Fate/SamuraiRemnant異聞 伊×槍決闘譚 作:葛轍偲刳
次回は19日頃に投稿予定です
「婦長、急いで来てくれって聞いたからひとまず座敷の客には待ってもらっているけど、一体何が…っ!?」
吉原遊郭。今宵も三浦屋を訪れた、とある大名の相手をしていた高尾太夫は奥の座敷に足を踏み入れかけて、しかしその場にいる二人の見知った青年の有様に思わず息を飲んだ。
下膨れと見紛うほどに、毒々しいほどに浮腫(むく)んだ顔を青黒く染めた伊織と、その傍らで無惨なほどに損壊した右腕の残骸を剝き出しのままぶら下げた美丈夫。
「何があったのか、とは訊く必要もないようだね。誰とやり合ったんだい?」
「太夫、話は後で幾らでも出来ます。今は治療を優先しましょう」
二人を診察していた女傑が割って入ると、太夫もすぐに詰問を止めた。
「それはもちろん、わざわざあたしに断るまでもないよ。でも、それなら何故あたしを呼んだんだい?」
短い付き合いながらも、この婦長が治療を必要とする怪我人を放置しているはずがないと確信をもって言える程度には、高尾太夫もその人柄を既に見知っている。むしろ、どんな身分の相手であろうとも、例え本人が治療を拒否したとしても、力尽くにでも無理やりに治療するという一種の狂気すら感じられるほどの強烈な使命感を抱いている。
そんな婦長が治療の手を止めてまで自分を呼ぶ事を優先したからには、何かしらの理由があるのだろうと太夫は考えた。そして、それは間違いではなかった。
「太夫。それは、あなたも治療を必要としているからです」
「え?」
ただ、その理由は太夫の予想を違えるものではあったが。
「あたしに治療…って、別に何処も怪我はしていないし、病気もしていないはずだけど」
「いいえ、太夫。あなたに限らず、吉原の女達の多くは白粉に含まれた鉛の毒に冒されているのです。今現在、早急に治療せねばならぬほどに重篤な症状を訴える患者の数は遊女の全体数に比べれば少ないのは事実です。が、これは遊郭と遊女という職業上、社会構造上の問題として今後も無視し得ない問題となって残り続けるでしょう」
淡々とした主張に、しかし太夫の目は大きく見開かれる。
「毒…?」
「ええ、太夫にも鉛による中毒症状が出始めているはずです。軽い貧血に、手足の痺れや立ち眩みといった末梢神経障害の初期症状が。これらは鉛中毒の初期症状です。放置すればするほど症状は重篤になっていき、いずれ他の併発症によって死に至ります」
「…!」
太夫の脳裏に浮かぶのは、かつては可愛がっていた妹分でありつつも病にかかって店から追い出され、今や不潔で狭い小さな部屋で死を待つばかりとなった一人の元遊女。かつては肉付きも良く林檎のように赤みを帯びていた頬ですら今や幽鬼と見紛うほどに窶れ切ってしまった青白い顔と、薬湯を溶いた小さな茶碗すらまともに持てぬほどに萎えてしまった、冷え切った手。
「あれが…毒のせいだって?」
「無論、全ての原因がそれだけではありませんが。劣悪な栄養環境と不潔な衛生状況、狭い生活空間に複数で押し込められていることによる過度のストレス、改善すべき点は幾らでもあります。ですが、鉛は長期間にわたって摂取し続けることで中毒症状は悪化し続けます。かといって、化粧をせずに遊女が遊郭にいるなどあり得ぬ事。これらの問題の解決には時間がかかります」
後の世において日ノ本で鉛の毒性が広く知られるようになったのは幕府が倒れ、更に19世紀も終わりが近付いてからのこと。正式に鉛白粉の製造を禁止したのは、更にその半世紀近くも後の1934年である。それまでは、安価で使いやすい化粧品として庶民の間で根強く使われ続けた。当然、この時点では毒の害も知られてはおらず、また、その代替品などあるはずもない。
