STORY.15:冬隠帰路
その後、戦場の喧騒が完全に遠のいた頃。
レイヴンに支えられながら搬送されたフロストノヴァは、簡易的に展開された医療エリアでストレッチャーへと移された。
身体は無残だった。
衣服は裂け、肌にはアーツの反動と外傷が幾重にも刻まれている。
呼吸は浅く、胸の上下もわずかで、生命の灯火が今にも消えそうな状態――それでも、完全には途切れていない。
瀕死。
だが、まだ“生きている”。
それが医療オペレーター達の一致した判断だった。
フロストノヴァは天を仰ぎながら、かすれた声で言葉を絞り出す。
「……すまない、ドクター……」
その声には、敗北や後悔よりも、申し訳なさが滲んでいた。
「折角……ロドスと……共に歩めると……思っていたのに……」
「……握手も……できない……」
自嘲とも、諦観ともつかない呟き。
彼女自身が、自分の状態を正確に理解しているからこそ出てくる言葉だった。
「構わない。」
レイヴンは即座にそう答えた。
言葉を選ぶ様子はなく、迷いもなかった。
彼はストレッチャーの横に立ち、ためらいなくフロストノヴァの手を取る。
その手は驚くほど冷たく、骨ばっていて、力が入っていなかった。
それでも、レイヴンは強く――はっきりと“生きている者”の温度で握り返す。
「……」
フロストノヴァは一瞬、目を見開いた後、ゆっくりと力を抜いた。
「……あの時……」
視線をどこか遠くに向けながら、彼女は続ける。
「君が……私の事を……温かいと……言ってくれた事……」
「……嬉しかった……」
その言葉は、戦場で交わされた何気ない一言を指していた。
だが、彼女にとっては、これまでの人生を否定するほどの意味を持っていたのだろう。
「私にも……人の温もりを……感じる事が……できたからな……」
冷気と孤独に包まれて生きてきた彼女にとって、“誰かに触れられ、拒絶されなかった”という事実は、何よりも救いだった。
しばらくの沈黙の後、フロストノヴァは小さく息を吸う。
「ドクター…」
「……私と君は……また……会えるだろうか……?」
問いかけは、願いだった。
生存の保証を求めるものではなく、“未来が存在する”という肯定を欲していた。
レイヴンは即答する。
「待ってる。」
短い言葉だったが、そこに含まれた意味は明確だった。
――生きて戻って来い。
――居場所は、もう決まっている。
その言葉を聞いたフロストノヴァは、ほんの僅かに、しかし確かに微笑んだ。
それは戦士でも、雪の魔女でもない、ただの一人の少女の表情だった。
「……では、ロドスに搬送します。」
医療オペレーターの声が、現実へと引き戻す。
「頼む。」
レイヴンはそう告げ、ストレッチャーが慎重にヘリへと運び込まれていくのを見届けた。
ローター音が徐々に大きくなり、周囲の空気を震わせる。
その直前、レイヴンはふと視線を巡らせ、少し離れた場所に立つ影に声をかけた。
「お前らも、着いてやってくれ。」
スノーデビル小隊だった。
彼らは不安そうに、しかし必死にフロストノヴァの方を見つめている。
「今、アイツを安心させられるのは……お前らだからな。」
一瞬の沈黙の後。
「……わ、分かった!」
震えた声で返事をしたのは、隊の一人だった。
「ありがとう、ドクター!」
その言葉を合図に、スノーデビル小隊の全員がヘリへと走り出す。
彼らの表情には恐怖もあったが、それ以上に“離れたくない”という感情が強く刻まれていた。
やがてヘリは浮上し、夜空へと消えていく。
その背を見送った直後。
「……満足したか?」
背後から、唐突に声がかけられる。
「うおっ……!」
レイヴンは思わず肩を跳ねさせ、振り返った。
「なんだよ、脅かすな。」
そこに立っていたのはケルシーだった。
相変わらず感情の読めない表情で、腕を組んでいる。
「君だけか……?」
「ああ。他は別の場所だ。」
「アーミヤは、あのウェイって奴の所に行ってる。」
ケルシーは一瞬だけ目を伏せ、静かに言葉を選ぶ。
「……排水エリアでの件は聞いた。」
「力を求めすぎたguardは……そのまま、安らかに昇ったと、アーミヤから聞いている。」
「……それで?」
レイヴンは苛立ちを隠そうともせず返す。
「何が言いたいんだ?」
ケルシーは答えず、ヘリが消えた方向へと歩き出す。
「君の事など……嫌というほど知っている。」
「私は、君を信頼しない。」
冷たい断定。
「かつての君が……そうだったように。」
レイヴンは小さく溜息を吐いた。
