喜びとは目的を暖め続け、知性を輝かせ続ける神聖な炎である。   作:Alphecca

5 / 7
喜びとは目的を暖め続け、知性を輝かせ続ける神聖な炎である。Ⅴ

SmaragdOZ


 

ploject 32618 OR-1099

PiC: Dr. / Dorothy Franks

CLEARANCE LEVEL 8 (TOP SECRET)

REGISTRATION TRIAL LOG No.001-098

 

PCP:Dr.

subject:Dorothy Franks

 

.

.

.

 

 


RHODES ISLAND Pharmaceutical Co.

 

 

 

 

▼△

 

 

 

 

「──この計画には、一つ致命的な問題点があった。それは、スマラグドスを各国に認可させるために必要な治験データはそうそう簡単に集まるものではない、ということだ」

 

 男のやせた体は、まるで葉をすべて落として老いさらばえた老木のようだった。背や肩幅はアデルよりも大きい男のそれだけれど、しかし彼女は苦労することなく彼を抱きしめたまま支えることができた。

 それが悲しくて、彼女はそっと、自らの眉根に力を込めた。

 男は抑揚をつけ忘れたように淡々とした言葉で、自らの最奥にあるものの懺悔を始めた。

 救い主などいない荒野の只中で、ただ一人だけがその告解を受ける。

 

「まず被験者の問題。ロドスで治療に励んでいる鉱石病感染者を治験の被検体にするなど、言語道断だった。私もドロシーもこの点では意見が一致していた。

次にデータ収集に掛かる時間。一般的な医療技術を政府に認可させるための治験データは、約十年ほどかけて膨大な量を収集する。しかし私たちはそんな時間を待ってはいられない。スマラグドスは既に破壊された体機能を再生することはできない。

君が聴力や視力を失った後で『凍眠』したとして、起きた時に目や耳は治っていないんだ。それでは意味がない。

……だから私たちは可及的速やかに、大量のデータを集めなければならなかった」

 

「ドロシーは直ぐに解決策を提案してきた。『血液の代わりに伝達物質を循環させている自分の身体を使えば、通常なら有り得ないような頻度で治験をおこなうことができる』と。

彼女の体内を流れる伝達物質に源石を疑似感染させ、ごく短い間スマラグドスで眠らせ、そして覚醒させる。

眠っている間の自律治療と、覚醒させた後の病状の進行度。前者は伝達物質がスタンドアロンで記録を残しつつ進め、後者は私がその都度検査をする。感染した伝達物質はドロシーの体内から抜き取り、正常な伝達物質を注入する。

こうすればドロシーの身体は再び未感染の状態に戻り、次の治験にもすぐに移れるようになる」

 

 アデルは男の背をさすりながら、言葉を発さずに相槌を打って言葉の先を促した。そのおかげか、男は弱々しくも話を途切れさせることはない。

 本当は、言葉をかけてやりたかった。けれどそれはできなかった。

 ふたたび零れ落ちそうな涙を堪え、声を出さないようにするので精一杯だったのだ。

 ドクターとフランクス博士は、スマラグドスを完成させるために二人とも同意の上で道を踏み外していた。それも、彼ら以外が傷つくことのない、しかし彼ら自身の身体と心が惨たらしく切り刻まれていくような方法で。

 彼の口から語られた、倫理という言葉を地平の彼方に置き去りにしたかのような実験の概要。

 それがヒトを、テラを救うという大義の名のもとに二人の間で取り交わされ、そして実行されたという事実が彼女を心底震え上がらせていた。

 一体、どれだけの思いを胸に抱えて、ドクターとフランクス博士は今日この日に至ったのか。

 鉱石病感染者たちや、或いはアデルを救うためになら、文字通り二人は自らの命や心がどうなってしまっても構わないと突き進んでいる。使命と、責任と、夢が彼らを狂気の檻に深く閉じ込め、そしてここまで来させてしまった。病的なまでの執念が成し遂げた一つの偉業。

 アデルは自らの唇をつよく嚙み締めた。自分は今、それを彼に手放させようとしているのだ。

 その意味と、彼を苛む苦しみに触れた。

 

 そしてその一方でアデルは、男の話からあることに気が付いていた。

 それは大した確証もない直感のようなもので、彼らが目指した世界を救うような壮大な目的とはかけ離れた、ひどく俗っぽい思い付きだった。

 けれど、不思議と彼女には確信があった。

 男の狂気と絶望に向き合うのではなく、寄り添うことを選んだ一人の女の思いをそこに感じたのだ。文字通り彼に身体を捧げてでも自分の夢を、彼の責任をひとつの成果に成そうとしている一人の女の、壮絶な想念を。

