Fate/SamuraiRemnant異聞 伊×槍決闘譚 作:葛轍偲刳
「――…アーチャー!」
微かに震えるその呼び声に、薄ぼんやりと目を開く。頬に当たる雨粒。黒煙が立ち昇る夜空から、ぽつぽつと雨粒が降り注ぐ。猛火による上昇気流によって大量の塵が上空に舞い上がり、それによって生成された雲が幾つも重なって降雨をもたらす。
視線を少し横にずらすと、己を見下ろす主の顔が滲んで見えた。何度か瞬きをして視界を明瞭にしようとするも、どうにも上手くいかない。もはや視力すらまともに働いてくれないのか。ただ、懸命に己の右手を両手で握る主の手の熱さだけが、退去しようとする今の自分を辛うじて現世に繋ぎ止めていた。
「鄭明儼」
今もなお、己を操る邪悪な術が主を害そうとしている。弓が使えぬのならせめて主の手を握り潰そうと、残った僅かな魔力を勝手に使い潰している。しかし、もはや自分にはそれほどの力すら残ってはいない。その事実に、例えようもない深い安堵を抱く。
「アーチャー、令呪を以て命じる。再び俺と――」
「よせ。無駄だ」
あるいは、むしろそうさせるべきだったろうか。
生前、断金の交を結んだ義兄弟が受けた傷が怪しげな道士の呪詛によって悪化したのであれば、いっその事ここで残った二画の令呪を無駄に使い潰させた方が、こんな胡散臭い儀式にこれ以上は主を巻き込まずに済むのだから。
その意味では、己の意思とは無関係に勝手に言の葉を紡いだこの唇は、主を害するべく結局は禍根を残してしまうことになるのではないか。
ああ、ダメだ。全く、この期に及んでも人並みより少しはマシな取り柄であったはずの頭すらまともに働いてはくれないのか。何が軍師か、何が知将か。儀の半ばにして独り取り残してしまうことになる主に、まともな献策の一つも言い残せないのか。
「おまえの行く末を見届けられなかったのは残念だが、その願いは、おまえ自身の力で叶えろ」
ただ、胸に残る僅かな未練を言い残す。もっと、おまえと共に戦いたかった。おまえを支えてやりたかった。もし叶うのであれば、儀の終わった、その後も。
「…ああ、わかった。誓おう」
噛みしめるように低く答える主に、小さく頷きを返す。
誰かを探すように目を彷徨わせると、視界に誰かの影が映る。
「宮本伊織。そしてランサー」
「おう」
「ここにいる」
「一つ、前言を撤回する。神奈川湊での借り、ここで返してくれ」
小さく息を飲む音が聞こえた。それだけで、己の意が正しく伝わったことを確信する。
「……わかった」
「伊織?」
怪訝そうに小さく呟く主の理解力が宮本伊織よりも劣っているわけではない。ただ、今はそれを受け入れたくないという心の動きが理解を阻んでいるだけだ。
「ランサー、頼む」
「…いいのかよ」
「ならば貴殿の主として、俺が命じる。俺の意思で、俺自身の責において、これはそうするべきことだ」
「チッ…」
舌打ちと共に、槍兵が手にした槍を軽く回す。
「待て、ランサー。待て、伊織。やめろ。やめてくれ」
「すまない、鄭。どうか俺を恨んでくれ。憎んでくれ。貴殿に助けを求められながら最後にそれを裏切り、諦めるなと貴殿を焚き付けておきながら、土壇場でそれを翻した卑劣漢だと罵ってくれ」
淡々と答える伊織の声は、非情なほどに冷たく響く。
「俺が命じる。儀に参加したマスターとして、俺が貴殿のサーヴァントを殺す。盟は、これまでだ」
「宮本伊織、やめろ! 殺すな! 殺さないでくれ!!」
「ランサー」
「…ああ。――『刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)』」
必殺必中の紅い呪いの魔槍が、いとも簡単に己の霊核を、心の臓を貫く。その冷たく鋭利な感触を、ただ抱き締めるように受け入れる。
「今も、昔も――夢には終(つい)ぞ手が届かなかったが」
最後に残った一つまみ分ほどの僅かな魔力を舌の上に乗せ、言の葉へと変える。
「――…良い主に、恵まれた」
その小さな囁きが主の耳に届いてくれたかを確かめるすべもなく。ただ、その意識は静かに無へと帰った。
「……」
「……」
「…………宮本、伊織」
暫くの間は、誰も口を開かなかった。
長い、長い沈黙の末。ようやく、鄭成功が口を開く。
確かに自分が握っていたはずの弓兵の手が、その体ごと跡形もなく消え失せたその後も、降りしきる涙雨に濡れたまま身動ぎ一つしなかった体を、錆びついた蝶番が軋むようにギクシャクと動かし、
「俺は、礼を云わねばならないのだろう。我が友(アーチャー)を止めてくれたことを、感謝せねばならないのだろう」
「……」
「だが、すまん。やはり、ダメだ。今は、無理だ」
降り注ぐ雨が急速に周囲の熱を奪い去っていく中、息を吸って、静かに吐く。白く煙る吐息は、鄭成功の無念を表すように冷え切っていた。
「俺は、俺の中にもまだ友の死を悼み、悲しむ心が残っていたことに自分でも安堵すらしている。そんな人として真っ当な情念など、陛下の死と共に喪ってしまったとばかり思っていた。俺は、血の繋がった親族を――従兄弟達ですら殺せる、血も涙もない冷血漢に成り果てたはずだった。その、俺が、」
失意と落胆のどん底に墜ちてなお、鄭成功は薄く笑ってみせる。しかし、その笑みは悲痛に歪んでいる。
ゆっくりと立ち上がって、ぐいと目元を拳で拭う。煤で黒く汚れた顔に降りしきる雨が新たな黒い筋となって流れ落ちた。
「おまえが、俺の為にアーチャーを手に掛けてくれたのだと頭ではわかっている。アーチャーの死に崩れ落ちそうになる俺を支えるため、あえて憎まれ役を買って出てくれたのであろうことも」
「……」
「頭では、わかっている。俺は今こそ笑うべきだと。アーチャーの死ですら何でもないことのように、いつもと変わらず明るく笑ってみせて、おまえにこう言うべきだ。『もしアーチャーを殺したことを借りだと思ってくれるのなら、その借りは明についてきてくれることで返してくれ。我が軍で、俺と共に戦ってくれ』と」
満面の笑顔で圧をかけながら、掛け替えのない無二の友の死すら交渉の材料に利用する。目的のためなら手段を選ばず邁進する。それぐらいのことが出来なくて、どうして明の再興という大望が成し得ようか。
「だが、やはり、ダメだ。わかっていても、今は、無理だ」
再び同じ言を繰り返して、鄭成功はもう一度深呼吸した。
「俺は何度でも立ち上がる。友の死をも、必ずや乗り越えてみせる。そうでなければ、あいつに顔向けできん。だが――」
強く、強く握りしめた拳が震える。
「…今は、今だけは、友の死を悼ませてくれ」
「そうか」
伊織は小さく相槌を打って、それだけだった。
それ以上は何も言わず、槍兵と共に無言で踵を返した。
「伊織殿、ランサー殿!」
雨の中を焼け落ちた唐人屋敷まで駆けつけてきた女道士は、その冷たく凍てついた雰囲気に思わず足を止める。伊織たちが無言で黙礼のみを残して、その脇を通り抜けていく。
独り雨に打たれながら立ち尽くす鄭成功の前で、蔡玉蓮はきつく唇を噛みしめた。