『昨日午後11時頃、シンガーソングライターの菜の花さんが、横浜市栄区の交差点で倒れ、通行人によって誘拐されました』
一日の業務が終わり、自分に割り当てられた寝台に腰掛けて携帯を開き、ボタンを操作してブラウザを見ると、トップページに誘拐された旨の記事を見つけた。
その詳細は、同居人が早朝に『連絡が取れず、帰宅していない』と通報があり、防犯カメラの映像から車に押し込まれ、港南台駅方面へ向かったと言う。
「……」
言葉を失った俺を現実に引き戻すように、朝には彼女の同居人である立原
更に、終業時間から一時間経った
『こんばんは。お疲れ様です。昨夜起こった姉の事件をご存知でしょうか? 僕は、ある伝手ができ、そちらのほうから行方を追っています。福地先輩の身に、姉関連で異変は起こっていませんか? もし、何かありましたら、僕にお知らせ下さい。伝手と共に、出来る限りの対策を致します。追伸:僕は、姉の声を忘れました』
声を忘れた。
その記述で自分も記憶を遡ってみたが、本当に思い出せない。
他に異変が起こっていないか調べるべく、携帯専用ユーチューブのマイチューブで冒頭十五秒しか菜の花名義のミュージックビデオを開く。しかし、デビュー曲『true blue』や、先月公開された『群青』も再生してみたが、バグでも起きているのか音声が全く聞こえない。流れるのは音楽のみで、これには視聴者も同様の反応を示し、昨夜から続いているようだ。
そして、日が経つにつれ、どんどん
三日目は、彼女の好きな花を忘れた。
そして、容姿を忘れた四日目の夜。彼女に関する夢を見た。
向かい側には、黒髪に紫の瞳を持つ少年が居て、紺色の軍服に似た服装で正座した膝の前には短刀が置かれている。
(大将が就任して四周年か。毎年の事だが、記念日は疎かにしちゃいけないよな)
(今後とも宜しくお願い申し上げます)
告げられた当人も正座しており、薄紫の羽織を纏った袴姿で微笑んだかと思うと、しっかりとお辞儀をした。
(よし。堅苦しいのはこれくらいにして、朝餉にするぞ。大将)
(うん。お腹すいた)
(食欲がある事は良い事だ)
木製の階段を下りていき、廊下ですれ違っていく者達の髪や瞳の色は様々で、小学生くらいの子供から三十代に見える男性陣──途中、女児に見間違う子供も居たが──にすれ違い様声をかけられていく。
その誰もが、彼女を名前で呼ばない。
どうやら、そこは『本丸』と呼ばれる場所で、立派な庭や畑がある。
暗転。
五周年を迎え、側近に口元に
(良かったね、主。手に入って)
(んふふ。欲しかったんだ、源君のグッズ。今回は、もちマスだよ)
(離れの部屋、グッズが並べられてるもんね)
(推し活は最高だもの)
はて、自分のグッズを出した覚えは無いが、異界では違うのかもしれない。
さらに、俺は自分の耳を疑った。
懐かしい呼び方だ。
ならば、記憶が戻ったのか。
(早く、元の世界に帰りたいな)
(大丈夫だって。去年、アイゼンが修行に行ったし、助けを呼んでくれるよ)
梅雨に入って、アイゼンと呼ばれた少年が修行から戻って来た。
しかし、俺は
暗転。
六年目の修行に、ドウダヌキが向かい、俺は今日こそ救出しよう彼の背を追う。
だが、秋月
橘神社の鳥居を潜ろうとしても結果は同じく、俺だけ弾かれる。
本丸で報告を受けた
暗転。
七年目にカシュウが修行に向かい、俺は彼と時の政府の職員と共に、埼玉の鷲神社の鳥居を潜った。
帰還した時には本丸では八年が経過し、彼女が元の世界について話さず、誰も本丸から出てこない。不審に思った俺と加州は、風に乗って漂ってきた血と焦げた臭いを追って、丘の上にある桜の木の下へ駆けた。
そこには、地面が草が生えていたであろう場所が全面焦土と化し、四肢と首が有り得ない方向に曲がって千切れ、肉と血が辺りに無造作に飛び散り、絶命している恰幅の良い背広姿の男の
(あ……。
修行装束の笠を放り捨て、加州が
目や耳。鼻と口から出血し、虚ろな瞳で無反応だった。
慟哭している部下を前に、俺は全てを思い出していた。
同級生とはほぼ頭一つ分高い故に、低い声も。
俺とは対称的な、短い黒髪と琥珀色の瞳も。
彼女の好きな花である金木犀も。
七五三の時に出逢った日から続いた日々も。