 アデルは身体を少しだけ離し、ドクターと真っすぐに目線を合わせた。宵闇の中でも、その黒い瞳がいやにはっきりと見定められた。

 ドクターは自ら少しずつ体をずらして、彼女の抱擁から離れていこうとしていた。

 彼は微笑んでいた。眉を歪め、不出来なカリカチュアのようにむりやり唇を曲げて笑う。

 

「私は反対したが、それ以外に方法がないことも既に分かっていた。ドロシーの説得は理性的で、私の反論内容は人道や倫理に基づいた感情的なものだった。

何より……そうしなければアデル、君を病から救えない。君にはあまりにも時間がなくて、それは私たちにとっても同じことだった」

 

「私は私の責任で以て、ドロシーに九十八回もの実験を行い、その全ての記録を取った。

鉱石病を治すために、大切な友人をそれだけの回数、鉱石病に感染させた。

アデル。分かっただろう? 私はヒトとして許されてはいけないことをしたんだ。スマラグドスは必ず沢山の人々の悲しみを救い、凍眠装置の中に包んで一筋の希望に変えてくれる。だが私の悪行はそんなことで帳消しにならない。

私は沢山の人々の信頼を、“また”裏切った」

 

「先輩、そんなことは」

「滑稽じゃないか。決して消えない罪と共に呼び起こされ、その罪ももう償うことは叶わない。目覚めてから今まで救えた命など両手の指で足りるほどで、目の前で死なせた命は最早数えることすらできないほど膨れ上がった。その果てに、鉱石病から人々を救えと皆の期待を背負った裏では友人を九十回以上も感染させた。何度も、何度も。あの黒い石に、生きている命をこの手で浸したんだ。

チェルノボーグで目覚めてからずっと、私の耳の中で響いていたのは……俺の心の中で響いているのは、死にゆく者の痛みの声と……『なぜ救うことも贖うこともできないのか』という、終わらない拷問のような後悔と憎しみの声だけだ!!」

 

 引き裂くような慟哭を残して、懺悔を終えた男が離れていく。ゆっくりと、彼が。

 彼の上腕を支えていた手が、離れる。男の足が荒野の地面を踏み、耳障りな音を立てる。

 離れていく。冷たい風が二人の間を抜けて、さっきまでそこにあった暖かさを連れ去ってしまう。

 アデルは言葉を発しようとして、失敗した。伸ばそうとした手が空を切って、迷った唇がぱくぱくと何かを紡ごうと震える息だけを吐き出して、震えて止まる。

 あまりにも深い、深い暗闇を歩き続けていた男の地獄を理解しようなどと、余りにも烏滸がましい。アデルが自らの想いを、生きる意味を総てぶつけてようやく、男はその身の内に渦巻く絶望を彼女にぶちまける。

 無駄だったのだろうか。

 彼を救い出すことなど、ただ一介のヒトに過ぎない自分にはできないのだろうか。

 どこにでもいる鉱石病患者の女が、ただ思慕を吐露したところで、意味などなかったのか。

 身体から力が抜ける。

 これが、貴方の背負ったもの。

 

「百年後に目覚めたって、君の生きる意味は無くなったりしないさ。私がいなくたって、君はちゃんと幸せになれる。私はもう無理だ」

 

「無理なんだ。だからさ、今日いま此処で──」

 

 やめて。

 やめて。

 言わないで。

 行かないで。

 そんな表情で。

 そんな、今にも崩れて消えてしまいそうな笑顔で。

 

「──お別れをしなければ」

 

 

 

 

「アデル。私にはもう、幸せになる資格がないんだ」

 

 

 

 

「──ッッ!!」

 

 かっ、と全身が熱くなった。アデルはほとんど何も思考せず、反射のように右手を振り上げた。一瞬前まで、そんなことをしようなどとは露ほども考えていなかった筈なのに。これまでの生涯で一度たりとも、そんな衝動を覚えたことはなかったのに。

 ぱしん、と乾いた音がして、彼女は男の頬を張っていた。

 身体は勝手に動いた。誰かに平手打ちを見舞ったことなどないのに、彼女の右手はドクターの横面を強かに打ち据え、そしてそのまま振り抜かれた。

 ドクターは驚愕の表情のまま二、三歩後ろによろけ、そして尻餅をついた。自分が何をされたのか分からないというように、自らの頬にゆっくりと手をやっている。

 そんな彼にますます腹が立った。

 心臓が痛いほどに鼓動を続けている。右掌が痛い。

 顔が熱くて、燃えてしまいそうだった。心臓が鼓動するたび滂沱のように瞳からマグマが零れて、頬を流れてはぽたぽたと地面に落ちているかもしれない。

 ドクターの言葉が許せなかった。ドクターのしようとしていることが絶対に許せなかった。もう自分がスマラグドスによって眠りに就くとか、彼がドロシーの身体を使って非道な人体実験をしていたとか、世界が救われるとかどうとか、どうでも良かった。

