Fate/SamuraiRemnant異聞 伊×槍決闘譚 作:葛轍偲刳
「あ…う、あ、あ……――」
痴呆の如く無意味な言の葉を口から吐き出しながら、猛火に包まれた屋敷の中を徘徊する人影。
知性も理性も感じられないその姿に、かの美周郎と称された英霊の面影は既にない。
「――アーチャー!」
そう呼びかける鄭成功の声にすら、数秒ほど反応を見せなかったほどである。
「……」
伊織と槍兵が鄭成功の両脇で油断なく身構える中、弓兵が低く囁くように言の葉を紡いだ。
「なぜ、戻った。云った筈だ。私の目の届かないところへ逃げろ、と…」
「莫迦を云え。俺一人が逃げ延びたところでどうなる?」
頭を振った将帥が応じた。
「俺のために戦い続けている部下がいる。望まぬ殺戮を強いられている知己がいる。見捨てて、大望を遂げられるのであれば見捨てよう。だが、今はそんな二者選一の状況でもあるまい」
鄭家の私兵を惨殺した返り血と、周囲の猛火の照り返しによって衣装を緋に染めた弓兵に向かって鄭成功は棍を構えた。
「初めから、取るべき道は一つきりだ。俺は何か間違っているか、アーチャー」
「ふ、ふふ…そうか、そうだな。おまえは、そういう男だった」
低く笑う弓兵は、そこでようやく自分を抑えるのを止めた。腰の剣ではなく、本来の得物である弓を構え、火箭を番える。
じり、と爪先で間合いを詰める槍兵と伊織は、一瞬だけ横目で視線を交わし、同時に飛び出す。
「マスター、オレには矢避けの加護がある!」
「ならば鄭の盾は俺がやる。ランサー、貴殿は遠慮無く前に出ろ!」
弓兵が放った火矢は、しかし槍兵の視線に捉えられた瞬間、その軌道を不自然に歪まされ、ありえぬ方向へと逸らされる。
懐に飛び込んで槍を一閃する美丈夫から身を躱し、槍の間合いから逃れて二の矢を放つ。しかし、それもまた槍兵が一瞥しただけで逸らされる。流れた矢が伊織と鄭成功の方へと向かうが、床に転がっていた調度品の陶器の壺を伊織が足で蹴り上げて矢を撃墜し、炸裂した火球の熱風が二人の着物の端を焦がしただけで終わる。
「すまん、鄭。壺の代金は後で弁償する」
生真面目に断る伊織の横顔に、鄭成功は思わず苦笑する。今はそんなことを気にしている場合でも、気にしていられるような状況でもないというのに。
「伊織、俺のことは構わず――」
「構うぞ、鄭」
魔力も礼装も尽きた自分が足手纏いにしかならないことは理解している。だが、そうと知りつつも伊織は笑う。
「俺は貴殿にひとかたならず借りがある。それを返しきるまで死んでもらっては困る」
「それは、だが、」
「貴殿にどんな下心があろうと、計算があろうと、構わない。俺が貴殿に助けられたのは事実だ」
そう言った伊織が、咄嗟に鄭成功の体を突き飛ばす。二人の間を、炎の滝の如き火箭の雨が通り抜けていった。
「ランサー!?」
「一本や二本の矢じゃ捉えきれねえからって、力押しで来やがった!」
弓兵が弦を立て続けに鳴らし、火箭を上方に向かって撃ち上げる。屋敷の天井に穴を開けて上空へと飛び去った矢は、十数倍から数十倍の規模になって広範囲に降り注いでくる。
「無茶をする…」
マスターである鄭成功の魔力は尽きている。つまり、この暴挙はサーヴァントであるアーチャー自身の魔力によって賄われているということになる。いくらアーチャーで現界した英霊に単独行動のクラススキルが与えられ、マスター抜きでも一日や二日は現界を維持できる魔力があったとしても、これほどの火力を投射するとなれば相応の負担があるはずだ。
