Fate/SamuraiRemnant異聞 伊×槍決闘譚 作:葛轍偲刳
肆:一夜明け
夢を見た。
夜空から降り注ぐ月の光。その玲瓏なる輝きをさえ切り裂く白刃の煌めき。凄惨なる血煙と断末魔の呻きですら、その至高の芸術ともいうべき技の冴えの価値を貶めるものではない。
むしろ、同族の命を奪う野蛮な技術であるはずの剣技をさえ、見る者の目に美技として焼き付けるに足る絶技。それは、剣の鬼と謳われるに相応しい剣士が生涯を賭しても未だ追い求め続ける夢のまた夢だ。
それは手の届かないものなのか。よしんば届いたとしても、一体それが何になるのか。この太平の世で、あの絶技を振るうに足る強敵にまみえる機会があるのか。その境地に達した剣士の居場所が、果たしてどこにあるのか。夢はただ、夢のままにしておくべきではないのか。憧れは、憧れのまま胸の内に秘めておくべきではないのか。
しかし、それでもなお。若き剣士は、あの剣と出会ってしまったが故に、己が剣を生涯を懸けて追い求めずにはいられない。記憶すら朧げになってしまった今となってもなお、あの夜のことを鮮明に夢見るほどに。
「――…よぉ、マスター。起きたか」
薄っぺらく安っぽい煎餅布団の中で瞼を開けた伊織は、そんな快活な声で己が目覚めを知った。
「ああ、ランサー…で、良かったか?」
「応よ。なんだ、まだ寝ぼけてやがんのか?」
「いや、昨夜の出来事が夢ではなかったと改めて確認しただけだ」
布団から上体を起こし、左腕の傷を検める。一夜を休息に費やしたおかげで、傷の痛みもだいぶ良くなっている。ゆっくりと手を握っては開き、再び握る。握力は普段の六割から七割ほどか、加えて軽い眩暈。軽度の貧血だが、行動に支障が出るほどのものではない。強敵との全力戦闘は無理でも、そこいらの牢人から自分の身を守る程度ならさほどの影響はあるまい。
「ランサーは眠らずとも良かったのか?」
青い槍兵は、昨夜遅くに伊織が布団に入った時と同じ、戸口に顔を向けて腰を下ろした姿勢のまま、その位置から全く動いてはいなかった。
「基本的にサーヴァントは眠りもしねえし飯も食う必要もねえ。マスターから十分な魔力を供給されている限り、って但し書きが頭に付くがな」
「…その口振りだと、全く問題がないというわけではなさそうだな?」
全く問題がないなら、わざわざ但し書きを口に出す必要もない。
「まあ、な。魔術師としちゃ、三流とまでは言わねえが二流がせいぜいってところだな、オレのマスターは。剣士が本分っていうなら致し方ねえが」
実に辛辣な、しかし否定のしようもない的確な評価に伊織も苦笑するしかない。
「すまない。そもそも俺は魔術師になるつもりもなかったから、その辺りはかなりいい加減だ。まさに生兵法は何とやらだ」
「いいってことよ。変に自分の未熟を取り繕おうとしないだけ、まだマシってもんだ」
さすがに夜中に洗濯するというわけにもいかなかったし、そもそも疲労と負傷でそれどころではなかったから、土やら血やらで汚れた着物も脱ぎっぱなしで放置されている。井戸に水を汲みに行くついでに顔も洗い、着物も洗ってしまわねばなるまい。
「朝餉の前に、近くの井戸で顔と着物を洗ってくる。その後で、何か適当に食えるものを…」
「兄ちゃん!」
どこかで買って来よう、と続けようとした伊織の言葉を、明るい少女の声が遮った。
「おっはよう! もう起きてる? まさか空きっ腹のままで、また稽古に夢中になってたりしない?」
姿こそ見えないが、勝手知ったるとばかりに声の主がずんずんと無遠慮に近付いてくるのが気配と足音だけで二人にはわかる。
「おい、マスター」
「すまん、ランサー。俺の身内だ。だが、荒事に巻き込みたくはない。ここは適当に何とか話を合わせてはくれないか」
