喜びとは目的を暖め続け、知性を輝かせ続ける神聖な炎である。   作:Alphecca

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喜びとは目的を暖め続け、知性を輝かせ続ける神聖な炎である。Ⅵ

「んなっっクソぉ!!」

 

 脳から命令が行く前に、脚のバネが限界まで引き絞られていた。

 咄嗟に飛びのき、すぐ傍にあった岩場へと飛び込む。凄まじい破裂音と叩きつける熱波、振動が身体を揺らし、爆発するアドレナリンが全身を過熱する。差し迫った危機に研ぎ澄まされた感覚が、ワルファリンに自らの無事を確認させるよりも前に。

 次撃。今度はランチャーから垂直に発射された同型のミサイルが、頭上から降り注ぐ。対象が遮蔽を利用して攻撃を防ぐことを織り込んだ、確殺の本命だった。

「ワルファリン先生っ!!」

 アンジェリーナのアーツがぎりぎりで間に合う。空中で重力の概念を奪われたミサイルは軌道を狂わされ、狙いがそれて明後日の方向へと着弾し、ワルファリンは危機を回避した。

「安心院! 大丈夫か!?」

「私はだいじょうぶだよ! でも、ドロシー博士が」

 こちらに駆けよってくるアンジェリーナを確認し、ワルファリンはようやくそこで詰めていた息を吐き出した。

「教えろ安心院、何があった」

「ドロシー博士と話して、鍵を貰ったの。たしか『ターミナル・インキュベーター棟の制御盤の鍵』とかって」

「は? ならばあやつは、我らの言い分を聞き入れたと……? いやならこの状況は何だ!? それに、あれは」

 岩場から僅かに顔を出し、ワルファリンは瞠目した。

 其処はもう、先刻までの静かな荒野ではない。どこに隠されていたのか、武装を固めた無数のパワードスーツが次々に起動しているその向こう。ドクター達が護ろうとしていた施設はエメラルド色の燐光を放ち、その直ぐ上空には。

 かつて、とある科学者が産み出した夢が。

 黄金に輝く伝達物質によって構成された、巨大な無機的オブジェのような怪物が。

 “覚醒”が、析出していた。

 

「何が、起きている?」

 ワルファリンは彼の怪物を知っていた。ロドスが収集する戦闘記録は、彼女も一通り目を通している。その中には、今まさに目の前に現れたそれと酷似したものとの戦闘ログもあった。ドロシー・フランクスが自らの伝達物質によって被検体たちの意識を精神的な空間に幽閉し、ある種の集合精神実体として確立させたものだ。彼らは嘗て、クルビア軍が意図的に暴走させたそれを制圧するため、交戦したことがあった。

 それが今此処に再び現れたということが、何を意味するのか。

 ワルファリンはもう一度深く息を吐き、周囲を確認した。近くにいるパワードスーツが起動するまでには、未だもう少し猶予がある。ならばとアンジェリーナの方を向き、努めて冷静に問いかけた。

「安心院、何があった。自分の言葉でよい、妾に教えよ」

「あの、えと……私、ドロシー博士に聞いたの。『ドクターに恋をしてるの?』って。博士はそうよって言って、でもこの恋は許されない恋で、だから私にはもうドクターと一緒に進む資格が無いとか、そんなことを言って……それで、これを使えばスマラグドスを止められるからって、鍵をくれて」

 たどたどしく、しかしアンジェリーナは必死にワルファリンへと自分が見たものを説明する。

 聞けば聞くほど、ワルファリンの困惑は深まるばかりだ。しかしそれを表情に出すことはせず、彼女の言葉の続きを促した。

「私、ドロシー博士に『寄り添うだけじゃなくて、想いは伝えなきゃ伝わらないよ』って、言いたくて。でも全然上手くいかなくて、砂嵐が晴れてワルファリン先生が走ってくるのを見てたら、ドロシー博士が後ろから『逃げて』って叫んだの。

驚いて後ろを見たら、博士の周りに集まってたドローンからしみ出した金色のドロドロが、あの人を食べちゃうみたいに包み込むのが見えて……それと同時に、ミサイルがワルファリン先生に向かって飛んでいくのが見えて」

「成程……経緯は理解した。よく話してくれたな、安心院」

 

 焦った様子のアンジェリーナの瞳には、廃棄された基地のあちこちから起動してこちらに迫る無人の筈のパワードスーツたちが映っていた。そろそろ起動準備が済むのか、その頭部に装備されたセンサーに光が灯る。

 その数は十、二十、三十……視界に映るだけでも、とてもではないが彼女たちのみで対処しきれるようなものではない。ワルファリンは自らをむりやり沈静化させつつ、自分たちが為すべきことを脳内で探した。

 こういうときにばかり、自らの不老不死という忌々しい特性は役に立つものだ。長い時がもたらした精神は、まだ合理的な思考ができる程度には落ち着いている。

 彼女はポケットから自らの携帯端末を取り出し、下書きに保存してあった一件のメールを宛先だけ変更して送信した。

 それからアンジェリーナへ視線を向けなおし、なるべくゆっくりと話しかける。

「落ち着け、安心院。まずはドクターたちと合流する。

我らが何を考えたところで事態の把握は不可能だ。少しでも事情を知るドクターを頼るのが今は最善であるし、我らの中で最も火力が高くあれらを押しとどめられる可能性があるのはエイヤフィヤトラだ。

まずは合流せねばお話にもならん。分かったな!」

「……」

 ワルファリンは努めて理性的に、ゆっくりとアンジェリーナに行動の指針を示した。そのおかげもあり、アンジェリーナ自身が既にベテランであることもあってか、彼女は大きく深呼吸をひとつ。次の瞬間にはオペレーターの貌になり、頷く。

「……よし、おっけー! 私がミサイルを防御しながら追いかけるから、先生は私を先導して!」

「任せろ。いちにのさんで走るぞ、いち、にの……」

 

 そこからは、とにかく必死だ。

 背でミサイルが爆発する熱波を感じながら、ワルファリンはドクターの許へと走った。

 

 

 

 

「ドクター!」

 アクション映画さながらに爆音をバックにして走ってくる二人を見、ドクターもまた驚愕した様子で「何があった! ドロシーは?」と同じ問いを投げかけた。

「今話す! 安心院、エイヤフィヤトラ! あれらを一時押しとどめろ!」

「オッケー了解! エフィ、行くよ!」

「はいっ!上空から撃ち下ろします。アンジェリーナさん、私を飛ばしてくださいっ!」

 

「P.R.T.S. ターミナルと前方の実体をスキャンしろ」

 同時にドクターが首に咽頭マイクを巻き、彼の戦闘支援システムがインストールされた端末へと音声認識で命令した。それは直ぐに起動し、端末上へと周囲をスキャンした結果を羅列し始める。

「我々はドロシーと対話していたはずだった。だが話の途中で彼女が金色の伝達物質に飲み込まれ、あれらが突然起動した。

そなたらの開発していたプロジェクトは、あんなこともできるものだったのか?」

「いや。“オズ”からは、かつてドロシーが開発したものにあった外敵に対する自律防衛行動をすべてオミットしている。同じ轍は踏まないよう、兵器転用できるような要素は徹底的に排除したんだ」

 ドクターが端末に表示されたスキャン結果へと目を向けながら、ワルファリンへと告げた。

「今こんなことができるとしたら、ドロシー自身がオズを直接統括するしかない。彼女の意思でそうしているのではないとすれば、恐らくは……」

 

≪──Unusual heat source detected inside the Terminal Incubator Building.≫

≪──It's predicted to be out of control Neurotransmitter.≫

≪──The biological reaction in the facility is one and the same.≫

 

「伝達物質が暴走している。ドロシーの生体反応はターミナルの中だ」

 P.R.T.S.が告げるスキャン結果を見て呟くドクターに、アンジェリーナが駆け寄った。

「ドクター! これ、ドクターに……!」

 そう言って自らの手に乗せられたものは、ドクターも見慣れているものだった。ドロシーが身に着けていたタグ型の耳飾りに仕込まれた物理鍵。スマラグドスを制御する基幹コンソールの防護シールドを解除するためのそれとアンジェリーナを、ドクターは交互に見る。

「なぜ、君がこれを?」

「ドロシー博士から預かったの。あの、ドクター。ドロシー博士の気持ち、聞いてあげて欲しい。あの人笑ってたよ。凄く苦しそうに笑ってた。

私じゃ無理だった。でも分かるんだ、ドクターならあの人のこと、救ってあげられるって」

 

「ドロシー……」

 鳴り響く爆音と戦闘音の中で、ドクターは小さく呟いた。その目は未だ光を放つ施設を見つめ続けている。

 

