サキュバスアイドルマイスター 〜演技力カンスト役者、アイドル育成ゲームの世界に転生する〜 作:エビノース志月
原因不明。現代医療の現場で『それ』は頻繁に起こることではないが、決して少なくない数の従事者が一度は経験するだろう事例だ。
何が原因かわからない。それは『快癒』した、という方向で語られることが多く――『症状』に対して語られる場合は医学の発展とともに逓減していった。しかし、それでも『とある領域』においては未だにしばしば語られる。ブラックボックスと呼ばれる領域、つまりは『脳』だ。
脳、あるいは精神的な『何か』が原因とされる症状。原因不明の症状というものは存在している。例えば――身体的には健康そのもので、脳に何の異状も(少なくとも調べられる限り調べた範囲では)見られないにも関わらず、目を覚ますことがない、なんて事例だ。
ひとりの少女に起きた症状が『それ』だった。目を覚ますことがない――生まれてこの方、ずっと眠り続けている。
身体的には何の問題もなかった。安らかなものだ。もちろん『眠っている』という問題はあるのだが――つまり、食事や運動が自分の意志では行えないという問題――それは『なんとかする』ことができた。しかし、目を覚まさない。ずっと、ずっと、眠っている。
意識障害、昏睡状態。その原因を調べるための手法は生まれて間もない彼女の身体では耐えられないものも少なくなかった。しかし『耐えられる』と判断してから行われた様々な手法においても彼女には異状が見られなかった。
言うまでもなく特殊な症状だ。よくあることであるはずがない。数多くの医者や医学者を頼ったが、原因が判明することはなかった。『特に問題がない』ということしかわからない。ほんとうに『ただ眠っている』としか思えない、と。しかし、問題がないわけがない。だが原因はわからない。……そのまま『わからない』で終わることもあるかもしれない。そういった症例は存在している。
しかし、その少女に関してはそうではなかった。
「……これは」
まともな診断では、決してわかることはなかっただろう。医学的な見地からではわからなかった。
それを『見た』彼女も、そうであるとは思わなかった。あくまでも『医学者』としての立場から診るつもりでしかなく――いや、可能性として考慮していなかったわけではない。少女が『同族』ではないということを踏まえても、数多くの医者が匙を投げる他なかったような特殊な事例だ。ならば『医学的な見地』の外にある事例であるという可能性は――自分のような『人の枠組みから外れた存在』の領域にある事例である可能性は、確かに、考慮していなかったわけではない。しかし、それは数学者や物理学者が『可能性はゼロではない』と言うときのような、ほとんど『ゼロ』と言っても過言ではないほどのものでしかなく――だから、彼女も自らの目を疑った。だが、何度見ても、どれだけ見ても……『それ』しか異状は見られない。で、あるならば――『それ』が原因である可能性が高い、と。そう結論づける他なかった。
「望月さん。……信じられないかも、しれないんですが」
少女の両親は憔悴している様子だった。献身的に少女を看ている――少女は『眠っている』ようなものだった。そのことを知った少女の両親は『眠っている』少女に、それでも何か意味はあるかもしれないと出来る限りのことをしていた。目を覚ましたときに身体が少しでもスムーズに動くように『運動』させることから始まって、言葉を教えたり、絵本を読み聞かせたり、アニメを聞かせたり、歌を聞かせたり。……それに『効果がある』と――脳が反応を見せていた――判明したときには大きく喜んでいたものだ。少女は生きている。眠っているように見えるだけで――確かに、生きているのだと。
だが、自分たちの娘は一度も目を覚まさない。
それに何も思わないわけがない。……憔悴しない、わけがない。
そんな彼らに今から伝えることは、酷なことかもしれない。到底信じられるものではないか――あるいは、藁にもすがるような気持ちで望むものか。到底平時の精神状態とは言えない彼らに、彼らからすれば『ふざけた冗談』だとしか思えないだろうことを伝えるのは、躊躇する。
しかし、『伝えない』という選択肢はない。自分は知った。そして彼らにも知る権利がある。
「娘さんの症状は『魂』が関係しているものと思われます」
この世界において『魂』を観測、干渉する能力を持つ者は限られている。
未だ一般化はされておらず――つまり素養のない人間にも扱えるものではなく、その『能力』の存在についても広く認知されているわけではない。
とは言え、既に現代の科学に組み込まれていないわけでもないのだが……その理論についても再現性が乏しい。つまり『誰でもできる』わけではなく特定の『異能』を持つ存在を前提にした、属人的な技術としてしか成立していない。それだから現在においては未だ『科学』であるとは認められない者も居るだろう。
ただ、その技術は身近な領域で使われている。その技術が使われているものには多くの人が接したこともあるはずだ。
それとはすなわち。
「――ライブバトルシステム、ですか?」
少女の母親が発した言葉に、思わず息を飲み込んだ。予想していたどんな反応とも異なるものだ。『魂』に関する技術は自分の同類以外には眉唾ものの反応をされることが多く……率直に言えば『胡散臭い』ように扱われる程度であればまだ良いほうで、多くの場合は『詐欺』や『危険な思想の持ち主』であるかのように扱われる。今回もそういった方向の反応が来ると思っていたし、どう説得しようかと意気込んでいたのだが……まさか、いきなり核心に近い場所を触れられるとは思わなかった。
動揺が表に出てしまっていたのだろう。少女の母親は「少し、第六世代の開発に携わったことがあったので」と答える。「でも、詳しいことはわかりません。『何もわからない領域』があったということしか。……教えて下さい、先生。娘に――陽依の身に、何が起こっているのか」
少女の母親、望月陽依の母親である彼女はまっすぐにこちらを見つめてそう尋ねる。
ライブバトルシステムという『魔法』の領域に一歩どころか何歩も足を踏み入れているだろうシステムの開発に携わっている女性。間違いなく恐ろしいほどの知能を持っているだろう彼女の表情はその聡明さを表すようなものであり――同時に、その内にある激情を抑え込むことはできず、その瞳は炎のように揺らいでいる。
荒れ狂うような激情を、しかし、理性で押し込めて――『娘にとっての最善』のために冷静を保つ彼女は……だからこそ、秘める感情の強さが痛いほどに伝わった。
愛ゆえに燃え上がる火焔を、愛ゆえに押し込めて凛と立つ。
美しい、と思った。こんなことを感じている場合でもないにも関わらず――美しい、と思ってしまった。
……助けたい、と思っていなかったわけではない。いつだって本気で助けたいと思っている。そのために『こう』なったのだから。しかし、純粋にそれだけを考えていたわけではなかった。少女の姿を、『魂』を見たときの驚き。『魂』なんて『非科学的』――もちろん、そんなことはないが――なものについて説明することの難しさ。信じてもらえないかもしれないという不安。そういった様々な『ノイズ』が混ざってしまっていたことは否定できない。