素早く、しかし密やかに二人が囁き交わす暇もあればこそ。
「え?! えっ?! 何これ、何がどうなってるの!? 兄ちゃん、一体これはどういう…っ!?」
昨夜の襲撃の痕跡を隠していられるような余裕など疲労し傷も負っていた伊織にあるはずもなく、内側から蹴破られた木戸もそのまま開けっぱなしになっている戸口から顔を出した少女は、内部の光景を目にして満面に驚愕の表情を浮かべた。
そこには、長屋の中とはいえ下帯一つで半裸のまま肌を晒している義兄と、妙に親密そうに顔を近付けて密やかに囁き交わしている見慣れぬ美丈夫の二人がいた。
「え…あ…」
別に、これが義兄だけであれば少女もさほど取り乱したりはしなかっただろう。日課としている剣術の稽古をしていれば汗だってかくものだし、体を拭くのに諸肌を脱ぐのはむしろ当たり前のことで、今は亡き養父・宮本武蔵に世話になっていた幼少の時分からお互いに肌を見る機会など幾らでもあった。
しかし、それが見知らぬ他人と一緒にいるとなれば話はまるで違ってくる。
「え、ええっと…あの、」
「昨日の今日だぞ、カヤ。だが、まあ、とりあえずおはよう」
義兄が、全く慌てた様子もなく普段と同じ穏やかな声を発した。それがまた、妙に後ろめたいような、逆に自分が場違いであるかのような、焦燥感とも困惑ともつかぬ複雑な感情をもたらす。
「お、おはよう。…あの、えっと、兄ちゃん? ちょっと…こっちに」
躊躇いがちに呼ぶ義妹が長屋の片隅で手招いてくるので、やむなく伊織はランサーから離れてそちらに近づいていく。
「どうした?」
「『どうした?』じゃないでしょ!?」
低く潜めた小声で叫ぶという器用なことを両立しながら、小笠原カヤは義兄の耳を引っ張った。
「あれ、誰? というか、兄ちゃん、まさかとは思うけどさ」
「なんだ?」
「女遊びする金がないからって、衆道に走ってたりしないよね?」
素知らぬふりで兄妹に背を向けたままのランサーが思わず肩を小さく揺らし、噴き出すのだけは辛うじて堪えた。
そろそろと肩越しに背後を窺うと、義妹からとんでもない疑いを向けられた伊織は、口をつけた升になみなみと注がれていたのが酒ではなく酢であったことに飲んでから気付いたとでもいうような、何とも言えない微妙な表情を浮かべている。
「……」
「別にいいんだよ? 衆道は武士の嗜みって言うし。もし兄ちゃんがどこかに仕官をすることにでもなったら、ひょっとしたらお仕えする殿様に求められることだってあるかもしれないわけだし」
「いや、あのな、カヤ…」
「でもね? まだ若いからって牢人の身で今から色に溺れるようだと、男色であれ女色であれ、それがもとで身を持ち崩すことだってあるかもしれないわけだしさ。妹としては、さすがに黙って見過ごすわけにはいかないかな、って」
「違う、そうじゃない」
肺腑を空っぽにするほど深々と溜め息をついた伊織は、怪我をしていない右手で頭を掻き毟り、がりがりと頭皮を爪で引っ掻きながら溜め息をさらに重ねる。
「すまないが、まずは落ち着いて、ちゃんと紹介をさせてくれ。いきなり見ず知らずの相手と衆道の契りを結ぶほど、俺は誰彼構わないわけじゃない」
「あ、うん。それはまあ、確かにそうだろうけどね」
ひとまず舌鋒を収めてくれた義妹の頭を軽く手で撫でてから、伊織は昨日着ていた着物を肩に引っかけてランサーの隣に腰を下ろす。
「ランサー、俺の義妹のカヤだ。今は小笠原家の養女の身の上だが、昔は師匠――養父である宮本武蔵の下で兄妹として育てられていた。今も昔も、大切な俺の家族であることに変わりはない」
「カヤと申します。先ほどは失礼をいたしました」
