年が明けた一月下旬に、一通の手紙が手元に届いた。
差出人は、秋月燈。筆跡は、報告書で幾度も見てきた幼い子供が書いたような拙いものだ。
開封して便箋に綴られた内容を読んでいくと、ご丁寧に時候の挨拶から始まり、横浜で一軒家を購入し、水回りの工事が完了次第、秩父の家から引っ越すこと。東雲芸能事務所にスカウトされ、現在モデルの訓練をしていること。横浜市中区にある擂鉢街で子供三人、第三五六歩兵師団隊に所属していた元兵士一人を拾ったこと。うち子供一人は、戸籍が見つからずに市警に送り届け、残り二人は栄養失調にかかり、兄のほうは細菌性肺炎を併発して入院中だと、結びの言葉と共に書かれていた。
手紙で状況報告をすると決定したため、休日に購入した便箋と切手を机から取り出して、都合が合えば引っ越しを手伝うこと。子供達の見舞いには行けないが、金銭面で幾らか手助けする旨を綴り、郵便局に出向いて郵便受けに投函した。
それから二週間程経った頃。手紙と共に小包を受け取り、疑問符を浮かべて官舎の自室に向かっていると、それを目撃した同僚が茶化すように締まりの無い顔で肘で小突いてきた。
「お。福地少佐はおモテになりますなァ」
「は?」
「おいおい。今日は何月何日だ?」
「二月十四日……。あ」
幼い頃に流行り始めたというそれは、
そんな淡い思い出と共に手紙と綺麗な箱を開封し、
「……頂きます」
口の中で転がし
其処には、好意という感情が解らないものの、御世話になっている方への感謝の気持ちという形で贈った事だけが書かれていた。意外にも、今日に合わせたのか報告書の
完食してから、元部下に対するお返しは何が良いかと、大して連絡先が入っていない携帯電話を使って調べていく中で、菓子に意味がある事を知った。しかし、記憶を失っている今は無意味だと判断し、実践すべきではないと斜め読みして、『友達でいよう』という意味で無難なクッキーを有名店の中から選ぶ。直属の部下だったが戦友でもある為、間違ってはいないだろう。休日に詰め合わせを購入して、封筒の裏面に記載されている横浜市栄区の宛先に郵送する手筈を脳内で整えた。
三月に入ってから辞令が下り、俺は教育総監での教官の立場から降りて、埼玉県朝霞市の陸軍予科士官学校から東京都中野にある陸軍憲兵学校併設の寮に居を移し、四月に陸軍少佐から将校の甲種学生として正式入学する事になった。
同期の加澄は俺と同時期に軍を辞め、数ヶ月前の福沢の誘いに乗って神奈川県川崎市にある一軒家に転がり込んだらしい。休日に遊びに行った際、前掛け姿の同期に遭遇した時には流石に驚き、『記憶が無い今、勝崎家に居ても居心地が悪いだろう』と縁側で澄まし顔で告げる親友に、お猪口片手に『
燈君は新宿にある音楽専門学校に通うことになったと手紙で報せてきたため、此方も学校に通っていると詳細を伏せて返事を書き連ねていくが、その中で俺の生誕日が知りたいと追記されているのに遅蒔き乍ら気付き、去年彼女の母君から来た不可解な一報の件を思い出した。頼まれた手前、言われた通りに二週間に一度、休暇を取って大国主命が祀られている神社にお詣りしたが、長崎旅行以来会っていないため変化を目にする事は出来ない。
そうして迎えた自分の生誕日前日の朝。
土曜日というのもあって人が多い中野駅前で待っていると、女性としては高身長に値する彼女が俺を見つけて無表情で人の波から脱し、黒一色の出で立ちで一際目立つ明るい琥珀色の瞳で俺を見据え、喜色を浮かべぬまま開口する。
「おはようございます。源一郎様」
「ああ、おはよう。燈君」
何食わぬ顔で挨拶を交わしたが、七ヶ月弱振りの変化として装飾品を身に着けていた。
右耳にピアスやイヤリングではない紫色の石が付いた耳飾りと、左手親指に獅子の
「今日は何時もより着飾ってるな。如何した?」