「先輩! 行ってあげてください!」

 空中で光が閃くと、接近していたパワードスーツの数機が凄まじい熱量と共に一瞬で融解した。一部とはいえライン生命エネルギー課の技術を集めて製造されたそれをすら、彼女の火力はいとも簡単に破壊せしめる。

 が、数が多すぎる。エイヤフィヤトラの頬に汗が一筋流れた。

「アデル、だが君は!」

「二人で決めたでしょう? ね! フランクス博士に謝るんだって!」

 

「────」

 

「ワルファリン。此処を、頼む」

「だがそなた……よいのか?」

 応戦を続けるアンジェリーナとエイヤフィヤトラを見守りながら、ワルファリンはドクターに問うた。それはつまり彼らが進めていた“スマラグドス”を否定するも同義であり、このような状況はあれどそれらを諦めることに他ならない。

 二人が己の持てる何もかもを捧げて育て上げてきた、救世と犠牲。

 

「ああ。もう、いいんだ」

 男の声の調子は、普段とあまり変わらないようにワルファリンには思えた。けれど、しかしそれでも違うのだと分かる。彼の中で決定的な何かが変わり、それはあの火山の娘の熱によって齎された。

 嘆息する。

 自らの裡を流れる冷たい血が、否応なく掻き立てられ、熱を発し、そして口元は不敵に笑みを象った。

 そうだ。それでいい。

 人を救う術を探求する人間が、絶望に生かされていてはいけないのだ。

 正直、こんな悍ましい戦場を任されたところでワルファリンに何ができるわけでもなかった。何をまかり間違っても自分はただの医者なのだ。しかも戦力は精鋭なれど極少。

 だが、やり遂げてみせよう。最悪この身を盾にするくらいは彼女にもできる。なに、安いものだ。終わりのない命。直ぐに塞がる傷。無意味に引き延ばされた、意味の希釈された生。

 老獪な医者は男の黒いコートの背をバンバンと叩き、豪快に言い放って送り出した。

 

「……そうか。

ならば任せよ! 似た者同士肩を並べて帰ってくるまでは保たせてやる! 先ほど、そなたに必要な助っ人も呼んだゆえ、上手くいけば間に合うだろうて」

 

「ありがとう。それとワルファリン、済まなかった」

 

 

 日頃の運動不足が祟ってか少々不格好に走り去る背を見送りながら、ワルファリンは珍しく首筋を冷たい汗が伝うのを感じていた。

「さて、どうしてくれようかな……」

 

 

 

 

「──十時、十二時、二時の方向からそれぞれ三機! 撃てエイヤフィヤトラ!」

「く……はいっ!」

「右の奴らは私がやる、エフィは疲れ過ぎちゃだめだよ! これが終わったら下ろすから三〇秒休憩して!」

「そんなっ、私はまだ……いえ、分かりました!」

「安心院! 前方十一時がミサイル発射体勢、続いて一時、構えろ!」

「次から次へと……ぉ!」

 

「よしエイヤフィヤトラ、最も接近しているものらから順に三機墜とせ!

それが終わったらもう一度休憩せい!」

「はいっ!」

 

 こんなにも声を張って、指示を飛ばし続けるのはいつぶりのことだろうか。

 ワルファリンはそんなことを思う。現在進行形で高速回転を続ける脳と、ぐるぐると辺りを索敵し続ける目の奥に沁みつくような鈍痛を感じ始めている。

 患者の生死がかかった緊急性の高い手術でも、こんなにも矢継ぎ早に声をあげることはない。そも順調に進んでいるオペというのは淡々と進行するものであるし、焦ってしまえば手元が狂う。

 焦らず急ぐ、というのは如何な仕事を進めるにも肝要なファクターではあるが、今ワルファリンは明確に焦っていた。

 それもそのはず、この戦いには勝ち目がない。

 ドクターがドロシーの許に辿り着き、彼女を救助しかつ暴走するオズを強制停止する。そうすればもとより本体には戦闘能力の無いそれらは管制を失い、沈黙する。

 それが彼女たちの勝利条件だ。つまりワルファリンはドクターが目的を遂げるまで、三人で生きてこの戦線を維持し続ける必要があった。

 

 戦況は撤退戦だ。

 周囲からは五十を超える無人のパワードスーツが、一歩一歩無機質な音を立てて迫ってきている。遠方から断続的に発射されるミサイルは、今は主にアンジェリーナが対応している。

 近接戦闘に主眼を置いているであろう機体は、いまもゆっくりと包囲網を狭め続けていた。

 三人がいる地点にまで接近された時点で、こちらの敗北が確定する。ワルファリン、アンジェリーナ、エイヤフィヤトラ共に敵性体との肉弾戦闘に関しては素人も良いところで、強化外骨格と人工筋肉、源石駆動の唸りを上げるモーターから繰り出される打撃を喰らおうものなら、恐らくは治療の暇もないだろう。

 ワルファリンの操る医療アーツは、怪我の衝撃や攻撃のダメージを緩和させるようなものではない。受けた傷を治し疲労を軽減することはできるが、砕けた骨や損傷した内臓を瞬時に治療し体機能を正常に戻すような、魔法じみた強度のものでもない。

 ゆえに、押し寄せるパワードスーツたちと正面から切ったはったをするわけにはいかないのだ。アンジェリーナが遠距離攻撃を防ぎ、エイヤフィヤトラが敵の前線を焼き払って押し返し、ワルファリンが完全に包囲されないよう頃合いを見て二人に後退の指示を出す。それが現状採れる最善だった。

 あるいは、彼女が持つもうひとつのアーツを行使すれば、或いは退路を無理やりこじ開けることくらいはできるかも知れないが……。

 

「ぐぅ」

 思わず喉が鳴り、ワルファリンはその背を厭な汗が伝う不快感に顔をしかめた。

 今でこそ騙し騙しどうにかなっているような状況だ。だが、前で戦ってくれている二人にも限界はある。特にエイヤフィヤトラは重度の鉱石病患者だ。

 瞬間的にアーツを発揮し、短時間で作戦を終えて帰投するような戦いならまだしも、現在のように長い間攻撃アーツを放ち続けるような戦いは彼女が最も避けるべき行為だった。

 それを補助するアンジェリーナは、エイヤフィヤトラの照準が定まりやすいよう彼女を上空へと浮遊させる役割とミサイル迎撃を並行して行っている。ワルファリンの治療があっても、明確にオーバーワークだった。

 加えて良くないのは、敵の数が一向に減らないことだ。

 この崩壊した基地の一体どこにそれだけの戦力が残っていたのやら、わらわらと土煙の向こうから湧いて出るパワードスーツたちの勢いは一向に衰える様子を見せなかった。

 エイヤフィヤトラが十機壊せば、十五機がその残骸を踏み越えてやってくる。この事実は単純な戦力差も勿論、彼女らの精神を特に削いだ。

 時間が足りない。三人に作れる時間では、どうあがいてもドクターが目的を遂げるだけの暇を稼ぐことはできないだろう。

 物量の違いが、戦況を確定させる。兵法の初歩も初歩のような状況が、ワルファリンを圧し潰しにかかる。

 

「ミサイル来ます! 待って、多すぎる!?」

「エフィ下りて、私が対処する!」

 

 四方八方から同時発射されたミサイルの雨を前に、アンジェリーナは浮遊していたエイヤフィヤトラは降ろしてからくるりと最前線を交代した。

 自らのアーツを増幅させる杖を握りしめて構える。起動に応えたロッドは機械的な音と共に展開し、中枢部の源石機構が駆動して回転すると共に深い藍色の光を周囲に振りまいた。

 彼女の腿に露出した源石が光に呼応するようにまたたき、アンジェリーナが身体の裡から来る痛みに眉を顰める。

 

「う……ふ、痛い……けど! この程度、ドクターとドロシー博士の感じてた痛みに比べたら!」

「擦り傷より温いっ。私ならやれる!」

 

 全力展開された重力操作のアーツが、アンジェリーナたちの前方数十メートルを瞬時に呑み込んだ。

 凄まじい重力がその場にあったものすべてに襲い掛かる。ジェット推進のマイクロミサイルが一機も残さず地面に叩き落され、連鎖的に爆発していくつかのパワードスーツを巻き込んだ。

「無茶な! 安心院は妾のところまで下がれ! エイヤフィヤトラ、安心院の回復が終わるまでは地上で迎撃だ、できるな?」

「やれますっ!」

「何故あんな無茶をした! お前の身に何かあれば、ドクターやドロシーの苦しみも無に帰すぞ!」

 へたり込んだアンジェリーナを後方まで引きずっていき、物陰に横たえて医療アーツを全力で稼働させる。焦りのままに口から出た怒りの言葉に、汗まみれで顔面蒼白なアンジェリーナはしかし微笑んだ。

