Fate/SamuraiRemnant異聞 伊×槍決闘譚 作:葛轍偲刳
「臭ぇな」
開口一番が、それだった。
昨夜、吉原から浅草の長屋に戻り、一夜を休息に費やして。その結果、伊織の左腕は完治した。
僅かな傷痕こそうっすらと左腕の甲に残ってはいるが、これが骨まで達するほどの深い傷を一昨日の夜に受けたばかりとは誰も思うまい。驚くべきは婦長の医療技術か。その対象が人間であれサーヴァントであれ等しく傷を癒やせるものらしい。
これならば、万全の状態で戦える。今朝からは新たに敵を探索する日が始まる。第一の目的は、儀の劈頭で伊織がライダーと邂逅した際に高らかに名乗りを上げた烈士、由井正雪の所在である。
だが、出発の準備を整えて長屋から一歩足を踏み出した途端、精悍な貌を不快と嫌悪に歪ませた美丈夫が呟いたのが冒頭のそれだった。
「ランサー? 何がだ? 俺の鼻には何も感じないが…」
これが焦げ臭さの一つも嗅ぎ取れば、すわ火事でも起きたのかと伊織も疑うところだが、嗅覚に意識を向けても特段の変化は何一つ感じられない。
「臭ぇ、実にイヤな臭いだ。ぷんぷん臭うぜ。こいつは、碌でもねえクソ野郎の臭いだ」
「そうか」
まるで己の縄張りの中に侵入者の臭いを嗅ぎつけた犬のようだ、と思いはしたものの、賢明にも伊織はそれを口にすることはせず。
「何を嗅ぎつけたのかはわからぬが、貴殿がそこまで言うなら放置もできん。まずは、その臭いの元を探そう」
「ああ、そうだな。マスターには余計な手間をかけさせることになるが、こいつは放っておけねえ」
高い鼻梁をひくつかせるように低く鼻を鳴らし、槍兵が忌々しげに舌を打つ。
「ああ、向こうだ。臭いやがるぜ。己の存在を隠そうともしねえ、傲慢で傍若無人な王様気取りのくそったれの臭いが」
普段の快活な笑みはすっかり鳴りを潜め、いかにも不機嫌そうに目を細めて低く呟く槍兵の剣幕に、正直なところ伊織は悪寒を禁じ得ない。悪い予感がした。そして、往々にして悪い予感というものは、差し迫った事態が悪ければ悪いほどによく当たるものである。
「…あ? なんだこりゃ?」
浅草の大通り。通行人が盛んに行き交い、喧噪と賑わいに満ちた道が交差する一角に、見慣れぬ派手な店構えの門が鎮座ましましていた。
「こんな店が、一体いつ出来たんだ…?」
浅草の住人たる伊織ですら見覚えのない店の敷地は、確か長らく空き地となっていたはずだった。大火に備えての防火帯として、ご公儀から建築の類いは差し止めされていたはずと記憶している。
無論、そういった建前は現実には必ずしも守られるとは限らず、幕閣の要人に献金なり袖の下なりで豪商が蔵の一つも建てることが全くないとは言い切れないが。
とはいえ、槍兵が見上げている標札を見れば、『なんだこれは』と言いたくなるのは伊織も理解できる。
おそらく、店の屋号ではあるのだろうが。『巴比倫弐屋』と、そう大書されている。
「は…は、ひ…? なんと読むのだ、これは…」
「巴比倫弐屋(ばびろにや)だ、戯け。全く、無学な雑種どもはこれだから度し難い。我が至高の屋号の一つも読み解けぬとはな」
それは、傲岸不遜、傍若無人の四文字をそのまま言語化すれば確かにこうもなろうと思わせる、高慢そのものの口調だった。
「あぁ?」
振り向いた槍兵が険悪に唸る。鋭い犬歯を剥き出しにして、標的を射貫くように細めた目から殺意をたっぷりと乗せた視線を相手に突き刺す。気の弱い者ならたちまちにして気色を失うであろう凶悪そのものの眼差しを前に、しかしその声の持ち主は平然と、むしろ傲然と胸を張る。
「なんだ、野良犬にも劣る痩せ犬が天下の往来をうろつくでないわ。商売の邪魔だ。いずこなりとも疾く失せるがいい」
「てめえ、言うに事欠いて寝言をほざくな。ぶっ殺すぞ」
それは口先だけの威圧や脅迫などではなかった。紛れもなく、槍兵は本気で目の前の相手を殺す気だった。
火事と喧嘩は江戸の華とは言うものの、これは間違っても喧嘩などという可愛いものではない。ここで今にも始まろうとしているのは、掛け値無しの凄惨な殺し合いそのものである。物見高い江戸の町民といえど、何も好き好んで自分から火の粉を被りたいわけではない。人の往来の絶えなかった賑やかな通りは瞬く間に人気が失せて、閑古鳥が鳴けばさぞ映えるであろうと思うほどにひっそりと静まりかえった。
