Fate/SamuraiRemnant異聞 伊×槍決闘譚 作:葛轍偲刳
壱:三浦屋
「――…と、まあ、あたしの口から言えることは、これくらいかねぇ」
吉原でも屈指の大店である三浦屋の奥まった座敷に、男を惑わす蠱惑的な艶やかさと、きっぷの良い姐御肌の威勢の良さを絶妙のバランスで両立させた声が響いた。高価な椿油で撫でつけ結い上げた黒髪と、細く長い首の白さが鮮やかな対比となって、実に何とも言えない色気を漂わせている。
吉原遊郭きっての三大太夫の一角、高尾太夫の二代目は、真っ直ぐに背筋を伸ばした正座姿で正面の客人を見つめている。
「盈月の儀。英霊。令呪。霊地に地脈。そして主持ちとは別の、それぞれの霊地に紐付けられた逸れのサーヴァント。礼を言う。本当に俺は何も知らなかったようだ」
「全くだよ。魔術師ですらない、あたしでも知っていたようなことも知らない素人さんが、まさか儀に巻き込まれていたなんてねぇ」
ゆったりと吐息を漏らした厚めの紅唇ですら男好きのする卑猥さと、それでいてそこいらの男など寄せ付けないだけの高嶺の花を思わせる気高さとを、下品にならないギリギリの際どいところで両立させている。
「ああ、すっかり長話になっちまったね。ちょっと一息入れようか」
太夫が軽く手を叩くと、とてとてと廊下を歩く微かな軽い足音がして、襖の向こうから幼い声が響いた。
「高尾姐様、お呼びでしょうか」
「ああ、入っておいで」
「失礼いたします」
正座して襖を引き開けた幼い禿が姿を見せると、太夫は優しく微笑みかけた。
「茶のお代わりを持ってきておくれ。――あたしと、二人の客人の分も。ああ、それから婦長様は…」
「太夫。いつも言っていますが、私に敬称は必要ありません。飲み物も要りません。お気遣いなく。ですが、もうすぐ紙がなくなります。新しい紙を持ってきていただけますか」
話の間中、ずっと文机に向かって片時も休まず筆を動かし続けていた銀髪赤瞳の女性は凛とした声で断る。
「あーい。二人のお客人と姐様の茶のお代わり、合わせて三杯。それから婦長様に、新しい紙束を。ただいま、お持ちいたしますぅ」
詩を吟ずるように、耳に快く響く抑揚をつけた幼い声が返答し、再び頭を下げる。丁寧に音もなく襖を元通りに閉め切ってから、また小さな足音が廊下を去って行く。
「…さすがは三浦屋の禿だな。まだ幼いというのに、あれほど礼節を弁えているとは」
「褒めてもらえるのは嬉しいけどねぇ、その様子だと吉原で遊んだこともない野暮天だとお里が知れてしまうよ?」
感心した様子の伊織に、太夫は半ばからかうように、半ば物悲しげに微笑の欠片を零した。
「襖越しに足音なぞ客の耳に届けたら店の恥と言って、厳しく折檻するのも少なくはないのさ。あたしはそこまですることもないとは思うけど。今はともかく、冬の冷え切った板張りの廊下をあかぎれだらけの小さな足で音もなく摺り足で歩けなんて、ひどい無茶を言うものさ」
一瞬だけ目を伏せて、それから気分を切り替えるように明るい声音を作る。
「ああ、話が逸れたね。ともかく、あたしは盈月の儀にかける願いはないよ。早々に婦長が願いを叶えてくれたからね。今はもう、この吉原さえ騒ぎに巻き込まれることなく無事に終わってくれさえすればそれでいい」
「俺も似たようなものだ。盈月とやらにかける願いは特にない。そして義妹や、江戸の町人らが私利私欲の争いによって害を被るのは避けたい。それは人の道に反する。止められるのであれば、それは止めるべき――」
そこまで言いかけて、ふと伊織は舌の動きを止めた。頬に視線を感じて目を巡らせば、文机の紙面にのみ向けられていたはずの紅い視線が真っ直ぐに自分を見つめている。
「…婦長、殿。何か?」
「……。いえ、何も」
「そうか…」
白手袋をしたままの手で一旦筆を置いた女性は、そのまま新たに硯で墨を摩り始める。どことなく据わりの悪さを感じつつも、伊織はそのまま言葉を継いだ。
「…ともかく、止められるものなら、争いは止めるべきだと思う。互いの目的は一致していると思うが、どうだろうか」
「そうだねぇ。婦長が信じてもいいと言うのなら、あたしもその言葉を信じることにするよ。お互いに吉原と浅草に手は出し合わず、もし何かあれば力を貸し合う。ひとまずは、そんなところかねぇ」
