Fate/SamuraiRemnant異聞 伊×槍決闘譚   作:葛轍偲刳

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参:高尾太夫

 また同じ頃。吉原遊郭。

 

「美味い。今宵は、実に酒が美味いな」

 

 血に濡れた刀を手に、旗本は月を見上げて酒を呑む。

 大身の旗本の家に生まれ、日々の暮らしに不足はない。食うに困らず、吉原に足を運べば太夫と呼ばれる最高位の遊女が下にも置かぬ持て成しをしてくれる。衣食はもちろん、酒にも女にも事欠かぬ。食うにも困り、札差から金を借りねば明日の旭も拝めぬ下々の貧乏御家人どもとは訳が違う。

 しかし、だからと言って己の境遇に全く不満がないかと言えば、それは違う。

 

「全く、武士に対する礼節も知らぬ無礼な輩が多過ぎるわ。一体、誰が戦国の世を終わらせたと思っておるのか」

 

 己の剣腕には自信がある。それこそ、今が神君家康公の御世であったなら、かの第六天魔王を号した織田右府信長公が存命の世であったならば、この腕一つで大いなる武功を立て、さらなる立身出世も望めたであろうにと、切歯扼腕をする程度には。

 

「のう? そう思わぬか、太夫」

 

 が、あくまでそれは旗本の側の理屈、身勝手で横暴な、上から目線のご都合に過ぎない。

 

「や、らせ…ない」

「おうおう、まだそんな口が利けるのか。全く気丈な女よな。大抵の女は、ここまで刻めば泣いて叫んで許しを乞うものを」

 

 贅を尽くした縮緬の着物を血の朱に染めて、伊達兵庫に結い上げた髷を振り乱し、それでもなお決然と、釣り上げた眼差しで旗本を睨む女は、美しかった。

 

「この子は、まだ吉原に来て一年にもならない。不作で年貢も払えない貧しい親の借金のかたに売られてきて、それでも年季が明ければ親元に帰れるって、か細い希望をよすがに縋って歯を食いしばって、一所懸命に生きてる。そんな子供を、みすみす見捨ててなるもんか…っ!」

 

 白刃に薄く刻まれた珠の肌からは血が流れ、点々と頬に散った血の斑に、太夫の腕の中の幼い禿は声も出せずに身を震わせるばかり。それがまた、旗本の嗜虐心を煽るのだ。

 

「笑わせる。たかが名もなき農民の小娘ごときのためにその身を張るか。そんな小娘の借金なぞ、貴様と一夜を過ごすために大名連中が積み上げる大判小判に比べれば砂金の粒にも劣ろうに。わからぬか? 貴様と、その小娘では命の価値が違うのだ」

「…関係ない。そんな金子の多寡で命が決まってたまるもんか。苦界に堕ちても必死に生きようとする同じ女に、上も下もありはしないんだよ…!」

 

 銀光が一閃し、小癪な太夫の頬を薄く切り裂く。皮一枚の斬撃に加減して済ませているのは、旗本の剣才が人格品性とは無関係に優れていることを如実に物語る。

 

「やれやれ、これだから女は度し難い。仕方あるまい。物分かりの悪い女に世の道理というものを教え諭してやるのも武士の務めだ。太夫、覚悟せい」

「――…っ!」

 

 命を捨てる覚悟はしている。

 吉原に名高き三大太夫なぞと日頃もてはやされようとも、どこまでいっても遊女の身分は日陰者の扱い。運良く大身の旗本や大名に身請けされたところで、手に入るのは己が身一つの小さな幸せだけ。あるいは、それすら望めぬ他の女達に比べれば贅沢な話なのかもしれない。自分の幸福だけでも手に入れて満足しておくべきなのかもしれない。

 

 ――…嗚呼、それでも。

 

 それでも、諦めきれぬのだ。それでも、望まずにはいられないのだ。苦界に堕ちて、身勝手な獣欲に満ちた男達の薄汚い手に身を任せても、必死に生きようとする女達に救いが欲しかった。誰かに助けて欲しかった。

 

 誰か。誰でもいい。弱い者が、ただ弱いというだけで踏み躙られるのを甘受するしかない不合理を、全てを救いようのないこの世界の矛盾を。それを正してくれるような――それこそ神仏の如く理不尽で圧倒的な存在が、この吉原に君臨することを願ったのだ。

 

「――何だ、貴様?」

 