だが今は。……今は、違う。
真摯に向き合おうと思った。まだ『見た』だけだ。推測はできるものの……具体的に少女の身に何が起こっているのか、まだわからないことのほうが多い。
でも、助ける。助けよう。
患者も――この人たちも。
そのために医者を志したのだから。
そして。
それは、不治の病を患った者を見たすべての医者が思うことだった。
*
依子は自分の性分というものを理解しているつもりだった。学生の頃に囁かれた『噂』を否定するつもりはなかったし、むしろろくに話したこともないのに自分のことをよく見ていると感心したものだ。自分では……つまり、彼女たちが噂するところの『機械女』ではそんなふうに他人に興味を持つことができない。あからさまな『陰口』だと理解しても、それに苛立つどころか感心してしまうような性分だ。冷血で合理的な『つまらない』女。そう評されることは当たり前と言う他ないだろう。
感情がなかったわけではない。薄い性質ではあっただろうが、確かにあった。ほとんどの場合、何をしても何をされても心が動くことはなかったが、感情が動くことも……つまり、『好きなもの』は持っていた。好きなもの、好きなこと。美しいと感じること。それは一言で表現するならば理路整然。論理的で合理的なものを美しいと感じていた。好ましいと思っていた。
そんな彼女がプログラミングに興味を持ったことは不思議なことではないだろう。数学や物理学なども好きだったが、どちらかと言えば彼女は『自分が組み立てたものが意図した通りに動くこと』のほうが好きだった。『解き明かす』側ではなく『組み立てる』側。美しいものを作り上げることに快感のようなものを覚えていた。
あるいは建築の分野などに進む未来もあったのかもしれない。そちらも興味がないわけではなかったが、プログラミングはコンピュータさえあれば少女だけでもできるものだった。それが彼女の道を決めた。小学生の頃から趣味でそれをやっていた。『将来のため』などという思いはなかったが、結果的にその道を進むことになる。
個人で可能なことには限界がある。そのことには早い段階から気付いていたが、より大きな規模で、より複雑で、より緻密なものを手掛けるためには、まず『参加するための資格』を証明する必要があることを彼女は知っていた。『こんなものがほんとうに動くのか』と一見考えてしまうようなプログラム――それに携わることができれば、どんなに気持ちがいいだろうか。
そのために彼女は『規模』を捨てた。自分の力を証明するために、また『可能』な限りで自分の欲望を叶えるために、小規模ながら複雑で緻密なものを作り上げることにした。
例えるならば――その『良さ』を知った後は『この道でも良かったかもしれない』と彼女が思うことになるもので例えるならば、時計だ。緻密な機械仕掛けの時計。車のような値段にもなる『それ』が目指すところだった。
そして彼女はその『実用的な芸術品』を作り上げることに成功した。それは彼女の資質を証明するために十分な仕事を果たし、彼女は目的のプロジェクトに参加することになる。ライブバトルシステム……アイドルのライブ、ステージパフォーマンスにおける『優劣』を特定の基準から判定するシステムである。曰く、そのシステムは『人の心』を見定める。いったいどんな機序で動いているものなのか、興味があった。推測はできる。体温や歓声、あるいは画像処理、振動なども材料にはなるかもしれない。しかしそういった基準では『説明がつかない』領域も多く存在しており、また『確からしい』ことを示す結果も出てしまっている。彼女にとってそれは未知の芸術だった。それを自分の手で作り上げることができたならば、どれだけの満足感を得られるだろうか、と。
当時の彼女は既に『機械女』ではなくなっていた。内面が変わったという意味ではなく、『合理的な振る舞い』を学習していた、という意味で。人間関係を円滑に進めるための合理的な振る舞い……端的に言えば『愛想』がどれだけ効率的な働きをするか学習することができていたのである。それによって『迷惑』を被ることはあったが、それだけなら以前も同じことだった。どれだけ素っ気なく――機械のように冷血に振る舞っても、容姿だけを見て声をかけてくる異性は居た。愛想を良くしたことによってその頻度が上がったかと言えば、微妙なところだ。環境も関係しているのかもしれないが……いや、むしろ環境を考慮したならばもっと多くなっていただろう。そう思えば『減っている』と言ってもいいのかもしれない。
彼女は大学生になっていた。海外へ行くことも考えたが、そう話したときの両親が寂しそうにしていたので国内の大学を選んだ。どちらでも良かったのだ。彼女にとっては。彼女の『理』はそこにない。それによって左右されるものではないのだから。
とにかく、彼女は『機械』ではなくなっていた。意識的に感情を大きく見せるように振る舞っていた。それは複数人が参加するプロジェクトの一員になるにあたって必要なことであり、実際、十分な効果を発揮した。
ただ、それが一切内面に影響を与えなかったと言えば違う。それが『仮面』だとしても人はその仮面に影響を受けるものだ。人格は独立したものではなく行動と密接に関わっている。こんな話を聞いたことがあるだろうか? 警察官になった人間は『視点』が変わるという話を。視点が変われば考え方も変わる。同一の事象に対して『視点』が変わる。考え方が変わる。『何を感じるか』が変わるのだ。
他の仮面を被った場合にも同様のことがしばしば起こる。すなわち、『感情豊か』に振る舞った結果、彼女は以前よりも『感情豊か』になっているという自覚があった。本質が変わっている自覚はないが、以前とは『感じ方』が変わっている。人格は絶対のものではなく、聖域には成り得ない。彼女はそれを理解した。だから、その『聖域』を強く認め難く感じていた。
「……このコードが根幹にあるということは理解できる。すべての流れを『堰き止めている』としか思えないのに、これがすべてを『動かしている』」
何か、足りない。そう思った。自分の中にこれを理解できる『何か』が足りない。知らない『原理』のようなものが存在している。