「人間の雌は、こういう物をしていると学んだので真似しました。不具合はありますか?」
「
「そうですか。では、本日の宿泊先に参ります」
「宜しく頼む」
「はい」
似合うという言葉を不具合は無いと解釈したのか、自分の褒め言葉ににこりともせず、数分前に出て来たばかりの駅へ踵を返した。宿へ向かう道中で、モデルとして働き始めてあと数日で一ヵ月経つらしい。未だ駆け出しのため、私生活を暴く
未だ午前中で旅館に直行するには早く、途中、吉祥寺で降りる事になった。
今回の旅の全貌を全く知らされておらず、荷物を設置されている物入れに入れて鍵を掛け、彼女に着いていくだけの俺は見失わぬよう気を張り、人で賑わっている商店街の中へ進んでいくと、右手にあるラーメン店の前で不意に足を止めた。
「此処の二階で一休みして行きましょう」
「? 二階?」
「はい。既に二人分予約してあります」
よく見れば、一龍足道という看板に『2F』と書かれている。
どうやら、エステとやらで癒やされろという事らしいが、こういう類には疎いため、男も同伴しても良いのだろうかと悩む時間すら無い。彼女は背中を追うしか方法は無く、友人として隣同士で大人しく施術を受ける事になった。途中から心地良く眠りこけてしまい、起きた時には正午を少し回った頃で、身体の疲れが取れて随分すっきりする。私服に着替え終わってから店員達と燈君に礼を言って退店し、路地に至る階段を下りつつ、商店街の中で昼食を摂る事にした。
「昼食は俺に払わせてくれ。奢られて
「自分の分は払います。余分に持っているので問題ありません」
「秋月」
「……。では、お言葉に甘えます」
「何処でも良いぞ」
「……此処にします」
彼女が即決した其処は、先程自分が勘違いした隣接するラーメン店で、昼時で当然行列ができている。並ぶのも宿迄の時間潰しと考えて、待ち時間に店先に出ている写真付きの品書きを見て注文の品を決定し、俺は超葱祥らーめん。燈君は味玉入り祥らーめんにして、久し振りに替え玉と餃子と其れ其れ一玉と二人分追加して満足した。
そして、駅に預けた荷物を忘れずに持って
「源一郎様。これからどうされますか」
「そうだな……。風呂に入るにしても未だ早い時間だし、暫く待機する」
「了解しました。入浴後に報告をします」
「解った」
部屋にエステを経て温泉に入ると自然と緊張が解れ、溜め息が吐き出され、一時的にしろ座学や試験勉強から解放された気分になる。脱衣所から廊下へ出れば、当然の如く燈君が待機していたが、別れる前と違って柔らかに微笑まれた上に会釈迄された。入浴中に異変が起きたのかと警戒して距離を取れば、彼女が口を開く。
「こんにちは、福地様。私とは初めましてですね。
「誰だ?」
幼馴染の変わり様に警戒した俺は、異能力で誰かが憑依したのかと思い、反射的に睥睨したが、カミツレと名乗った女性は気に留めずに話を進めた。
「まァ、他人から見ればそんな反応しますよね。詳しくは部屋でお話しますので、そんなに睨まないで下さいな。貴方にご報告があるのです」
「此処で話せ」
「お断り致します。主様の個人情報を人の往来がある場所で話すなんて、彼女が目覚めたら貴方の事を嫌うでしょうね」
「主様? 誰の事を言っている?」
すると、彼女が自分の胸元に手を置いて告げた。
「この体の持ち主。貴方が七五三で出会った子。今は眠っていますが、そうなる前は、長年貴方達御友人を心の支えにされておられました」
七五三の事は、よく覚えている。
だが、眠っているという表現に引っ掛かりを感じた。体は起きているのに、中に別人が入っているような言い方をする。其処で特殊な事情だと受け止めて、共に部屋に戻る決断を下した。
「場所は判るか?」
