Fate/SamuraiRemnant異聞 伊×槍決闘譚 作:葛轍偲刳
「兄貴思いの、いい嬢ちゃんじゃねえか」
長屋を出て吉原に向かう途上、青い槍兵はのんびりと呟いた。身内への賛辞を受けて、しかし伊織としては右手で顔を覆ってしまう。羞恥というか、むしろ自省の念に駆られてのことである。
「いや…その、なんだ。実に、面目ない」
紅玉の書の指示で買い求めてきた素材を基に、どうにか伊織が魔術工房らしきものを拵えると、その間に二人分の朝餉の支度を調えていたカヤは「支度している間に自分は摘まんだから」と言って自分は箸の一つもつけず、二人が食べている横で昨夜ランサーが傷の手当てのために破った着物の左袖もあり合わせの糸と針で手早く繕い、破れほつれが目立たぬようにしてくれた。
挙げ句、「兄ちゃんが着れるような古着が家にないか探してくる」と言って早々に腰を上げると、その帰り際まで「怪我してるんだから、尚更ちゃんと食べないと駄目なんだからね!」と義兄に繰り返し苦言を呈し、日頃の行いのせいで返す言葉もない伊織は今さらのように義妹に世話をかけてばかりの自分の情けなさを省みることとなった。
「あの調子だと、今後もちょくちょく顔を出してきそうだな。兄貴が何を言っても、素直に聞く気はなさそうだ」
「…そうだな」
出来ることなら、しばらく小笠原の家にいて欲しい。面倒な厄介事に巻き込まれてしまった自分とは距離を置いて、できるだけ安全な場所にいて欲しいと思う。
小笠原家は仮にも大名に名を連ねる譜代の家柄だけあってご公儀の覚えもめでたく、その江戸屋敷の警備も手厚い。生前の宮本武蔵も客分として厚遇を受けていた時期もあり、その縁で二天一流が弟子筋の使い手も家中には少なくない。そこいらの牢人だの盗人だのが易々と入り込めるような場所ではない。
とはいえ、おそらくカヤが大人しく屋敷の中に引き篭もっていてくれるとも思えないのも事実。
『いくさですね! カヤもお手伝いします!』
伊織が危険だからと説得しようとしたところで、そう言って拒まれるのが目に見えている。全ては自分の日頃の行いのせいであると思えば、それもこれも自業自得ではある。
「おい、マスター。大丈夫か?」
いつの間にか立ち止まってしまっていたことに気付くと、顔を覆う右手の指の間からランサーが覗き込んできていた。
「…自分の未熟さと至らなさを恥じていただけだ。義妹に世話をかけてばかりで、兄らしいことは何もしてやれていないのだからな」
「そう思うんなら、何かしら埋め合わせなりご機嫌取りでもするんだな。ほれ、例えば…あれなんかどうだ?」
そう言って美丈夫が目で示したのは、通りを行く年頃の町娘が高く結い上げた黒髪に挿している鼈甲の簪だった。
「嬢ちゃんだって年頃だろ? 綺麗に着飾ることに興味がねぇわけじゃねえだろうよ」
「それは、そうだが…ただ、先立つものが、な」
「おいおい、情けねえな。だったら、もうちょい妥協して…、菓子だの果物だのなんてのはどうだ? 甘味が嫌いな女子供はいねぇだろ」
「俺が何か買い与えようとすると、カヤはいつも一番安いものでいい、と言って聞かなくてな…」
露骨に憐れむような目で見つめられた伊織は、さらに頭が重くなった。
「…なあ、その年になっても義妹にそこまで気ぃ遣われてるのかよ? そんなんだから、なおさら兄貴の世話を焼いてやらなくちゃならねぇと思われてんじゃねえのか?」
「全くもって、一言もない」
「ったく、しゃっきりしろよ。だらしねえ」