自分では手を付けられない『聖域』――ライブバトルシステムの開発で見られた『これ』が珍しいことだとは言えないと、複数のプロジェクトを経験した後になってからであれば理解できる。他の参加者もそうだったのだろう。自分のように『初めて』それを経験するような者が大規模なプロジェクトに参加することなど滅多になく――しかし、また、ひとつ確実なこととして。他のプロジェクトでしばしば見られるような『過去の製作者以外の誰もそのシステムの全容を理解することができない』といった『オーパーツ』のほとんどを彼女は『解読』することができたし、『どのようにしてこのコードが作用してあんな動作をするようになっているのか理解できない』なんて匙を投げられた数々の『聖域』を暴くことを可能としていたのが彼女である、と。……当時はそれを知らなかった。彼女は自分の『資質』を知らなかった。だから『そういうものだ』と言われてしまえば『そういうものか』と思ってしまったし――ただ『気になった』だけでまたシステムに携わることができるような世界ではない。……彼女は『引き継ぎ』も完璧にするタイプのエンジニアだった。理路整然とした美しさを至上とする彼女の書くコードはその緻密な複雑性に反して『誰でも読み解くことができる』ものだった。もちろんこの『誰でも』とは一定以上の実力を持つエンジニアであれば、という但し書きを必要とはするが。
ともあれ、彼女は優秀なエンジニアだった。学生の身の上で様々なプロジェクトに参加できるほどには優秀で――ただし、彼女はひとりの学生でもあった。何のサークルに所属するわけでもなく、講義も必要最低限のものしか履修しない。学業のためでも知的欲求のためでも就職のためでもなく、ただ『大学を卒業した』という証は持っておいたほうがいいだろうという『惰性』で入学した大学だ。自分の存在によって少なくとも一人は『入学できなかった』者が存在するだろうことを思えば少しだけ申し訳なく感じるが、同時にそんなに入学したかったなら自分よりも良い結果を出せば良かったのだとも思う。余談だが彼女は首席入学であった。やはり本質は変わっていないのかもしれない。
そんな彼女でも学生ではある。『仕事』ではない付き合いをすることもある。いや、それだけならずっとしていたとも言えるかもしれない。『機械女』と呼ばれている頃から、あるいはそれよりも以前から付き合いが続いている者も居る。思えば、彼と同じ学校に在籍するのは初めてのことだったかもしれない。
「……陽葵さん、この学校だっけ」
「やっぱり聞いてなかった。前から言っていたつもりだったんだけれどね?」
だって、どうでもよかったから。彼女は本気でそう思っていた。そう言った。幼馴染の彼――自分と違って浪人して入学したらしい――は、その言葉に落ち込んでいる様子を見せた。しかし、そんなことはどうでもいい。
「今の、誰?」
「え? ああ――先輩だね。よく面倒を見てもらっている」
「そう」
彼女は少し考え込む素振りをした。女性の、先輩。顔を上げて言う。
「陽葵さん」
「なんだい?」
「結婚しましょう」
「…………ん?」
「印鑑、用意しておいて。婚姻届に必要事項を書いてくるから」
そんなこんなで結婚することに――は、その時点ではならなかった。「昔の君に戻ってないかい!? ここ数年はあまり顔を合わせていなかったけれど、評判を聞くにずいぶんと変わったものだと思っていたのに……」そんなふうに動揺する彼だったが、何を動揺することがあるのかと驚いた。ただ『どうなるにせよ最終的には自分の隣に居るのだから』と思っていたところ、その当たり前が脅かされようとしていたことに気付いて対処しただけだ。要するに嫉妬心と独占欲を発露しただけ。そう伝えると彼は大変に顔を赤らめていた。彼は言った。「……君も、顔が赤くなっているね」昔ならこんな状況でさえ表情も変えずに言っていただろうに。もちろん演技などしていない。むしろ努めて『冷静』に振る舞おうとしていた。……やはり、人格などというものは絶対不変のものではない。彼女は思った。だって、今、私の心はこんなにも動いている。
彼女は結婚した。卒業してから、などとは思わない。学生結婚というものが常に快く受け入れられるものではないということは理解していたが、それ以外のデメリットは思い当たらなかった。互いの両親は大きく喜んでくれた。曰く、「いつかはこうなるだろうと思っていたが、それはずいぶんと先になるだろうと思っていた」。どちらかと言えば彼女が原因で、だ。彼も色々と考えていたらしいが、そのすべてを飛び越えて彼女はプロポーズをした。後になっても彼は「僕のほうから言うつもりだったんだけどな」とこぼすことがある。彼女としては遅いほうが悪いとしか思わない。……ただ、まあ、それはそれで悪い気持ちにはならなかっただろうとも思うが。
結婚したとは言え、子を産むわけでもない。関係性が大きく変わるかと言えば――『結婚したから』ではない意味では変わっていた。つまり、恋人関係のような意味合いで。実際、それと同じようなものだった。彼女は彼との『恋』を楽しんだ。一般の、広く謳われるような『それ』とは少し、あるいは大きく異なるようなものだったかもしれないが――幸せだったことには違いない。
そのまま大学を卒業して、しかし二人にとっては『大学』に行かなくてもよくなった以上の変化はなかった。互いに『職』は持っていたのだ。彼の場合は『家業』だが、自分がエンジニアとして(趣味ではなく『仕事』として)活動する頃には既に深く携わっていた。
時間ができた。学生ではなくなってからのほうが時間があるというのはおかしな話かもしれないが、二人にとってはそうだった。夫は色んなことをしたがる性質だったが――ふたりで色んな経験をしたい、デートをしたいと色んなところへ連れられた――彼女はと言うとそうではなかった。色んなところへ連れられて行くのが嫌いだったわけではない。ただ、彼女はそれを必要としていなかっただけで。……何をしたいかと尋ねられたとき、彼女はいつも『ふたりでゆっくりしていたい』と答えた。なんでもいい。ふたりで何かをする必要さえなかった。共同作業にさえ興味がなく、互いに好きなことをしていてもよかった。ただ、ふたりで同じ時間を過ごしたかった。
趣味の(仕事ではなく『趣味』の)プログラミングをやっているときに、急に後ろから抱きしめられるようなこともあった。それを邪魔に感じることもあったが、好ましく感じることもあった。逆もまた然り。自分のほうからソファで本を読む彼の腕の間に潜り込むこともあった。違いがあるとすれば彼は自分を邪魔だと拒絶するようなことはなかったということだが……まあ、それはいいだろう。
ずっとそんなふうに過ごしていけたらそれでいいと思っていた。だが、結婚した男女には求められることがある。彼女が『求められる』と認識していること。すなわち『子』である。
夫は子を望んでいた。親もそうだ。自分は……わからなかった。ただ、恐怖の思いが強かったことは確かだ。彼女は自分の性分というものを理解しているつもりだった。『機械女』と呼ばれた自分の性分を、その情の薄さを理解していた。『最愛』と言える夫に向けるものでさえ(自分の中では『最も』と断言できるほどではあるが)他人が抱くようなそれと比べれば大したものではないんじゃないかという疑念は拭うことができなかった。親に対してもそうだ。恩義は感じている。好ましいと感じている。進路だって彼らの希望に従う程度には自分の中で大きい存在だ。自分よりも大切な存在であることは間違いない。……だが、それは自分が『薄情ではない』ことを示さない。そもそもからして『自分』に向ける感情がそれほど強くないのだ。自分を大切にしていないのだから『自分よりも』なんて形容はさほど大きな感情を意味しない。そのことを彼女は自覚していた。
