Fate/SamuraiRemnant異聞 伊×槍決闘譚   作:葛轍偲刳

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漆:狂

「דְלִילָה――!!!」

 

 空気が震える。それはただ、振動波によって音を伝えるだけの当たり前の現象に過ぎない。

 しかし、それも規模による。大量の火薬に引火した爆発音がその衝撃だけで周囲に害を及ぼすように、ここまでの凄まじい咆哮は、ただそれだけでさえ聞く者の体を震わせ、激しい畏怖と恐慌を呼び起こすに足るものだ。

 

「くっ…!」

 

 思わず片腕で頭を庇うようにして衝撃に耐える伊織は、まだしも平静を保っているというだけでも賞賛に値するだろう。これだけの恐ろしげな叫喚を前にしては、足を動かして逃げだそうとするならまだマシで、腰を抜かして失禁するか気絶するかのどちらかが普通の人間の反応となるだろう。

 

「なんだ、これは。一体、これは…」

「バーサーカーだ! しかもこいつは、その中でもとびっきりだ! 気合いを入れてかからねえと、すぐ死ぬぞ、マスター!」

 

 ランサーが声高に警告を発したそれは、褐色の肌をした巨人だった。

 足元にも届かんとする長い長い翠の髪。金色の手枷を嵌められた筋骨逞しい腕は伊織の腿周りよりも太く、その太ももに至ってはカヤの腰回りよりもなお太いだろう。ライダーも稀に見る偉丈夫ではあったが、この巨人は彼よりも更に一回りか二回りほども大きい。

 この巨人に比べれば、伊織など大人と子供――どころか、その膂力の差も合わせれば無力な赤子にも等しいだろう。

 

「דְלִילָה――!!!」

 

 再び響く咆哮。

 理性もなく、ただただ激情と狂気のままに咆え猛る巨人の叫喚。

 しかし、何故だろうか。伊織の耳には、それがただ憤怒のみならず、どこか物悲しげにも響いて聞こえるのだ。どこか寂しげな、どこか切なげな響きが僅かに入り混じっているかのような――。

 

「ハ、ハハハハッ…!」

 

 が、その眼前で口元を獰猛な笑みで歪めている美丈夫は、怖じけるどころか歓喜に満ちて戦意を満身に滾らせている。

 

「おい、マスター! 行儀が悪いとわかっちゃいるが、口から涎が垂れちまいそうな最高の御馳走を前にした気分だ。どうするよ? オレは死ぬまでとことんやりあっても構わねえが、それで勝てるかどうかは正直わからん。その上で、やれ、って言うなら覚悟はしておけよ?」

「その言い分はわからんでもないが、今は却下させてくれ、ランサー。ここで貴殿を失いでもしたら、俺だけではどうにもならん。ここで死なれては困る」

「ほぉ? なら、どうしろってんだ?」

 

 目前にそそり立つ塔にも似た巨躯を前に素早く算段をつける伊織は、抜きかけていた刀を鞘に納めた。

 

「…倒すよりも、持ち堪えてくれ。俺はさっきの…この大男を付き従えていた女を追う」

「なるほど、持久戦で敵のマスターを狙うか。悪くはねえ手だ」

 

 即座に了解した槍兵は、朱槍を振り回して身構える。

 

「だが、油断するなよ、マスター。おそらく、ここら一帯は向こうの縄張りだ。隠し球や奥の手の一つや二つはあると思っておけ」

「承知!」

 

 背を向けた伊織が駆け出すと同時に、振り下ろされた巨人の拳と長槍の柄が打ち合う轟音が鳴り響いた。

 

「…こっちか、いや、向こうか?」

 

 人気の絶えた目抜き通りを一目散に走る伊織は、素早く辺りに視線を巡らせる。豪奢な縮緬の着物で身を飾った女の足である、そう遠くまで行けるはずがない。どこかに身を潜めようにも、この目抜き通りでは隠れるに適した場所などそうあるものではない。

 視界の隅で、細い枝道を曲がる影が見えた。一瞬だけ見えた白い横顔に、迷わず撓めた膝を伸ばしてそちらに駆け出す。

 

「…っ!?」

 

 それは予感か。直感か。あるいは本能か。

 そのいずれも違う。通りを吹き抜ける風が、ほんの僅かな異臭を伊織の鼻に届けた。

 遊女たちが春をひさぐ吉原では実に不釣り合いな、江戸の街並みにおいても決して嗅ぎ慣れない、それは医薬品と消毒液と、そして、ごくごく微かな硝煙の匂い。

 