 

 ただ、彼が自傷の如く呟いた言葉が。先刻から繰り返し、己に杭打つように零されていた言葉が。

 アデルの、或いはドロシーの想いさえも踏みにじるそれだけは絶対に許してはならないものだった。

 閉じかけた口を開いて叫んだ言葉は、彼女の身体の一番奥、マントルの最奥から脳を介さず直接喉に叩きつけられ、そのまま吐き出される。思い慕い、そして尊敬する男に激情と言葉をぶつけた。敬語すら付け忘れたそれは、彼女の怒りだった。

 

 

 

 

「私の大好きな先輩に『幸せになる資格がない』なんて、言わないで!」

 

 

 

 

 男は、暫し息をすることを忘れた。

 地面にへたり込んだ自分の両肩をしっかと掴んで、アデルは自らも屈みこむ。目の前で爆発する赤熱した怒り。真正面から叩きつけられる、それ。

 栗色の髪を振り乱し、ぼろぼろと涙を零しながら、少女は叫ぶ。

 初めての経験だった。こんなにも怒られ、そして想われているのだと否応なく実感させられる。

 

「どうして独りぼっちになろうとするの」

「先輩と私は、同じ時間を生きているのに」

「どうして貴方だけが、まるでこの世界に生きる皆とは違うみたいに、誰にも頼らず進んでいってしまうの」

「そんなに私が頼りないですか」

「私は未だ、先輩にとって只の患者の一人ですか」

「悪いことをしてしまったなら、私と一緒に謝って、許してもらえるよう頑張るだけのことが、どうしてできないんですか」

「『助けて』って、たった一言言ってくれないんですか」

「幸せの資格とか、格好いいことばっかり言って」

「許されることが怖くて、逃げてるだけじゃないですか」

「極端な考えに逃げこんで、“皆”に手を伸ばして助けを求めるのが、怖いだけじゃないですか」

 

 雨のように降り注ぐ叱咤の溶岩流が、叩かれた頬の痛みと熱をぼんやりと浮かび上がらせている。

 突き刺さる言葉の全てが、ただひたすらに男を想い真正面から彼に向き合う、一人の女としてのそれだった。アデル・ナウマンは心の底から、ドクターではないただの名無しの男を愛しているのだと。

 肩を掴んで揺り動かし、絶望に囚われていた男を強引に目覚めさせ、泥にまみれた思考に水を浴びせ、現実へと引き戻す。ドクターは自分が口走った言葉を思い返し、そしてそれに驚愕した。自分の中に渦巻いていた、言語化されないままの真意を引きずり出されたことと、そこに叩きつけられた目の前のキャプリニーの想いに。

 それは実にシンプルな答えだった。お別れをしたくないのは、あなたが好きだから。幸せになって欲しいのは、あなたが好きだから。

 そんな、夢のような、御伽噺のような情が。

 本当にまだ、この世界に?

 

 目を閉じる。

 そして開く。

 瞬きをする。

 目の前には彼女がいる。

 

 

 沈黙。

 

 沈黙。

 

 沈黙……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 驚愕のあとに訪れたのは、ただ。

 

「……ごめん」

 

 キッとつり上がった、涙にぬれたローズグレイの瞳に睨みつけられる。そんなアデルの表情を見たのは初めてのことだった。

「許しません」

「ごめんよ」

「やだ」

「失言だった。君の思いを……私は、理解できていなかった」

 認めざるを得なかった。

 これでは、彼女は幸せにならないのだと。スマラグドスでは幸せになれない誰かが、この世界にはいるのだと。

 男は反省した。逃げているのだと指摘されれば、その通りだった。

 ドクターはずっと逃げていた。

 あの、ロンディニウムのあの日からずっと。許されることから逃げ続けていた。

 

 

「たとえ明日、粉塵になって死ぬとして……世界の何処かに、今の君と私のような気持ちを抱き、今この時この世界を生きていたいと考える人たちが、本当にいるのか」

「います。絶対にいます。それはきっと、何でもないありふれたことだから」

 

 

「こんな、絶望に塗り固められたような世界でも?」

「こんなに、希望に満ち溢れた世界だから」

 

 

「そうか……。」

 ドクターは宙を見上げる。双月が二人を明るく照らしていた。良く晴れた、星も明るい荒野の夜だった。

「私は。俺は、幸せになりたいと願っていいのかな」

「誰もが怖がりながら、見えないなら手を引かれて、聴こえないなら手に文字をなぞられて、“みんな”と一緒に歩いていくんです。先輩。例え絶望に塗れた暗闇の中でも、私が貴方の歩く道を照らす火になります」