こんな自分が、子を? ……育てること自体は、できると思う。だが、愛せるだろうか。ほんとうに? こんな私が、こんな私に……愛せるかどうかもわからないのに、子を産む資格などあるのだろうか。
「どうだろうね」夫は言った。「そう言われると、僕も自分にその資格があるのかどうかはわからない。そう、その『資格』という意味では……果たして、ほんとうに持っている人なんて居るのだろうかとさえ思うよ」
僕らの親にだって、そんな資格があったのかどうかはわからない。子を産むことに資格が必要であれば、ね。産まれるだろう子が不幸にならないよう、幸せになれるように……そうでなければ、産んではならない。そんなことは、確かに、思ってしまうことではある。
「でも」と夫はゆっくりと言葉を選びながら続ける。「いつだって、僕らはそうあるように努めることしかできないんだよ。きっと、きっとね」
そうあるように。そうであるように。
人間にはそうすることしかできない。
彼女は子を産むことにした。産まない、という選択肢も考えた。しかし、彼女はそうした。それは……きっと、そう望まれ、また自分も望んだからだ。あれだけ悩んでおきながら、自分はそれを望んでいた。
傲慢だ、と思う。自分の欲で子を産むと決めたことも、それを『傲慢』だと思うことも。
愛せるかどうかはわからない。今も。今でも。でも、そうあるように生きるのだ。
『良い親であらなければいけない』という強迫観念はしばしば深刻な問題を引き起こすが、彼女には『解放』の方向に働いた。やがて妊娠し、子を産むことになる。その間も不安を抱かないわけではなかったが、もう授かったのだ。ならば不安に悩むよりもするべきことがある。『そうあるように』。
その一環として始めた料理は性に合っていた。身近なところにこんなにも『数字』に支配された世界があったなんて! 計算して作り上げて、その『結果』として最も愛する人が幸せそうにしてくれるというのはたまらなかった。彼女に趣味がひとつ増えた。あるいは、ふたつだったのかもしれないが。
そしてその時が来た。出産。人生最大の苦痛を経験しながらも、無事に産むことができた。汗が噴き出て、息も切れて、意識はぼうっとぼやけている。産医が何か言っている。女の子……娘だということは事前にわかっていたことだ。泣いている声、誰の、私の――娘の。
「ああ」
産まれたばかりの娘を見る。見せられる。そして抱く。抱かせられる。娘が泣き止む。素肌と素肌を触れ合わせる。早期母子接触だ。その効果は知っている。その狙いは知っている。知識では。
今一度、娘を見る。夫を見る。娘とは違って泣き止むことがない夫を。彼と目が合う。彼は言う。ありがとう、と。ありがとう、と言ったのだ。
「ああ――」
愛せるかどうか、心配だった。愛せなくても、そうあるように努めようと思っていた。すべての親が無条件に我が子を愛するわけではない。そのことを彼女は知っていた。自分はそちら側だろうと。薄情な自分はきっとそうなるだろうと思っていた。
「私の――私たちの」
肌が触れる。熱が伝わる。娘を感じる。
目の奥が、目の奥で絡まった糸の束が、ほぐれるような感覚があった。糸がほぐれるとともに、熱を発する。熱が、強い熱が、広がっていく。今まで堰き止められていたものが解放されるように。目の奥から――熱が、押し出されて。
「陽葵さん」
夫を呼ぶ。ありがとうと言った彼を。今もそう言い続ける彼を。
「ありがとう」
あふれる熱が流れていく。それでも、言わずには居られなかった。
絶対のものではない。無条件の、無償のものでは。彼女は知っている。『それ』を抱かない者も居る。それを持たない者も居る。それがいわゆる『本能』に根差す感情だとしても――脳が分泌する化学物質がもたらす『現象』であるとしても、そうならない者も居る。彼女はそれを知っている。逆に多くの者は『それ』を持つと。なんら特別なものではない、多くの母、いや多くの『親』が持つだろう感情。彼女は知っている。『これ』はそういうものなのだ、と。特別なものではない『現象』。ありふれた、身体の――『脳』という身体の一部が起こした『反応』のひとつに過ぎない、と。彼女は知っている。知っていた。だが、知らないこともある。機序を知っていたことが必ずしもその価値を毀損するわけではないということ。そして。
愛を。
早期授乳を終えてしばらく経つと陽依は入眠状態へと移行した。すやすやと安らかに眠っている。この世界に自分をおびやかすようなものはなにもないと思っているような眠り。それを守りたいと思わせるような眠りだ。
そんな娘をいつまでも見ていたいとも思っていたが、自分も出産の疲れがあったのだろう。目蓋が重くなってきた。夫や看護師の言葉もあり、一度眠ることにする。これからずっといっしょなのだ。『お母さん』になるのだから、自分の体力も回復させておかなければならない。「これから大変なんですから!」とはずっと親身になってくれた看護師の言だ。甘えさせてもらうことにする。娘とのこれからを考えると、思わず微笑みが浮かぶくらい安らかに眠ることができた。それほど長く眠ったわけではない。数時間後には目を覚まし、娘のことを聞く。経過に問題はないとのこと。診察にも問題はなく、元気な赤ちゃんです、と。彼女は安心した。娘は安らかに眠っている。ずっと。ずっと、目を覚ますことはなかった。
赤子は眠るものだ。しかし、程度というものがある。『初期対応』は決して悪いものではなかった。いつまでも起きない、また授乳のために起こそうとしても決して目を覚まさない陽依に対して『経過観察』を選ばなかった医者の対応はその時点では最善と言えるものだった。
眠っている。いつまでも。ただ、それ以外の問題は見られない。『経過観察』が選ばれたのはやれることをすべてやってからだ。つまり、打つ手がなくなったから。
彼女は動揺した。夫もだ。しかし、何もできない。担当医は自分以外の医者にも診てもらうようにしてくれたが、そのことごとくに効果はなかった。みな一様に――担当医が『最善』を尽くしたことを知り――『経過観察』を選んだ。彼女は自分の『ツテ』を使った。夫も同様のことをした。世界的な『名医』も頼った。彼は言った。「これは私たちの領域ではないかもしれません。私たち、つまり、臨床医である私たちよりも、研究医である医学者の領域かもしれませんね」
その彼も臨床医でありながら医学研究者としての側面を持っていたが、彼の自認としては『あくまで臨床医』だったのだろう。夫婦はそのようにした。効果はなかった。しかし、みな真剣に娘に向き合ってくれた。原因不明であることには変わりないが、もしかしたら今後何か分かることもあるかもしれない。また相談してほしい、と。