 眩い月光が目に沁みて、目尻に零れようとする涙を堪えた高尾太夫が思わず瞼を閉じて。

 そして、暗闇に閉ざされた視界に、旗本の訝しげな声だけが響いた。

 

「傷ついた者が目の前にいれば、治し、癒やし、救うのが我が使命。その治療を妨げるのは紛れもなく害悪。ですが、未だこの地に来たばかりの身とあっては、礼儀礼節に悖るやもしれません。ですから――」

 

 まるでどこかの大名の奥方のような、確かな気品と高い教養を滲ませる美声が耳に届いて、恐る恐る目を開けば。

 

「一度だけ、忠告しておきましょう。あなたは病気です。度を超えた他者への加虐行為に興奮を覚える精神的病理には、速やかな処置が必要です。まずはその凶器を含め身近なところにある刃物は全て捨て去り、健全な肉体労働に従事しなさい。適度な疲労と鬱憤の発散が代償行為となり、病的な嗜虐趣味を緩和してくれるでしょう」

 

 赤い。燃え上がるような情熱の赤色の瞳と、同色の上着。それは日ノ本の着物とは明らかに異なる仕立ての、ごくまれに噂に聞く異人の装いのような。

 月光を浴びて冴え冴えと輝く長く癖のない銀髪を白手袋に覆われた手が無造作に掻き上げ、肩越しに背中へと流す。

 

「病だと? 下らん。誰かは知らんが貴様も切り捨ててくれる」

 

 血脂で汚れたままの刀を手にした旗本が、しかしその自慢の剣腕を振るう暇は与えられなかった。

 銃声一発。そして、ペッパーボックスピストルから硝煙と共に放たれた銃弾が、旗本の眉間を一切の容赦なく撃ち抜いた。無論、即死である。

 倒れ伏した旗本は一顧だにせず、太夫に歩み寄った女性は落ち着いた物腰で手早く、そして的確に切り傷を検める。

 

「傷の数は多いですが、いずれも浅い。出血の量も少なく、命に関わるほどではありません。ご心配なく、これなら安静にしていればすぐに塞がりましょう」

「あ、あんたは……?」

「サーヴァント・バーサーカー。真名をフローレンス・ナイチンゲールと申します」

 

 太夫の知らぬ名だった。それも当然、彼女の名が知られるのは、今この時より二百余年も後のこと。遠く海を隔てた異国の地で、かの「クリミアの天使」の名を与えられた、信念と情熱に満ちたランプの貴婦人である。

 

「聞いたこともない名前だけれど、でも、ありがとう。助かったよ」

「構いません。救いの手を求める者は誰であれ、私の力をお貸ししましょう」

 

 恐怖に震えていた禿が、恐る恐る目を開けて異国の女傑を見上げる。慈愛に満ちた手が禿の頭を撫でると、禿は堰を切ったように泣き出した。その幼い頬に散った血の斑点を、滂沱として流れる涙と共に白手袋の指先がそっと拭い取る。

 

「よかった……太夫、このまま死んじゃうかと……っ!」

 

 禿がそんな言葉を漏らすものだから、太夫は慌てて窘める。

 

「馬鹿! 縁起でもないこと言うんじゃないよ!」

「慕われているのですね、太夫」

 

 バーサーカーはその怜凛なる眼差しを僅かに和らげて、微かに笑った。そうすると、厳格な鉄面皮が崩れて驚くほどに女性的な柔らかさが垣間見える。

 

「よしとくれ。あたしなんか…今も苦しんでいる吉原の女達のために、何も出来ない無力な女だよ」

「いいえ、あなたは無力ではありませんよ。確かに今はまだ何も出来ていないかもしれない。でも、その思いは無駄にしたくないと思うのです。あなたの、その願いこそが私を喚んだのですから」

「そう、なのかい?」

 

 太夫は微かに涙ぐみながら微笑むと、もう一度だけ感謝の言葉を伝えてから、最後に改めて問うた。

 

「それで……あんた、何者なんだい? まあ、聞いたところであたしにはわからないだろうけれど、さ」

「私は、すべての命を救いましょう。すべての命を奪ってでも、私は必ずそうします」

 

 地獄の戦場で鍛造された鋼の如き信念をもって、バーサーカーは断言する。いかなる土地、いかなる時代であっても、彼女の信条は変わらない。

 吉原の苦界に堕ちた女達にも、その献身と奉仕の手は差し伸べられることになる。

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