 後輩が口にしたのは、いつか教えた男の詭弁。

 詭弁だと思っていたこと。手を握られ、彼女の身体の重みを感じながら囁かれてみれば、なるほど確かに救われる言葉だった。

 “みんな”。

 少女は男を、その輪のなかに迎え入れる。

 この大地に生きとし生ける者らの裡に、もはや男は遥か外から来た侵略者ではないのだと。

 

 男はそして、テラの一員になる。

 

「アデル」

「はい、先輩」

 黒い、光を吸い込む事象の地平面。死者と絶望を一身に背負った男の瞳。キャプリニーの女を真っすぐに見つめるその瞳に、彼女も応えた。

 

「俺は、自分で言うのもなんだが面倒な男だ」

「はい。分かってます」

「甲斐性もない。給料も、実は皆が思うほど貰ってない。休みもなければ休暇もない」

「今まで通りにお話しできるだけで、充分です」

「ロドスにいれば、アデルなら間違いなくもっといい物件に巡り逢うよ」

「それは絶対にありません。というか、それについては私が決めることです!」

「……そうか。あとは、俺もいつ唐突に命を落とすか分からないよ。どこかの、何でもないような戦場で」

「その時は、私も一緒です」

「返しが上手くなったね、アデル」

「えへへ。先輩の後輩ですから」

 えくぼを作ってはにかむ少女の頬を見ていると、男は自らの裡にずっと響いていた怨嗟の声がようやく、そのささやきの全てを止め、彼の肩を離して離れ、去っていく。

 本当に、ほんとうに久々の静寂が戻りつつあった。不思議な感覚だ。長らく忘れていた感覚。

 

「アデル、ありがとう。自分に幸せになる資格がないだなんて言って、悪かった」

「あの、私も……先輩のこと、叩いてしまって……」

 波立っていた感情が多少落ち着いてきたところで、今更のようにしどろもどろと「痛かったですよね」と謝罪する後輩に、不思議と胸が暖かくなる。そういった感情にももう、向かい合うべき時が来ていた。

「いいんだ。君の怒りは当然のことだから」

 ドクターは地面に座り込んだままで、アデルの背中に腕を回した。抱き寄せるためにそっと力を込めると、後輩の身体はにわかに硬直した。しかし、間もなくその体重は男の胸に預けられる。

 ぴこ、ぴこ、と小刻みに動くキャプリニーの柔らかな耳が、ドクターの視界で揺れ動いている。

「あの、先輩……?」

「アデル、助けてほしい。俺の大切な友人に謝りたいんだ。それに……彼女の想いにも、俺は答えを返す責任があると思う」

 女の身体が再び小さく跳ねた。男の言葉は、彼女がずっと、ずっと待っていたものだった。

 男はいまやっと求めた。自らが本当に目指すべきであった目的を暖め続け、そのための知性を輝かせ続ける神聖な炎を。そして、それはずっと目の前にあった。

 

「はい……はいっ、先輩!」

 

 

 男の端末に表示された時計が示す。十七分が過ぎ去ったことを。

 二人の後ろで轟音と共に爆発が起こり、辺りをエメラルド色の燐光が染め上げる。その方角を見つめて、ドクターは立ち上がった。手を伸ばし、アデルが立ち上がるのに手を貸した。

 

「行こう、アデル。スマラグドスを……ドロシーを、止める必要がある」

「はい。先輩」

 

 

 

 

 時は、十分前に遡る。

 

 

 

 

「──ああ、そっか」

 アンジェリーナはそして、不意にぽつりとつぶやいた。

 

 呆けたように、けれどこれで間違いないと確信するように。どれだけ力を込めても解けなかった雁字搦めの結び目が、ふと何でもない拍子に解けてしまってぽかんと仰天するように。

 彼女には、今相対するザラックの研究者とワルファリンの学術的な話はほんの少ししか理解はできなかった。前もってワルファリンから告げられていたことと併せても、正しい、正しくないの境を見極めることはできない。

 けれどそれらの小難しい話とはまったく別の所に在る、ドロシーの奥底にある気持ちがふいに読み取れてしまった。

 

 グローブを嵌めた手を目の前に翳して、荒れ狂う砂の壁を見上げる。

 低く唸るような振動音と共に、ドロシーのアーツは決して二人をその先へは通すまいと、その向こうで何が起こっているのかすら見せはすまいと立ちはだかる。流動し、荒れ狂い、きっと無理に立ち入ればヒトの生身など絶対に無事では済まないだろう。