「あー…ランサー、もしや、そちらの貴人と知り合いなのか?」
不幸にも、ここで逃げるわけにはいかない伊織は致し方なく、気遣わしげに声をかける。
「んなわけねぇだろうが。こんないけ好かねえ野郎とオレが知り合いのわけがあるかよ」
「奇遇だな。我(オレ)も、このような躾のなってない駄犬を見知りおくほどに暇ではない」
果たしてこれは仲が良いのか、悪いのか。あまりにもぴったりと息を合わせて答える二人は、視線を互いの顔から逸らしもしない。
「……」
伊織は一瞬だけ言葉の選択に迷い、沈黙する。もしここで一言でも言葉を過てば、それが即座に開戦を告げる鏑矢となるだろうという確信がある。際どいところで均衡を保っている危うい空気が破綻するという予感がある。
――…が。
「なんだぁ? さっきまでは実に賑わっておったというのに、なんだ、なんだ。急に誰もいなくなってしまったではないか。一体これはどうしたというのだ? 何があった?」
「ライダー! いい加減、好き勝手にふらつくのはやめろ! ここが敵地だという自覚を持て!」
そんな、空気を読まぬ野太くも野放図な、磊落な声が辺りに響いた。
伊織が振り向くと、そこには忘れようにも忘れられない、忘れられるはずも無いほどに強烈な印象を焼き付けた偉丈夫と、その傍らに男装の麗人の二人が立っていた。
「――…ぁ」
正雪が門前に立つ伊織に気付き、何かを言おうとする。しかし、それよりも先にライダーがその大きな口を開く方が早かった。
「おおっ、そこにいるのはランサーと、そのマスターではないか! 奇遇だな、こんなところで出会うとは! それと…」
「若旦那、だ」
「む?」
赤髪の偉丈夫が槍兵と睨み合っていた貴人に目を向けると、機先を制するように金髪の青年が立て板に水の流麗な弁舌を披露した。
「我こそは世の万物を統べし真の王! 至高にして無上、絶対なる存在。しかして今は江戸は浅草に突如として現れた謎の縮緬問屋、『巴比倫弐屋』の若旦那とは我(オレ)の事よ!」
醒めた目つきで白けたように沈黙している槍兵と、どのように反応するべきか迷うように黙り込む伊織と正雪の二人をよそに、
「おお~」
ただ一人、ライダーだけが感心したようにパチパチと大きな手を叩く。確かに場違いにもほどがあるが、千両役者の切る大見得と比べても遜色のない見事な長広舌だった。
「……。あー…その、ここは、『よっ、巴比倫弐屋~』…とでも言うべきところなのか?」
「違うわ、戯け」
「す、すまない。やはり気安かったか」
「そうではない。そこは高貴なる英雄にして至高なる王への心からの尊敬と賛美を篭めて、『よっ、巴比倫弐屋!』と、腹の底から声を出すべきところだ。…さ、やってみせよ」
思わず合いの手を入れるべきかと伺いを立てると、全く見当違いの訂正をする若旦那の勢いに押されて伊織が口を開きかけたところで不機嫌そうに槍兵が制止する。
「おい、マスター。なんでてめぇがこんな野郎を褒め称えてやらなきゃならねえんだ。そんな義理なぞ一つもありゃしねぇだろうが」
「あ、ああ。そうだな」
「こんな邪魔くせぇ目障りな店なぞ、とっとと火をつけて燃やしてやりてえぐらいだが、それはそれで周りの迷惑になる。金輪際、関わらねえで近付かずに放っておくのが一番だ。オレ達も暇じゃねえんだ。早く別のところに行こうぜ、マスター」
そう言って出て行こうとする槍兵の行く手を、偉丈夫の太い腕が遮った。
「まあまあ、待て、ランサー。短気は損気と言うではないか。ここは一つ、余が持参した心尽くしの手土産を味わっていけ」
「あぁん? なんでオレが…」
「ほれ、今さっき、そこの屋台で買い求めたものだ。何でも、ここいらの名物らしい」
太く大きな指が懐から取り出した包装紙を丁寧に剥がす。乾燥させた蒸し米を固めた水飴の甘い匂いが仄かに香った。
「その名も銘菓、木下おこし! もう先に食ったことがあるならばともかく、未知なる味を一度は食ってみたいとは思わんか? ん?」
「フン…」
「チッ…」
ほとんど無理矢理に押しつけられた手の中の菓子を、若旦那はその出来を検分するようにしげしげと眺めてから、そして槍兵は舌打ちしながら渋々と口に運ぶ。バリバリと歯が乾いた米を噛み砕く音がして、ライダーは大笑する。
「うむ、うむうむ! 美味い! 素朴ながら実に奥が深い! どうだ、若旦那。この菓子に合う酒の一つも出してはくれんか?」