「あるいは、捨て身か?」
「かもな!」
逃げるように間合いを保って駆け回り、ひたすらに遠距離から火力を押しつけてくる戦術。間違ってはいない。決して間違いではないが――。
「なんてぇザマだ。見る影もなくなっちまったな、アーチャー」
虚実を織り交ぜた緻密かつ華麗な戦術で敵を翻弄し、罠に誘い込んで勝つのが知将たる周瑜の本領のはず。その才識、その知略は同時代を代表する大軍師、諸葛孔明やその宿敵である司馬懿と比較しても決して劣るものではない。
だのに今はただひたすらに火力に頼るだけの力押し。まるで理性を失ったバーサーカーそのものだ。いや、当然か。もし理性を保っていれば、こんな暴挙をするはずもない。己自身よりも主君への忠義を優先する男だ。機会と理由さえ与えられればマスターにも刃を向けた自分とは真逆の忠臣だ。
一抹の自嘲を交えて槍兵は逃げる弓兵を追って燃え上がる屋敷の壁を蹴り、柱を蹴る。降り注ぐ火矢の雨が新たに天井を突き破って降り注ぐ。もはや火矢のみならず、頭上からの瓦礫ですら伊織と鄭成功にとっては危険だった。
「無事か、鄭!?」
「ああ。まだ、俺は…!」
「くっ…すまん、鄭!」
魔力が尽きた体で、しかも周囲の炎によって酸素も食い尽くされた屋敷に留まっていたせいで二酸化炭素中毒の症状も出始めていた鄭成功がよろめき、その体を伊織がやむなく蹴り飛ばす。その襟首を掴んだ美丈夫がさらに引きずるようにして体を担ぎ、降り注ぐ火矢から退避させる。
「アーチャー!!」
あえて自分に弓兵の目を引き付けようと声高に呼びかけながら二刀で斬りつける。反射的に放たれた鏃を左の脇差しで切り払うも、炸裂した鏃の破片が胸板や頬の肉に食い込み、剥き出しの肌や肉を焦がす。
「ぐ、っ…!」
熱い鉄に肉を焼かれる苦痛に歯を食いしばりながら、伊織はさらに前へと踏み込んだ。すかさず弓に二の矢を番える弓兵。
「うまく避けろよ、マスター!!」
背後からの声と共に、轟々と唸る熱気とは別の鋭い風切り音を伊織の耳が捉える。一秒の数分の一の間だけ、伊織は待った。
「伊織!?」
鄭成功は信じられないものを見たように目を見開いた。
ほんの一瞬だが、アーチャーのすぐ目の前で棒立ちになった伊織の背に迫る、槍兵が投擲した槍の穂先。それを、背中に目がついているかのような絶妙のタイミングで伊織が伏せることで、開いた空間を通り抜けた槍は弓兵の右肩を貫いて屋敷の壁に串刺しにした。
一瞬だ。ほんの一瞬、伊織が伏せるのが早くても遅くてもダメだった。早ければ弓兵も飛来物を察知して回避するかもしれない。遅ければ伊織も一緒になって串刺しになっていた。
咄嗟に、槍を投げた美丈夫の顔を睨む。
「ランサー、今のは…!」
「なんだよ。あいつはオレのマスターだぜ? なら、あれぐらいの芸当はやってのけるだろうよ」
平然と言ってのけた美丈夫に、鄭成功は再び目を見開く。サーヴァント同士の苛烈な戦いの中にさえ自ら割り込んでいく伊織も、それを当然のものとしている槍兵も、いつの間にか自分の知らぬ間に確固たる絆を結んでいた。
「アーチャー、ここまでだ」
鄭成功の驚愕と当惑にも構わず、伊織は壁に串刺しにされた弓兵に向かって太刀の切っ先を突き付ける。
「まだだ、伊織! アーチャーには、まだ奥の手が――」
「…『赤壁戦禍・揺籃獄』」
我に返った鄭成功が警告を発するよりも一瞬早く、俯きがちの弓兵の唇が微かに動き、己が宝具の名を紡ぐ。