「だって、全部のミサイルが同じか、分からないし……ふたりから遠いからって後ろに通して、それが危険なやつだったら、いけないし。多少は無理しても、先生が治してくれるし?」

 

「ばっ……いや」

 ワルファリンは、口を衝いて出そうになった叱責を飲み込んだ。

 理性的なのはアンジェリーナだ。そう考えなおし、発火した感情を賞賛に変える。患者を、仲間を失うかもしれない恐怖と焦りがワルファリンを保身に走らせていた。

「ありがとう。安心院、そなたが正しい。

治療は任せよ。なんたって妾はロドスで二番目に外科手術が上手いのだ。だが代償は大きいぞ? 其方の血ををあらかた貰ってしまうかもしれん」

「あはは。お安い御用だよ。じゃ、一分寝るから」

 ワルファリンの冗談を笑顔で軽く流して目を閉じるアンジェリーナの身体は、アーツの過剰な行使による負荷によって一時的に軽度の発作を起こしている。

 医師は落ち着いた様子で腰のポーチからペン型のシリンジを取り出し、抑制剤を彼女の腿に注射した。荒かった彼女の息遣いが次第に収まっていき、苦し気に歪められていた眉から力が抜けていった。

「ああ、起こしてやるからゆっくり休め」

 ロドスに戻ってからきちんとした治療が必要ではあるだろう。が、ひとまずはこれで安心できるはずだ。

 ワルファリンはひとつ息を吐くと、気を引き締めなおして顔を上げた。

 エイヤフィヤトラは未だ健在だった。多少緊張しているようだが、飛来する遠距離攻撃の迎撃と地上から近づくパワードスーツの撃退を見事に両立してのけている。

 アンジェリーナが戦線から抜けたことでエイヤフィヤトラの負担は明らかに増えている筈であったが、これまで力を温存していた成果か、まだ限界は遠そうだ。

 

「はは……きついな。ドクター」

 

 ついその場にいない男に助けを求めてしまう。彼はこれを日常茶飯事的にこなしていたのかと思うと、自らの口元が勝手に苦笑を象るのが感じられた。

 たった二人のオペレーターの命を預かるだけでもこれだけの重責だ。たった一つでも判断を間違えれば、アンジェリーナとエイヤフィヤトラは体力の限界を迎えるまでもなく死ぬ。

 金属がひしゃげる音を立てて、パワードスーツがまた一機崩れ落ちた。エイヤフィヤトラは額に浮かぶ汗と張り付いた前髪を拭い、ロッドを構えなおした。

 彼女の灼熱は、大火力で敵の装甲を融かしきるものから、その継ぎ目を一点突破で貫くものへと変化していた。火力と身体への負荷を抑え、長期戦の構えだ。

 エイヤフィヤトラのアーツは基本的に、狙いをつけた場所に火山弾を模した火球を投射するものだ。火球は着弾地点で爆発し、命中箇所を中心とした広範囲に破壊を齎す。

 しかし、彼女は己のアーツを熟知しきっていた。その経験からアーツの強弱や弾速、着弾箇所からの爆発範囲をも操作しきってしまえば、彼女のアーツはより少ない負荷で対象を沈黙させる熱線となる。

 己の持てる全てを発揮して状況にあたるその瞳には、一片の絶望すら浮かばない。彼女はそびえたつ大火山の如く、一歩も引かずにそこに立ち続ける。

 その視線は、その場にいない男の背を見ていた。

 また数機のパワードスーツがその駆動中枢を撃ち抜かれ、機能停止する。または移動のための脚部関節を撃ち抜かれ、それ以上は前進できなくなる。

 彼女たちを中心に狭まっていた包囲網が、少しだけ押し返された。

 それは、まごうことなく“ドクターの後輩”の背中と言うべきものであった。

「……なるほどな。可愛がりたくもなる」

 偉大な者とは、常に周りの皆の心に火を点けるものだ。ワルファリンは一言つぶやき、多少顔色の佳くなったアンジェリーナのを頬を軽くぺちぺちと叩いた。

 

「さあ起きろ安心院、時間だ」

「うぇ、まだ五秒も寝てないよぉ……」

 

 

 

 

 己の不規則に乱れた息遣いが喧しく、息を止めたくなる。

 こんなことならもう少し身体を鍛えておくべきだったな、と、筋肉に酸素を奪われた脳はあらぬことをぼんやりと思考しはじめていた。

 ドクターは走っていた。

 P.R.T.S.が発し続けるビープ音を無視し、その基地にひとつだけ残った施設へとむかって。

 スマラグドス技術の中核を為す改良型伝達物質を培養していたターミナル・インキュベータ棟は、今やその内部からぼんやりと淡いエメラルド色の光を放っていた。

 息が途切れ、体中が悲鳴を上げている。一度立ち止まり、震える膝に手を当てて押さえ、息も整いきらないうちにまた走り出す。目的地まではのこり百メートル強といったところ。

 後方から断続的な爆発音。何度も何度も聴きなれた、エイヤフィヤトラのアーツが炸裂する音だ。

『先輩、行ってあげてください!』

 頭の中で、彼女の声が繰り返し響いていた。

 背を押している。最早何も失うなと。

 男を支えるのは、男が自ら背負い溜め込み続けた死者の呪いなどではない。彼と共に夢に寄り添った親友を失うなと背を押す後輩の言葉が、男の足をひたすらに前へと押しだしている。

「分かってる……!」

 男は独り言ちた。止まらない。止まるわけにはいかない。死者の言葉はもう彼を追いたててはくれない。

 男は選んだ。夢と眠りに未来を託して楽になることよりも辛く苦しいことを。本当に大切だったことを。

 それを、彼を今まで護り続けてくれた大切な友人に伝えなければならないのだ。そしてその手を引いて、もう一度絶望の彼方から引き揚げてやらなければならない。あの、トリマウンツのあの日のように。

「ドロシー!」

 

 物陰から、ぬ、と巨体が現れた。

 ドクターは凍りつく。足が止まる。

 気が付かなかった。彼の端末が悲鳴を上げるが如くビープ音を繰り返している。

 それは、一人戦線から離れるドクターを感知した起動したてのパワードスーツだ。近距離型か遠距離型か、そんなことはどうでもいい。

 がこ、がしゃ、と準備運動のように各部を稼働させ、排気音が響く。頭部にあたる場所に据えられたカメラアイが赤い光を灯し、そこに居る男を捉えた。

 見られた──ドクターは瞬時に察する。その判断が正しいかどうかを吟味するまでもなく、状況は進展するだろう。

 どちらにせよ、男はそれに攻撃されれば刹那の間に命を落とす。

 アンジェリーナやエイヤフィヤトラ、ワルファリンよりもさらに容易に、濡れた紙を裂くよりも簡単に死ぬ。ドクターの脳は過熱した。現れたソレが動き出すまでが、勝負だ。

 男の瞳が自分の位置と、敵の位置と、ドロシーが居るであろうターミナルとを順番に見る。距離を目測で測り、走れば間に合うかどうかを考える。

 次いでその案は即時却下される。あれを今ドロシーの許まで引き連れていっては駄目だ。

 引き返し、後方の三人に助けを求めるか考える。それも考えながら却下する。ワルファリンたちは当然撤退戦を選ぶだろう。つまり今ドクターと彼女らの距離は、別れた当初よりも開いている。

 ドクターの脚では、確実に間に合わない。そも、彼女らは戦闘中だ。

 生き残るために取り得る全ての策を、脳と目と耳と鼻と皮膚が命がけで探している。

 基地の廃墟、瓦礫の中に隠れるか? パワードスーツは熱感知センサーを搭載している。却下。

 エイヤフィヤトラが放ったアーツの残り火に身を隠すか? やり過ごす前に焼け死ぬだろう。却下。

 一か八か、遠距離型であることに掛けて懐に突撃してみるか? 論外だ。却下。

 逃げる? 却下。

 立ち向かう? 却下。

 隠れる? 却下。

 助けを呼ぶ? 却下。

 武器になるものを探す? 却下。

 動かず観察して引き続き突破口を探す? 却下。

 P.R.T.S.に生存法を探させる? 却下。

 説得してみる? 却下。

 命乞いをしてみる? 却下。

 奇跡が起こるのを祈ってみる? 却下。

 提案、却下。

 提案、却下。

 提案、却下。

 提案、却下。

 提案、却下。

 提案────。

 

 

 

 

 結論、絶死。

 