「…貴様、先の我(オレ)の話を聞いていなかったのか? ここは縮緬問屋だ、酒屋では無いぞ」
「そう言うな。ここの品揃えがいかほどのものかは知らんが、ここの蔵には間違いなく逸品が揃っておろう。征服王たる余の目は誤魔化せんぞ?」
ぐいぐいと押しに押す偉丈夫に、口の中の菓子を噛み砕いた若旦那は仕方ないとばかりに首を振った。
「全く、これだから盗賊どもの王は度し難い。…まあ、良い。蔵の中身をダシにされて、なお客に酒の一杯も振る舞えぬとあっては王の名折れよ」
その手を虚空に翳すと、何も無いところから白い大徳利が出現したことに伊織と正雪は揃って目を瞠る。
いかにも上等そうな白磁の徳利の口からは芳醇な酒の匂いが辺りに漂い、それ見たことかと言わんばかりに偉丈夫が手を出した。
「ほれほれ、やはり隠し持っておったではないか」
「最初から隠してなどおらぬわ、戯け。招かれざる客に我(オレ)の財を披露してやらねばならぬ理由がどこにある」
そう言いつつも若旦那が何処からとも無く取り出した御猪口を軽く放ると、早速それを受け取ったライダーは手酌で酒を注ぎ、勢い良く呷った。
「…っ、か~っ! これまた、美味いっ! なんだ、これは。察するに、この国で造られた酒であろう?」
「然り。年季の入った職人が手ずから醸造した諸白の銘酒よ。余分なものなど何一つとして入れず、ただ選びに選び抜いた米と水だけで作り上げた至高の逸品。心して飲むがいい」
酒精混じりに太い息を吐いた偉丈夫からの混じりっけ無しの賞賛の声に、若旦那は気を良くして口の端を持ち上げた。
「ほれ、ランサーも。せっかくの美酒を余が独り占めするなぞ、あまりに勿体ないではないか」
「あぁ? なんでオレがこんな野郎の出した酒を…」
「持ち主が誰であろうと美酒は美酒。酒そのものに罪は無かろうが。酒を造った職人にも失礼ではないか」
渋面を浮かべた槍兵は不平不満を全身から垂れ流していたが、かといってここで一人だけ誘いに乗らないというのはいかにも尻尾を巻いて逃げ出す負け犬のようで。いや、むしろ若旦那がそう言って煽ってくるのは目に見えていたので、不承不承受け取った猪口を口に運ぶ。
「チッ…」
口の中に広がる旨味は、ふんわりと柔らかく甘すぎず辛すぎず。
己の味覚に嘘はつけず、かといって素直にそれを表に出すわけにもいかず。
結果として、食いしばった歯から悔しげな唸りを一つ漏らしただけで黙り込む槍兵の反応に、若旦那は高笑いを響かせる。
「ふはははははっ! 負け犬の遠吠えを肴に飲む酒は美味いものと決まっているが、その遠吠えすら吐けずに歯ぎしりする駄犬の唸り声は実に愉快だ。…征服王、酒肴の褒美をくれてやる。持って行け」
若旦那が新たに取り出した大徳利は、油紙と紐で封をされていた。
「ほぉ、気が利くではないか。これは逸れのアサシンに良い土産が出来た」
「…っ、いい加減にしろ、ライダー! 敵を前にこちらの内幕を気軽に触れ回るなど、どうかしているぞ! そもそも、先ほどの菓子とて私に断りもなく、勝手に…!」
黙りこくっていた正雪が、とうとう堪りかねたように怒声を張り上げる。実際、先ほどの菓子の数と今の一言で、ライダー陣営に誰が助力しているのかは明白となった。
高尾太夫に付き従う逸れのバーサーカーと同様に、主を持たぬサーヴァントからの助力を得られれば自陣の戦力を増やせるし、時と場合によってはいざという時の隠し球として、敵に対する切り札にもなりうる。それをライダーは伊織やランサーの目の前であっさりバラしてしまったのだから、正雪が怒るのも無理はない。
しかし、たかが菓子の一つで騒ぎ立てるのはあまりに子供っぽい振る舞いだとすぐに自制したか、正雪は口を閉ざすと頭痛を堪えるように己のこめかみの辺りを白い指先で揉んだ。はぁ、と溜め息を一つ漏らしてから、勝手に酒盛りを始めている三人から目を逸らして門柱に背中を預ける。
「…由井正雪殿」
そして、その声に顔を上げると、反対側の門柱の傍に立つ青年の顔が目に入った。
「由井殿、と申し上げるべきだろうか。それとも…」
「正雪、で結構だ。宮本伊織殿」
「ならば、正雪殿と呼ばせていただく。こちらも伊織で構わない。今さらだが、一度は礼を申し上げておきたいと思っていた」
静かな声に、正雪は目を瞬かせる。
「礼…とは?」
