Fate/SamuraiRemnant異聞 伊×槍決闘譚 作:葛轍偲刳
拾三:叛逆
浅草の長屋まで戻って来た二人の耳が聞きつけたのは、ひどく耳障りな音だった。
蚊が耳元で飛び回る音を何十倍にも増幅したような、ブワワワン、ブワワワンという雑音が長屋の中から聞こえてくる。
「なんだ?」
「よくわからんが、放置してはおけねえってのはわかる。急ごうぜ、マスター」
こんな音を大音量で聞かせられれば、例え夢一つ見ないほどに深く寝入っていたとしても飛び起きるだろう。
少なくとも、この音を火急の知らせの合図に選んだ蔡玉蓮の目論見は当たっていた。でなければ、一分一秒を争う鄭成功の知らせが間に合わなかった可能性すらあったのだから。
「伊織」
「鄭!?」
「時間がない。余計な説明は省くが、アーチャーが敵の手に落ちた」
確かに余計な説明は不要だった。つい今し方、全く同じ状況だったのが他ならぬ自分達だ。
「持ち堪えろ。すぐに向かう」
「悪いが頼む。こちらは、少々まずい状態に――」
一瞬だけ声が途切れる。嫌な予感に駆られる伊織だが、再び言の葉を継いだ鄭成功の声は、それを打ち消してはくれなかった。
「…すまない伊織、しばらく俺の声は届かなくなる」
「鄭――鄭成功!」
呼びかけの声にも返事はない。
「やべえな。もしかしたら、他のマスター連中も…」
「十二分にありえる話だ。しかし、今は鄭が助けを求めてきたことの方が優先だ。カヤの件も含め、鄭には幾つも借りがある。ここで見捨てるなどありえない」
伊織の断言に、美丈夫も頷きを返す。
「悪いがランサー、赤坂に向かいつつ腹ごしらえだ。足を止めて食っている暇はないぞ」
「誰に言ってやがる。てめえこそ、途中で腹痛なぞ起こして道端にうずくまったりするんじゃねえぞ?」
軽い言葉を投げつけ合って長屋を飛び出した二人は、携帯食の焼きむすびに噛り付きながら足早に赤坂へと向かう。
「マスター、食い終わったか?」
「ああ」
「おし、なら舌を噛まねえように口を閉じて歯を食いしばっておけ」
槍兵が伊織の体に腕を伸ばす。
「おい、ランサー!?」
「喋るなよ。食ったばかりのもんを吐き出したいってんなら別だがよ」
その腕で伊織の体を抱え上げた槍兵は、その両脚に力を籠めた。
「ぉ、ぐ…!?」
グンと加速する槍兵の体に半ば引きずられるように、伊織の視界が一気に流れる。慣性の法則によって胃の中のものが食道を上がってきそうになり、何とかそれを押し留める。
槍兵の駿足は単に地を走るというより、まるで低空を飛行しているかのようだった。世に名馬や駿馬は数あれど、あるいはそれらに勝るとも劣らない凄まじい速度だった。
「ランサー、貴殿は…!?」
「喋るなっつったろうが。普段ならてめえの足に合わせるが、今はそうも言ってられねえ非常事態だからな。めんどくせえなどと言ってもいられねえ。ルーンも幾つか併用して、可能な限り急いでる。だから、今はとにかく黙ってろ」
やや険しい横顔で呟く声ですら、瞬く間に後方へと飛び去って行く。
浅草から一直線に南下し、しかし赤坂までの直線上に存在する江戸城を東側へと迂回するように日本橋を越えた辺りで、槍兵が前方の空に目を凝らした。
「煙だ」
「何か言ったか、ランサー!?」
「煙だ、っつったんだよ! 赤坂の方で煙が上がってやがる。それも一軒や二軒の火事じゃねえぞ、あれは!」
「っ…! 急いでくれ、ランサー!!」
「そうかよ。だったら、多少の荒っぽさは見逃せよ、マスター!?」
前方の道を徘徊する怪異の群れを飛び越す槍兵の足が跳躍するのに合わせ、伊織の視界が大きく上下する。吐き気と冷や汗を催す浮遊感に絶え間ない振動、動揺病にも似た症状に襲われる伊織だが、他ならぬ鄭成功の窮地に間に合わせるためとあらば選り好みをしていられる場合でもなかった。
赤坂が近付いてくるにつれ、今度は前方から漂ってくる焦げ臭い匂いを嗅覚が感じ取る。
「見えるか、ランサー!?」
「ああ、空が赤く染まってやがる!」
遥か上空まで舞い上がった火の粉が、ゆっくりと小雪のように落ちてくるに至って、二人はようやく赤坂にまで辿り着いた。
「おい、マスター。動けるか」
「…弱音を吐いていられる場合でもなかろう」