 男の呼吸が止まった。理解する。“無理だ”と。

 男はここで死ぬ。ドロシーを救いたいという思いが先走るあまりにパワードスーツの戦力が全てワルファリンたちに向いていると思い込み、一人で先走った手落ちだ。

 詰んだ。チェックメイトだ。

 機構音と共にそれが立ち上がり、ドクターへ向かって躍りかかる。強化外骨格をモーターが限界まで引き絞る、ぎりぎりと悍ましい音が鳴り響く。

 死が、スローモーションで迫ってくる。発条の如く留め金が外れ、その巨大な拳が撃ち出されれば、ドクターの上半身は砂の城を壊すよりも容易く木っ端微塵にはじけ飛ぶだろう。

 それを、男は見つめていた。声も出ない。案外、何の走馬灯も見はしないのだな。などと考える暇すらない。死は単純に死だ。

 其処に感傷は伴わない。

 

 ただ。

 

「アデル」

 

 その一言が言えたのは、最期の救いなのか──。

 

 

 

 

 

 

「──如何なる窮地に立たされようと、大切な者には誇りある姿しか見せない。

私はそう決めている。お前も……そうだった筈だろう? ドクター」

 

 

 

 

 そうだ。

 再提案する。

 奇跡に縋りついてでも生き延びてみせろ。アデルの為に。

 ワルファリンが最後に伝えてきた援軍の到着に懸ける。それはクルビア化学倫理共同宣言の中核メンバーたち。ドクター達が進めていたスマラグドスの早期実用化を、倫理的正当性の調査という名目で止めうる可能性があった者たち。

 彼女は当然連絡をつける準備を整えていただろう。そして、それを本来とは別の用途で使用した。それが、間に合った。

 評価は不要。実行しろ。

 

 横合いから撃ち込まれたエナメルの拳が、パワードスーツの強化鋼で護られたボディに叩きつけられた。

 凄まじい音が響き渡り、その拳は機体にめり込む。

 数百キロはある筈のパワードスーツが、掬い上げるように放られた拳一本で宙に浮く。冗談のように粉砕され、破砕され、破壊され、損壊され、沈黙する。

 一瞬前まで機体を成していたケーブルと破片がバラバラと地に落ち、そして彼女は手にしていたアーツ増幅シールドをその膂力のみで地面に突き刺して仁王立つ。

 彼女は厳格な表情を崩さぬままに、しかしその声色は静かだ。

 彼女は、男の応答を待っていた。

 

「ああ、そうだ」

 

 ドクターは応えた。差し出された手を握り、尻餅をついた姿勢から立ち上がる。

 

「ならば諦めるな。そう言えるだけの決意でもって、護りたいものができたのなら。

私たちが、いや……“ロドス”が、お前を支えているのだから」

 

 

 

 

「そうだった。ありがとう、サリア」

 

 

「彼女たちを、頼む」

「了解した」

 短い言葉を交わし、ふたりは別れる。

 サリアは未だ爆音の鳴る戦地へ。

 男は無線機のチャンネルを確認しつつ、目指していた施設へ。それは、もう目の前だ。

 

 

 

 

 ──■■■、■■■■■!!

 

 何度叫んでも声にはならない。口は開かず、瞼は上がらず、指先をぴくりとすら動かすこともできない。それはまるで、眠りの裡に広がる悪夢そのもの。

 だのに、ドロシーは“自分”がしていることも、ドクターたちのことも全て現実だと理解できる。それは今実際に外で起きていることで、その要因は自分その人なのだと。

 翠玉色に燐光を放つ、伝達物質の統合制御ユニットと化した彼女。

 その肉体が取り込まれたインキュベータへと、無数のパワードスーツがそのカメラで写した映像情報が信号として送られてきて、車の車窓が切り取る景色の如く淡々と処理されていく。

 ぶうん、と虫の羽音のような低い振動音が響き、インキュベータからの指令が来る。

 生体CPUとしてドロシーの脳は情報処理を請け負わされ、エイヤフィヤトラたちとの戦闘オペレーションを構築して送信する。

 

 ──■■■! ■■■■■■■■■■!!

 

 其処では、ドロシーの如何なる抵抗も最早無意味だった。

 肉体は眠らされ、頭は自らの意志とは無関係に彼女らを排除する方法と対策を思考し、実行せよと指示を飛ばしている。

 皆が傷つき、そして追い詰められていくその姿をはっきりと見せつけられる。目を逸らすことすら許されなかった。

 今のドロシーは夢の中だ。既に目を閉じているのだから、それ以上の逃げ場はない。

 少しずつ、少しずつエイヤフィヤトラやアンジェリーナや、ワルファリンやドクターの命が削り取られていく。

 涙も流せない。泣き叫ぶこともできない。

 謝ることも懺悔することも、何もかもがドロシーにはままならない。

 彼女の中に流れる伝達物質と、ドクターと二人で改良したオズが共鳴していた。

 それらはただ一つの目的を据え、それ以外の全ての命令入力を自らデッドロックして暴走している。

 目的とはつまり、スマラグドスの実行を阻害する対象を、全力をもって排除すること。

 ドクターと共に編み上げたものを成就する。全ての人々を幸せにできるわけではない、世界に蔓延る差別と不和のうちの一つを、少しだけ均すことしかできない。それだけの医療技術。

 けれど、私たちにとっては夢で、希望だった技術。それを遂行すべく、伝達物質は創り主の懇願も無視して自律する。彼女の夢を叶えるために。

 

 繰り返し、くりかえしずっと、ドロシーの中に息づいている銀色が記憶をドロシーの脳内からメモリとして引きずり出して映像と音声信号の断片に変え、眠るドロシーに見せ続けている。

 『これが主の望みだろう』と眠る子に昔語りをするかのように、ずっと。

 違う、違うと否定し拒否するたびに、その拷問は繰り返し彼女に許されたわずかな脳の領域を蹂躙する。

 彼の表情。彼の声。

 彼の手。彼の願い。彼の苦しみ。

 彼の笑い声。彼の絶望。

 彼の歩幅。彼の好物。

 彼の仕事。彼の隣。

 

 『ドロシー。君は間違ってなんかいなかった。君が罪を犯したことが事実であったとしても』

 

 『他人の人生は君のものじゃない。だが君という殉教者が自らを犠牲にしてでも誰かに見せようとした夢は、確かにこの世界に生きるヒトにとって、安らぎと平等のひとつを齎す楽園だった』

 

 『手段の問題なんだ。皆が納得する方法を、皆と同じ歩幅で考えればいいだけの話だったんだよ』

 

 『この世界に真なる平等なんてない。だが、悍ましい差別は星の数ほど多くある』

 

 『俺は君ほど崇高な道は歩めない。せいぜいがそんな差別のうち一つを、どうにか均してやろうと足掻くくらいだ。だがそれでも、君の見た夢をほんの一部現実に変えてやるくらいのことはできる』

 

 『ドロシー・フランクス。ロドスと一緒に歩んで欲しい。君は“狂った研究者”なんかじゃない』

 

 再生される音声も映像も、全てドロシーが実際に言われた言葉、目の前で見た表情だ。

 トリマウンツのあの切り取られた星空の下で。

 359基地の地平線一杯に広がる星空の下で。

 ロドスの甲板の、見る度その表情を変える星空の下で。

 あなたは私の罪を証明してくれた。

 あなたは私の夢を認めてくれた。

 数えきれないほどの本当にたいせつなものを、あなたに貰った。

 かつてあの荒野にも在った、幸せを。 

 

 だから、私はあなたを支えたかった。あなたの苦しみを和らげたかった。

 感染者たちを希望ある眠りに導き、永遠に死を蒐めさせられ続ける彼を救いたかった。

 笑って欲しかった。安らいでほしかった。護りたかった。

 だって、だって、私はあなたに──。

 

 ──■■■、■■■、■■■、■■■ッッ!!