「ええ。温泉で寝てる時に、あかり様から伝えられました。……ああ。主様と区別するために、私達はそう呼んでいます。ちなみに、元軍人のほうですよ」
「そうか」
此方を安心させるように上品に笑い、言葉遣いも仕草も、歩幅でさえ軍人の『秋月』と全く違い、幼馴染の器を残して別人と喋っている妙な感覚に陥る。更に、『秋月』がカミツレに『燈様』と呼ばれている事が気になる。『秋月』である人物に名前は宛がわれていないのだろうか。
考え事をしている間に離れに到着しており、隣に居る彼女に先立って引き戸の玄関を開け、ぺこりと一礼して敷居を跨ぐ其の右足首に、勾玉と紐を組み合わせた足輪をしている事に今更気付く。
そして、八畳三間の宿泊部屋が二つ在る此処は、最近流行りの真四角で滑らかな畳ではなく、昔ながらのちゃんとした長方形の物だ。既に寝室に位置する部屋に敷かれた隣同士の布団の横を素通りし、事情聴取の癖で手帳を取り出しかけた自分を恥じ、何食わぬ顔で其処を出て座椅子に座り、緑茶が注がれた湯呑みを受け取って、改めて向き合う。
「
「ありがとうございます。……では、早速本題に入らせて頂きます。多重人格という状態ご存知ですか? 一つの身体に、複数の心が存在している状態の事を指します。ビリー・モーガンで一時期話題になったのだけれど」
「……。すまん。覚えてない」
「謝らなくて良いですよ。後で検索するなり、本屋さんで探してみられて下さい。今は名前が変わって、解離性同一性障害と言うらしいです。主様には未だ正式な病名はついてませんが、私の見立てではそれに当て嵌まります」
次々とカミツレの口から新しい情報が出てくる。其れ等を頭の中で整理し乍ら、相槌を返していった。
「貴女は医者か?」
「いいえ。精神世界で保健室の先生をしていて、今は毎日主様の容態を診てます」
「っ……。……」
精神とはっきり言われて言葉に詰まり、一瞬思考が停止する。
黙している間に、如何にか精神的に病んでいると解釈し、
「……
「管理人の畔菜さんが言うには、五歳になった三ヵ月後ですね」
「……そうか。気付けなくてすまなかった」
「あら、気付かないのが普通ですよ。貴方の前では、中学生までちゃんと主様が接しておられましたし、貴方が会いたいと切望してるのは、私達ではなく主様だと理解していますから。……それと朗報です」
「なんだ?」
「ふふっ」
カミツレは目を細めて笑って、薄紅色の唇がゆるりと弧を描いた。
喋っているのは幼馴染の姿をした別人格だが、浴衣姿や風呂上がりの火照って赤らんだ肌のせいか、それとも惚れた弱みからか、中学生の頃よりずっと魅惑的に見える。
「精神世界であと一人解放されたら、主様が目覚める準備が整います」
「……そう、か。では、目覚めたら『俺は何時でも待っている』と伝えてくれ」
「はい。加密列めが、しかと承りました。いつか主様が目覚められた時、必ず貴方と再会させるとお約束致します」
「ありがとう。だが、あまり気を負わないでほしい。焦ると台無しになるからな」
「解りました。では、あかり様と代わります。短時間だったけど伝えられて良かったです」
「嗚呼。報告に感謝する」
俺の答えを待ってから意識を飛ばしたのか、笑顔からすうっと感情が抜け落ち、眠るように瞼が閉じかけ、無表情になって俯いた。操り人形の如く座椅子に背中を預ける様子は、一見すると事件かと勘違いしてしまう。
だが、何時目覚めるか判らないため、何か掛ける物を持って来ようかと座椅子から腰を上げ、部屋を物色したが目ぼしい物は無かった。そこで、自分の羽織の紐を解いて彼女に掛けた瞬間、彼女の瞼が僅かに動き、ゆっくり開いて眼球を左右に動かし、最後に視線を俺が居る方向へ合わせてくる。
寝起きなのか、とろんとした表情で見てくるせいで、一瞬
「……おはようございます、源一郎様。加密列先生の報告は聞かれましたか?」