胸のむかつきを押さえるように鳩尾の辺りを手で押さえた伊織が、血の気の引いた青い顔で頷いてみせる。既に赤坂に軒を連ねる大名屋敷の大半が火に包まれていた。中には消火に務めている人影もいるようだが、多少の水をかけたところで火勢に衰える様子は全く見られない。
「これは…」
「こいつはおそらく、ただの火じゃねえな。アーチャーの炎か」
「かの三国志にも記された赤壁の大火か。となると、真っ当な方法では手がつけられんか」
「…伊織殿、ランサー殿!」
舞い散る火の粉を頭から被りつつも、黒髪の女道士が小道を駆けつけてくる。
「玉蓮殿、鄭は無事か!」
「先程までは屋敷の中に。戦えぬ者を連れて逃げろと、我らに命じられ――将軍と共に残ったのは僅かな手勢のみ。長くは持ちません、どうか!」
必死の叫びに、伊織は決然と応じた。
「解っている。玉蓮殿、貴殿は御役目を果たせ」
「お任せを。元より、一人たりとも死なせるなと命じられております!」
拱手の礼をする女道士を背に、伊織は再び槍兵に手を伸ばす。
「時間がない。ランサー、すまないがもう一度頼む!」
「チッ! 仕方ねえ、後で文句を言うなよ、マスター!!」
燃え上がる屋敷を横目に、伊織の身体を抱えて跳躍した槍兵は塀を乗り越え、まだ火の勢いがさほど強くない屋根の上を踏破し、事もあろうに燃える庭木の枝を踏んで唐人屋敷へと一直線に向かう。
火の粉を被る肌が灼ける苦痛に歯を食いしばりながらも、それを対価にした甲斐あって、かつて宴が終わった後に見送ってくれた屋敷の門前で鄭成功を見つけられたのは僥倖と言うべきだった。
「鄭、無事だったか!」
「…ああ、何とかな。とはいえ状況は絶望的。俺の魔力も補助の礼装も尽きてしまった」
ところどころに火傷を負いつつも、未だ辛うじて五体満足な鄭成功は低く呻くように答えた。
「アーチャーは?」
「屋敷の中だ。今は麾下の者たちが押し留めてくれている。何より、アーチャー自身がどうにか自分を抑制している。だが、それもいつまで持つか」
肩越しに、猛火に包まれている屋敷を見遣って唇を噛みしめ、再び前に向き直って槍兵に不審の目を向ける。
「…しかし、ランサーが無事とは」
「無事じゃねえよ。オレも支配されちまった身だ。マスターに力尽くで引き戻されただけだ」
「打つ手があるのか!?」
一瞬で生気を取り戻したように、鄭成功が声を張る。
「己自身をランサーの精神の底へ送り込み、対峙の末に、どうにかな。爺さん、アーチャーにも同じことができるか?」
「…時が経てば経つほどに、サーヴァントの精神は蝕まれてゆくだろう。今、仮に送り込めたとしても、支配から逃れられるかは断言できん」
沈痛な声で応じる紅玉の書に、鄭成功は瞑目した。
「――…時の差か。ならば、仕方がない」
噛みしめるようなその声は、何よりも誰よりも、他ならぬ自分自身を無理矢理に納得させようとしているようだった。
「赤坂を炎の海にし、俺をも手に掛ける。――それはきっと、アーチャー自身が望むまい。手を貸してくれるか、伊織」
伊織は数瞬の間、沈黙し、そして鄭成功の腕を掴んだ。
「貴殿はそれでいいのか、鄭」
「仕方ない。他に手がないのであれば――」
「それで諦めるのか!?」
ぐいと鄭成功の肩を掴み、伊織は顔を近付ける。
「貴殿は明を、国を救う術を盈月に求めたのだろう!? 奇跡に縋ってもなお、叶えたいと願ったのだろう!? その貴殿が、何故アーチャーをここで諦める!?」
「伊織…」
「俺は貴殿のように、国の命運を背負う将帥の立場にはなれん。その国の民の命を遍く背負う重圧に、己が耐えられるとはとても思えん。そんな貴殿を支える玉蓮殿やアーチャーに、己が成り代われるとも思わん! だが!!」
歯を食いしばる伊織の顔が、鄭成功の目前に迫る。
「ここで、貴殿が諦めれば! その決断は、きっと貴殿の精神に二度と癒せぬ傷を残す! それは、貴殿にとって掛け替えのない何かを損なう!!」
もし伊織が幼い頃に夢見た剣を諦めるのであれば、それは宮本伊織という一つの人格にとって欠かせぬ支柱に大きな罅を入れるだろう。
それと同じように、鄭成功という『明の再興』という夢を掲げる一人の男が、今ここでアーチャーを諦めれば、その決断を下したという事実それ自体が鄭成功を蝕む毒になるだろう。
「諦めるな! まだ諦めるな! 最期の最後まで手を伸ばせ!!」
「伊織…」
泣き笑いにも似た表情を浮かべた鄭成功は、伊織の手を掴んだ。
「感謝する。――頼む。あいつを、俺と一緒に助けてくれ」