「別にさ。」
「昔の俺が、どう思われようと……知ったこっちゃない。」
彼はケルシーを見る。
「俺は仲間を信じる。」
「……お前もだ、ケルシー。」
一瞬の沈黙。
「……やはり、君は嫌いだよ。」
そう言ったケルシーの口元は、微かに――だが、確実に微笑んでいた。
その表情に、レイヴンは言いようのない違和感を覚える。
(……やっぱり、やりにくいなぁ……)
彼は頭を掻きながら、遠ざかるローター音の余韻を背に、その場を後にした。
…………………
その頃――。
戦闘の余韻と喧騒がまだ拠点に残る中、ジェスターは誰にも声をかけず、静かに戻ってきていた。
彼は自分に割り当てられていた簡素な区画に入り、最低限の装備だけを無言でまとめていく。
替えの弾薬、簡易医療キット、剣の手入れ道具。
それらを背負い、身に纏う動作は淡々としていて、そこに迷いは見られなかった。
決断は、すでに彼の中で終わっている。
外へ出ると、拠点周辺ではレユニオンの構成員たちが忙しなく動いていた。
破損したコンバットフレームの装甲を外し、溶接し、ケーブルを繋ぎ直す。
火花が散り、油の匂いが立ち込める――戦争の準備そのものの光景だ。
ジェスターはその様子を一瞬だけ眺め、すぐに視線を逸らした。
(……もう、戻れないな)
そう自覚すると同時に、彼は拠点の中心から外れた路地へと足を向ける。
人目を避けるように、影の多い道を選んで。
その背中に――
「ジェスター!!」
荒い呼吸と共に、聞き慣れた声が飛んできた。
振り返るよりも早く、Wが駆け寄ってくる。
いつもの余裕や嘲笑はなく、明らかに焦りと怒りが混じった表情だった。
「アンタ、何処行くつもりよッ!!」
ジェスターは足を止めず、低く答える。
「……俺はもう、こんな所でやっていくつもりはない。」
その言葉に、Wは一瞬言葉を失う。
「龍門での事……スラムの事……ロドスの事……」
「あの時点で、俺とタルラの道は違えたと言う事さ。」
吐き捨てるような声。
怒りと疲弊が、抑えきれず表に出ていた。
ジェスターは歩調を速める。
だが――
「裏切るというのか。」
その声は、上から降ってきた。
見上げると、崩れかけた建物の縁に、タルラが立っている。
暗闇を思わせる黒い瞳が、真っ直ぐにジェスターを射抜いていた。
「お前がコンバットフレームを持ち出した時点でな……」
「俺は、いずれお前と刃を交える事になると分かっていたのかもしれない。」
ジェスターは舌打ちし、剣に手をかける。
しかし――
タルラはためらいなく飛び降り、着地と同時に剣を振るった。
「ッ!!」
反射的に身を捻り、致命傷は避けた。
だが――
ザリッ、と嫌な感触が走る。
右目に、熱と痛み。
「ッ……!!」
血が視界を染める。
片目を押さえ、よろめくジェスター。
「ジェスターッ!!」
Wが即座に駆け寄り、彼の状態を確認する。
そして顔を上げ、怒りを隠そうともせずタルラを睨みつけた。
「……こんな事…」
「こんな事してまで……野望を叶えるって言うの!?」
返答はない。
タルラの目は冷え切っていた。
Wは舌打ちし、即座に閃光弾を取り出して投げつける。
「アンタは――」
白い閃光が炸裂する。
「一人寂しく、ハミングでも口ずさんでなさい……」
その言葉を残し、Wはジェスターを支えながら消えていった。
静寂が戻る。
タルラは剣を下ろし、ゆっくりと周囲を見渡す。
「……W……ジェスター……」
そして、呟くように名前を重ねる。
「メフィスト……ファウスト……」
「フロストノヴァ……パトリオット……」
「クラウンスレイヤー……」
誰もいない空間に、言葉だけが落ちていく。
「……皆、私から離れたか。」
一瞬、何かが揺らいだようにも見えた。
だが、それはすぐに押し殺される。
「まあいい。」
彼女は炎を纏った剣を強く握る。
「私は……私の成すべき事をするまでだ。」
剣身に揺らめく炎が、彼女の影を歪める。
「この手で……龍門を……」
その瞳に、もはや迷いの光はなかった。
…そこには冷え切った決意だけが宿っていた。
そして、辛うじてタルラの追撃を振り切ったジェスターとWは、都市外縁に近い廃墟群の一角へと身を潜めていた。
かつて住居だったと思われる建物は半壊し、天井の一部は崩れ落ち、外壁には無数の弾痕と焼け焦げた跡が残っている。
瓦礫と埃の匂いが空気に混じり、風が吹くたびにどこかで金属が軋む音がした。
二人はその建物の奥、外から視認されにくい影の濃い一室に腰を下ろす。
