Fate/SamuraiRemnant異聞 伊×槍決闘譚 作:葛轍偲刳
朧月(裏)
縁側に正座した正雪は、ぼんやりと夜空の朧月を見上げていた。
「…ライダー、貴殿は知っていたのか。伊織殿の心が向いている先を」
「いや? 余の眼はそこまで他人の胸の奥底までも見抜けるほどのものではない。ないが、同じことだ」
間に道場を挟んで離れた庭で交わされている伊織と逸れのアサシンの言の葉を、当然のように正雪は把握していた。『張孔堂』は正雪の工房であり、わざわざ立ち聞きして耳を澄ます必要さえもない。
「同じこと?」
「余は他国を征服し略奪することによって覇道を突き進んだ暴君であり、そうであるがゆえに英雄だ。逸れのアサシンは幾度となく他者の血に手を染めた兇手であり、そうであるがゆえに英雄だ。共に、貴様の理想とは決して相容れぬ。もし貴様の理想が実現すれば、その世の中に余たちの居場所はない」
枯山水風に整えられた庭の玉石に遠慮無くあぐらをかいて座り込み、分厚い胸板の前で両腕を組んだ偉丈夫が柔らかな月の光に照らし出される。その姿は、さながら名工の手になる石像のようだった。
「いかなる名君も、聖王も、あまねく全ての民を掬い取ることは叶わん。例え貴様がその理想を叶え、ありとあらゆる貧苦から民を掬い上げ、ありとあらゆる差別を無くそうとも、その安寧を是とせず、その恩恵を拒む者は必ず現れる」
「何故だ。真に平らかなる世があれば、神(でうす)がしろしめす天国(ぱらいそ)の如く、もはや辛苦なき平穏なる暮らしが送れるのだぞ。それは誰もが望むものではないのか」
正雪の無垢なる主張に、征服王は痛ましげに眼を細める。あまりにも純粋すぎるホムンクルスにとって、欺瞞と汚濁に満ちた人の世はあまりに理解しがたいものではあるのだろう。
「何故、か。人は、不完全な生き物だ。そうであるがゆえに、不完全なる己に満足せず、前へと進もうとする。そこに苦難が待っていると知りつつも、その苦難を乗り越えてこそ成長があると知っている。もっと先へ、もっと前へ。世界の果てを目指し、いつかは、ここではない彼方へと辿り着けると信じて。人は、遙かな昔からずっと、ずっとそうやって進み続けてきたからだ」
その静かな声は、まるで哲人の如く透徹した響きを帯びていた。実際、征服王の師は西洋史における最大の哲学者にして『万学の祖』とまで謳われた賢人アリストテレスである。
彼の著作には一個人が一生の間に得られる情報量の限界と、彼が生まれた時代と地理的な制約から少なからぬ誤ちが含まれている後に指摘されることになるが、そうであってもなお、中世から近代へと時代が下っていく中にあって学問が高度に専門化し、分化していく過程でそれらの過誤が発見され、そしてより新たな定理や公式が、それぞれの分野における数多くの碩学の手によって発展していくことになる。
それはアリストテレスの哲学である『知を愛すること』であり、未知を探求し、未知を既知に変えるありとあらゆる行為そのものであった。
そして、他者から与えられた安寧に甘んじることは、それらの発展を阻害し、成長を停滞させることに他ならない。
「人という、野の獣にすら劣る醜悪で無様な生き物に価値があるとすれば、それは完璧ではないがゆえに完璧以上を目指すことが出来るという一点にある。あのランサーのマスターもまた、そうだ。あれは月を見上げ、月に魅了され、一生をかけて月に手を伸ばし続けることを選んだ。ゆえに、地に安住することは叶わぬ」
正雪の見開いたままの眼から、ひとしずくの涙が頬に伝った。
『その願いは、とても美しいな』
今にしてようやく、正雪は悟るに至った。かつて伊織が口にした『美しい』という言の葉に感じた、ほんの僅かな違和感の正体を。
「嗚呼…――そうか、そうだったのか」
伊織は、正雪の理想を評して『美しい』とは言ってくれた。だが、それは芸術品や美術品に向けるものと同じだ。現実を知らぬ夢見がちな小娘が描いた夢想の絵を見て、人は『美しい』と言ってくれるかもしれない。しかし、その絵の中に移り住むために本気で今の住まいを引き払う者がどれほどいるものだろうか。
正雪の理想は、伊織にとって現実味のあるものではなかった。その理想が実現した世界を、正雪自身をも含めて綺麗なもの、美しいもの、正しいものとして認めてはくれる。しかし伊織にとって、そもそもの最初からそこに自分の居場所は無いものだった。
「それが、どれほどに美しく、正しく、貴いものであったとしても…貴殿にとって、それはただ、それだけのもの、でしかなかったのだな」
人としての善悪の規範に照らし合わせて、それが『善』なるものと認めてくれたとしても。
伊織の本質は、伊織が目指すものは。伊織が、本当に心から求めているものは。伊織にとっての『悪』であり。
そして、それが『悪』と知りつつも、それでも求めずにはいられないものだった。
例え同じ夜空の、同じ月を見上げていたとしても。それを見ている二人が遠く離れた場所にいたならば、その月が必ずしも同じ貌をしているとは限らない。
そして、もしそれが遠く地平をも隔てた場所であったとしたならば。果たしてそれが、本当に同じ月であるかどうかさえもわからない。
二人が共に同じものを見ていると思っていたのは、自分だけだったのか。ただの思い込み、ただの独り善がりでしかなかったのか。
瞼を閉じた目尻から零れた新たな涙が、口の端に達する。
由井正雪は、口の中に広がる塩辛い失恋(なみだ)の味を、静かに噛み締めた。