Fate/SamuraiRemnant異聞 伊×槍決闘譚 作:葛轍偲刳
「兄ちゃ…兄上!」
長屋に戻ってきた伊織達をカヤと正雪とドロテアが出迎える。
「お怪我は?」
「何ともないよ。大丈夫だ」
穏やかに答える伊織だが、その全身には生々しい血の臭いが今なお纏わり付いている。それは伊織が生死を懸けた争いに身を投じていることの万言にも優る証明だった。
そうと気付きつつも気丈にも面には出さず、懸命に明るく振る舞って兄に気を遣わせまいとしている健気なカヤの後ろ姿を見ながら、ドロテアは唇を動かさず密やかに囁いた。
「由井正雪。これからアナタはどうするつもり?」
「どう、とは?」
「ツチミカドについて、どうしてアナタはそんなに詳しく知っていたのかしら。それも、本拠地や当人の性格のみならず、盈月の儀の開催の裏事情に至るまで。ただの参加者にしては知り過ぎているわよね?」
「……」
正雪の答えは無かった。ドロテアは構わず言の葉を継ぐ。
「もし私が土御門の立場なら、あらかじめ目をつけておいた参加者に儀が始まる前に接触しておくわね。もとより江戸に住んでいて、状況次第ではいざという時に人質としても使える関係者が複数いるような相手なら更に都合が良い。アナタと、吉原のタカオダユウとかいうバーサーカーのマスターがそれらの条件にぴったり当て嵌まるのだけど」
謀略の専門家である貴族としての見地から、女魔術師は土御門の思考を正確に辿っていた。
「とはいえ、盈月を手にしようと思えばいずれどこかで手を切るのは既定路線。でも、それがいつ、どこでかは判断が難しい。アナタが神田で襲われたのは事実だけど、それだけで関係が決裂したと決めつけるのは早計ね。…例えば、アナタと土御門が一芝居をうって、あえて被害者としての立場で宮本伊織の懐に潜り込むことで、その弱点である妹に近付くのが真の目的、ということだってあり得る」
「…私も軍学者として、兵は詭道なりとは知ってはいたつもりだが…こと謀にかけては、貴殿には遠く及ばないようだ」
「能力はともかく、アナタは性格が致命的に向いていないのでしょうね。真に必要に迫られれば別でしょうけど、そうでないなら騙し合いなんて下手に手を出さない方がむしろ賢明だわ」
策士が自分の策に足を掬われる、ということもある。誰かを騙したつもりで、逆に自分が騙されていることに気付かないということも。
「それを踏まえた上で、もう一度訊くわ。アナタはこれからどうするつもりなのかしら? 土御門のところに行くつもり? 本気でもう一度手を組むか、あるいはそう見せかけて相手の懐に潜り込んで機を窺うか。どちらにしても、それを選べる立場にあるのがアナタだけなのは事実よ」
「……」
正雪は唇を噛んだ。
「…私は」
そこで一度言葉を切り、胸元を手で掴む。
「私は、私がわからなくなった」
確かに烈士を志していたはずの、その自分の心の内側を解剖し切り刻む胸の痛みを堪えるような表情で、正雪は囁いた。
「私には理想があった。苦難に喘ぐ万民を救い、あまねく世を糾す夢だ。そのはずだった。その理想のためならば、夢を叶えるためなら何を差し措いても構わぬはずだった。だのに――」
唇を噛みすぎて、その歯が唇の端を噛み切る。細い血の糸が正雪の顎に伝った。
「私の理想を、夢を、美しいと言ってくれた人は私の救いを必要とはしていなかった。私を諭し、優しく窘めてくれた老師は私の描く夢物語などとは無関係に己の進むべき確固たる道を既に見出していた。私と共に戦場に立つ偉大なる英雄は、私の理想は無意味だと断じた。三者が三者とも、私の信じた理想による救いを拒み、私が夢見た世では彼らの居場所はどこにも無かった」
宮本伊織。逸れのアサシン。そして征服王イスカンダル。
彼らだけが特別なのか。彼らだけが例外なのか。
だが、あまねく万民を救うはずの理想が、たった三人の例外であれ、その救いの対象から取りこぼしてしまうのであれば。もし、そうであるならば。それは本当に、三人だけで済むのだろうか。
三十人?
三百人?
三千人?