 

 喉が裂け血を吐くほどに叫びたかった。

 だって、関係ない。あの人が目指したものと、私が抱いてしまった想いは何一つ関係が無い。

 ドクターはただただ善意で私を認め、救ってくれたのに、私が抱いていたのはこんなにも愚かな下心だったのだ。

 だから、関係ないのに。ドクターと共に作り上げようとした夢とこの想いを結び付けてはいけなかったのに。

 なのに私はドクターの痛みと苦しみに付け込んだ。あろうことか自分でも気づかぬまま、無意識のまま自らの想いを遂げようとした。

 彼がくれたものすべてに、エゴで返そうとしていた。

 私とドクターが作り上げた銀と金が見せる夢は、私が甘え委ねていいものなどでは決してない。それを理由にエイヤフィヤトラたちを害し、傷つけてよいものでもない。

 全て身勝手なわがまま。星空のまたたく荒野で寄り添うドクターと彼女をこの目に映すなり胸に灯ってしまった、恐ろしい、熱い、灼けるようなみにくい感情。

 

 嫉妬──。

 微動だにせず、鉄の子宮の中で眠り続ける己の身体。自分の身体がこんなにも恨めしかったことはない。

 もしほんの少しでも、ただ少しでもこの手が動いたなら。

 腰のポーチにさしたペンを取り、この喉と心臓に突き立てて、この愚かな私の愚かな暴走を今すぐにも止められるのに。

 

 ドロシーは泣いた。涙も出ないのに。声も出ないのに大声で、子供のように泣いた。

 

 ──■■■。

 

 ドロシーは願った。誰にかなど、最早考えたくもなかった。

 

 ──■■■。

 

 けれどそれが何よりも、この狂った研究者を止めるには合理的な方法なのだ。

 ドロシーはもう何も分からない。今も自らの脳の大半が、体内でざわつく銀色にそそのかされてエイヤフィヤトラを排除する方法を模索し、山ほどいるパワードスーツへと指令を送り続けている。

 スマラグドスを成就させる。ドクターを手に入れる。そして、彼に寄り添うのではなく真正面から向かい合ってみせたキャプリニーの女への嫉妬。

 怖ろしかった。自分が次は何をしてしまうのかが怖くて、ドロシーは一心に願う。

 

 ──■■■。

 

 己の脳が伝達物質に使われるのを止めることも、自ら命を断つことも、ドロシーにはできない。

 何もできない。ドクターがこちらに走ってくる。息を切らせ、脚をもつれさせながら。

 施設の直掩に待機していたパワードスーツの動体センサーがそれを捉え、カメラに火が灯る。それを見せられてなお、ドロシーには何もできない。

 結局、また間違えてしまったのだ。ドクターが隣に居てくれたのにも関わらず、ドロシーはまた間違え、罪を犯した。

 そして今、もうこれ以上は取り返しがつかない所で、その最後で最悪の一線を越えようとしている。

 パワードスーツがドクターに向かっていく。彼の目的はこのインキュベータの停止、パワードスーツを統括しているドロシーを止めることだ。なら、伝達物質はより優先上位の命令に従い、それを止めようと動く。

 攻撃司令が伝達される。ドロシーの脳が、ドクターを攻撃せよと命令する。

 

 ──■■■。

 

 殺して。

 

 ──■■■。

 

 殺して。

 

 ──■■■、■■。

 

 殺して、私を。

 ドクター。私を殺してゆるして。

 

 

 

 

 そしてカメラからの映像送信が途絶える。

 

 

 

 

 

 送信のラグか不具合か、最後の瞬間を見せつけられることは無かったのに、せめてもの慰めを感じてしまった。あの至近距離で、周りからの援護もない。

 ドクターには、為すすべもなかったはずだ。

 私はとうとう、ドクターをすら手に掛けてしまった。最後の最後に、私に残ったものだったのに。護りたいはずのものだったのに。

 叫びたいのか、泣きたいのか、許しを乞いたいのか、今すぐ死にたいのか、絶望したいのか、もうそれすら分からない。

 私の全ては渾沌に沈んでいく。どちらにせよ、なにを考えようが思おうがそれを行動に移すこともどうすることもできないのだ。

 ドクターを自らの手で殺したのに、私は静かに眠り続けることしかできないのだ。

 心が風に風化させられる砂の城のように、崩れていく。

 感情が急速に色あせ、悲しみとか後悔とかそういったものの痛みを感じなくなっていく。代わりに、透明で感情を伴わない液体が心のあった場所を満たして埋めようと押し寄せてくる。ドクターと過ごした数年間の思い出と、スマラグドスの完成によって平和になった世界をシミュレートした映像が脳内でいくつもリピート再生されはじめる。『私が求めていたもの』全てが、私を満たしていく。

 

 

 疲れた。

 もういい。もうたくさんだ。

 私は結局、狂った研究者だった。ヒトの心も、己の心も慮れない怪物だった。

 あの日、ライン生命本社の会議室で言われた言葉は正しかったのだ。

 夢の中で目を瞑る。

 

 ドロシーは最後に残された脳の領域を、そっと手放した。自身が“ドロシー・フランクス”であるための最後の証明を放棄し、スマラグドスに対して彼女の身体の主導権は全て委譲される。

 俗説には“魂”とか、“心”とかそう呼ばれる領域が、己が創り己を満たすものらに明け渡される。

 ヒトとして生きる意味を放棄する。彼女は本当の意味で人でなしになる。

 ……もういい。何を頑張ったところでもう外は、ドクターの居ない世界だ。私の過ちで彼は死んだ。私の定めた私の意味を、私自身が壊した。

 意味のない世界だ。

 意味を失った世界。

 

 ああ、そうか。薄れていく意識の中でドロシーは理解する。エイヤフィヤトラが彼女らの夢を止めようとした理由を、その身で。

 正しかったのは、彼女だった──。

 

 

 

 

「ドロシー!!」

 

 

 

 インキュベータ棟の出入り口扉に身体を叩きつけるようにしてこじ開け、黒い上着を来た男が聞いたこともないような大声で叫びながらやって来るのを、施設に設置されたカメラが捉えた。

 

 溶液の中に浮かぶドロシーの口元から、小さな泡が立ち上る。

 なぜ? という疑問よりも先に、大波のような安堵が自らの心を満たすのを、ドロシーは感じていた。

 ドクターは生きていた。何がどうなってあの状況を切り抜けたのかは分からないが、けれど生きていた。

 映像から見た限り、大きな怪我をしている様子もない。

 私は、最低な過ちのなかのほんの少しの幸いではあるものの……どうやら、失敗できたようだ。

 

 いつも被っているフードは捲られ、マスクはなく、短く切った黒い髪と淵のような黒い瞳を晒した若い男だ。ぜえぜえと息を切らせながら、男は培養層に閉じ込められ眠っているドロシーへばたばたと駆け寄った。

「ドロシー、ドロシー起きろ! まだ諦めるな、絶対に助け出すからな!!」

 強化ガラスで嵌め殺しになったのぞき窓に両手をつけてもう一度彼女の名を大声で呼ぶと、そばの制御用端末がまだ生きているのをすばやく確認し、躊躇なくそちらに駆け寄った。防護シールドの鍵穴にキーを差し込み、回してロックを外し、勢い任せに開け放つ。制御盤に飛びつく。

 そのまま機器のレスポンスが追い付かないほどの凄まじい速さでコンソールを操作し、管理者権限でのアクセス、培養層ハッチの開放、伝達物質の自己終了プログラム起動、機構の強制終了、と片端から考えつく限りの命令入力を試していく。

「アドミニストレーター更新、緊急用自壊コード、バックドアパス……ッチ」

 舌打ちをひとつ。けれど男の手は止まらない。その瞳に宿った希望も消えない。

 

「メイヤー! ブルートフォースは?」 

 

«やってる! “ルトラ”のリソース全部回して解析にあたらせてるけど、PINの後に要求される15桁のパスが一秒おきに更新され続けてるみたいで、普通の方法じゃあ追い付かないよ!»

 

 間髪入れずに咽頭マイクからライン生命の技術者の一人へと通信を入れる。

 メイヤーが来ているの? と疑問に思うドロシーは過熱し続けている脳の記憶を探れる限り探るが、そんな気配はどこにも無かったはずだ。

 何かが起きている。ドロシーの知覚できない何かが。ドクターは理解している何かが。

「直接見たが、こいつらはドロシーを生体CPUとして外のパワードスーツと通信し、指令を送ってるらしい。急造の通信方式ならそう硬いセキュリティも用意できない。パケットを盗聴すれば暗号生成アルゴリズムを抜けるはずだ」

 

«了解! スニッフィングソフトを走らせてるよ!»