後の世に小笠原流礼法として伝わる武家礼法を室町時代より連綿と受け継ぐ小笠原惣領家で躾を受けているだけあって、改めて居ずまいを正した少女の態度は実に折り目正しい。
「カヤ、こちらはランサーという。いささか奇妙な響きに聞こえるだろうが…」
「すまねえな、嬢ちゃん。オレは海の向こうの遠い異国の生まれなもんで、ランサーってのも通り名みてえなもんだ。ちっとばかり耳に馴染まねえのは勘弁してくれ」
「新免武蔵守藤原玄信が、普段は宮本武蔵を通り名としていたようなものだな」
「そういうこった。で、色々あったがオレが仕えていた国も戦で滅んじまってな。今は愛用の槍だけを持って旅から旅の風来坊をしてる」
嘘ではない。ケルトの大英雄クー・フーリンが生前アルスター王国に仕えていたのも、そして今は滅び去ってしまっているのも事実である。
「とはいえ、風来坊なんぞしていると、どこで誰から怨みを買うかわかったもんじゃねえ」
「わかるぞ、ランサー。俺も牢人として糊口を凌ぐため、やむなく揉め事に関わらざるを得ない時もある。こちらが望むと望まざるとに関わらず、恨みつらみを買うこともあるだろう」
「そういうこったな。で、だ。昨夜遅くもここいらの近くをうろついてたんだが、そこでいきなり奇襲を喰らっちまってな。一人や二人を倒してもわんさか湧いてきやがって、危うくあわやってところまで追い込まれたんだが…」
そこでランサーが肩を竦めながら破られた戸口を目で指し示したので、つられてカヤもそちらに振り向いた。すかさず目配せを受けた伊織が、軽く咳払いして話を引き継ぐ。
「寝ていたところで外が騒がしいことに気付いた俺が起き出すと、」
「たまたまそこにオレが転がり込んじまったっていうわけよ。巻き込んじまったのは申し訳ねえんだが、そこはやむにやまれぬ事情って奴でな。まあ、そのおかげでこうして命拾いしたわけなんだが」
さらりと口にするランサーの横顔を、思わず伊織は横目で流し見た。どちらかと言えば助けてもらったのは自分の方で、そのおかげで命を拾ったのも自分だというのに。
「その結果、大事な身内の体に傷をつけちまったのは詫びのしようもねえ。嬢ちゃんには頭を下げなきゃならん」
「お、おい、ランサー」
挙句、何の非もないはずのランサーが低頭するに至っては、逆に伊織の方が申し訳ない気分になってくる。
「いえ、そんな……。剣士たる者が立ち合いに臨んで無傷で勝つなどむしろ恥だと、亡き養父も申しておりました。それだけの強敵とまみえたことを喜ぶべきだと。ですから、らんさあさんが謝るようなことはありません」
「いやいや、それはそれ、これはこれだ。しかも、そんなオレを追い出すでもなく一夜の宿まで貸してもらっちまった。この恩義はきっちり返さなきゃならん。この借りを返すまではオレの主として仰ぎ、忠を尽くすつもりだ。…なあ、マスター?」
そう言って明朗な笑みを返してくる好漢の声に応じたのは、伊織でもカヤでもない第三の声だった。
「なかなか殊勝なことを言うものではないか、ランサーとやら」
「ぁん? 誰だ?」
「本の爺ちゃん!」
長屋の隅に纏められている雑多な品々の山から姿を見せたのは、紅玉を思わせる赤い瞳をギョロリと動かし、歯抜けの口を思わせる亀裂から剽げた声を発する分厚い革装丁の本だった。
「起きたのか。あれだけの騒ぎの後だというのに、随分と呑気だな」
「うむ。喧騒が実に心地良う身に響いての、ぐっすり眠っておった」
ひらひらと頁を羽根のようにひらめかせ、空中にふわりと浮かぶ書籍という奇怪な絵面にも伊織とカヤの二人は驚く様子もない。気安く会話する様子に、それだけでも二人の信頼の度合いが窺い知れるというものだ。
「ほぉ…」