屋敷が消え去る。無論、弓兵を串刺しにしていた槍が刺さっていた屋敷の壁も、また。
塗り替えられた世界。赤坂の唐人屋敷は、今や長江の赤壁の古戦場へと。江上の大船団、燃え上がる楼船の甲板上で、伊織と槍兵、そして鄭成功は弓兵と向き合っていた。
「アー、チャー…」
しかし、その灼熱の地獄の中にあって、鄭成功は背筋を襲う悪寒に懸命に耐えねばならなかった。サーヴァントの切り札たる宝具の展開には、それが大規模なものであればあるほど、強力であればあるほどに尋常ではない魔力を必要とするのが当然で、事実、先の神奈川湊でも弓兵は宝具の展開に令呪の援護を必要とした。
それをせずに、自らの魔力のみでそれを賄おうとするならば、それは文字通りの意味で自らの骨肉を削り、命を縮めるに等しい暴挙だろう。舞い散る紅蓮の火の粉に混じって、弓兵の衣装の端が解れたように金色の光を発して消えて行っている。それは、アーチャーの現界を未だ維持している最低限の魔力すら底を尽きかけている証。退去の光が見え隠れしている。
「鄭成功! 何を呆けている!?」
怒声に近い伊織の叱咤に、思わず顔を上げる。
「諦めるなと言ったはずだ!」
「そうだぜ。オレのマスターは、オレみたいなロクデナシも見放さずに主従の契りを破棄しなかった物好きだからな。このぐらいのことでへこたれるほど柔じゃねえ」
それに付き合っている我が身のことは棚に上げて、槍兵は軽く笑って見せた。この期に及んでも深刻さを表に出そうとはせず、絶望に落ち込もうとする鄭成功を励まそうとする伊織と槍兵に自然と口の端が持ち上がる。
「アーチャーは船上においては能力が上昇する! 特に火箭は周囲のどこからでも飛んでくるぞ! 火力は倍、いやそれ以上だと思え!!」
「そいつは難儀な話だ。なあ、マスター?」
「全くだ。どちらにしても俺は一発でもまともに受ければ死ぬのだが」
捨て身で矢を放って来る弓兵の攻撃に、どれが牽制でどれが本命だのといった区別は今や意味をなさない。一発一発が必殺と思っておかねば即死する。
「鄭の身も守らねばならん。いつまでかかるかもわからん弓兵の魔力が尽きるのを待つ持久戦狙いは下策だろう。速戦即決。短期決戦で一気に決める」
伊織は腰を落として太刀を中段に、美丈夫も槍を肩に担いで身構える。その槍の穂先が伊織の足下に差し出される。
轟、と唸る大気が合図となった。前後左右、全周囲から吹き荒れる火箭の嵐が楼船の甲板上を襲う。顔と目を塞ぐ熱量に、思わず鄭成功は手で顔を庇った。しかし、それ以上の実害は無い。薄目を開けてみると、槍兵が槍を振り回して降り注ぐ火箭から鄭成功を庇っていた。
「アーチャー、万全の状態の貴殿なら、あえて逃げ道を残しておいたりはしなかったろう」
槍の穂先を伊織が足で踏むと同時に、思い切り槍を振り上げた美丈夫の腕力によってその体は高く飛び上がって火線上から逃れていた。放物線を描く伊織の体が下降すると同時に、弓兵は二の矢を弓に番える。しかし――
「いや、そうか。その肩では、」
槍の穂先に刺し貫かれた右肩の傷。それは弓の弦を引くにあたり必要不可欠な僧帽筋と棘上筋に致命的な損傷を与えていた。まして、その鏃に籠めるべき魔力すら今や底を尽きかけている。火打石を鳴らす鑽火(切り火)のように、儚い火花が鏃の周囲に散っている。
「…未熟にて、御免。――秘剣・二河白道!」
伊織は断腸の思いで、二刀を振り抜く。撃ち上げられた矢を左手の脇差しで切り払い、そして、その右手の太刀が弓兵の左腕を、その手に握る弓ごと切断していた。