娘は眠っている。安らかに。穏やかに。愛おしい娘の寝顔を見ていると何の問題もないように思えてしまう。しかし目を覚まさない。愛する娘の寝顔はこの世で最も愛おしいものだったが、同時に『象徴』でもあった。娘の『現状』を自分たちに思い知らせる象徴。『最愛の娘の寝顔』を見るたび、彼女は複雑な感情に苛まれることになる。胸の奥からあたたかなものがあふれて――それを芯から凍りつかせるものがある。あたたかなものが滲みだすたびに心血を凍らせるものが同時にある。あたたかなものを愛と呼ぶのであれば、凍りつかせんとするものを何と呼ぶべきであろうか。不安? 恐怖? 間違ってはいないだろう。間違いなくそうも表現できるものだ。しかし、最も適当な言葉をひとつ選ぶとすれば。
「……ごめんなさい」
罪悪感になるだろう。
謝罪の言葉が口から出る。いったい、誰に対して謝っているのか。誰に対してでもあるし、誰に対してでもないのかもしれない。
誰のせいでもない、と言われた。親身になってくれる看護師には特に、何度も。年齢も近く――自分より少し下の年齢だったか――どうしてか自分に憧れのような感情を抱いている様子だったその看護師は、ずいぶんと自分を心配している様子だった。そんなに感情が出ているだろうか。今はそのような仮面を被っていない。感情表現を豊かにするような余裕はなく、間違いなく『昔』に戻っているだろうに――あるいは『だからこそ』だったのかもしれないが。
誰のせいでもない。それはわかっているつもりだった。頭では理解していた。誰のせいでもない。そうだ。きっとそうなのだろう。だが、それが何の気休めになると言うのだろうか。娘の快方に何の役に立つと? ……わかっているつもりだった。理解していた。こういった『自責』もまた、何の役にも立たないと。自分を責めたところで、娘が快方に向かうことはない。単に周囲を心配させるだけだ。その心配は、娘にのみ向かうべきだと言うのに。
周囲に気取られぬように振る舞うべきだ。自分には何もできることはない。娘のために尽力してくれている周囲が――たとえ彼らも『何もできることはない』としても――自分などを心配するようなことがないように。それこそが唯一『できること』だと言える。彼女はそのように振る舞った。効果はあった。それさえも『自分に気を遣った結果』でないのであれば。
時は過ぎ去っていく。どんな状況であろうとも。娘を見る一分一秒は永遠にも思えるほどに長く、娘を見る一年は瞬きのように短かった。目の前にあるものは長く見えて、過ぎ去ったものは一瞬に感じる。過ぎ去ったものが、その時が、取り戻せるものでないときは特に。時間が解決するのであればいくらでも時間など過ぎ去ってしまえばいい。しかし、時間が解決してくれるかなんてわからない。何もできることがない時間は永遠にも感じる苦痛だったが、過ぎ去った時間は本来であれば貴重な時間だった。娘の『人生』だったはずなのだ。しかし、過ぎ去った時間は戻ってこない。永遠にも感じた時間が露のように消えていく。一年、一年、また一年と。
変化はあった。娘は眠っているが成長している。寝たきりであることは言うまでもなく健康ではない。食事も運動も自分の意志では行えないのだから。つまり『外的な』ものが必要になる。それは必要な限り行った。娘の身体的な健康は大きく損なわれていない。正常な発達とまでは言えなくとも、著しい『問題』が生じるほどのものではなかった。
眠ったまま、身体だけは成長している。しかし、そう、眠っているのだ。精神的な……つまり、脳の発達において、問題がないわけがない。
「それが、不思議なことに十分な発達が見られるのです」担当医が言った。「睡眠学習……という言葉を用いることは不適切かもしれませんが、娘さんの場合は『それ』が文字通りの意味で適用できるのかもしれません」
それは希望だった。それまでも、無意味なことかもしれないと思いはしながらも絵本の読み聞かせやアニメを流すといったことはしていたのが、それに『効果がある』という裏付けが(確実なものとは言えなくとも)取れたということには大きな意味があった。彼女は夫ともに娘の脳が『良い反応』を示すものを探した。音楽、歌――とりわけアイドルのライブを流したときに反応が良いことがわかった。特別に『良い』ものは現代のアイドル界における頂点、絶対王者とも言われる『サクラ』のもの。彼女のライブを流しているとき、娘はどこか微笑みさえ浮かべているように感じられるほどに良い反応を示していた。
それは希望だった。そう、希望ではあった。しかし希望というものはあるものを際立たせる効果もある。光あるところには何があるか。何を落とすか。その『陰』は濃く、隣で立ち、その手を肩に置いている。陰は囁く。指をさして。ああ、ああ、良かった、良かった。さあ、これを見よ。あなたの宝を。あなたの愛を。その瞳を。
暗闇しか知らない、その生を。
「……あ」
いつものように、読み聞かせをしている時だった。絵本の読み聞かせ――『絵本』など、見ることができないのであれば『絵』などあってもなくても変わらない、どころか『絵』の存在を前提にした構成であることを思えば『絵本』でないほうが適切だったのかもしれないが――そのとき、急にそれが来た。
ぽとり、と音がした。何の音か、最初はわからなかった。手に振動が伝わる。何かが落ちたときのような、そんな音、そんな振動。
不思議に思って、しかしそんなことは気にしていられないと娘のために絵本の読み聞かせを続けようとする。本を見る。そこに落ちた、水滴の跡を見る。
「……ああ」
理解する。理解して、目元に触れる。その熱に。そして拭う。誰にも悟られないように。
「…………わた、しは」
娘を見る。赤子とはもう言えない身体になった娘を。その成長を喜びながら、もう二度と取り戻せない過ぎ去った人生を思う。暗闇しか知らない、彼女の人生を。
「……陽依ちゃん」
しかし、その上で、彼女は言う。
「お母さんが――お母さんが、ついてるから」
なんにもできない。わかってる。でも。
「きっと、きっと……なんとか、するから」
『なんとかできない』なんてことは考えない。そんなことを口にする意味はない。娘はこれを聞いているかもしれない。なら、なんとかすると言うべきだ。そう約束するべきだ。その約束は絶対に破ってはいけない。だから――そう、それは、神に誓うようなものだったのかもしれない。自分にとって最も大切なものに誓う。……それは、必要なことだった。少なくとも、彼女にとっては。
娘の成長を理由にまた多くの医者を呼んだ。臨床医も研究医も。娘を救えるならなんにだって頼るつもりだった。当たり前ながらその姿勢は『詐欺師』に目をつけられることにもなったが、依子は彼らを『見抜く』術を持ってしまっていた。もちろんそういった『詐欺師』は『自分なら見抜くことができる』と豪語するような者をこそ格好の獲物とするような手合いであるが、依子にとってはいささか『巧妙さ』に欠けていた。あるいは、彼女にとっては騙されていたほうが良かったのかもしれないが――結果的には、騙されなくて良かったのだろう。
彼女は出会った。娘の病状を『診断』できる力を持つ者に。