「こそばゆいわ。そう熱く見つめるでない」
興味深げに見つめてくる槍兵の視線を避けるようにクルリと空中で一回転した書を、伊織が紹介する。
「爺さん…紅玉の書は、養父の遺産だ。何処の文字で書かれたかすらも解らず。読むのを諦めていたが…ある日突然、俺に言の葉を放ってきてな。正直、驚きはしなかった」
「いや、そこは驚いておけよ、普通」
さらりと下手な怪異よりも怖いことを言ってのける伊織に、ランサーも思わず突っ込んだ。
「だが、言の葉でやり取りができるのは、書を読むより容易いしな。おかげで俺は爺さんから幾らかを教わり、体中の経絡を研ぎ澄ませ、火遁の会得にまで至った。半年ほどかかったか」
「何も知らない素人が一から修行してそれなら、まあなかなかに大したもんだろ」
「ふぁふぁふぁ、そこは儂の教え方も良かったからじゃのう」
ランサーの賛辞に紅玉の書が愉快そうに笑い声を響かせるが、そこでカヤがふと我に返った。
「…って、のんびり話してるケド。ねえ、兄ちゃん。戸口がこれじゃホコリも泥棒も入り放題になっちゃうよ?」
「ああ、そうだな」
「ならば、伊織よ。これを機に、この長屋に魔術工房を拵えてはどうじゃ?」
紅玉の書の提案に、伊織は頷いた。盈月の儀に臨む以上、これからも敵に襲われることは想定される。自分の身を守るためにも、万が一にも義妹が事態に巻き込まれる可能性を鑑みても、臥所の守りを固めるのは当然のことではある。
「やぶさかではない、が…」
「うむ。とはいえ工房造りには素材が要るぞ。無から有を望んではいかん」
「道理だな」
「先立つものは、――まあ、昨日の稼ぎで足りるじゃろう。必要な素材を買って参れ!」
「あいよ、爺さん。オレもマスターに付き合ってやるよ」
指図を受けた伊織は仕方なく腰を上げた。ランサーもまたそれに続く。
「いってらっしゃい、兄ちゃん。その間に朝餉の支度をしておくからね。もちろん、ランサーさんの分も!」
「すまん。頼んだ」
肩を並べて長屋を出た二人は、まずは先に近くの井戸を目指して歩を進める。
落した釣瓶を引き上げる為の縄を手繰って使い古した木桶に水を汲むと、伊織はそこに着物を突っ込んで無造作にざぶざぶと洗ってからきつく絞り上げる。無論、それだけで汚れの全てが洗い落とせるはずもないが、どうせ今日もまた色々と動き回ることは目に見えている。ひとまず血やら土やらの痕が目立たなくなってくれれば十分だった。
「…すまないな、ランサー」
「あ? なんだよ、藪から棒に」
再び水を汲んで木桶の水を取り替え、手と顔を洗う。その様子を見るともなく黙って佇んでいた美丈夫は、伊織の詫び言に軽く眉を寄せた。
「やむを得ぬ流れだったとはいえ、貴殿を悪者にしてしまった。おかげでカヤのあらぬ誤解が解けたのは僥倖だが、あそこまで貴殿が責を背負い込むことはなかったのではないかと思う」
昨夜の伊織が自身の意思とは無関係に盈月の儀に巻き込まれたのは事実だが、その伊織に喚び出されたランサーに責は無い。責が無いどころか、危ういところを助けてもらったのはむしろ伊織の方である。
「なんだ、そんな事かよ」
しかし、槍兵は快活に伊織の懸念を笑い飛ばした。
「それぐらい、別にいいじゃねえか。どうせオレは儀が終われば消えるが定めだ。たまさか、この時代に喚び出されたというだけの客(まろうど)でしかねえんだぜ? いくら悪者にされようが構いはしねえ。オレはマスターを利用して、強い敵との戦いを楽しめればそれでいい。だったら、マスターもオレを利用するのは当然ってもんだろうよ」
そう言って爽やかに笑う好漢に、伊織は眩しげに目を細めた。それは、決して燦々と降り注ぐ朝日ばかりが理由というわけではないのは間違いなかった。