例え、それが三万人であろうとも、世界全体からすれば微々たる数字なのかもしれない。新たなる世から取り残され救われざる三万人と引き換えに、それ以外の万民が救われるのであれば。救われた多くの民は正雪を褒め称えるだろう。
だが、そんな称賛に何の意味がある? 太平の世が訪れたはずが、その太平の世にあってなお虐げられる民の嘆きを救わんとした正雪の理想は、それが極々僅かな例外であったとしても、取りこぼしてしまう対象が生じてはならないはずだ。
もし救われざる例外を認めてしまえば、それは今現在の世と何ら変わらない。それはもはや正雪が夢見た真に平らかなる世ではないのだから。
「それほど思い詰める必要はないわ」
懊悩する正雪の頭に冷や水を浴びせるように、女魔術師の淡々とした声が鼓膜を震わせる。
「第一に、まず盈月そのものにアナタの理想を叶える力が本当にあるのかどうか、という大前提から疑いなさいな。盈月を編み上げたのは土御門だと言ったのは他ならぬアナタよ。その土御門は、あえて仕組みに残った穴を塞がず、自らの策に利用した。つまり、現時点で盈月そのものが不完全な代物だということは既に証明されている」
簡単な数式を解くように、ドロテアは冷静に事態を分析する。
「第二に、その盈月がもしも首尾良く願望機として機能を発揮し得たとしても、その力の及ぶ範囲は果たしてどの程度のものかしら。この江戸の全域? このちっぽけな極東の島国の全て? 海を越えた大陸にまで、それが届くのかしら? そして、その効果は果たして永続的なもの? 一年? それとも十年? あるいはそれを願ったアナタが生きている限り?」
正当な魔術師の後継として高度な教育と広汎な知識を得ているがゆえに、その魔術の限界をも正確に見極めているドロテアは、願望機という盈月の機能にそれほどの幻想を抱いてはいなかった。
そして、その分析は当事者たる土御門の見立てともそれほど違いはなかった。
「例えアナタの目が行き届く範囲で、アナタが生きている限りは理想が現実になったとしても。アナタが死んでしまったら全ては元通りになる。そんなものは、結局のところ蜃気楼のような儚い幻でしかない。アナタの理想は、そんなちっぽけなもので終わってしまって良いものなのかしら?」
「…それ、は」
ドロテアの声に励ましや慰めといった優しげな響きは全くなく、むしろ冷ややかに突き放すような声だった。しかし、だからこそ正雪の耳に痛いほど突き刺さる。
「アナタの救世の理想が、不完全な盈月とやらに叶えきれる程度のものではないのだとすれば。まずそれ以外の手段で叶える方法を探しなさいな。それは、例外とやらを認めるかどうか以前の問題でしょう」
「…っ!」
正雪が横目で見ると、ドロテアは腕に抱えていた外套を広げて自分の肩に引っ掛けて羽織り、続いて帽子を頭に乗せる。
「…レディ・ドロテア殿には、盈月にかける願いがあるのか」
「もちろんあるわよ。魔術師として、根源に至る。でも、それは私個人ではなくコイエット家の魔術師が最終的に辿り着くべき目標であって、盈月は数ある選択肢のうちの一つでしかない。現状では、せいぜい魔力源として何かの儀式には使えるか、あるいは私の孫やひ孫の代まで下らない雑事に煩わされず魔術に没頭できるほどの財源として価値があるかどうか、という程度ね」
さらりと言ってのけた女魔術師は、そこで正雪の視線に気付いて軽く笑ってみせた。
「考えても御覧なさいな。確かに私は後継者ではあるけれど、コイエット家の現当主はお父様なのよ? つまり名代。間もなく出島の商館長として赴任される父の代理として、その事前の地均しのついでに儀に参加しただけ。無論、それはそれとして私が負けるなど許されないし、手を抜いたりはしないけれど。でも、コイエット家にしてみれば、これは家名と一家の浮沈を懸けて当主が全力を振り絞るまでもないという、ただそれだけの話」
淡々とした語り口に、正雪は無言で応じた。自分がホムンクルスとしての短い生涯を終える前に、その理想の実現を懸けて己が命運を託すはずだった盈月の儀。しかし、それは他の誰かにとってはそれほどの重要事とは見なされてはいなかったという事実。
頭ではわかっていたつもりだったことを、ここで改めて思い知らされる。征服王が『視野の狭い未熟な小娘』と自分を評したのは、実に正しかった。
「…盈月の他にも、私の理想を叶える手段が本当にあるのだろうか」
「さぁ? もしかしたら何処かにはあるのかもしれないし、そんなものは何処にもないかもしれないわね。アナタは探してみたことがあって?」
「無い、な。土御門に『盈月は万能の願望機である』と囁かれてからは、それを手にすることしか頭になかった」
「あらあら、それでは欲に目が眩んだ幕閣どもと同じじゃない。なら、まずは探し始めてみるところから始めてはどうかしら。真理の探究とは、まず一歩目を踏み出してみないことには何も始まらないものよ」
