシー・フランクスはトパーズの瞳でそれを見つめていたが、輸送機から降下してこちらに駆けてくる二人の人影を目の橋に捉え、そちらへと姿勢を向けなおして正対した。
ドロシーの背後には、エイヤフィヤトラによって破壊され尽くした施設群の中で唯一守り切った最重要施設。
彼女が開発した伝達物質をより人体の保存と維持に特化させた改良型。その最終調整を続けている、ターミナル・インキュベータ棟。
これを掌握されれば、彼女とドクターが推し進めてきたクライオニクス技術の完成は致命的なまでに遅れ、実質的な破綻を迎えるだろう。ゆえに、エイヤフィヤトラのアーツ火力も熟知しているドクターは他の研究施設や有用な資料全てを切り捨ててでも此処を死守するようにと指示した。
そしていま、未だインキュベータは稼働している。
つまり、ふたりの計画はまだ終わっていないということだ。
「ドロシー・フランクス。元ライン生命アーツ応用課主任、現ロドス第五研究区画主任にして準エリート・オペレーター……」
ドロシーの姿を認め、ふたりのオペレーターの足が止まった。軽く上がった息を整えながら、目の前の人物を確認するようにザラックの肩書きを述べる。まるで敵の大幹部を目の前にした、ファンタジー小説の正義の味方のように。
ドロシーは唇を楽し気に曲げ、微笑んだ。
「こんばんは、ワルファリン先生。そしてそちらの方は、オペレーターのアンジェリーナさんね? 初めまして。ワルファリン先生のご紹介の通り、私がドロシー・フランクスよ」
「え、あ、はいっ! アンジェリーナ、です……え、どうして私の名前知ってるの!?」
「ロドスに勤務してる方の顔と名前は、もちろん全員分暗記しているわ。こんな状況でなければ、ゆっくりお話をしたいところだけれど」
「ぜ、全員って、すご……」
絶句するアンジェリーナ。それもそのはず、ロドスにはオペレーターだけでも数百人は在籍しているし、ロドス・アイランド製薬に勤務している者ともなれば千人を超える。
ドクターやアーミヤ、ケルシーなどの首脳陣であればともかくとして、目の前の女性が職員全員の顔と名前を記憶しているというのは。
それはもう、感心や賞賛というよりも。
焦れた様子のワルファリンがアンジェリーナを静止し、ドロシーへ向けて本題を切り出した。
「安心院よ、今はそのことはよい。こやつは元々そういう人間なのだ。で、フランクス博士。
そなたの後ろにある施設だが、そなたとドクターが進めるスマラグドス計画の中核をなす伝達物質、その培養器で間違いないな?」
「ええ、その通り。最終調整が終わるまで、あと十七分とすこし。それが終われば改良型伝達物質“オズ”が起動して、自己培養と自己保管プロセスを開始するわ。
数年は掛かる見込みだけれど、その程度時間があれば、テラに生きる感染者全ての体内を満たせるだけの量が生成されるでしょう」
ドロシーは視線を一度自分の背後へと向けて、ひとつだけ残った建物を示す。
ワルファリンとアンジェリーナの視線も、自然とそちらに誘導された。決して大きくはないドーム型の施設は、廃墟と炎だけがまばらに散らばるこの実験場跡において唯一明かりを灯している建物だ。
「……技術を作ったとて、それをどう普及させる? そなたの言う通り、斯様な医療技術を積極的に受け入れるような国はそうあるまい」
「そうね、スタートラインはクルビアから。
ライン生命の技術としてスマラグドスを発表して、たとえ開拓者であっても手の届くような料金で処置を受けられるようにする。治療の過程や、眠る患者が安全に保存される様子も全て公開する。感染者が安心して頼れる医療技術であることを浸透させていくのよ」
「金は? そんなことをしていれば、テラ中にそれを広める前にこちらが行き倒れてしまうだろうが」
「勿論、私たち自身に余計な利益は要らないわ。チャリティ事業としての“スマラグドス”が認められたら、その技術はオープンソース化するつもりよ。これ、クルビア政府とマイレンダー機関、ライン生命とドクター連名の業務締結書ね。確認する?」
ドロシーが手元のタブレットを操作し、画像ファイル化された書状をワルファリンに示して見せた。ブラッドブルードの医師が手を振って「偽造でもあるまい」とそれを辞する。
ひとつ息を吐いて、ワルファリンは質問を続ける。
「眠る患者はどう保存する? そんな莫大な数を」
「それも大丈夫。ドクターがクライオニクス患者保存用移動都市の設計プランを既に完成させているから、これも並行して進めるわ。
建設に関わるビジネスはさぞクルビアを潤すでしょう。だから政府が断る理由は無いし、そのための根回しも既に始まっているわ。各地の開拓者問題も解決できて一石二鳥ね」
「なるほど。なら視点を源石に移そうか。あの黒い石が冒すのはヒトの身体だけではない。頻発する天災によって結晶化していく大地はどうする。死にゆくヒトを保存するだけでは、この星は救えんが」
「そうね。それは本当に耳の痛い話だわ。でもそれは今後もこの地で生きていく人々が立ち向かう問題であって、私たちロドスが立ち向かうべき別の問題でしょう? ここで議論するべき話題ではないと思うの」
「斯様な超技術を、素直にクルビア政府をはじめとした各国が『素敵な医療技術ですね』と利用するとは思えんが。厄介な軍事技術に転用され、国家間のバランスを崩す可能性については考えなかったのか?」
「元は平和な世界を創るための技術が、悲しくも戦争のために利用されてしまうケースはよく耳にするけれど……ワルファリン先生。あなたは戦争を防ぐために、人類は技術の歩みを止めて石器時代に回帰するべきだと思うのかしら」