 其処で起きているすべてが、ドロシーの瞋恚を雄弁に表しているかのようだった。誰もがドクターを蔑ろにした。感染者とそうでない者たちの安寧の為に、彼ただ一人だけがロドスという巨大なクジラの犠牲になり続けたのだと。

 喉を嗄らして弾劾していた。あれだけ穏やかな雰囲気を崩さなかった彼女が、まるで別人のように。

 それは、とても、どうしようもなく身悶えしたくなるほどに。

 

 分かりやすく、単純なことだ。

 

「おい、安心院! それ以上近寄るな、今のあやつは近づくものを本気で排除しに──」

「ううん、先生。違うよ。そうじゃないの」

 

 瞠目して叫ぶワルファリンに、けれどこの声は聞こえないかもしれないな、とアンジェリーナは思った。

 

 自分はなぜここに来たのだろう。何故自分がワルファリンに呼ばれ、それに応えてここに立っているのか。アンジェリーナは考える。

 大切な友人であるエイヤフィヤトラを助けるために?

 あるいはドクターたちが為そうとしていることが間違っているのだと、異を唱えるために?

 はたまた大切な仲間である皆が仲良くこれまで通りに過ごしていけるよう、手を貸すために……?

 

 そのどれもが正しい。しかし、それだけではなかった。

 

 友人がドクターに、その身を張って伝えたいことがあるという。ならば私は全力で以てその手助けをしよう。彼女の背に翼を与え、空を舞わせ、彼女の前に立ちはだかる障害を打ち払わせよう。

 エイヤフィヤトラが好きだから。

 ドクターが、その責任感の余り己の身と心を省みず、感染者の幸せを省みない方法で彼らを救おうとしているという。ならば私は全力で以て、彼の間違いを正して見せよう。彼の心をふわりと浮かせ、重たい鎖から解き放とう。

 ドクターの目指す平和が、好きだから。

 

 ロドスが好きだ。此処では誰もが笑っている。誰もが好きなように怒ってよく、心のままに悲しんでよい。好きなものを好きと、嫌いなものは嫌いと言ってよい。その上で、本来あるべき道徳によって、誰かを傷つけるかも知れないそう言った心を慎んでよい。

 此処に、鉱石病によって捻じ曲げられた常識は存在しない。感染者だからと、健常者だからと、本来ある筈だった喜びや幸せや、怒りや悲しみを堪える必要はない。

 ロドスは普通だ。ロドスには普通の生活がある。

 それが、アンジェリーナは心の底から好きだ。

 

 きっと、それらはドクターたちの血を吐くような努力と苦しみの果てにようやく出来上がった居場所だ。

 決して無から生まれた拾い物などではない。犠牲は、確かにここにもある。

 ドロシーはそれに、誰よりも早く気が付いたのだ。ずっと昔からロドスに居た誰もが見て見ぬふりをした痛みを、彼女は看過することができなかった。

 感染者に齎された幸せが誰の犠牲によるものかを、声高らかに告発せずにはいられなかった。

 

 安心院・アンジェリーナは感染者だ。オペレーターとしての彼女にとって、ドクターは信頼できる上司であり、感染者である自分をよりよい未来へ導いてくれる先導者であり、そして地位の差を感じさせない気さくな友人でもある。

 時折オペレーターとして召集されたり、トランスポーターの仕事を言いつけられたり、もしくは単に食堂や廊下や会議室で、彼の姿を見かけたり。

 ドクターの作戦指示は安心して従ってよいものと思える。ドクターの言いつける仕事には必ず物事をよりよい方向へ進ませる意図がある。ロドス内でオペレーター達と談笑する彼は、とても楽しそうに見える。

 彼女はロドスに住まう、ただの感染者。ロドスとドクター達の庇護のもとに生きていた、ただの少女。それが今、ドクターがどれだけの思いをしてこの場にいるのかを知り、只の感染者ではなくなったアンジェリーナだ。

 だからこそ、目の前のザラックの研究者がどれだけの思いを抱えて其処に立ち、自分たちをしっかと睨みつけているのかが痛いほどに分かる。

 新たな医療技術や、感染者の未来や、そういったあれそれを全て抜きにした後に残ったもの。

 私たち“普通の感染者”が、ともすれば誰も皆がドクターに抱く想いと、それは実はさして変わらない。

 

 後方でワルファリンが必死の形相で何かを叫び、しかし砂と暴風が彼女を阻み、押し戻した。アンジェリーナは己の周りに重力操作のアーツを走らせ、叩きつけるような砂嵐を和らげながら進む。

 例えアーツを使ったとしても、唸りを上げる砂をわけて進むのは生半可なことでは無かった。砂粒の一つ一つが身体に穴を穿ち、削り、風化させ、崩壊させようとしてくるかのようだ。