呆れたように頭を振る槍兵に肘で軽く右肩を小突かれ、何やら木材を満載した大八車が正面から向かってくるのに気付いて道の脇に避ける。そこで今さらのように、自分達が人通りの多い道に出てきていたことに思い至った。
ふと傍らの美丈夫に目を転じ、二度、三度と目を瞬かせる。
「…すまん、ランサー。俺の目の見間違いでなければ、貴殿がいつ着替えたのかと訊いてもいいか?」
群青色の異国の戦装束に身を包んでいたはずの槍兵は、伊織の目には江戸の町民と同じような着物姿へといつの間にか衣替えをしているように見える。
「いや、着替えてはいねぇよ。ちょいと幻惑のルーンを使っただけだ。こいつは光の屈折を…っつってもわからねえか。要するに見た目を変える簡単な幻術で、ついでに軽い認識阻害の暗示も兼ねてる。もっとわかりやすく言えば、オレが異国の余所者だって周りに気付かれにくくするような術を、な」
「芸達者なことだな」
魔術使いとしても半人前の伊織としては、多芸多才な槍兵の器用さに驚くばかりである。実際、道行く人々も抜きん出た長身と端正かつ精悍な面構えの美丈夫に賛嘆の目は向けても、明らかに異国の髪や目の色にも関わらず、さほど奇異の念は抱いていないようだった。
これだけ目立つ風貌の持ち主であれば、普通はもっと騒ぎになってもおかしくないはずだが。
「ま、それでも限界はある。人の目は何とか誤魔化せるんだが、特に獣の鼻は人の目なぞよりよほど厄介なもんだ」
そう言って身を屈めた槍兵が、足元に寄りついてきた犬の頭を撫でる。盛んに尻尾を振って喜ぶ犬は地面に背中をつけて腹を見せる。
「おうおう、なんだ、こっちも撫でろってか?」
槍兵は相好を崩し、さらけ出された犬の腹を手で撫で回す。
「犬が好きなのか、ランサー」
「おうよ。好きっていうか、他人とは思えねぇっていうかな」
犬を可愛がる槍兵の楽しげな様子に、それにつられた伊織が膝を曲げて身を屈めると、起き上がって地面に座り直した犬はワンと一声鳴いた。
「よしよし」
土埃のついた耳の辺りを手で優しく拭うように伊織が撫でると、犬は気持ち良さそうに目を細めた。
「マスターも犬好きか?」
「別に犬に限らない。江戸には猫もいる。鳥もいる。動物を嫌ったことはない」
「そいつは何よりだ。犬好きに悪いヤツはいねぇ。逆に、犬を見下すような連中は大体がいけ好かねぇイヤな奴らが多い。こいつはオレの経験則だがな」
不快な記憶でも思い出したように唇を思い切りひん曲げた美丈夫は、唾でも吐き捨てるように悪態を漏らした。
「特に、この国にも犬に纏わる言い回しの一つや二つはあるだろう? 何とかは犬も喰わねぇだの、何とかは犬に喰わせろだのと」
「…そうだな。あるにはある」
「そういう言い回しで人を小馬鹿にしてくるような、斜に構えた皮肉ばかりをぬかす赤いキザ野郎。でなきゃ王様気分でふんぞり返った高慢ちきな金ぴか野郎とかな。そういう連中の悪い真似を、オレのマスターはしないと信じてるぜ?」
まるでその話の中の登場人物がすぐ目の前に立っているのかと思いたくなるほどの具体的かつ詳細な口ぶりと、今にも歯ぎしりでもしそうなほどに不快感を露わにした槍兵の様子に、尻尾を股の間に挟むほどに怯えきって震えている犬を腕の中に抱き締めながら、伊織は何度も首を縦に振った。
「わかった。貴殿がそこまで言うなら、約束しよう。俺は断じて犬に纏わる言い回しで貴殿を不快にさせたりはしない」
この好漢を本気で怒らせたいのでもない限り、それは絶対の禁句なのだと肝に銘じたのだった。