「ああ。いきなり鉢合わせしたから、警戒したぞ」
「そうですか。秋月家の方達以外で代わったのを見せたのは、源一郎様が初めてですが、報告が出来て良かったです」
「そうか。……体調に変化はあるか?」
「ありません。このまま旅行を完遂出来ます。……これは、源一郎様の羽織ですか?」
「ああ」
「貸して頂き、ありがとうございます」
「俺が勝手にしただけだ。礼は要らん」
「了解しました」
淡々と無表情で話す『秋月』。もとい、燈君は丁寧に羽織を畳んで手渡してきて、其れを黙って受け取る。服に無頓着な彼女に和服を着ている印象は無いので、着流しや着物を着ていた祖父母辺りに習ったのだろう。
夕食の時間迄は、会話を重ねていった。
彼女とは別に、専門学校の通常授業は芸名と同名の人物である菜の花が受け、選択科目では精神世界で唯一男性の人格──オトギリソウに代わって授業を受け、
文字通り人が変わるように振る舞うのが原因で、学友と呼べる人は未だ一人も居ないと告げられ、さもありなんと胸中で呟いた。また、週明けに雑誌に掲載する撮影の予定があり、専門学校の生徒より一足早く芸能事務所所属となっているため、その事情も学校側と二度目に就いた副業の雇用先に説明済みだと言う。「良かったな」と答えつつ、発売された暁には購入しようと決意した。
「燈君は、モデルと歌手を生業にするのか」
「はい。持てる武器は多いほうが有利なので、もしこの仕事が続くようであれば、女優という任務に着任したいと、既にマネージャーに意見具申しました。来年の今頃、訓練を開始する予定です」
「忙しくなるな」
「源一郎様のご予定は御座いますか?」
「俺か? ……ふむ。直近では、福沢と酒を飲み交わす
「そうですか。双方、卒業が第一目標ですね」
他にも、擂鉢街で拾った子供達は肉親や親戚の家へ帰ったが、細菌性肺炎と栄養失調が治って退院した兄妹は家庭環境に馴染めず、彼女の家に先週の日曜日に出戻りしたこと。同居人の元兵士は、好きが高じて今月紀伊国屋書店に採用が決まったこと等、先月の手紙では書いていなかった内容を直接聞き及んだ。
豪華な夕食に舌鼓を打ち、並べられた布団に意図は無いと平静を装って就寝の挨拶を交わして体勢を取ったが、二時間経っても寝付けずに寝返りすれば横顔も整っている幼馴染の寝顔がある。
こうして隣同士で横になるのは幼稚園以来で懐かしく感じ、気が付けば手を伸ばして、寝相によって瞼に掛かっている前髪を指先で梳くように横に流し、そのままするりと柔らかな黒髪を撫でた。幼少期から密かに想いを寄せる相手が深く眠っているのを良い事に、彼女の許可無く触れてしまう事態に罪悪感を覚えるが、募る気持ちを抑える事は出来ない。
「……燈。君を守らせてくれ。……其れが出来るなら、俺は何でもやる」
既に或る計画を進めている自分にとって要となる動機を前に誓い、数ヵ月前より伸びた黒髪から手を離した。
奥歯を噛み締め、激情に気付かれないよう自分の布団に戻って潜り込み、瞼を閉じて眠りに就く事に専念する。
誕生日に合わせて贈られた温泉旅行は、出発時と同じく中野駅でお開きになった。
『秋月』の姿が人塵の中に紛れて見えなくなると、俺は二つ折りの携帯電話を開いて大きな書店を検索し、運動がてら片道五十五分かけて紀伊国屋書店笹塚店に向かう。到着早々、旅館でカミツレが告げた解離性同一性障害についての本を探す為に心理学の区画に寄り、数多在る本の中からみすず書房が出版している『解離の病歴』を購入し、店員に書皮を掛けて貰った。
彼女の身に何が起こっているのか現状に対する理解を深め、少しでも友人の扶けになりたいという思いから即応し、何時か彼女達が主様と呼ぶ燈に再会する日の為に、学業の合間を縫って微力乍らも知識を蓄える事から始めた。