 

「頼む! ……ドロシー」

 通信を終えたドクターは再び培養層へと歩み寄り、眠るドロシーにガラス越しに声を掛けた。

 施設内を満たす冽緑の燐光が、彼の表情を照らし出している。

 暫く、施設にはインキュベータが稼働する低い唸り声だけが響いていた。

 どこか遠くで、遠雷のような爆音が響いている。

 ガラス越しに、ブリキの子宮の内と外で私たちは目を合わせた。

 彼はもう、全てを理解しているようだった。だからこそ、彼はここに来た。彼が来たのだ。

 

「俺たち、どうやら間違えてしまったな」

 

 その口が開かれる。

 ドロシーは首を振って否定したかった。違う、あなたは間違ってなんかいなかったわと。間違えたのは私だと。けれどやはり体は動かず、唇は開かず、瞼は上がらない。

 男は悪戯がばれた子供が悪友とそうするかのように、静かにそう言って苦笑した。

 

「帰ったら、ふたりで一緒にケルシー医師とアーミヤに怒られてくれるかな。俺一人じゃ、怖くてとてもじゃないが顔を合わせられないんだ。

それが終わったら、ふたりで話をしよう。君が抱えて苦しんでいたものと、俺が自分には資格が無いと逃げ続けていたことについて。

俺も君も、こういったことには本当にノウハウや知識や耐性がないから。多分、きちんと話をするべきだと思ったんだ。そうだろ? 俺達は……本当に、どこからどこまでも、似た者同士だからさ」

 

 こんな時なのに、心の中でほんの少しだけ笑ってしまった。

 ドクターが怒られるのなら、私はいったいケルシー先生にどうされてしまうの? などと考えると、ほんの少しだけ面白い。

 彼はこういう人だった。ドロシーが苦しければ苦しい時ほど、不器用にユーモラスで、へたくそな慰め方で寄り添ってくれた。

 伝達物質が見せていた夢に罅が入り、泡が弾けるようにしてひとつずつ見えなくなっていく。

 ドクターは目の前にいる。ドロシーはもう、見せ続けられたものを否定することをやめた。ゆえに、もう夢を見る必要はない。

 

 私は、この男に恋をした。どうしようもないほどに、あのトリマウンツの星空の下で。

 

「でも、これだけは先に言っておくべきだと思う。それくらいは、俺にも分かる」

 施設内に、警報音が鳴り響いた。システムに侵入者──ハッキングを受けていることを示すエラーコードがコンソールに表示され、そしてすぐにディスプレイそのものの電源が落ちて画面が暗くなる。

 メイヤーがドクターの指示を完遂したのだろう。伝達物質が起こしたデッドロックを解除しようとトランザクション再実行が行われ、処理が始まる前に管理者権限で伝達物質の強制停止コードと培養器のシャットダウン命令が発信された。

 

 

「俺なんかに恋をしてくれて、ありがとう。ドロシー。支えてくれて、護ってくれてありがとう。

俺の、一番大切な友人。俺は君の恋に応えることはできない」

 

 ぶつん、とラップ音が響き、低く響き続けていた振動音が消えた。

 施設全体を包んでいた燐光がゆっくりと消え去り、強制稼働させられていた機器たちがその役目を終えてインジケーター類の表示を消し、ひとつ、またひとつと電源を落としていく。彼女を幽閉していたエメラルドの都が、崩れ去っていく。

 同時にドロシーの脳を占拠していた伝達物質も体外へと排出されて、彼女の身体は自身へと返還されはじめた。ゆっくりと、徐々に意識が浮上していき、その指先人差し指が僅かに、ぴくりと動く。

 培養器のハッチの施錠が解除され、気密ロックの解放される排気音と共に扉が開く。只の溶液となった伝達物質が排水されて床を満たし、外へと倒れ込んだドロシーの身体をドクターが抱き留めた。

 

「恋してくれて、ありがとう。俺が君にしてきたこと全て、すまなかった」

 

「──私の、こんなに醜い恋を。

それでも、あなたは許してくれるの?」

 身体に力が入らないまま、ドクターに抱き支えられてその温もりを感じている。そんな自分が滑稽で、どうしようもなく惨めで、幸せで、そして。

「許すよ。嬉しかった。本当に嬉しかったんだ。

人を愛することすらままならないこんな不出来な人間に、その大切な感情を向けてくれてありがとう。

でも、すまない」

「いいの。謝らないで。

ドクター、あなたを好きになれて良かった。あなたと一緒に夢を見られて、よかった」

 

 

「あなたにきちんと振ってもらえて、ほんとうに、よかった」

 

 

 長く、緩やかな吐息の音が小さく響いた。

 遠くで響いていた戦闘の音が止んでいて、荒野はいつか見たような静けさを取り戻していた。

 初めて経験した失恋は、身を裂くような甘い痛みだった。

 ぼんやりと、ようやく涙を流すことができたドロシーは呟く。

 

「ケルシー先生とアーミヤちゃんのお説教、どれくらい怖いかしら……」

「多分トラウマになるよ。暫くは悪いことできないな」

「ふふ、そうね」

 

 照明の落ちた培養施設で、出入り口が切り取った星空は。

 どこかで見たことがあるような無様さで、まるで私のようねと。

 ドロシーは、そんなことを思った。

 

 

 

 

「先生! 退路が塞がれてる、もうこれ以上はどこにも逃げられないよっ」

「完全に囲まれてます! これ以上はもう……ごほっ、ゴホッ!」

 

 エイヤフィヤトラの咳き込む声に、ワルファリンの表情が険しく歪んだ。

 前線を押し上げてくるパワードスーツだけを叩きながら少しずつ後退を繰り返し、三人は何とかここまで時間を稼いできた。

 ワルファリンが所持していた遮断薬は既に底をつき、空になったバッグは既に何処かへ投げ捨てた。汗に濡れた髪は頬に張り付き、荒い呼吸を繰り返した喉が酷く痛む。

「二人とも、こちらへ!」

 這う這うの体でワルファリンが見つけた小さな岩場へと飛び込み、いくつかの方角からの射線を切る。パワードスーツたちの動きは次第に三人を包囲するようなものに変わってきており、エイヤフィヤトラとアンジェリーナは途中何度もアーツを全力で発揮して窮地を切り抜けてきた。

 だが、それももう限界だ。いや、限界などとうに踏み越えている。

「よし、診せよ……んん」

 二人を岩の隙間へと座らせ、ワルファリンは何度目かも分からない診察を始める。とは言っても、投与する薬も手当てするための医療器具も使い果たしていた。気休めの、無意味な診療だった。

 アンジェリーナの腿に表出した青い源石が過熱し、その周りの肌を黒く痣にしている。エイヤフィヤトラは脂汗を流しながらひどく咳き込み、急性中毒症状の兆候が表れ始めていた。

 耳を聾するほどの金属音。伝達物質によって遠隔操作されるパワードスーツが立てる足音が何重にも重なり合い、彼女らの死を告げる濁流となって押し寄せてくる。

 空には星々、地には百を超えるであろうカメラセンサーのインジケーターがもう一つの星空を作り出して、ゆっくりと包囲網を狭めてくる。

 

「たたかわ、なきゃ」

 

 浅い呼吸を繰り返しながら、エイヤフィヤトラが顔を上げて立ち上がろうとする。ワルファリンが慌ててそれを押しとどめると、ぼんやりと焦点の合わないローズグレイの瞳が不思議そうにこちらを見た。

「なぜ……?」

「馬鹿者が。そんな状態であと一発でもアーツを放ってみよ、二度と生きてドクターの顔を拝めんぞ。安心院、そなたもだ。患部周囲の壊死が始まっておる。それ以上体内の源石を励起させれば、脚を根元から切り落とす羽目になるぞ」

「でも、先生。ここでやめたら、どっちにしろ私たち死んじゃうよ!」

 横目で迫りくるパワードスーツの大軍を伺いながら、アンジェリーナが焦りに上ずった声を出した。ワルファリンは一つため息を吐き、しかしここまでよく保った方かと独り言ちた。

 生まれが生まれなら、どこかの移動都市でまだ学生をやっているような歳の少女だ。エイヤフィヤトラもそうだが、アンジェリーナはむしろこのような窮地によく落ち着いて対処したものだと言える。ことここに至っていよいよ万策は尽き、焦りと恐怖が少女の心を蝕みつつあるのだ。

 しかしワルファリンまでもがそれに引きずられるわけにはいかなかった。恐怖に圧し負けそうなアンジェリーナの両頬を両手でしっかりと包み、その目を正面から見つめる。

 なるだけ落ち着いて、ゆっくりとした声色で話しかけた。

「大丈夫、妾らは未だ死んではいない。其方らがここで戦えばその先に道はないぞ。絶対にアーツを使ってはならん。無様に這ってでも彼奴らの隙間をどうにか潜り抜けるのだ。なるべく遮蔽の多いルートを探して、あれらの遠距離攻撃をいなしながら──」

 

「先生危ないっ!!」

 

 ワルファリンの言葉に冷静さを取り戻しかけていたアンジェリーナが、ふと視線をずらしてあらん限りに目を見開いた。

 岩場を回り込んで射線を通したR-11a突撃型の隊列が放った対人ミサイルが、真っすぐにワルファリンの背を目指して空を引き裂き轟進してくる。もはや退避は不可能な距離。アンジェリーナを落ち着かせるために一瞬だが意識を逸らしていたワルファリンの、手落ちだった。