……それが真に『良かった』と言えることだったのかどうかは、わからないが。
「望月さん。……信じられないかも、しれないんですが」
その医者は自分と同年代の女性だった。彼女は娘を見るやいなや何かに『気付いた』様子を見せた。……自分と同年代ということは、医者としてはかなり『若い』部類になるだろう。そんな彼女が、今まで他の誰もわからなかった娘の病状に何か意見を? ……『演技』だとすればずいぶんな『役者』だが、今までに接してきた『詐欺師』たちも同じような真剣さはまとっていた。自分に演技かどうかを見抜く力はない。
だから、続く言葉を待つことにした。彼女は言った。
「娘さんの症状は『魂』が関係しているものと思われます」
『魂』――その言葉は異様なまでに『胡散臭い』ものであった。騙すつもりであれば使わないような言葉。決して『まとも』ではない言葉だ。
女性は真剣な表情だ。若干の不安も見える。しかし、その上に覚悟も。
……魂という言葉を聞いた時点で、続く言葉など聞く価値はない。そう判断してもおかしくなかった。普通であれば。
だが――自分には『思い当たる』ものがあった。過去に自分が関わったことのあるもの。曰く、そのシステムは『人の心』を見定める。自分でさえその全容が把握できない、『何か』が自分に足りないと。自分の中でそれを理解できる『何か』が足りないと、今ですら思うものがあった。それは単純な知識や技術といった言葉で説明がつくものではなく、もっと根本的な――『原理』や『法則』が異なるとしか思えないもの。
それとはすなわち。
「――ライブバトルシステム、ですか?」
彼女は大きな反応を見せた。その反応で確信した。『これ』だ、と。昔、自分の目の前に立ち塞がり、最後までその先に進めなかったもの。それがまた、自分の目の前に立ち塞がっていた。
……そうだ。思えば、どうしてこれが思いつかなかったのか。どんな医者に診てもらっても『原因不明』とされる娘の病状と自分が経験した『原因不明』をどうして繋げられなかったのか。もちろん、容易に繋げられるものではないかもしれない。一見無関係としか思えないものだ。それはわかる。自分でも。
だが、ここに至るまでにどれだけの時があったのか。どれだけの時間が過ぎ去ってしまったのか。……何にでも頼るつもりだった。藁にも縋る気持ちだった。それなのに、どうして『この藁』には縋らなかったのか。自分なら――自分しか、その発想はできなかっただろうに。
…………いや、自分を責めるような暇はない。私が悪い。わかっている。でも、そんなことより、今は。
「教えて下さい、先生。娘に――陽依の身に、何が起こっているのか」
それから受けた説明はすぐに飲み込めるものではなく、また『証明すること』が難しいことでもあった。魂が実在するとして、またその魂を観測できる力を持つ者が居るとして、それをどうやって証明するのか。観測することができないのであれば、それはあるものかどうかさえわからない。……それがもたらす『影響』から『それ』の存在を立証するようなことは既存の科学領域においても行われることではあるが、その『影響』すら観測できるものではないならば。その証明は不可能に近く、信じたい側としても信じるわけにはいかなくなる。
「だから――すみません。少し、待っていてください」先生は言う。「すぐに『証明できる』人を――『魂』の取り扱いに長けている人を、呼んできます」
彼女が立ち去った後、夫とはよく話し合った。彼女の話について。娘の『魂』について。
「魂がこれまでに見たことがないほどに濃い、か」夫がつぶやく。「……ほんとうに、信じられるものなのかな」
「どう……かしらね。私も、ライブバトルシステムを知らなければすぐに切り捨てていたかもしれないけれど――確かに、あのシステムには『未知の原理』が存在していた」
「『人の心を見定める』?」
「そう」小さくうなずき、言葉を続ける。「その『原理』を『魂』と呼ぶのだとすれば……可能性はある、けれど」
「『この世界には魔法がある』と言われているようなものだからね……」
確かに、既存の科学では説明がつかないことが起こることはある。それは『歴史』の教科書や『神話』で描かれるようなものだけではなく、現代においても――そう、なんでも映像記録に残すことができる現代においても見られることだ。
もっとも、それを『自分から言い出すこと』は詐欺師の振る舞いであることは周知の事実だが――ここに、こんな話がある。時の権力者が魔女に救われた。彼は言った。その力、どうして今まで使わなかったのか。彼女は答えた。この力を使うためには魔力を要するのです、陛下。拙のこれまでの生すべてをかけて貯蔵していた魔力がこのたびに費やしたものになります。使わなかったのではなく、使えなかったのです。彼は言った。では、そなたは余に人生を捧げたということか。良い。そなたの望みを言うがいい。『奉公』である。余の命を救ってみせたのだ。相応の報いがなければなるまい。彼女は答えた。えっ……じゃ、じゃあ、拙を陛下のお嫁さんにしてほしいです。彼は答えた。えっ。彼は御年十四、先王の夭逝により若年の王となった少年だった。彼女は御年十七、彼にとっては『綺麗なお姉さん』だった。そうしてなんやかんやあって魔女は王配となり、めちゃくちゃいちゃいちゃしながら国を治めたと言う。当時の王配、王妃である『彼女』の手記にその記述がある。ちなみに『それ以前』の記述は一切なく、大半がその後の『いちゃいちゃしながら国を治めた』の記述となっているが……。
ともあれ、その『力』には大きな制限があり、みだりに振る舞うことができるものではない、ということがこの話からわかる。自分から『こんな力が使える』と喧伝するような『余裕』はない。故に『詐欺師』の例は枚挙に暇がないものの、それに騙される者の数はそれほど多くはなかった。もちろん、多くなかっただけで相当数は居たのだろうが。
「……もしも、ほんとうに『魂』なんてものが原因なら」夫は言った。「既存の科学領域にないものが原因であるならば、医学的な『処置』はされないだろうことが推測される」
「ええ。もし、薬物の投与や手術が必要であるならば、それには熟慮が……いえ、正直に言って、容易に受け入れるわけにはいかないけれど」
「そうでないならば……試してもらっても、いいかもしれない」
結論はそうなった。……現状は既に『行き詰まっている』。その処置が悪化させる方向に向かわないのであれば――試すべきだろう。それによって娘が救われる可能性があるのならば。時間は戻らない。前にしか進まない。費やされた時が戻ることはない。娘の時間は、娘の人生は、二度と元には戻らない。だから、救われる可能性があるならば、少しでも早く試すべきだ。慎重に、しかし迅速に。その結論をふたりは選んだ。
そして来た。連れて来た。先生が。娘を救うことができる可能性がある人物。先生曰く、『魂』の取り扱いに長けた人物を。
彼女は言った。
「はじめまして、サクラです。――娘さんを、救いに来ました」
と。