 咄嗟に前方に身を投げ出して地面に転がり、辛うじて間合いを外した伊織の脚を掠めるようにして地面に銃弾が撃ち込まれる。銃声が響いたのは、その直後だった。

 

「外しましたか。初撃で片を付けられれば手間が省けたのですが」

 

 物騒な言葉とは裏腹に、その上品な声音はまるで掃除をし忘れたゴミを見つけたとでも言わんばかりに静かで、そして落ち着き払っていた。

 

「待っ…」

 

 対話の糸口を見つけようと伊織が口を開く暇すらもなく、風が舞い上げた土埃を突っ切って赤い上着を纏った銀髪の女性が突進してくる。

 あまりにも迷いのない動きに意表を突かれた伊織の脇腹、人体の構造上において肋骨が最も脆い横からの打撃を加える鉤突きが繰り出される。反射的に上体を反らしてその一撃を回避すれば、すかさず下から跳ね上がった足の爪先が顎の先端を狙う真下からの蹴り上げ。

 無理に体勢を立て直そうとせずに伊織がそのまま後方に体を投げ出し、両手で倒立してから後方に一回転して間合いを取ろうとするが、即座に間合いを詰めた相手は着地間際の足を蹴り払う。

 

「…く、…っ!」

 

 違う。斜め上から地面に向かって蹴り下ろすような軌道を描く下段のそれは、無防備に受ければそれだけで足首を砕かれかねない。そう即断した伊織は腰から鞘ごと抜いた脇差しを地面に突き立てて着地のタイミングを一瞬ずらす。その判断が正しかったことは、鞘の先端を蹴りで割り砕かれた衝撃が手に伝わってきたことで証明された。

 もはや役目を果たせなくなった鞘から脇差しを抜き放ちながら辛うじて着地すると、白手袋に包まれた手が伊織の襟首を掴んで手前に引き寄せる。そのまま投げに移行するかと思えば、もう一方の手も反対の襟を掴んだことで判断の誤りを悟る。投げるのではなく、そのまま絞め落とすつもりなのだ。

 女性の細腕とも思えぬ腕力に抗いきれずに前のめりになりながらも、せっかく義妹が繕ってくれたばかりの着物を再び傷めることに申し訳なさを感じつつ脇差しを振り上げ、伸びた襟元を切り裂いて行動の自由を確保する。

 

「――…なかなかに、粘りますねっ!」

「痛ぅ…っ!」

 

 無意味な布切れと貸した襟の残骸を手から打ち棄てながら繰り出された蹴りを、今度こそ伊織は避けきれなかった。無理な体勢から切り上げた分だけ反応が遅れた右手の甲を蹴り足が打ち抜き、脇差しを遠くへと蹴り飛ばす。手放してしまった得物を拾うのは諦めて身を翻し、改めて間合いを取り直す。

 

「は、あ、ふぅ、はぁっ…」

 

 僅かな間に肩が上下するほどに息が切れていた。

 防戦一方で反撃に出る隙の一つも見つけられずにいるが、それでもなお伊織が辛うじて五体満足で今も立っていられるのは、皮肉にも昨夜のセイバーの襲撃を受けたからに他ならない。

 あの病み衰えた痩せぎすの体で、それでも一時はランサーと互角に打ち合ってみせた剣士。そこから伊織が学んだことは、サーヴァントを外見で判断してはならないこと。相手は人の形こそしてはいるものの、猛獣などよりも遙かに危険で恐ろしい相手だということ。

 膂力も、速度も、決して人と同じだと思ってはならない。相手は一撃一撃が人食いの味を覚えた熊も同然に重く、そして虎狼が如くに素早い。しかも、明らかに人体の構造を熟知している。確実に急所を狙い、一つでも受け損ねれば行動不能か、悪くすれば即死する。

 

「…どうか、話を聞いて欲しい。俺は吉原で騒ぎを起こしに来たのではない」

 

 額から滴る汗の雫を拭う余裕すらもなく、荒い息の下から言の葉を紡ぐ。

 辛うじて、紙一重ではあるが伊織が命を拾っているのは、相手が武術や格闘術といった戦闘の技能を本格的に学んだ専門家ではないからだろう。一撃は重く、動きは素早くとも、狙いが全て急所のみでそこから外しはしないとわかっていれば、一手先を読むことは決して不可能ではない。

 二天一流は二刀流の剣術だという風聞ばかりが世間には広く知れ渡っているが、実際は異なる。宮本武蔵は必要に応じて一刀と二刀を使い分けたし、そもそも特定の武器に拘る必要すら認めていない。木刀であれ何であれ、時と場合によっては使えるものは何でも使うのが二天一流の真髄である。徒手空拳も例外ではない。刀を捨てての組み討ち術もまた伊織は師匠から仕込まれている。