 刹那。ルビーの瞳が閃光のごとく輝く。

 背後を確認。彼我の距離を目測しつつアンジェリーナを岩場の奥へと突き飛ばして距離を取る。

 懐からシリンジを取り出す。自らの瞳と同じ色の薬液を、素早く自らの腕に刺して投与。

 空気を引き裂く音。残り五十メートル。

 ワルファリンの背から血液が噴き出し、それが巨大な翼手の翼を形成する。被膜の無いそれは大きく伸び、岩場の隙間、その入口に蜘蛛の巣の如く張り巡らされ、血の盾を形成した。

 残り十メートル。ワルファリンは頭を腕で覆い、防御態勢をとる。

 打てた手は、そこまでだった。

 

 

 眼前一杯に、光が広がった。

 

 

 着弾。爆熱と轟音。視界が真白の光に染まり、網膜を焼いて眩暈を引き起こす。

 身を隠していた岩場は消し飛び、辺りに砂煙がもうもうと立ち込める。ワルファリンの咄嗟の行動によって直撃や爆風をもろに受けることは無かったものの、エイヤフィヤトラとアンジェリーナは衝撃波によっていくらか吹き飛ばされた。

 遮蔽物としてはもう意味をなさなくなった岩場の残骸と、枯れた下草を燃料に燃える僅かな火と、土煙と、そして倒れ往く白髪の医者の姿。

 エイヤフィヤトラは朦朧とした意識で、アンジェリーナがワルファリンの許に這いずっていくのを見ていた。

 悲痛な叫び声がくぐもって聴こえる。何を言っているのか、その言葉の意味は聞き取れなかった。

 一部が炭化し、皮膚が焼け落ちて真赤な筋肉や背骨が剥き出しになったワルファリンの背中。ぴくりとも動かない彼女に縋りついて、震える声で何かを叫ぶアンジェリーナ。

 そういった光景が、すべて厚い膜を隔てた向こう側の出来事のように、判別できない曖昧な音を伴って目の前に広がっている。

 瞼が重い。

 眠気に抗うことすら億劫になるほどに身体が重い。まるで地面に身体が縫い付けられているかのようだ。

 

 起きて。早く立ち上がって、戦わなきゃ。

 

 意識の遠くで、自分の声が囁いたような気がした。

 ワルファリンは倒れ、アンジェリーナは泣きじゃくりながら彼女の傍に寄り添っている。あれではもう、戦うことはできないだろう。自分がやらなければ、自分が戦わなければ。

 はやる心と反比例するように、身体と瞼は重くなっていく。意識と身体が剥離していく。

 自分が立ち上がったところで、何ができるのだろうか。ふと、そんな思いが脳裏を掠めた。アーツはもう使えない。身体はいうことを聞かない。そんな状態の自分が、心だけは一丁前に立ち向かって、何ができる?

 白い紙に落としたインクのように広がっていく絶望が、固めたはずの決意の隙間に染み込み、エイヤフィヤトラから体温を奪っていく。

 怖かった。

 閉じる瞼に抗えない。彼女は助けを乞うように、半ば無意識に唇を開く。

 

「──せん、ぱい」

 

 

 

 

▼△

 

 

 

 

 エイヤフィヤトラは、見渡す限りの白い砂浜に立っていた。

 透き通った遠浅の海と、浜の向こうには大きな火山が白い煙をもくもくと立ち昇らせている。雄大な山肌には沢山の火山花が咲き誇っていて、鮮やかな色合いの葉がその威容を美しく飾っている。

 其処は彼女の知らない場所だ。ニューシエスタのようでも、リターニアのようでもある。けれどどちらとも違う。遠くの風景には靄が掛かっていて、そこがどこなのかを判別することはできない。

 靴の裏に感じる砂の感触に意識が行くと、それは砂ではなく白い火山灰であることに気が付いた。

 打ち寄せる優しい波は海のものではなく、向こう岸の見えない広大なカルデラ湖だ。

 エイヤフィヤトラは今幼い頃の姿であり、学生の頃の姿であり、オペレーターとして働き始めた頃の姿でもあり、母の白衣を受け継いだあの日の姿でもある。

 

 彼女の両手はそれぞれ、顔の見えない誰かと繋がれている。

 すべすべと白くて柔らかい、暖かな手。ごつごつと乾いていて、彼女の手をしっかりと握ってくれる大きな手。

 砂浜の向こうには、黒いフード付きコートに身を包んだ男が独り、ぽつんと立ち尽くしていた。男は宙を見つめている。あんなにも青いのに、双月と星のまたたく不思議な宙を。

「先輩~!」

 エイヤフィヤトラはその姿を見ると無性に嬉しくなって、つい彼の許へ駆け寄ろうとしてしまった。しかし彼女の手を握っている存在のことを思い出し、踏みとどまってから振り返る。二人に伝えてあげなければならない、彼こそが私の生きる意味なのだと。つないだ手は堅くて、このまま黙って話してしまう訳にはいかなかったから。

 

 

「楽しい人なの!」

 小さなエイヤフィヤトラはそう、無邪気に言った。

「憧れのひとなの」

 制服を着たエイヤフィヤトラは、一冊の書籍を胸に抱いてそう言った。

「私の、先輩なんです」

 オペレーター服に身を包んだエイヤフィヤトラは、涙を一筋流してそう言った。

 

 エイヤフィヤトラは少し考えた。二人は微笑みを浮かべ、彼女の言葉を待っている。つながれた手はずっと、その言葉を待っている。

 彼女の頭上に、桃色の綿毛を風に遊ばせる大きな獣主が現れた。彼は普段なら風車のようによく回るであろうその口を、今だけは開かなかった。エイヤフィヤトラの額にゆっくりと顔を近づけ、触れるようなキスをして、そしてそのローズグレイの瞳を暫し見つめる。

 溢れんばかりの愛情が、目に見える形になって彼女の前に広がった。彼女が生まれてから今この瞬間まで、沢山の人々が彼女を愛し、慈しみ、生きてと願った。言葉が無くともそれを感じ、エイヤフィヤトラは自らの胸の奥が暖かく灯る火に満たされるのを感じている。

 エイヤフィヤトラは幸せだった。これからも幸せでありつづけるつもりでいる。そして、彼女はひどく傲慢だった。

 恋をした。傷つき迷う、あの男に。

 だから、彼にも幸せになって欲しい。

 唇を開き、それを言葉にする。

 

「私、あの人を幸せにしてあげたいんです」

 

 エイヤフィヤトラは、二人の手を離した。

 羊主は目を細めると、火山が吐き出す白い雲に融けるようにして消えた。

 二人は微笑むと、物静かで穏やかな男と、優しく溌溂とした女の声で、揃えて言った。

 

 

『カトラの火よ。

エルドギャゥを割り、ヨークトルを割り、その姿を顕そう。

土を割り、氷を割り、その姿を現わそう。

いま生きとし生ける者らが微睡む時は終わり、火が春を連れてやってくる。

いのちの熱は赤き血潮となって、我らに死と生を連れてくる。

 

生きとし生けるものらよ、巡る目覚めを言祝がん。

この地を歩み、怖れ進む美しきものらよ。

我らに、カトラの火が宿らんことを──』

 

 

 

 忘れていた詩の続き。父と母が愛した、何処かの誰かの、名も無い詩。死を恐れ、それでも前に進み、その先に暖かな春を見た先人たちの感動はどれほどのものだったか。

 そっと、エイヤフィヤトラの背をそれらの文言が押したようだった。

 

「行ってきます! お父さん、お母さん!」

 

 そして女は、己の生きる意味に向かって花咲くような笑顔で走っていった。

 もう怖くない。絶望はない。

 私は生きる。生きて、そして死ぬのだ。

 

 

 

 

△▼

 

 

 

 

「ワルファリン先生、死んじゃだめだよ……」

 

 ぽたり、ぽたり、と自らの掌に落ちる、暖かな雫の感触。それを感じて、ワルファリンはわずかに目を開けた。

 顔をぐしゃぐしゃに濡らしたアンジェリーナが彼女の傍にひざまづいていて、アンジェリーナの背後では巨大なマニピュレータをぎちぎちと引き絞ったR-31a大型パワードスーツが、今まさにその絶死の鉄槌を下さんとしているところだった。

 口が動かない。辛うじて意識は戻ったが、身体は一切言うことも効かない。アンジェリーナに避けろと伝えることもできない。

 最早ここまで……とワルファリンは覚悟を決める。結局、彼女らを護ってやることができなかった。

 ワルファリンは自らに迫る死を睨みつけながら、妾にはちと荷が重かったよ、と心の中でドクターに一言謝罪をして、目を閉じようとしそして──。

 

 

 ──そして、視界の奥で花咲く火山が息を吹き返すのを見た。

 

 

