人々から流れ出る眠気と倦怠が、靄となって最終列車を埋め尽くしている。夜空のスクリーンに映り込んだわたしの顔は、窓ガラスが彩度を落としていてもわかるほど、青ざめていた。
飲み過ぎて気持ちが悪いわけでも、眠いわけでもない。むしろわたしの頭はこれ以上なく冴えていて、しかし気分爽快とは程遠かった。
「今日の会を面白おかしく短編小説にしてみてよ!」
わたしを心胆寒からしめたのは、帰り際に放ったはるか先生の一言だった。
「私読みたい!」
彼女の言葉が脳内でぐるぐると反芻され、視界がぐらつき、目が回る。アルコールによる火照りはすっかり冷めてしまっているのに汗が、嫌な汗が肌の上を流れてゆく。
いつかはこうなるだろうと思っていた。このような事態は予想できたことだった。ただそれが、いつになるのかがわからなかっただけ。いや、わかっていたはずだ。
クリエイターたちの側で作家になりたいなんてことをぼやき続けて、何も起きないはずがなかった。あるいは、チャンスの到来を心の奥底では期待していたのではないか。
期待していた事態が現実になったにも関わらず、受けて立つと腕をまくる気概がないのが、情けない。今わたしの胸の中にあるのは純粋な恐れのかたまりだけで、みぞおちにまでぶら下がったそれに引っ張られて、頭が沈みこむようだった。
「とうとうきたね!」
隣に座るまひろちゃんは、これからとても楽しいことが起きると言わんばかり。わたしの深刻な気持ちなんてこれっぽっちも気にしちゃいない。彼女はわたしの気持ちに気付いているにも関わらず、いつもそのように振舞う。
「もうすでに吐きそうだよ」
それでもまひろちゃんがいて救われるような気持ちだった。あの場に彼女がいなかったら、今のわたしの気持ちを伝えられる人間はどこにもいないのだから。
「つまらないものを出したら、きっと二人はすごくがっかりする。そう思うと怖くて仕方がないよ」
「そんなことないって。別に二人は期待なんかしてないんじゃないかな」
まひろちゃんは厳しいけれど、正しい。期待なんかしてない、容赦のない言葉が恐れのかたまりを鈍い痛みに変わる。強い否定がわたしを貫く。
同時に、なぜ痛いのか不思議にも思った。わたしはこれまで何も差し出してこなかったのに、期待されていると勘違いするほど、自惚れていたのだろうか。
「二人はフラットな気持ちだと思う。シンプルに広瀬ちゃんの書くものが読みたい、ただそれだけ」
「そういうものかな」
「そうだよ!」
まひろちゃんは「書きあがったらすぐ見せてね!」と言ってけらけらと笑いながら電車を降りていった。
日付を跨いで家に帰ると、机に身体を縛り付ける。
まひろちゃんの言う通り、わたしが自分を許せるのならば、傑作を書けなくても構わない。
ただ一日、正確には二十時間というタイムリミットは、どうしても死守しなければならない理由があった。
「私読みたい!」には観音さんの追撃があったのだ。
「長くなくてもいいからさ、書いてみてよ。今月中に」
「今月中って、観音さん、今月は明日までですよ」
「うん。だからそういうこと」
観音さんの目は全く笑っていなかった。
おもてなしの真髄をきわめ、いつも雄弁に場を支配する観音さんは笑顔を絶やすことがないけれど、時たま、こうした目を見せる。そのような時は決まって、誰かか何かの命運が決まる。それくらいの重みがあった。
だから、今日中なのだ。今日中に書いて見せるところまで行かなければならなかった。もし今日中に出来なければ、終わりなのだ。
これまでわたしの書いたものについて二人から触れられることは何回かあった。わたしは人に見せられるほど自身が満足できたものがないと、いつもはぐらかしていた。成果物を直接もとめられるのは今回が初めてのことで、恐らく、最後でもある。
わたしが何も出せなければ、観音さんだけではなくはるか先生も、失望してわたしを見限るだろう。二人は優しいから表には出さない。でも、その落胆を、負の感情だけは人一倍に敏感なわたしは、見過ごすことができない。そして、既に不釣り合いな関係は完璧に破綻して、わたしはその事実に耐えられない。観音さんの目は、最後通牒だった。
とにかく、書くしかなかった。恐れに麻痺しそうな脳に言い聞かせて、タイプする。すぐに書けるのは実際にあったこと、話したこと、ビールの銘柄、思い出せる事実を羅列する。
時間の制限があるのはしんどいけれど、ある意味では寛大な措置だ。翌日の夜までとすれば、稼働できる時間は十二時間余り。寝食を削っても二十時間。人間は十時間も経たないうちに集中力の限界を迎えるから、まともに書ける時間はもっと少ない。
この制約は、その決められた時間内で書ける量と質という言い訳を与えてくれる。だから観音さんの今月中という指示は厳しくはあれど、温情でもあった。