 戦国の世で数多くの武術の流派が生まれ、それらの使い手が立ち会い、命がけで互いの技術を学び合い、そこからさらに洗練させ、技を練り上げてきた。伊織の体には、それら偉大なる先達の技術の蓄積が染みついている。そうである限り、相手がサーヴァントであっても、平凡な浪人に過ぎない伊織でも辛うじて食らいつくことは可能だった。

 

 ――ただし、こうしている間にも肝心の敵のマスターには逃げられているのだが。

 

「貴殿には、今ここで俺を殺すつもりはないと見た。そもそもの初撃から、その手の銃口は頭や胸ではなく俺の脚を狙っていた。そこからの拳も、蹴りも、確かに微塵の容赦も加減も感じられはしないが、逆に殺意や敵意の類いも手足に篭められてはいなかった。狙いはあくまで制圧か、せいぜい行動不能にさせるまで。であれば、対話の余地は残されているのではないか?」

 

 まさか、吉原に二体ものサーヴァントを従えるマスターがいるとは思ってもいなかった。そんなところにノコノコと無防備に顔を出した伊織を殺すつもりであったなら、もっと他にやりようは幾らでもあったはず。

 最初から敵のマスターは安全な場所に置いておいて二人で挟み撃ちにするでも良かったし、奇襲をかけるのであれば、あのごろつきどもをランサーが相手取っている最中に後背から伊織を狙えば、さらに成功する確率は上がっていたはずだ。

 しかし、相手はそうしなかった。あくまで、あの巨人が手足を振り回しても周囲に被害が広がりにくい目抜き通りに伊織とランサーが出てくるまでは手出しをしなかった。もし伊織がマスターらしき女を追わずに逃げの一手を選んでいれば、あるいはそのまま見逃されてさえいたかもしれない。で、あれば――

 

「…その言葉が、今この場を切り抜けるためだけの虚言ではないと、どうやって証を立てるのですか」

 

 涼やかな女の声が、初めて伊織の言に応じた。

 

「吉原を偵察に来たのではないと、今後も吉原に危害を加えることはないと、口では幾らでも言えるでしょう。ですが、それを真実だと証明することが可能なのですか。そうでないなら、潜伏する前に病原菌は念入りに消毒、殺菌、撃滅するべきです。速やかに、今この場で」

 

 つくづく物騒な単語の一つ一つを、穏やかな声が投げつけてくる。

 

「いや、だから、俺は…ああ、いや、そうだ。藤次という名に聞き覚えはないか? 吉原の高札に名前が出ていたお尋ね者だ。ついさっき、そいつは俺とランサーが捕らえた」

「……。…それが、何か?」

 

 知っているとも知らないとも言わず、ひとまず相手は先を促した。

 

「確か、捕らえた者には報奨金も出ることになっていたはずだ。その金の受け取りを辞退しよう。無償で吉原のために働いたという事実をもって、俺の身の証を立てるというわけにはいかないか?」

「……」

 

 黙り込んだ相手の赤い双眸は、ランサーの目の色とほぼ同じ。だが、よく笑い、よくコロコロと表情を変える明朗快活な美丈夫と、鉄面皮で内心を窺わせぬ目の前の女性とでは、その印象はかなり異なる。

 

「では、そこに条件を一つ、加えましょう」

「条件とは?」

「無償の奉仕とは、一時の方便や気まぐれなどでは決して長く続かぬもの。他者への奉仕とは、揺るがぬ鋼の信念と絶えざる無二の情熱のみがそれを可能とするのです」

 

 その断乎とした声音には、精錬された黄金にも似た輝きと、それと同時に不純物を許さぬ潔癖さが絶妙に混じり合っていた。

 

「今後も吉原のために働いていただきます。何も常に毎回ただ働きを強いるつもりはありません。ですが、報酬の一部を寄付したり、建材となる木や金属、薬の材料など見つけたら吉原にまで持ってくること。それによって、あなたを信用する担保とします」

「…どうやら、選択の余地はなさそうだな。わかった。その条件を飲もう」

 

 伊織は大きく息を吐いた。その吐息には、安堵とも当惑ともつかぬ微妙な感情が含まれていたが、本人はそこまで自覚をしてはいなかった。むしろ、それは目の前の相手から向けられる真っ直ぐな観察の眼差しに対する困惑なのだと己を解釈していたのだった。

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