「カトラの火よ」

 声と共に、光が弾ける。

 熱線が迸り、パワードスーツのセンサー類が攻撃を感知するより前に、それの両腕は肘部から上を残して溶断された。がこん、とチーズか何かのように焼き切られた腕が地に落ち、鈍い音を立てる。

 アンジェリーナがその音に振り返り、攻撃手段を失って立ち尽くすパワードスーツを見て、勢いよく声のした方向へと視線を向ける。

 そして、涙まみれの顔に驚愕と満面の笑みを浮かべ、彼女の名を叫んだ。

 

「エフィ!!」

 

 十数メートルほど離れた地点に整列した突撃型が一斉に発射器を構えた。一瞬で照準を済ませ、数十発もの対人ミサイルが三人に向かって放たれた。

 飛来するそれらを見つめるローズグレイの瞳が僅かに伏せられる。それらをなぞり、宙に星座を描くように動く指から、赤い火花が散る。

 エイヤフィヤトラの頭上に、黒い王冠が現れた。それはアーチや帽子部のないシンプルなもので、まるで黒い骨を輪に繋げたもののようにも見えた。前面の放射のみが角のように長く伸びた形状は、彼女を愛し見守る獣主が頂くそれと同じものだった。

 

「*太古の不明な言語(その姿を顕そう)*」

 

 エイヤフィヤトラが歌い上げるように呟くと、彼女の前方に広がる地面が割れた。

 地割れから赤熱する熔岩が噴きあがり、大気すらも焼き焦がす溶熱の壁を作る。ミサイルはその全てが熔岩の壁に接近した時点で自爆し、付近にいたパワードスーツたちはまとめて熔岩に呑み込まれ、瞬く間にそのかたちを失い、融けて消えた。

 その光景を見て取るや、残った全ての機械はエイヤフィヤトラ目掛けて全速力で走りだした。

 重たい駆動音が幾重にも重なり、死の津波が迫る音となって彼女を轢き潰さんと迫る。

 エイヤフィヤトラの手の中に生まれた灼熱の溶岩が火花を散らしながら形を変え、細く長く伸びる。それは瞬時に冷えて固まり、彼女のアーツユニットの形を成した。漆黒の杖に火山花が寄り添うように咲き誇ったそれを、彼女は振り上げる。

 杖の先端に光が集まり、圧縮され、急激に温度を上昇させる。灼熱が起こした対流が光を歪めるさまは、まるで空間すら融解させようとする熱量の暴虐。それが収束し、臨界を越え、エイヤフィヤトラによって指向性を与えられて撃ち出される。

 極太の熱線が横薙ぎに照射され、向かい来るパワードスーツたちを切断する。

 大爆発が起こり、燃え上がる爆炎がアンジェリーナの網膜を眩ませる。凄まじい熱を含んだ風が髪をなびかせた。

 

「す、ごい……」

 

 アンジェリーナは彼女の後姿を見ていた。王冠を頂き、杖を掲げるエイヤフィヤトラの姿を。

「ゴホッ、えふっ……阿呆が、アレを今すぐやめさせろ……ごほっ!」

「ワルファリン先生! 大丈夫なの!?」

 辛うじて喉の再生が間に合ったワルファリンが呻き、アンジェリーナが驚いて彼女の肩を支えて起き上がらせた。ブラッドブルードの医師はアンジェリーナに縋りつくようにして、血の気の引いた顔で囁く。

「あのような……あのような常軌を逸したアーツは、サルカズの王庭ですら……このままではッ!」

 

 

「このままでは、エイヤフィヤトラが死ぬぞ!」

 

 

 残った敵機は仲間の遺骸を踏み越えて迫る。二度目の閃光が走り、再び爆発が起こる。発射機を構えた突撃型が遠距離から支援を行おうとした瞬間、カメラのフラッシュを焚いたかのような光と共に溜め込んだ炸薬ごと一万℃を越える熱に晒されて爆発し、どろりと赤熱した合金と化す。

 再び立ち昇った熔岩の壁が敵の進撃を阻み、投射された超高熱のアーツ・エネルギー弾がそれらの上空から降り注ぎ、敵を平らげる。

「せん、ぱい」

 エイヤフィヤトラは無意識に呟いた。熱風が髪を吹き上げ、また十数機のパワードスーツが溶解する。

「せんぱい」

 耳に届いていた爆音が徐々に小さくなっていった。視界が端から白く曇りはじめている。

 三射目の熱線が放たれ、一拍遅れて爆発が起きる。荒野の大地が大きく抉れ、融け落ちた機械の残骸が底へと転がり落ちていく。

 音が、光が、消えていく。

 それでもエイヤフィヤトラは、戦うことをやめなかった。力は、アーツは身体の底からこんこんと湧きだしてくる。彼女は今、終わらぬ噴火を続けるひとつの火山だった。

 彼女の目は、そこに居ない男を捉え続けている。徐々に白く、暗くなっていく視界で、それでもその黒いフードの男の背を見つめ続けていた。

「せんぱい」

 聞こえなくなっていく耳で、それでも男の声を聴き続けていた。

「せんぱい」

 

 百機以上ひしめいていたブリキ人形たちが、消しゴムで抹消される書き損じのように消し去られていく。赤熱する熔岩に押し流されていく。

 エイヤフィヤトラは、ただ待ち人のことだけを考えていた。彼女にはもはや自分たちを抹殺しようと迫る機体たちの姿など見えてはいなかった。ドクターはやり遂げる。必ず生きて約束を守る。

 だから、自分も生きる。それは彼女の中では必然であり、変えようのない未来だ。

 

 エイヤフィヤトラは手に力を込めた。自らの手が黒い石に変わっていくのが見えたような気がした。

 熱が収束する。大気が甲高い叫び声を挙げ、それが解放されるのを待っている。

 この星の中心から熱を汲み上げて、それをさらに熱く、熱く。特大の劫火が主の号令を待つ。エイヤフィヤトラは射線を定め、己の身体から命をかき集めてその熱に吹き込める。

「せん、ぱ──」

 

 生きとし生けるものらよ、巡る目覚めを言祝がん。

 この地を歩み、怖れ進む美しきものらよ。

 我らに、カトラの火が宿らんことを。

 

 両親がくれたあの詩の続きが、頭の中で斉唱される。命を懸けて、彼に会うために。

 私はこの命を、燃やしている。

 

 

 

 

『──もういい。もう、止せ』

 

 今まさに最後の熱線を放とうとしていたエイヤフィヤトラの手に、誰かの手が優しく乗せられた。

 

 視界が戻ってくる。視線を動かしてそちらを見ると、そこには精悍な顔つきのヴイーヴルの姿があった。辺りは一面が焼け野原と化していて、そこかしこにもはや原型が何だったのかも判別できない焼け焦げた鉄の塊がうずたかく積み上がっている。

『それ以上続ければ、ドクターが悲しむだろう。安心しろ、彼は無事だ。あいつはやるべきことをやり遂げた。あいつもお前も、やり遂げたんだ』

「あ……」

 語るサリアの言葉に、エイヤフィヤトラはようやく反応を返した。彼女の杖は火山灰となって消え去り、頭上に頂いた王冠は元から幻であったかのように消え去った。

 ドクターが生きている。

 その言葉が、彼女の噴火を止め、その火を優しく消し止めた。

『手間をかけたな。ミュルジス』

気にしないで、オリヴィアとあなたの頼みだし。それに、私の親友の一大事でもあるもの

 サリアが、視界の外にいる誰かと話している。それを、エイヤフィヤトラは何処かふわふわとした意識の端で聴いていた。

 

 ぽつり、ぽつりと雨が降り始める。空はいまだよく晴れた星空だというのに。

 まばらに残っていた、辛うじて動いていたパワードスーツが雨に濡れると同時に巨大な水球に包まれ、その動きを完全に止める。

ほんとうにお疲れさま。美しくて畏ろしい、雄大な火山だったわ。今は、ゆっくり休んで

 サリアのものとは違う、穏やかに流れる水流のような声が何処からか響いた。しかしエイヤフィヤトラは、その言葉に反応を返せなかった。

 冷たくて心地よい水が、エイヤフィヤトラの身体を包む。すると、どこかに置き忘れていたのだろうか。凄まじい疲れと眠気が襲ってきて、エイヤフィヤトラは押し流されるように意識を手放す。

「よかっ……」

 

 

 怖れのない眠りが、今度こそ、エイヤフィヤトラを抱き寄せた。

 そして、荒野に静寂が訪れる。

 

 

「……」

 目を伏せ、静かに痛みを堪えるような表情をするサリアの肩に、そっとミュルジスが手を置いた。

「行きましょ、私はあの二人を連れていくから。この子は……あの人の傍に居るべきよ」




次回、最終回です。
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