「太夫、あなたは長生きをして、これから多くの人を救うべきです。美人薄命などという言い回しなどもありますが、そのような誤った認識は捨て去らねばなりません。あなたの体を蝕む毒は、今ここで私が消し去ります。ですから…」
「皆まで言われずとも、婦長。あたしは必ずそうするよ。それで? あたしはどうしたらいいんだい?」
「令呪を、私に」
婦長の求めに応じて、太夫が手を差し出す。
「婦長、あんたの力を、どうかあたしに見せておくれ」
「喜んで」
叙勲を受ける騎士のように片膝をつく婦長の頭上に太夫の手が翳され、その手の甲の令呪の一画が弾け飛ぶ。
「――…すべての毒あるもの、害あるものを絶ち」
婦長の体から白い靄にも似たナニカがゆらりと立ち昇る。人魂のようにも見えるソレは、しかし。
「…婦長?」
思わず太夫が呟いたように、その人影は婦長そのもののように、ありとあらゆる穢れを許さぬ潔癖さをも感じさせる純白だった。
その顔には目も鼻も口もない。一切の感情を窺わせぬ、のっぺらぼうの白い面。なのに、その貌が少しも怖くない。
――例え、その純白の人影が抜き身の両刃の大剣を携えていたとしても。
「ははっ、こいつはまた。…なあ、おい、マスター。もしかしてだが、これからオレたちはコイツにぶった切られることになるのかね?」
「…是非もなかろう。それが治療に必要だというのなら」
今更ここから逃げる体力もなく、また拒んだところで他に治療の当てがあるわけでもなく。ゆえに、ここは伊織も美丈夫も潔く観念して、黙って腹を括るしかないのである。
「我が力の限り、人々の幸福を導かん」
婦長が胸元に掲げた拳を握る。頭上に大剣を振り被った純白の人影に、伊織と槍兵は観念して瞑目し、そして太夫は微笑みすら浮かべながら両手を広げ、その一瞬を待つ。
「『我はすべて毒あるもの、害あるものを絶つ(ナイチンゲール・プレッジ)』!!」
振り下ろされる大剣が風を切る音は聞こえなかった。その切っ先が座敷を刺し貫いても、その刃が三人の体を通り抜けても。肉が断たれる音も、骨が折れる音も、何一つ。
ただ、三人は共に体の奥に燃えるような熱を感じた。それは婦長の、フローレンス・ナイチンゲールの胸の内で燃える情熱そのものか。
「っ…」
美丈夫は右肩の、腕の付け根に疼くような痛みを覚えて手で押さえた。千切れかけた腕の上腕に新たな肉が盛り上がる。露出していた骨の周りを再生した筋肉が覆って、肘関節の靭帯と上腕骨の癒合が為され、上腕動脈に沿って毛細血管が網の目のように広がり、それら全てを覆うように皮膚が再生していく。肘から先の橈骨と尺骨を盛り上がった肉が埋めていく。
あまりに急激な再生に細胞と体液が沸騰するほどの高熱が白い蒸気を立ち昇らせている。普通の人間なら堪え切れずに叫び声を上げているであろう苦痛と刺激に、しかし槍兵は歯を食いしばって耐える。腕一本を丸ごと再生するほどの強引な治癒は、その負荷もまた相応のものだ。手首の顆状関節が靭帯と腱が再生し、痛みとも違和感ともつかない刺激が神経を苛む。
が、その再生が指先にまで届き、爪まで完全に元通りになったところで、槍兵はゆっくりと手を握り、開き、手首を回し、掌を返して関節の動きを事細かに逐一点検する。
「が、は…っ」
伊織は、喉の奥から突き上げる猛烈な吐き気に思わず口元を手で押さえた。しかし、自分の意思とは別に喉の奥から勝手に飛び出してくる途轍もなく苦く粘ついたナニカを吐き捨てると、畳の上に落ちた青黒いソレは次の瞬間には高熱によって浄化されたように即座に気化して、跡形もなく消え失せる。