 ドロシーのアーツは、凄まじかった。

 耳を聾する振動の唸りは、アンジェリーナの集中を乱しアーツを攪乱する。足が砂に沈みそうになるのを、必死に自らの力場を維持して己の体重に掛かる重力を減らすことで堪える。

 吐き気と頭痛が凄まじい。脳が揺さぶられ、自らのアーツが散漫になる。ドロシーの力はどう考えても、砂を操るだとかそういったものとは違う。もっとずっと、根本的なものだ。

 

 それでも、一歩。また一歩と彼女は進んだ。

 なぜか。何故自分はそこまでするのか。“自分はなぜ、此処に居るのか”。

 アンジェリーナは考え続ける。最早空気を震わす振動は彼女の意識をすら刈り取らんばかりに強くなっている。考えるのを止めれば、そのまま彼女は意識を失うだろう。

 答えは出ない。彼女はドクターやワルファリン、ドロシーのように賢いわけではなく、エイヤフィヤトラのようにその命を懸けるマグマのような信念を持っているわけでもなかった。

 けれどそれでも、今この状況が掛け違えた衣服のボタンのようにズレていて、間違っているのだと。それだけは断言できる。

 

 ドロシーに伝えなければならない。彼女が自らの想いに気付いていようと居なかろうと、これが安心院・アンジェリーナの此処にいる意味だと定め、彼女は進む。

 

「……なぜ? どうしてそこまで頑張るの?

あなたにも分かるでしょう? 逃れ得ぬ死を越えて、希望をもって眠りにつくの。それが、どれだけ幸せなことか」

「ううん、そうじゃないよ」

 そして、アンジェリーナはボロボロになりながらドロシーの許に辿り着いた。

 困惑した様子で、しかしドロシーはアーツの過負荷によってふらついた彼女に手を伸ばし、両手で腕をとって支えた。傷つけるつもりは毛頭なかったが、意識を奪うくらいはするつもりだった。

 ドロシーは本気だった。が、アンジェリーナはここまで来た。それがザラックの研究者を深く混乱させる。

「鉱石病がどうとか、“スマラグドス”? がどうとかじゃないの。そうじゃなくて。ほんとはそのプロジェクトが正しいのか悪いのか、私には全然分かんないし。でも」

 

「でも私にも、ひとつだけ分かることがあったんだ。ドロシー博士は、きっと気が付いてないと思ったから。それを教えてあげたかったの」

 そう言って、砂で擦りむいた頬に走る痛みに軽く眉を歪ませながらもにっと笑う。

 ドロシーは困惑しきりだった。目の前の少女は、ワルファリンが厭うこともドクターとドロシーが推し進めることも関係のない所で、何らかの確信をもってここまで来たという。

「私が気が付いていないことって、なに……?」

 だから、問うた。

 

 

 

 

「ドロシー博士はさ、ドクターに恋をしたんでしょ?

ドクターのことが大好きで大好きで、だから彼が苦しんでるのを黙って見ていられなかったんだ。テラよりヒトより先に、あの人を救ってあげたかったんだよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドロシーは暫くの間、言葉を発しなかった。

 砂の壁を越えて、傷つきながらもドロシーの許に辿り着き、そしてその言葉を伝えたアンジェリーナを見つめるトパーズ色の瞳が、僅かな驚愕に見開かれている。小さく開かれたままの唇が震えていて、そして数秒の後に止まる。

 アンジェリーナから視線を外し、砂の壁が遮る荒野の一転へと目を向ける。彼女が巻き起こした砂の壁は相変わらず轟音と共に吹き荒れていて、その先を見透かすことはできないけれど。

 しかし、彼女には確かに見えていた。砂色の拒絶を透かして、立ち尽くすドクターにエイヤフィヤトラが歩み寄るその情景が、一幅の絵画のように彩度高く色鮮やかに。

 美しい星月の照らす、青い青い荒野の空に抱かれながら。

 背伸びをしてそのマスクを外し。

 痛みと悲しみと孤独にあえぐ顔に、「好きです」と。

 伝える唇の動きを、ただ静かに見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 嗚呼。

 そうね。

 

 

 

 

 

 私、あなたにこんなにも醜く。

 あなたに恋をしたの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……はあ。そうね」

 深く、ため息をひとつ吐いて、ドロシーはぽつりと言葉を零した。自分のことを真っすぐに見つめるアンジェリーナともう一度視線を合わせ、ひとつ頷く。

「その通りよ。私はずっと、あの人に恋をしてた。あの人の声に、言葉に、性質に、思慮に、思想に、夢に恋をした。

眼に、鼻のかたち。唇とか、顎とか、首元や肩幅とか、指や体型や、足先や……そういった彼を構成する全てに惹かれたの」

 

