プロローグ
女神は理解した。すでに魔女たちが自分に従わないことを。そして悟った。自身より強くなった魔女たちが次に起こす行動を。
遡ること5000年前、女神は世界を創世した。大地を作り海を作り、最後に自身を模った人間を生み出した。そして人間たちを統治すべく七人の女に力を与えた。彼女たち七人こそが、たった今叛旗を翻そうとしている魔女たちだった。
女神側から魔女たちへ直接干渉することはできない。はるか昔、それこそ世界ができたばかりの頃ならば干渉は容易だったかもしれない。天変地異を起こすなりなんなり手立てはあっただろう。だがすでにそれだけの力は女神の下に残っていなかった。
世界を観測できる水晶を覗くと、今まさに七人の魔女によるワルプスギルの夜が終わろうとしている。彼女たちの議題はもちろん、『女神の処遇について』だった。水晶の向こうでは続々と手が挙がり、六体一で女神の処刑が決まったところだった。ギョロリと、魔女たちの目がこちらを向いた。
「ひっ…!」
女神は慌てて水晶に映す世界を切り替える。様々な世界が浮かび上がっては消えていく。
「こんなの認めない…!探さなくては……!」
女神は世界に直接干渉することができない。ゆえに女神にできることはただ一つ。魔女たちを打倒しうる人間を召喚すること。叶うならばより上位の存在を召喚したいが、それだけの力はない。必死に探している間にも、女神のいる空間にひびが入り始める。魔女が攻撃を始めたのだ。
「誰かいないの…!?」
あの魔女たちを打倒しうる人間が…。
ピタリと手が止まった。水晶に映るのは酷く痩せた少女だった。薄暗い牢屋の中で何かの肉を貪っている。しかし女神の気を引いたのはその身なりでも行動でもなかった。
「評価値が0…?そんな人間存在するの…?」
評価値とは文字通り人間を評価する値だ。マイナスなら悪人だし、プラスなら善人。だがプラスマイナスゼロ、つまり悪行も善行も積んでいない人間は存在しない。生を受けた以上、少しでも他人と関わって生きる必要があるのだから。必ずしも善か悪を為すのが人間という生き物だ。百歩譲って生まれ落ちたばかりの赤ん坊だというのならわかる。だが彼女は生まれてから15年も経過していた。もしこの評価値が間違っていないのなら、彼女は15年間善行も悪行も為していない——いわば何もしていないということになる。そんな悍ましい人間がいるのだろうか?危機的状況に身を置きつつも、女神の興味は尽きない。
仮に普段の女神だったならば、彼女を喚ぶなんてある種の賭けはしなかっただろう。しかし消滅の危機にあるという事実と、常人を送り込んでも無意味だという確信が、彼女の判断力を鈍らせた。
「もうこれしか…」
ありったけの力を魔法陣に注ぎ込む。魔法陣が淡く光り、召喚の準備を始めた。その間に女神は自身の知っている限りの魔女に関する情報をまとめた。これから召喚される彼女に伝えるために。
やがて魔法陣は一際眩い光を放った。ごっそりと力が持っていかれると思っていたが、不思議なことに消耗は僅かだった。むしろ手応えのなさが不気味だった。もしや失敗したのでは…。そんな一抹の不安が頭を過ったが、どうやら杞憂だったらしい。煙が晴れると、そこには彼女が立っていた。病的なまでに色白で、頬は痩けて虚弱そうな見た目をしていた。纏っているのはボロ布で、辛うじて服と呼べるだけの代物だ。先程まで何かを食べていたのか、口元には何かの血が付着していた。
「あれ…わたし……ここはどこ……?」
目を開けたらいきなり違う場所にいるのだから、戸惑うのも無理はないだろう。彼女に声をかけようとして、女神は気づいた。彼女の圧倒的な存在感のなさに。気を抜いてしまえば目の前に立っていることを認識できなくなるほどに影が薄かった。
「私は女神です。人間、あなたにお願いがあります」
彼女を見失わぬように留意しながら、声を紡ぐ。こちらを見た彼女と目があった。眼窩の底には深い闇が宿っていた。光を飲み込んで放さないような、そんな瞳である。
「おねがい…?わたしはなにをすればよいのですか」
蚊の鳴くような細い声だった。しかしいきなりほっぽり出されたのに案外平然と会話ができている。適応力と胆力には目の見張るものがあると女神は思った。
「今からあなたには魔女たちを倒してもらいます」
「まじょ…?」
おおよそ感情が感じられない平坦な声に疑問が入り混じる。少女から底知れぬ不気味さを感じるが、今は時間がない。
「申し訳ありませんが、詳しく説明している暇はないのです。質問があれば転移後に受け付けます」
彼女の体が淡く光る。彼女を転移させるために神経を尖らせる。少女は何か言いたげに瞳を揺らした。
「ごめんなさい。わたしはなにもできないです。なのでもとのせかいにかえしてください」
「…いいえ。それは出来ません。身勝手なことだとはわかっています。なのでもしあなたが私のお願いを聞いてくれれば、私もあなたのお願いを叶えてあげましょう」
「ほんとうですかっ」
彼女の声が弾んだ。ここにきて初めて見せた人間らしい感情だった。どうやら彼女には何か叶えてほしい願いがあるらしかった。
御し易い——そう思った。餌で釣れるのなら他の魔女のように反旗を翻すこともないだろう。願い一つ叶えるくらいなら安いものだ。
「あの、あの、わたし、じぶんがほしいです。ずっと、わたしずっとじぶんがなんなのかわからないんです。うまれてから、ずうっと
「…ええ良いでしょう。魔女を打倒した暁には、あなたに無二の存在を与えてあげます」
「やった…えへへ…」
彼女は頬を緩ませた。こうしてみると普通の少女と変わらないように見える。評価値が0だったのは何か不具合でもあったのだろうか?初めこそ不気味に感じたが、話してみれば案外普通の少女である。
「では早速転移を始めます。必要な情報はあなたと共に送っておきます」
彼女の体が淡く輝いた。そして光の粒子となって霧散していく。それと同時に魔女の攻撃がぴたりと止まった。彼女たちも世界の揺らぎを感じ取ったらしい。女神が何をしたのか判明するまでの時間は稼げるだろう。
不意に、少女が笑った。まるでデザートを待ちきれない子供のような笑顔。女神は何か薄寒いものが背を通り抜ける感覚に襲われた。
——彼女を選んだのは間違いなのでは。
そんな後悔がじわじわとせり寄ってくる。理由はわからない。だが女神の勘が全力で警鐘を鳴らしている。
少女の腕を掴もうと腕を伸ばすしかし彼女はすでに転移しており、手は宙を虚しく切った。
かくして女神の祈りは一人の空虚な少女に託された。
ふわふわ浮かぶ光の流れに身を任せ、少女は期待に胸を膨らませていた。箱の外にはみこさまと同じくらい綺麗な人がいた。その人のお願いを聞けば、わたしは空っぽでも他の誰かでもない、確固たるじぶんを手に入れる事ができる。
「たのしみだなぁ…」
まじょを倒す。それがなにを意味するのかはわからない。少女が知っているのは食べることと寝ることだけ。きっと普段のように食べればいいだけだと、少女は考える。
彼女は確固たる自己が無い故に、自己に飢えていた。少女の持つ特別な性質を知っていたのは、
空っぽに飢えた少女による血濡れた自分探しが始まった。