「今のは…?」
そう呟いた伊織は、痺れたように重くなっていたはずの舌が軽やかに回ることに気付く。咄嗟に左腕に目を落すと、蛇の毒牙によって腫れ上がり青黒く染まっていたはずの腕はいつの間にか元通りになっている。
狐につままれたような、とはまさにこの事か。何が何やらわからぬうちに、途中経過も何もかもを無視して、薬の一つさえも使わずに完全に解毒が済んでいる。魔術を知らぬ者にとっては、いっそ神仏の奇跡と思った方が受け入れやすいかもしれない。
「…ふぅ」
そして、太夫は。冷え切った手足に通う熱と温もりを胸に抱き締めようとするかのように、自分の体に腕を回す。
「ああ…そうか、こうなってみて、やっとわかったよ。自分の体が、どれほど弱ってたのか。あたしは、自分でも気づかぬうちに随分と毒に冒されてたんだねえ」
「大丈夫ですか、太夫」
「もちろんさ。てっきり、いくら寝ても疲れがとれず体も重いのは盈月の儀のせいか、あるいは不安や心が弱っているせいだろうと思っていたんだけど」
太夫は、自分の腕で自分の体を抱くようにして、その感触を改めて確かめる。
「うん、もう大丈夫だよ。まるで生まれ変わったみたいに気分も軽い。…ああ、でも、」
そこで眉を寄せ、物憂げに吐息を一つ。
「あたしは婦長のおかげで治ったけど、他の女衆は皆、こんな風に不調を抱えたままなんだね。本当に、これをどうにかするには一体どうすれば…」
思案に沈む太夫に向かって、伊織が切り出した。
「先だってに続いて重ねての力添えに感謝する。この礼は、必ず」
「そうだねぇ。あたしの切り札となる令呪を一画、ここで切ったんだ。これは高くつくよ?」
「問題ない。『巴比倫弐屋』の若旦那から特注で木彫りの仕事を請け負っている。報酬も弾むと言われているから、それをそのままそちらに渡そう」
「…ああ、このところ随分と噂になってる数寄者の店主様かい。それはまた、思ったよりも顔が広いんだねえ」
「それから、敵のマスターとサーヴァントについても俺の知る限りの情報を渡そう。他にも幾人かのマスターとは手を組んでいる。太夫が望むなら、そちらと繋ぎを取っても良い」
大盤振る舞いとばかりに持てる限りの札を次々に切っていく伊織に、太夫は一瞬だけ目を丸くした。
「いいのかい? もうちょっとくらい値切る振りをしたって文句は言わないよ?」
「俺とランサーの命を救ってくれた恩人に礼をするのは当然だ」
一瞬の逡巡すらも見せずに即答する伊織の顔を、太夫は軽く舐めるように睨めつけて、軽く頷いた。
「そうかい。なら、もらえるものは遠慮無くいただくよ。――でも、」
一拍の間を置いて、なんとも色っぽく艶然と微笑んで見せたのは流石に吉原の三大太夫の面目躍如といったところだった。
「高い買い物をして下さる御大尽をもてなすのは吉原の女の仕事さ。また傷ついて治療が必要になったら、いつでもおいでなさいな」
「治療が済んだとはいえ、傷ついた体は労ることです。せめて丸一日の休養を推奨します」
太夫に続いて婦長も言い添える。
「ランサー、右腕の調子はどうだ?」
「傷は元通りだが、新品の腕を慣らすにはちと時間がかかるかもな」
「そうか。では、やはり明日は休息にあてよう。木彫りの仕事に専念するにはちょうど良い」
伊織と美丈夫が頷き合うと、太夫はそのまま二人に背を向けた。
「あたしは客の相手をしなくちゃならないから座敷に一度戻るけど、お客人は茶の一杯ぐらいは飲んでおいきよ。その後、外の話を聞かせておくれ」