仮初めのことでしかないかもしれないが、一時の不戦と協力の約定を言い交わした二人は僅かに沈黙する。伊織は太夫から教えられた情報を脳裏で咀嚼するのに忙しく、太夫は謎めいた微笑を浮かべたままそれを眺めている。
やや時を経て、廊下を近付いてくる小さな気配。しかし、今度は足音は聞こえない。
「失礼いたします、高尾姐様。茶のお代わりと、婦長様に紙をお持ちいたしました」
「ああ、入っておくれ」
するりと襖を引き開けて、先ほどの禿が正座姿でまた深々と頭を下げる。
小さな手が盆に乗せた湯飲みと紙束を持ち上げようとすると、それまでずっと会話に加わることなく我関せずとばかりに開け放たれたままの窓辺から夜空の月を見上げて茶を啜っていた槍兵が口を開いた。
「構わねえぜ、お嬢ちゃん。そいつはそこに置いておいてくれ。男にあんまり近づきたくねえんだろ? 無理することはねえ」
「…!」
肩を震わせ、思わず目を見開いて美丈夫を見つめる禿に、快活な笑顔で槍兵は応じた。
「見りゃわかる。察するに、男に何かしらの酷い目に遭わされたんだろうな。よほど怖い思いをしたんだろうが、そういう心の傷は治るまで時間がかかるもんだ。オレたちには構わず、下がっていいぜ」
禿は太夫に窺うような目を向けたが、無言で頷きを返されると安堵したように目を伏せ、改めて頭を下げた。しかし、今度の礼ははっきりと、槍兵へと向けられたものだった。
「…お客人には感謝を申し上げまする。失礼をつかまつります」
「応よ。あんま気を張りすぎんなよ、お嬢ちゃん」
「お武家様のお召し物の手直しと、お腰のものは替えを下にご用意しております。どうぞお受け取りのをほどを」
「かたじけない」
伊織の応えを受けて襖を閉めた禿の気配が感じられなくなってから、婦長がぽつりと呟いた。
「意外と目敏いのですね」
「ハッ、『意外と』は余計だろ」
軽く鼻で笑ってから腰を上げた槍兵が盆を手にして茶が淹れられた湯飲みを配り、紙束を文机の脇に置く。
「そうですね。訂正します。実に驚くべきことですが、幼子に気を遣うという高度な社交性を人並みに持ち合わせていたのですね」
「おい、それ、さっきよりも悪くなってねぇか?…まあ、いいや。バーサーカーにまともな会話を期待したオレが馬鹿だった。で、さっきからずっと何を書いてんだ?」
「吉原の女達の記録を残しています。残念ながら既に病が重く、おそらく今からでは治療が間に合わない可能性が高い患者は少なからずいます。それらの患者が救えなかったからと言って、その死をそのまま忘れ去られるに任せることなど出来ません」
摩ったばかりの墨に筆先を浸した婦長は新たな紙に文字を記し始める。
「十年後、二十年後、あるいは百年後に、同じような病に冒された患者が出た時、この記録が治療の手がかりになるかもしれません。文字によって過去の記録を残すことによって、人は時の流れによる忘却という恐るべき病に抵抗する手段を得たのです。私がこの地にいられる時間は限られています。であれば、手を止めている暇などありはしないのです」
決して声を荒げることなく、しかし一心不乱に筆を動かし続ける婦長に、槍兵はそれ以上は邪魔をすることなく元の位置に戻り、再び湯飲みを傾ける。
「そういや、今度は足音が聞こえなかったな」
「ああ、きっと山吹が気を利かしてさりげなく言い含めてくれたんだろうねぇ。あの子は、そういう細かいところにも目が届く子だから」
婦長に感謝と尊敬の目を向けていた太夫は、槍兵の呟きに柔らかく微笑んだ。
「着物の手直しが終わったのであれば、そろそろ失礼させてもらうとしよう。遅くまで居座ってしまってすまなかった。婦長殿の傷の治癒への御尽力についても、重ねて感謝する」
客の礼儀として出された湯飲みに軽く口をつけた伊織は、それを置いてから静かに切り出した。
「ああ、一応こちらからも一つお願いしてもいいかねぇ?」
「何か?」
「もし何か耳寄りな話を聞けたなら、その時は知らせてもらえるとありがたいんだが。特に他の喚び人やサーヴァントの情報が知れたら、教えてもらいたいんだよ。何しろ、あたしは吉原の外には出られぬ身だからねぇ」
「女の足抜けを許さぬ吉原の掟か。当然ではあるな。承知した」
「その代わりにと言ってはなんだけど、多少の稼ぎ口くらいなら紹介できるよ」
「念のために訊いておくが、それは吉原のために働くという婦長からの条件とは別に、の話だろうか」
用心深く確認してくる伊織に、太夫は軽く笑ってみせた。