彼女のことは知っていた。医療従事者としてではない。『詐欺師』としてでもない。おそらくは、現在の日本において最も有名な人物のひとり。現代アイドル業界の頂点、ライブバトルリーグの絶対王者。
サクラ。アイドルである彼女が、それも現代で『最高の』なんて言葉がまったく過言ではないような彼女がどうしてこんなところに居るのか。あまりのことに、何も言えないでいた。サクラは目をぱちくりと瞬かせて、先生を見る。
「……私が来ること、説明、した?」
「いえ、していません」
「……自分で言うのもなんだけど、私、トップアイドルなのよ。そりゃ、びっくりするじゃない?」
「あなたの契約者は『伝えないほうがいいだろう』と言っていましたが」
「えぇ? ……じゃあ、何か考えはあるのか。いや、それならそれで私に言いなさいっての。………………出るときになんか言ってた気はするけど」
サクラと先生が何か話している。……サクラが来ることを事前に自分たちに連絡していなかったということについての話か。それに理由があるとすれば――第一に、サクラという『トップアイドル』の動向が漏れるわけにはいかないということが考えられる。その情報は秘匿できるものなら秘匿しておいたほうがいいだろう。それでも患者の両親である自分たちにだけは話しておいたほうが――と言うと、それも必ずしも適当な判断とは言えない。まず、事前にサクラが来るなどと言われても信じられるものではない。信じられたとしてもサクラが、アイドルが来てどうなるのかと思ってしまうだろう。サクラが来るという情報を事前に知ることによる利点は、考えてみれば『驚くことがない』程度のことだ。サクラが来ることを事前に知っていたからと言って何もすることはない。なら、余計な混乱を防ぐためにも秘匿することが、結果的には患者の利益にも繋がる。混乱の対処に時間を浪費するほどの無駄はない。そう考えたのではないだろうか。
といったことを伝えると「な、なるほど……」とサクラが若干の驚きを表情に滲ませたまま納得していた。
「でも、どうして私が、という疑問はあると思います。その答えは単純で、私以上の『使い手』はおそらくは現代に存在しないからです。単純な『取り扱いの技術』という点でも、私が知る限りでは私以上の同族は居ませんが――どちらかと言うと、可能となる『奇跡』について。私は現代最高の……あるいは、歴史上でも最高峰の『力』を持っているという自負があります」
アイドルが? いや……。サクラの言葉に依子は考える。その答えはつぶやきとして表出した。「……アイドル『だから』か」
「……! その通りです」サクラはうなずく。「私たちの力は『魂』の力です。そしてその『魂』の力は、他者からどれだけの感情を向けられているかに起因している。魂の代謝――仮にそう呼んでいるもので発生する代謝物は自然に発散するものではあるのですが、ある種の指向性を持っていることが判明しています。それはその人物が感情を向けている他者に対してのもの。そして、その他者の『代謝物』を私たちは『自分の力』にすることができます」
「つまり、サクラさんは」説明を自分なりに噛み砕く。「現代では最も『その力』を獲得している人間である、と」
「はい。私は私以上の使い手は存在しないと思っています。『魂』の問題であれば、私以上の適役は居ないでしょう」
自分の中に『確信』がある。サクラのことは自分でも知っている。サクラはこういう人物だ。大言壮語を憚らず――しかし、そのすべてを実現させてきた。それだけの実力を示してきた。そんな彼女に人々は魅せられた。
自分もそうだ。彼女の振る舞いに、安心させられていた。そんな自覚があった。相手はアイドルだと言うのに。医者でもないのに。いや――あるいは、それこそがアイドルなのか。
……まだ、娘を実際に見てもいないのだ。ほんとうのところを言えば、彼女にも確信なんてないはずだ。それでも彼女は『安心させるため』にそういった振る舞いを選んでいる。そして現に自分は安心させられている。……彼女にとっては、自分たちも『救うべき対象』なのかもしれない。
そして、娘を見せる。見てもらう。サクラは真剣な表情だ。真剣な表情を見て、娘のことをじっくりと見る。その瞳が、桜色の光を帯びる。
「……魂が濃い、とは聞いていたけれど」サクラはつぶやく。「これが、人の身に……器に、どれだけ……眠っている……いや、意識が……? 魂の代謝が、追いついて……ッ!」
サクラが大きく目を見開いた。彼女はこちらを見て、一度、大きく顔を歪めた。しかし、目を閉じ、開いた頃には元の表情に戻っている。
「望月さん。娘さん、陽依ちゃんは」サクラは一度そこで言葉を区切った。迷うように。「……信じられないくらいに『濃い』魂をしています」
「それに、何か問題があるんですね」
「はい。あまりにも魂が濃くて、魂の代謝が正常に働いていない――それが陽依ちゃんの意識障害の原因でしょう。今はなんとかその程度で済んでいますが……」
「その、程度」サクラの言葉に、無視できない言葉があった。心臓が大きく鼓動し血を送る。「……それは、つまり」
「……はい」サクラはうなずく。「緊急性は、ない、と思いますが……このまま滞り続けるなら、問題が発生する可能性はあります」
「問題……それって」
「『器』が耐えられなくなる可能性です。例えるなら……動脈硬化による心筋梗塞や脳卒中のようなものでしょうか。『それ』が遠くない未来に起こる可能性があります」
サクラの表情には茶化すような雰囲気は一切なかった。深刻で、真剣な表情。彼女は言葉を続ける。矢継ぎ早に。こちらに『無駄な思考』をさせないように。
「まず、結論を。陽依ちゃんを現在の状態から『治療』することは可能です。私の持つ力をすべて使えば……強制的に、しかし陽依ちゃんの器を傷つけずに魂の代謝を正常な働きにすること自体は可能です」
でも、と。そこでサクラは言葉を明確に区切った。先ほどと同じく、迷うように。
「……でも、それは、一時的な処置です。根本にある問題は――『魂の濃さ』には、何もできない。それが陽依ちゃんの魂だから。陽依ちゃんの魂を変えることになる。……それによって、器が耐えきれなくなるとしても、何も、できることはないんです」
そう。もう一度、結論を――サクラができることと、それをしても避けることができない未来について話すとすれば。
「陽依ちゃんを『起こす』ことはできます。でも――陽依ちゃんは、長く生きることは、できません」
努めて冷静に振る舞いながらも、懺悔するようにサクラは言った。
「長くても、十年と少し。……成人するまで、生きられるかどうか、でしょう」
夫婦は聡明であった。聡明であって『しまった』。サクラにそう告げられても大きく取り乱すことは――少なくとも外面上は――なく、感情を荒げてサクラを責めるようなことはなかった。もちろんサクラを連れて来た医者に対しても。
ただ、何度か質問しただけ。本当に何もできないのか。どうにかすることはできないのか。――これは、運命だったのか。