ドロテアが軽く手を振ると、長屋の影から白髪白髯の老人が姿を現す。今の今まで誰もその気配を察していなかったことは、立ち話をしていた伊織と槍兵、そして征服王までもが一斉に口を閉ざして彼に視線を集中させたことで証明されたようなものだった。
「お呼びでしょうか、お嬢様」
「土御門泰広。儀の見届け役がキャスターと繋がっている可能性が高いわ。上野の寛永寺に監視の目を増やしなさい。ただし、手出しは無用。危険を感じたら即撤退を厳命しておくように」
「かしこまりました」
恭しく腰を折り曲げてコイエット家の家宰は主命を承諾した。
「話は終わったか、マスターよ」
「…ああ、そうだな。レディ・ドロテア殿。助言に感謝する」
「情報の対価の代わりよ。気にしないで」
偉丈夫の声に頷いた正雪が謝辞を述べると、女魔術師は小さく手を振る。
「これから寛永寺に向かうつもりか」
「当然でしょう」
歩み寄ってくる伊織の問いに即答したドロテアは、誰の手も借りるつもりはなかった。しかし、次の言葉には思わず目を見開いて相手の顔を凝視するほどの衝撃を受けた。
「ならば、上野に向かう前に小石川に立ち寄ることを勧める。あそこには逸れのキャスターがいる。その真名はキルケー。神話に名高い、伝説の大魔女だそうだ」
「なんですって…!?」
およそ西洋の魔術師であれば名を知らぬ者などいないであろう大魔女は、古今東西の神話伝説を紐解いても魔術の技倆という一点のみにおいて言えば、おそらく十指に入ると言っても過言ではないだろう。アルゴノーツの一人にして裏切りの魔女としても知られるコルキスの王女メディアの叔母であり、魔女としての先達でもある。
「あのキルケーが、こんな極東の地での召喚に応じたというの? 本当に?」
「詳しいことは俺にはわからないが、自らをキルケーと名乗り、背中には大きな翼が生えていた。そしてランサーにキュケオーンなる粥を一口食べさせただけで豚の姿に変え、次に俺たちが採ってきた薬草を材料に調合した霊薬を飲ませることで元の姿に戻してのけた。凄まじい魔術の使い手だ」
「…どうやら本物のようね。三騎士の持つ対魔力スキルを突破するなんて、並みのキャスターに出来ることじゃないわ。それをまさか逸れの霊基でやってのけるなんて」
驚きつつも納得した様子の女魔術師は、その目を傍らの家宰へと向ける。
無言の命令に再び腰を折り曲げた老人が、その懐から小さな革袋を取り出した。
「受け取れ、宮本伊織。お嬢様は貴重な情報に対して正当なる代価が支払われることをお望みだ」
掌に乗る程度の小さな革袋は、しかし受け取ってみるとズシリと重い。
口を縛っていた細紐を解くと、陽光を反射して煌めく砂金の輝きが目に映った。
「…これは」
北町奉行所の同心である助之進からの紹介に加え、最近では三浦屋の格子女郎である山吹や鄭成功の部下である蔡玉蓮からの稼ぎ口をも得た伊織ではあるが、焼け落ちた長屋の再建にかかった費用はもとより、吉原でバーサーカーに支払うべき傷の治療費、さらには今後も魔術工房の拡張に必要な素材を買い求める必要なども考え合わせると、その懐は手元不如意も甚だしいところではあった。
いっそ若旦那に大量の仏像を持ち込む方が手っ取り早く稼げるやもとさえ思わなくもない状態であっただけに、この臨時収入はありがたいどころの話ではない。
「いいのか。幾ら何でも貰い過ぎではないかと思うが」
「アナタ、何もわかってないのね。時計塔のロードだって、もし神代の魔術の使い手から直接教えを乞う機会を与えられると知ったら、こんな極東の地の果てまででも慌ててすっ飛んでくるわよ? これでも安すぎるぐらいだわ」
当世の魔術師にとって、既に時の彼方の果てに過ぎ去って久しい神代の魔術を目にすることの出来る機会がどれほど貴重なものか、更にはその使い手と直接言葉を交わし、あるいは教えや助言をさえ得られることがどれほど羨望の的となるものか。魔術使いとしても半人前の伊織には実感することも出来ないが、ドロテアの声にも表情にも、その傍らの老人の目にも、冗談の成分は一切含まれてはいなかった。
「そうか。ならばありがたく受け取っておこう。…もし逸れのキャスターに会えたなら、俺が貴重な助言に心から感謝していたと伝えて欲しい。本来であれば直接出向いて礼を言うべきだと承知してはいるが、ランサーがどうにも二の足を踏んでいるようなのでな」
「そんなことを言うなら、てめえも一度豚の姿に変えられてみやがれってんだ。それでオレの気持ちが少しはわかるだろうよ」
噛みついてくる美丈夫の悪態に軽く苦笑する伊織は、手の中の革袋を懐に仕舞い込んだ。
「俺たちは吉原に向かおう。幸い、これで傷の治療費の支払いの当ても出来たところだ。溜まっていた借りを精算する良い機会だろう」
「そうだな。逸れのバーサーカーがどうなったのか、あれからバーサーカーの姐さんがどうしたのかも知っておきてえところだしな」