 荒れ狂う砂嵐の中で、アンジェリーナはドロシーの独白を聞いた。間近で見ると、彼女の顔面は蒼白を通り越して病人のような土気色だった。

 彼女は囁く。夢見るように甘く、待ち人をそのトパーズの瞳で幻視するかのように細めて。男の頭の天辺からつま先の先まで、何もかもに惹かれていたのだと。それほどまでに深く慕ったのだと。

「あの人に、寄り添ってあげたかった。護ってあげたかった。

ドクターの願いを叶えてあげたかった。ドクターの感じている痛みを、皆に知ってほしかった。

どれだけ感染者を救おうと、彼ただ一人だけはずっと救われることがない。そんな不平等が痛ましくて。なら、せめて、私だけは彼の痛みと添い遂げたかったの」

 アンジェリーナは、目の前のザラックの女が眉を歪め、唇を軽く震わせながら微笑むのを見ていた。

 それが不可解で、なのにひどく悲しくて、少女は尋ねる。

「……どうして、ドクターに伝えてあげなかったの?」

 ドロシーは痛々しげな笑みを深めて、アンジェリーナを支えていた手をそっと離した。

 少しふらつきながらも彼女がしっかりと立っていられたのは、アンジェリーナを含めたドロシーの周囲だけは、あの強烈な砂嵐が嘘のように凪いでいたからだ。

 ドロシーは自らの手にあったタブレットを見つめる。そこには自分を実験台にして収集された、膨大な数の治験記録がアーカイブされていた。その全てには、責任者の名前としてあの男とドロシーの名前が連名で記入されている。

 彼女はしばし目を閉じ、それを胸元にきつく抱きしめた。

 タブレットに顔を埋め、ドロシーはその場に座り込んだ。周囲で巻き上がる砂嵐が、少しずつその勢いを弱め始めていた。数機のドローンが砂嵐の中からやって来て彼女の周りに集まり、まるで親を案じる子のようにその様子を見守っていた。

 

「どうしてかしらね……いつから、こうなっちゃったのかしら。

きっとね。私は、あの人に恋なんてしちゃいけなかったのよ。“みんな”を救うために始めたはずの研究が、いつしか“あの人”を救うための研究になってしまってから、ずっと苦しかった。

私もドクターも、未だ見ぬ明日を絶望する誰かを笑顔にしてあげたいって、そう誓って始めた研究だったのに。私だけがずっと、彼が抱えた痛みに添い遂げる為に、スマラグドスを完成させようと躍起になっていたの」

 

「そんな、『資格がない』だなんて!」

 

 恋をした。してはならない恋を。ともに目指した理想を穢す恋を。この恋はいつか毒になって、彼の美しい夢を致命的なまでに冒し、破綻させるだろう。このまま進めばきっとドロシーは、世界のいかなる全てよりもこの恋を優先させてしまうだろうから。

 このような毒を抱えたままに、二人でここまで歩んできてしまったのだ。少女の言葉で、ドロシーはやっとそれに気付くことができた。なら、もうこれ以上は進んではならない。

 憔悴した様子のザラックの前で、アンジェリーナはただ立ち尽くすことしかできなかった。そんなはずではなかったのだ。ただ、彼女はドロシーに伝えたいだけだった。

 

「アンジェリーナさん。あなたは、それを伝えるために、此処まで?」

「ちがう、違うよ……私はただ、わたし……」

 答えを待つため、ドロシーは顔を上げる。アンジェリーナの顔を見るために視線を動かした。きっと彼女はただ、ドロシーの恋に気が付いただけだったのだ。

 スマラグドスを止めたいのはエイヤフィヤトラとワルファリンであって、彼女はそうではない。この場にやってきたのは二人に同調してのことだろうが、彼女は彼女で自分なりの視座を以て此処にいる。

 アンジェリーナはドロシーを、ドクターと共にスマラグドスを推し進める研究者としてではなく、ただ一人の同性の人間として見ていた。だから、思ったのだろう。『己の恋に無自覚ならば、それは悲しいことだ』と。年頃の女子らしく、純粋な感性でそう思ってくれたのだ。

 ドロシー・フランクスは、彼女に向かって微笑んだ。

 何故だろう。そんなアンジェリーナの思いが不思議なほどに嬉しく、暖かく思えた。

「分かっているわ。アンジェリーナさん。ありがとう」

 やがて砂嵐が収まり、構築されたアーツの障壁が少しずつほどけ、巻き上げられた砂が地に落ちる霧雨のようなささやかな砂音だけが遺される。

 

「きっとあなたも、いつかは知るでしょう。抱いてはいけない恋も、伝えてはならない恋もある。落ちるほどに怖ろしく、痛みだけが襲い来る恋もある。でも一番恐ろしいのは、視野を狭めるあまりそれに気が付けないこと。だから、これでいいの。