Wはジェスターが携帯していた救急キットを開いた。
「えっと……これで、いいのかしら……」
独り言のように呟きながら、彼女は包帯を手に取る。
ジェスターは瓦礫にもたれ、壁に背を預けたまま黙っていた。
右目を覆う血はすでに止まりつつあったが、裂傷は浅くない。視界の半分が奪われた状態でも、彼は表情を変えなかった。
Wの手つきは明らかにぎこちない。
包帯を引く力が一定せず、巻く角度も何度かやり直している。
それでも途中で投げ出すことなく、慎重に、慎重に処置を続けていた。
ジェスターはそれを眺めながら、口を挟まなかった。
急かすことも、助言をすることもなく、ただ静かに待つ。
数分後。
「……よし。多分、これで……」
最後に包帯の端を留め、Wは小さく息を吐いた。
ジェスターは軽く首を動かし、痛みの具合を確かめる。
「……もう痛くない?」
「……ああ。大丈夫だ。」
短いやり取り。
それだけで、場に張り詰めていた緊張がわずかに緩む。
Wはそのままジェスターの隣に腰を下ろした。
瓦礫の上に座るため、姿勢は良いとは言えないが、気にした様子はない。
「あー……やっぱりこういうの、私には向いてないわね。」
自嘲気味な声。
戦場で爆薬を扱う時の軽薄さとは違い、どこか疲れが滲んでいる。
「だが、慣れてない割には上手くできてたじゃねぇか。」
ジェスターの声は低く、淡々としていた。
褒めているのかどうか判別しづらいが、事実を述べただけの口調だ。
「慣れてないは余計よ。イネスとかヘドリーとかに……一応、習ったことはあるんだから。」
Wは肩をすくめる。
「……お前、その時寝てただろ?」
「うっさいわね。」
短いやり取りの後、再び沈黙が落ちる。
廃墟の外では、遠くで風が吹き抜ける音がする。
時折、瓦礫が転がる乾いた音が響くが、追っ手の気配はない。
Wは視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。
「あの二人……元気にしてるかしら……」
ジェスターは一瞬だけ目を伏せ、それから静かに答えた。
「……きっと元気さ。」
「二人とも、そう簡単にくたばるような連中じゃねぇ。」
それ以上の言葉は続かなかった。
だが、その一言には、根拠のない楽観ではなく、経験に裏打ちされた確信があった。
瓦礫に囲まれた薄暗い空間で、二人はしばらく黙ったまま座り続ける。
戦火の中心から離れたこの場所は、束の間の避難所に過ぎない。
今はただ、互いに生きている事実だけが、確かなものとしてそこにあった。
…………………
騒乱に満ちていた龍門の夜は、嘘のように静まり返っていた。
遠くで微かに聞こえる風切り音と、巡回隊の足音だけが、都市がまだ完全には眠っていないことを示している。
近衛局の施設もまた同様で、負傷者の手当てや報告に追われていた時間帯を過ぎ、ようやく一息つける深夜を迎えていた。
その一角、簡素な隊員用の個室で、テディスは眠っていた。
スラムでの戦闘中、赤霄を抜刀し前線に立った彼は、その反動と疲労が限界を超えた結果、意識を手放したまま数時間が経過していた。
眠っている彼の表情は穏やかだった。
普段の軽口や親しみやすい態度は影を潜め、そこにあるのは、龍族としての気高さを感じさせる静かな寝顔だけだった。
呼吸は安定しており、規則正しい胸の上下が、彼が確かに生きていることを淡々と告げている。
その傍らに、チェンは立っていた。
室内の明かりは落とされ、最低限の照明だけが二人を照らしている。
チェンはしばらくの間、言葉もなくテディスを見つめていた。
彼が命を張って戦った事実、その瞬間が、頭から離れなかった。
「……テディス……」
小さく名前を呼ぶが、彼が目を覚ますことはない。
それを確認するように、チェンは静かに息を吐いた。
「……すまない。」
その言葉は、謝罪でもあり、決別でもあった。
彼女はテディスの枕元に、小さく折り畳まれた手紙を置く。
内容は多くを語らない簡潔なものだったが、そこには彼女自身の決意が込められていた。
やがてチェンは背を向ける。
一瞬だけ立ち止まり、振り返りそうになるが、それを思い留まるように視線を伏せた。
そして、足音を極力立てないように、部屋を後にする。
廊下に出たチェンの表情は、すでに迷いを切り捨てたものだった。
彼女は目的地を定め、ウェイの元へ向かって歩き出していた。
一方、再び静寂に包まれたテディスの個室。
部屋の中には、必要最低限の物しか置かれていない。