「もちろんさ。見たところ、どこかに仕官しているようでもなさそうだし。あたしが直接というわけにはいかないから…そうだね、山吹を出すよ。今度はあの子に話を通しておくから、その気があったら大門の近くにまで顔を出しておくれ。情報のやり取りも、その時に頼むよ」
「ありがたい。感謝する」
それを機に腰を上げた二人の客が三浦屋を辞すると、奥座敷の中には静寂が落ちた。窓からは吉原の喧噪が遠く漏れ聞こえてくるほどの重く沈んだ静寂の中に、墨を含んだ筆先が紙の表面を走る微かな音だけが響いている。
「太夫」
「なんだい、婦長」
筆を動かす手を止めぬまま、バーサーカーとは思えぬ理知的な面持ちの女傑は低く囁いた。
「ツチミカド、でしたか。あの術者のことは話さずに済ませて良かったのですか」
「……」
その問いに答える声は無かった。太夫は遠くを見るように視線をあらぬ方に飛ばし、思案に深く沈んでいるようだった。
「…婦長は信じてもいいと言ってくれたけど、さ。あたしは、どうにも男衆の、それもお武家様が、あたしたちのような吉原の女のために、本当に二心無く働いてくれるのか。そう思うと、やっぱりどこか信じ切れないんだよ。女の浅知恵かもしれないけど、もしかしたらと思うと、両天秤をかけてしまわずにはいられないのさ」
あの陰陽師が心の底から信頼に値するとは、太夫も最初から思っていない。吉原の女のために多少の薬や金子を用立ててくれはしたものの、どうせ自分など、都合の良い手駒の一つとしか思われてはいないだろう。
かといって、あの浪人が果たして土御門に対抗できるものだろうか。それもまた疑わしい。
相手は幕閣の要人にも太い伝手を持つ上、盈月の儀を開催した黒幕である。裏でどんな企みをしているか知れたものではない。
希望は見えた。観音様の化身かと思えるほどに心優しく慈悲深い婦長のおかげで、途方も無い高望みだと自分でも思っていた悲願にも、もしかしたら手が届くかもしれない無二の機会を幸運にも得られた。
だが、だからこそ太夫は臆病になる。慎重にならざるを得ない。万が一にも失敗した時に手からこぼれ落ちるものが大きければ大きくなるほどに、人は大胆には動けなくなってしまう。
「あの浪人が大人しく働いてくれれば良し。外から仕入れてきてくれた話を土御門様にもお伝えして、あたしは吉原を安堵してもらう。吉原を盈月の儀に巻き込まず、あたしたち女衆に手を出さないでいてくれれば、それだけでいい」
決然と窓の外の夜空を見上げる太夫は、内心の不安を必死に押し殺そうと眉を寄せ、唇を噛む。
「早く、終わってくれればいい。いっそ、明日にでも」
「それは困ります」
小娘のような他愛ない願望に、冗談の成分が一分も含まれない生真面目な答えを返されて、太夫は目を瞬く。
「婦長? 何が困るんだい?」
「明日に全てが終わってしまえば、その時点で私は消えることになります。それ自体は別に構いませんが、あなたの望みを叶えることなく仕事を中途半端に放り出したまま、この地を立ち去るのは本意ではありません。物事を軌道に乗せるには、もう少し時間が必要です」
その言葉の内容を胸の内で何度も咀嚼し、ようやっと飲み込んだ太夫は相好を崩した。
「まったく…なんだって、あんたみたいな人が神様や仏様の生まれ変わりじゃないのか、あたしは不思議で仕方が無いよ」
「いいえ、太夫。神に人は救えません。人を救えるのは、ただ人のみ。そして、誰かに手を差し出してもらえることで救われる人がいるのなら、それと同じように、差し出した自分の手を取ってもらえることでのみ、救われる人も、また。世の中には、確かにいるのです」
筆を置いた手をゆっくりと差し出した女傑は、薄明かりの中で静かに微笑む。
「私は、誰かを救いたい。そして、救った人に手を握られる、その一瞬の想いの温かさによってのみ、私の胸は高鳴るのです」
太夫は両手を伸ばして、その白手袋に包まれた手を握り締めた。
「ありがとう、婦長。もし本当に、万に一つにも明日に全てが終わってしまったとしても。あんたが仕事を終えられずに消えてしまったとしても。あたしはあんたに会えて、本当に良かったよ」
「礼には及びません、太夫。私はまだ、あなたの望みを叶えられてはいないのですから。全てが終わったその時に、改めてその言葉を聞かせて下さい」
目尻に感涙を滲ませた太夫に、女傑は優しく答えた。