アンジェリーナさん。あなたが気付かせてくれたおかげで、私もやっと立ち止ることができる。

私にはもう、ドクターの夢に付き添う資格はないわ」

 

 ほんの数十分前に、ドクターが自分に向かって言った言葉をドロシーは思いだし、小さく苦笑した。結局、彼の見立ては今回も正しかったようだ。

 私に、悪役は務まらない。

「この先のターミナル・インキュベーター棟で、改良された伝達物質の自律培養プロセスが進行しているわ。“オズ”は稼働している培養器か人体の中でなければ生きられないから、施設を停止すればじきにすべて死滅するでしょう」

 ドロシーは懐から一本の鍵を取り出し、アンジェリーナに手渡した。

「これは……?」

「制御盤のキーよ。外装が物理鍵でロックされているの。これを使ってコンソールを開いて、システムを強制停止すればインキュベータは止まるわ」

「……ごめんなさい。私、こんなつもりじゃなかったのに」

 差し出された鍵を見つめて、アンジェリーナは目を伏せた。ドロシーはそれを見て笑みを深め、手を伸ばしてアンジェリーナの手にそれを握らせる。

 冷え切った手が離れていって、アンジェリーナは鍵を落とさないよう、確かに握りしめた。

「いいのよ。私のこと、ただの恋する女として扱ってくれたのは、アンジェリーナさん。あなたがただ一人で初めてだもの。おかげで私も、自分の過ちに気付くことができたんだから」

 ドロシーの瞳が揺れて、そしてゆっくりと逸らされる。それは恐らくアンジェリーナからではなく、少し遠くで寄り添い合う、ふたつの影から。

「これで、よかったのよ」

 

 ごめんなさい、ドクター。

 貴方の夢に触れて、私はいつの間にか変わってしまったみたい。

 母の死が私を変えたように、貴方の夢が私を変えた。

 鉱石病の不条理よりも、才覚の理不尽よりも、あなたの背負ったものに恐怖して、そして惹かれてしまった。

 研究者としては失格よね。そうでしょう?

 

 でも、でもね。

 

 それでもいいと思えてしまうくらい、私は、貴方のことを──。

 

 

 どくん、とドロシー・フランクスの心臓が不随意に跳ねた。

 彼女の周りに集ったドローンたちが僅かに震えた。初めは誰もが気付かない程小さく。やがて少しずつ、その蠕動を増して。

 エメラルドの燐光を発し、その躯体から金色に輝く粘液が染み出す。液体化した熾合金のようなメタリックが夜の荒野を映し、砂や砂利に汚れることもなく、寄り集まって徐々に大きくなる。

 ドロシーの瞳が大きく見開かれた。自らの体内を流れる伝達物質の異常を察知し、そして数舜の内にその原因を脳内で突き止める。

 突き止める頃には、自らの脳機能の半分が彼女の子供たちに占拠されている。

「……?」

 砂嵐が止んだため、遠くから走り寄ってきたワルファリン博士に視線を向けていたアンジェリーナは、自らの背後から射しはじめた翠玉の光に気付き、そして振り返ろうとした。

 振り返り、そこで何が起きているのかを目で見て知覚するよりも前に、耳にドロシーの叫び声が届く。

 

「アンジェリーナさん、逃げて……っ!!」

 

 

 

 

 ワルファリンはようやく晴れた砂嵐の向こうに立つアンジェリーナへと向かって、小走りに近づいていた。

 ドロシーのアーツが静止し、その場に満ちていた唸り声のような振動がぱったりと収まった。舞い上げられていた砂の壁がざああ、と埃を立てて落下し、あたりがもうもうとした土煙に包まれている。

「んな……あ、安心院! おい無事か!?」

 ワルファリンが若干嗄れた声で叫び、不明瞭な視界の向こうから「だいじょうぶ!」と叫び返してくる彼女の声を聴いてほ、と息を吐く。

「まったく、意味の分からん無茶を。だがでかしたぞ、なんぞ知らんがドロシーのアーツが解除され──」

 

 

 

 

 

 

「──は?」

 

 そして、ワルファリンはその目で見た。

 アンジェリーナの背後から発せられる緑色の燐光。座り込んだままのドロシーが必死の形相で『逃げて』と叫び、その直後何処からか沸き上がった金色の鏡面のごとき液体にその身を包まれるのを。

 それと入れ替わるようにして。

 砂塵を引きちぎる轟音が響き。

 ワルファリンが瞠目するよりも速く。

 

 計五発の小型対人ミサイルが砂塵を引きちぎり、彼女に飛来していた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。