ワルファリンが投げかける全ての批判的質問に対して、ドロシー・フランクスは一度も狼狽えることなく流暢に受け答えをしてみせた。
医師は大きくため息を吐き、肩をすくめてみせる。こうした質疑応答がドクター達に対して行われたのは、一度や二度のことではない。そのたびにドクターはアーミヤを、ケルシーを、ワルファリンを説き伏せてきたのだ。
なんらか襤褸を出さないものかと今一度言葉を投げかけてみたが、ドロシーもワルファリンらの言い分は完璧に熟知しているようだった。
敗北だ。医師はあっさりとそれを認める。
「一応訊いておくが……その施設を、こちらに明け渡すつもりはないな?」
「面白いことを仰るのね、ワルファリン先生。“スマラグドス”はロドス・アイランド研究開発部、医療運営部の双方に認可されている、正式な新医療技術のプロジェクトよ? その中核技術を明け渡せ~だなんて、言われて簡単にできる筈がないでしょう?」
ころころと鈴を鳴らすような声で、手を口に当てて本当に楽し気にドロシーは笑った。
「手続きとして、そちらがなんら不正を働いていないのは理解している。だが、実際に治療を受ける感染者の思いを聞き、妾はそなたらが推す新たな医療技術が末期感染者の意を汲むものではなく、不本意な結果を齎すものとなると確信したのだ」
「誰もが待ち望んだ、鉱石病による死と病原の拡散を防ぐ技術なのよ? 私はともかく、鉱石病患者の苦しみを誰よりも理解してるドクターが選び、そして完成させたの。
痛みと苦しみと差別によって不当に終わらせていたはずの沢山のいのち。それをこれからは救い、未来に希望を託すことができるのが“スマラグドス”。
今は不信感が募るのも仕方ないわ。だって未知の医療は怖いものだし、人は知らないものを積極的に受け入れたくはないものだもの。
けれど最後には、誰もが納得する方法であると私も思っている。
あなたの意見はごく個人的な種族的経験に基づいた不安感からくる、衝動的なものだと思うの。
だから安心して? ワルファリン先生」
「知ったようなことを言いおって。そなたのそういうところは、一年前から何も変わらんな」
「歩み寄って知ろうとしなければ、他者の何を知ることができるというの? ワルファリン先生。それとも、私の推測は間違っていたかしら?」
ドロシーは涼しい顔でワルファリンの詰りを流し、穏やかな笑顔を崩すことなくそう言い返した。
ワルファリンは己の眉根に指をあてる。白衣のポケットに突っ込んだ手が、そこに在る携帯端末を無意識のうちに撫でる。
「肯定はすまい。が否定もすまいよ。このブラッドブルードという種族に背負わされた宿命だからこそ、其方らの進める“スマラグドス”はヒトから正しき生を奪う行為に思えてならんのだ。
“幸せ”とは何かを定義する際、それを他者の基準や価値観に委ねることが本当に正しいことなのか。そここそが、科学技術の及ばぬヒトの感情によって彩られる禁域ではないのか。そなたらは、そこに土足で踏み入っていると思えてならんのだ」
「そう。なら──ドクターの感情は?」
ザラックの研究者の声が、そこで初めてトーンを落とした。
ワルファリンがはっとして顔を上げる。眼を見開き、目前に立つ相手を見つめる。
ドロシーはもう笑っていない。
「何も分からないままに鉱石病を、それに冒されたテラを相手に戦う業を背負わされ、死にゆく患者たちにひたすら恨みと絶望と、恐怖と悲しみを一身に託され、それら全てを棄てることも忘れることもできないまま前に進み続け、誰とも分かち合うことはできない。
どうしようもないほどに一途な、一人の人間のことを感染者たちの安寧と天秤にかけて、やはりあなたは蔑ろにするの?」
それまではずっと湛えていた笑みと優しさを消してにわかに冷たく、淡々と厳しく。それは今までワルファリンが聞いたこともないようなドロシーの声。
彼女は怒っていた。
彼女の従える小型のドローンたちがどこからか十数機ほど集まってきて、彼女の後ろに整列し、微かな振動音と共に砂を巻き上げはじめる。
手袋に覆われたドロシーの手が、彼女の持つタブレットを強く抱きしめた。
「ドクターはもう限界だわ。もう心が擦り切れてしまっていて、なのに自分では止まれない。彼が育て上げてきたロドスが皆にとって居心地のいい場所になればなるほど、ドクターはその裏に生まれる痛みと悲しみを独りで背負い続けていく」
あなた達はそれを知っていて、誰も止めようともしなかったのでしょう? と。
ワルファリンはその詰問に、ついに口を噤む。
後ろで、アンジェリーナが息を呑む気配がした。ドローンたちが巻き上げた砂は局所的な嵐となり、ワルファリンたちと研究施設との間に巨大な壁を作り、両者を断絶した。
嵐の中から、ドロシーの声が響く。
失望と絶望の色が、透き通った甘やかな声に深い影を落としていた。
「……応えられないのね。残念です。
もう一度言うわ。此処は通さない。ドクターは止めさせない。
私たちはなんらロドスの定める規則を破っておらず、不正は行っていない。
今すぐ本艦に戻ってください。これ以上新規医療技術プロジェクト実験の妨害をするなら、あなた達の業務妨害行為をロドス・アイランド第五研究区画の主任として、強くアーミヤCEOに訴えさせていただきます。
私は“ロドスの”準エリートオペレーター、ドロシー。この場に於ける権限は、あなた達よりも大きいわ」