打算を思い浮かべながらタイプしていた手が止まる。事実を並べることはできた。でも、これでは日記と大差なく、小説とは言えない。話の背骨にあるべきものが足りていない。何より、面白くない。
いくら気持ち的にアルコールが抜けたとはいえ、身体が思考することを拒否し始めていた。ここからは手を動かすだけではなくて、構成が必要だ。日記から物語にするには、血肉を通わせなければならない。わたしは寝食の時間を削らないことにした。
夢見はよくなかった。昨晩の飲み会や、これまでの会話の断片がミックスとなって矢継ぎ早に流れる。その全てがわたしの不始末を責め立てる内容だ。早い話が見たくないもののプレイリストだった。
観音さんの口から、何度も聞いた決まり文句が飛び出す。
「一日一万字くらいは書けて当然。十日で十万字、本一冊分だ」
観音さんにそれを言わせるたびに、わたしは無力感で壁に頭を打ち付けたくなるのだ。当て付けでもなんでもない、プロのアドバイスとして観音さんは言う。
書いて書いて、その中から良いものを選別する。良いものだけを書こうとして、その場で足踏みしていては、いつまで経っても前には進めない。わかっていても、難しかった。
はるか先生が言う。
「書いてるものを見せてよ、今」
想像する中で、最も恐ろしい状況だ。実際に言われていたら吐き気どころではなく、その場でおう吐していたかもしれない。明日までに書け、なんてましな状況じゃないか。二人は、口には出さないだけだった。わたしが言われないのをわかっていて、甘えていただけだ。
夢見がよくないなんてものじゃない、悪夢そのものだった。
朝、もう一度、机に向かうのは億劫で仕方なかった。
少し書こうとするたびに、指先が麻痺したように止まる。事実につまらない装飾を加えようとしているだけだ。こんなこと意味がないと叫んでいた。
何もかも諦めて放り出してしまうのは簡単だった。書けなくても、別に死ぬわけじゃない。
けれど、今書かなければ、もう二人には二度と会えない。会わせる顔がない。
何を書けばいいんだろう。そもそもなんで書こうとしてるんだっけ。何が書きたいんだっけ。悪夢以外の、はるか先生と観音さんの言葉を探す。二人はいつも正しくて、わたしにはそれが辛くもあった。
「書きたいものを書けばいいんだよ」
「書きたいところから書けばいいのさ」
「ああ、そうか」
わたしが書きたいことを書けばいいんだ。どうしてそう考えられなかったのだろう。
書いてと言われて、ただ言われた通りに書く作家がいるものか。
書きたくて、書けること。それを書かないといけない。
事実の次に書けることを思い浮かべる。感情だ。わたしの感情。感情表現も他人の感情を読み取るのも下手なわたしは、その濁流を抱え込んでいる。これを書いてしまえばいい。
二人へのわたしの憧れ、知ってる。何を思ってビールを選んだのか、知ってる。
二人への想いと、小さな反抗心。見つけた。
「なんで作家になりたいのさ」
作家になりたい、わけじゃなかった。作家が目標ではない、その時は答えられなかった。
わたしは物語が好きだ。でも、特定の何かが好きってわけじゃないと、いい歳になってから気付いた。わたしが好きだと思っていたものを、わたしよりもっと好きな人をたくさん見て、好きが何かわからなくなった。
本当に好きであれば、彼ら彼女らのように我を忘れるほど夢中になるべきなのだろうか。好きを超えて、ファナティックな感情を表現できるほど、わたしに好きなものはあるのだろうか。わたしの熱意はどこにあるのだろう。
今でもわからない。それでも、これだけは言える。小説でもアニメでもゲームでも映画でも、他の全てを忘れて物語に身をゆだねる時、感情が揺れた時だけに見える一瞬のきらめき。
それだけが、わたしの生きがいだ。物語のきらめきだけが、空虚なわたしに息を吹き込んでいる。この感覚だけは絶対に奪われたくない、わたしがファナティックになれる唯一のものだ。
わたしも、あのきらめきを手にしたい。誰かと分かち合いたい。
だから書くのだ。うまく書けないのはしょうがない。それでも、書きたいものはわかった。
なぜ二人が書いてみてと言ったのかわかった気がする。書く前にわかるんじゃない、書いたから、わかるんだ。わたしが物語に意味を与えるんじゃない、物語がわたしに意味を与えるんだ。
勢いだけでキーボードを叩きつける。
これがわたしの、今、差し出せるものだ。
ありったけの、差し出せるもの全部をぶつけよう。
こうしてわたしは期限内に書きたいものを書き切ることができた。相変わらず、人の本心なんてわからないけれど、少なくとも二人に失望はされなかった。そう信じることにした。