「ああ、初めてお会いした時のことだ。セイバーに襲われた俺は片腕を怪我していて、刀もどこかに飛んで近くには見えず、とてもまともに戦える状態ではなかった」
「……」
「あの時、ライダーにランサーを抑えさせていれば、俺を殺すことも貴殿には容易かったはずだ。だが、貴殿はそうしなかった。あえて、俺を見逃してくれた。命を救われた、と言ってもいい」
伊織が頭を下げ、一礼する。
「改めて、感謝する。貴殿の動機が何であれ、俺は命を拾った。そのことについて礼を述べておきたかった」
「感謝の必要はない。喚び人(マスター)の自覚なき者を斬るは、我が信条に悖るゆえ」
硬い、白くなめらかな陶磁器を思わせる声が伊織の謝辞を突き返した。
「マスターの自覚、か。そも、正雪殿にとってマスターとは如何なる者を指すのだ? あの時点で、俺はランサーを召喚していた。手には三画の令呪があった。それでも正雪殿の目に、俺をマスターとして見るには何が不足している、と?」
「大望だ」
再び、正雪の硬い声が答えた。
「世の尋常なる手段では到底叶えられぬ大望。それこそ、盈月にかける望み。理想。願い。それらを自覚せざる者に、どうして盈月を得る資格が備わろうか」
静かに顔を上げた伊織は、やはり陶器製の人形めいた無表情の正雪の顔を真っ直ぐに見る。
「正雪殿の望みとは? もちろん、答えたくなくば答えずとも構わないが」
「否。烈士たらんと志す者が、己の理想を高らかに謳えずしてどうして理想を叶えられようか。己に恥じるところなくば、その理想は高く掲げられて当然のものである」
静かに語る正雪は、手甲に覆われた右手を握り締めた。
「私は、真に平らかなる世を創る。そのために、盈月を欲する」
その声は、当然ながら酒杯を傾ける三人の耳にも届いた。
若旦那は嘲るように目を細めたが、その目の前で偉丈夫が嘆かわしげに頭を振りながら肩を竦めているのを見て、口に出しては何も言わなかった。由井正雪は王たる者ではなく、そして人間ですらない疑似ホムンクルスである。故に、あまりに無垢な、あまりに純真に過ぎる願いを口にする正雪に、若旦那はあえてその言を無視した。
槍兵に至っては、興味も関心もなさそうに歯で猪口の端を噛んだまま、右から左にその言葉を聞き流していた。
――…だが。宮本伊織は、そのいずれとも異なる反応を見せた。
「真に平らかなる世、か。それは、さぞ美しい世界なのだろうな」
「…伊織殿?」
無理だ、と誰かに笑われたことは数知れない。そんなものを創ってどうする、と己のサーヴァントには頭から否定された。
確かに、尋常な手段では無理なのだろう、とは思う。それが果たして本当に、実現することが可能な理想なのかどうかさえ、今となっては自分でもわからない。
けれど、捨てられない。世の中の不条理に涙する弱き者の嘆きを目にして、神に救いを求めてもなお届かない悲痛な声を耳にして、それを忘れることなど出来はしない。それを聞かなかったふりをするなど、自らの心に背を向けてまで無かったことにするなど、どうして出来ようか。
だから、望んだ。願った。儚き夢と知りつつも、それに縋った。
「その願いは、とても美しいな。そして、心からそれを願える貴殿もまた、人として正しい」
その声には、虚偽や嘘は微塵も含まれていなかった。それは紛れもない本心からの声だと、それを耳にした者が誰であれ容易に理解できるほどに穏やかで、真摯な響きが篭められていた。
――…その伊織の言の葉の裏に潜む歪(いびつ)さに。その異常の片鱗に。しかし、正雪は気付かなかった。
気付けるはずがない。誠実にして純真なる志士である由井正雪は、己の理想を笑わず、否定もせず、ただただ、それを美しいものだと、貴いものだと評してくれる相手に初めて出会ったのだ。
嬉しかった。ただ、嬉しかった。その喜びはあまりに大きくて、それゆえに目が眩んだ。その胸の高鳴りはあまりに甘美で、それゆえに微かな違和感を見過ごしてしまった。
「そうか…、本当に、そう思ってくれるのか、伊織殿」
「もちろんだ。その願いは人として正しく、貴いものだと、俺は思う」
宮本伊織と由井正雪は、共に肩を並べて確かに意思を通わせていながらも、決定的にして致命的な互いの認識の齟齬に、この時は遂に気付かなかったのだった。
土日の投稿はお休みします。
既に投稿した分の手直し&誤字修正&多少の加筆はするかもしれません