支給された制服と装備が、壁際に雑然と置かれているだけで、私物と呼べるものはほとんど見当たらなかった。
ベッドの脇に置かれた手紙は、静かにそこにあった。
テディスが目を覚ますまで、その存在を知る者はいない。
そして数分後――
近衛局の隊員用個室に、慌ただしい足音が近づいてくる。
廊下を駆け抜ける靴音が、壁越しにもはっきりと伝わり、静かだった室内の空気を乱した。
その音に反応するように、ベッドに横たわっていたテディスの眉がわずかに動く。
「……ううん……」
低く、眠気を含んだ声を漏らしながら、彼はゆっくりと目を開けた。
視界はまだぼやけており、天井の照明がやけに眩しく感じられる。
無意識に目元を擦り、伸びをしながら大きく息を吸い込んだ。
「……ふぁぁ……」
大きなあくびを一つ。
身体を起こそうとした、その時だった。
視界の端に、見慣れないものが映る。
棚の上――そこに、白い封筒が置かれていた。
「……?」
一瞬、思考が止まる。
誰かが部屋に入った記憶はない。
それでも、封筒は確かにそこにあった。
嫌な予感が、胸の奥に静かに広がる。
テディスはベッドから身を乗り出し、迷うことなく封筒を掴んだ。
封はすでに切られておらず、彼自身の手で破く必要があった。
紙を破る音が、やけに大きく響く。
中から現れたのは、複数枚にわたる手紙だった。
整った文字、迷いのない筆致。
それだけで、誰のものかはすぐに分かった。
「隊長から?」
小さく呟きながら、彼は読み始める。
『私はこの龍門を離れることにした。スラムで起こった出来事から、そうする事は半ば決まっていたようなものだ。』
「え!?」
思わず声が漏れる。
頭が追いつかない。
つい先ほどまで、同じ龍門にいたはずの人間が、突然「去る」と言っている。
嫌な想像を振り払うように、彼は視線を文字へ戻した。
『テディス。私は感染者だ。随分前から……な。』
『感染者を取り締まる者が感染者とは……笑える話だろう?』
「……」
喉が詰まる。
思考が止まり、胸の奥がじわりと痛む。
――そうか。
だから、あの時。
だから、いつも無理をしていたのか。
これまでの違和感が、ひとつずつ繋がっていく。
だが、それを理解したからといって、納得できるわけではなかった。
テディスは無言のまま、続きを読もうとする。
その瞬間、手紙の間から一枚の写真が床に落ちた。
「……?」
しゃがみ込み、拾い上げる。
かなり古い写真だった。
色褪せ、角も丸くなっている。
そこに写っていたのは、まだ幼い男女二人。
「……もしかして……隊長って……」
口にしかけた言葉を、途中で止める。
これ以上、勝手に推測するべきではない。
そう自分に言い聞かせ、再び手紙へと視線を戻す。
『とにかく、私は今日限りで龍門を去ることにした。君には、最初から伝えたかった事だ。』
『これからは君は君の道を歩いてくれ。』
それが、最後の言葉だった。
「……俺の道……」
低く、押し殺した声。
胸の奥で、何かが強く揺れる。
ゆっくりと立ち上がり、服を着替える。
動きは無駄がなく、決意に満ちていた。
上着を羽織り、六本の剣を一つずつ確かめるように鞘へ収める。
「……俺の、やりたい事……!」
答えは、もう出ていた。
扉を勢いよく開け、廊下へ飛び出す。
迷うことなく、彼は走り出した。
向かう先はただ一つ――ウェイの部屋。
息を切らしながら辿り着いた先。
そこでは、窓が破壊され、夜風が吹き込んでいた。
ウェイは静かに、外を見つめている。
「テディスさん……
アーミヤの声。
ケルシーも、その場に立っていた。
二人の表情が、すでに事態の深刻さを物語っている。
「テディス……」
フミヅキの声が、彼を呼び止める。
だが、テディスは首を振った。
「……いえ。言わなくていいです。もう、分かってますから。」
手紙をフミヅキに差し出し、そのままウェイの前に立つ。
そして――
迷いはなかった。
渾身の右ストレートが、ウェイの顔面を捉える。
「ッ……!」
鈍い音と共に、ウェイの身体が吹き飛ぶ。
その場にいた全員が、息を呑んだ。
「………これが!」
テディスは叫ぶ。
「これが、俺の退職届だ!!」
近衛局の端末を次々と投げ捨て、砕ける音が室内に響く。
そして、壊れた窓へと歩み寄る。
最後に、あの写真を見つめる。
「……隊長……」
そして、顔を上げる。
「隊長、今行きます!」
そう言い残し、彼は迷いなく夜の闇へと身を投げた。
フロストノヴァは生存しました。これがクリスマスプレゼントか…