……最後の質問は、するべきではなかったと思う。その質問をしたとき、サクラは今までに見たことがないほどに大きく表情を苦痛に歪めて、肯定の意を示した。そして証明された。責任の所在が。娘の『運命』を与えた者は誰か。神ではない。生まれた頃からそうであるならば――『産んだ者』以外に、何の原因があると言うのだろうか。
「私が」
わかっている。理解している。『そんなことはない』。自分でもそう言うだろう。他者が子の障害について悩んでいるときに『お前のせいだ』などと言うことほど残酷なことはないし、馬鹿げたこともない。そんなものは確率でしかないのだ。母体に責任などないだろう。わかっている。理解している。『こんなもの』に意味はない。自傷行為以上の意味はない。言われたところで何かできるわけでもないのだ。言ったところで何か改善することもない。わかっている。理解している。これは『娘のため』にならないと。わかっている。理解している。それなのに。
「私が……産んだ、から」
私が、産まなければ。……産まなければ、娘は。
「……なんで」
どうして、私は――今でも『産まなければよかった』と思えないんだろう。
こんなにも酷な人生を負わせたのに。娘にこんな運命を負わせたのに。それなのに、私は――どうして、産まなければよかったと思えないんだろう。
「私が……私が、産まなければ――なのに」
今でも『産んでよかった』と思っている。産まれてくれてありがとう、と。
エゴだ。娘のことを思っての感情ではない。罪悪感はある。娘に対して、夫に対して、深い罪悪感はある。だが、それでも。『産んでよかった』と思ってしまっている。産まれてきてくれてありがとう、と。愛させてくれてありがとう、と。……まともにコミュニケーションなど産まれて間もない『あのとき』しかとっていないと言うのに。そんなことを思ってしまっている。
どうするべきか。夫と話し合った。つまり、サクラに『処置』をしてもらうかどうか。それをすれば陽依は起きることができる。目を覚ますことができる。しかし、余命が限られていることは変わらない。陽依は若くして命を落とすことになるだろう。サクラたちは『なんとかできる方法を探してみます』とは言っていたが……言外に期待する結果が得られる可能性は決して高くないということも示していた。
「僕たちにできることは」夫は言った。「陽依を愛することだけだと思う。もちろん、なんとかできる方法を探すことを怠るつもりはないが……限られた時間でも、陽依を幸せにできるように」
「眠ったままのほうが」『幸せになる』という観点であれば、と思って言葉を返す。「長く生きられないことがわかって生きるよりも、眠ったままのほうが……もしかしたら、陽依にとっては……陽依ちゃんにとっては、いいのかもしれない」
「僕はそうは思わない」しかし、夫は毅然としてそう答えた。「と言うより、それを決める権利は僕たちにはないと思う。もしかしたら、君の言う通りなのかもしれない。眠ったまま、何も知らずに『その時』まで生きて終わったほうが幸せなのかもしれない。でもそれは『不幸を知らない』というだけなんじゃないか? それを『幸せ』と言ってもいいのか? 僕はそうは思わない。決めるのは陽依だ。僕たちがそれを決める権利はない」
「眠ったままの陽依が決められることじゃないでしょう。なら、私たちが決めるしかない。私たちに権利がなくても――それでも、決めることができるのは私たちしか居ないのだから」
「そうだね。その通りだ。だから僕は『起こすべき』だと思う。そして――僕たちが、陽依を幸せにするんだ。その助けを。眠ったままで居たよりも……『不幸』よりも、ずっと大きな幸せを。祝福を」
「……それが、できる保証なんて」
「ないよ。あるわけがない。でも」
そうあるように。そうであるように。
人間にはそうすることしかできない。
そして、ふたりは選択した。娘を愛することを。娘を幸せにすることを。不幸よりもずっと大きな幸せを、祝福を、娘に与えられるように生きることを。
娘が起きた。目を覚ました。ふたりは彼女を愛した。何よりも愛おしかった。この世の他の何よりも。
娘は聡明だった。信じられないほどに。『睡眠学習』に効果があったのだろう。だからわかった。彼女なら理解できると。『余命』のことも、理解できてしまうだろう、と。
余命について、いつ話すか。すぐに話すべきではないだろうと思っていた。ふたりだけで相談して結論が出ることでもない。『知識』のある専門家とも相談した。サクラを紹介してくれた先生とも、サクラとも。あまりに早くとも、逆にあまりにも遅くともいけないだろう。精神に一定の発達が見られるまでは明かすべきではないだろうということについては合意があった。あるいは『ぎりぎり』までは明かすべきではないかもしれない、なんて意見もあったくらいだ。精神に十分な発達が――つまり、真実を受容できるほどの精神的な発達が、『受け入れられる』と判断できるだけの成熟が見られないのであれば、明かすべきではないだろう、と。
しかし、娘は聡明であった。あまりにも。あるいは『今すぐに明かしても問題ない』かもしれない、と思えるほどに。
先生は――娘の『担当医』になった先生は言った。「これから私は、酷なことを言います。……陽依ちゃんは、おそらく、『余命』について聞かされても、大きな問題は引き起こさないと思われます。もちろん、確実なものではありませんが……それは時間が経過しても変わらないでしょう。だから、その『時期』について私が言えることは、ひとつです」
あなたたちが、明かすべきだと思ったときに伝えてください。
そう彼女は言った。あなたが決めよ、と。言いにくいのであれば自分が『宣告』することもできる。しかし、自分たちで伝えたいと望むのであれば――
いつか。そう、遠くない未来に。
私が、私たちが告げるのだ。
世界で最も愛する娘に。
その運命と、その死を。
「……お母さん? どうかした? わたしのこと、ずっと見てるけど」
食事中の陽依を見ているとそんなことを言われてしまった。
おいしそうに食べてくれる陽依を見ているだけで幸せだから、と答えると陽依はくすぐったそうにしながら、「だって、お母さんの料理、すっごくおいしいんだもん」なんて言われてしまった。
そんな陽依に笑ってしまうと、陽依は「もー……ほんとにおいしいんだからね? お母さんも食べて! いっしょに食べよ?」と怒ったような調子でせがんでみせた。
あまりにもかわいくて抱きしめると「それじゃなくてー……もー。お母さん? 今はごはんの時間だから! ほどほどにね」と言って小さな腕を背中に回して抱き返された。
ああ、私の宝、私の愛、私のすべて。
あなたは自分の余命を知ってどうするだろうか。知ったほうがいいと思うのだろうか。知らなければよかったと思うのだろうか。明確に『やりたいこと』を持つあなたのことだ。それも短期的なものではなく長期的なものを。ならば、知っておいたほうがいいのかもしれない。知らなければならないのかもしれない。
わかっている。理解している。でも。
今はこの幸せを。
今だけは。