(……
しかし、遺体を前にして名を呼べど後の祭りだった。
*
夢はそこで途切れ、寝起きに呟く。
「……誰だ?」
二〇〇三年十月五日。
五日目の今日は、秋月
「お前の幼馴染だと言ってただろう」
「いえ、違います。この女性の事など知りません」
今朝、市警から軍警に捜査依頼が来た。
初代分隊長に言われたが、そう返して眉を
足取りが完全に途絶え、次の手を議論している最中の
赤髪の少年と、日曜日であるにも関わらず異能特務課の
子供
赤髪に鼻の頭に絆創膏を付けた少年は、
背広姿の男性は、隊長と俺に名刺を渡してきた。
時の政府 特殊事案部 田中
時の政府所属という聞き覚えのないものだが、ここでそれを尋ねても話が長引くだけだ。
隊長が会議室の席に着席を促し、彼らはめいめいにそうする。
「俺は愛染国俊。修行にかこつけて、本丸の外に出て此処へ辿り着いた」
「私は田中と申します。今回、緊急事態につき秋月さん担当の異能特務課を頼って、
彼が言う緊急事態とは、秋月
「既に、
「ご協力感謝する。
「福地さんお一人で充分です。この中で彼女と最も縁が深いですから。その際、先導は愛染に任せ、福地さんが彼女から渡された物品を所持し、私と補助役が後をついていきます」
「補助役?」
「ええ。我々は、こんのすけと呼んでいます。姿を現しても宜しいですか?」
「構わん」
隊長が許可すると、ビジネスバッグから
顔や腹。足先と尻尾の先は白く、他は普通の狐色だ。
それは生きているように瞬きをし、尻尾をゆらゆらと揺らしている。
《お初にお目にかかります。
こんのすけは、今
狐の式神が机上を数度つつくと、情報を記載した画面が人数分投影された。
《愛染さんの情報によると、現在、彼が所属する本丸は厳しい情報規制が人為的にされており、外部との連絡が取れないようです。通信遮断も通常なら有り得ない状況なのです。仕入れ先の場所は絞られており、そこは政府管理下にありますので、救助信号を発信できません。それで、彼は修行という機会を利用して
「何故だ?」
《時の政府も一枚岩ではありませんので……。秋月さんを誘拐したのは防犯カメラの映像を確認するに過激派の一員ですが、未だ黒幕の特定には至っていません》
「あ!!」
「……どうした。
「黒幕で思い出した。軍人の人格の
乱暴に抱えていた袋を机上に出し、首根っこを掴んでずるりとそれを引き出した。
背中に刀傷で文字が彫られた、四肢を失った頬が痩せこけている男だが、見覚えのある顔。防犯カメラの映像で、車の運転手をしていた奴だ。
「そうか。提供に感謝する。後は、我々に任せてくれ」
「おう、ありがとな!」
歯の根が合わない男を、愛染から拷問を得意とする部下にすっと流れるように受け渡し、さらりと話を続ける。
《えー……。救出する際の流れをお話致します》
狐は男に『さもありなん』という表情で見
秋月
本丸名:
《一度だけ変更出来る本丸の名が変わったのは、三代目となる彼女の就任日です。これから、愛染さんが出現した
「了解した。だが、行き先は埼玉の
「理由をお聞きしても?」
「……今朝、夢を見たからだ。
ひゅっと息を呑む音が愛染から聞こえたが、今は無視する。
田中さんは表情を崩す事無く、平静を装って『そうですか』と短く答えた。
「解りました。その間に昼食を調達してきます」
「いや、俺は
「あ、はい。では、13時に正面玄関で合流しましょう。
「
「はっ」
会議を抜け、自室に戻って私物を漁る。
普段から整理整頓している為、それらは
購入した覚えの無い二枚のシングルCDに、女性物の流行の服を掲載した雑誌。付箋が幾つも付いた解離性障害入門と書かれた本。交わした覚えの無い茶封筒の数々。黄色、黒、白の三色で丸い形状の組紐が一つ。
もし、異界へ渡る際に持ち運び出来る物は、これしかない。
それを手に取って会議室に戻り、段取りと道中起こり得る事態の擦り合わせを行ない、
早食いが身に付いている為、余った時間を用いて
数十分後に合流し、式神の道案内にセブンイレブン習志野奏の
満腹感と車の揺れから助手席と後部座席で寝ている人間と違い、狐のほうは田中さんの隣で投影している地図を
「眠たくないのか?」
《コメダ珈琲で油揚げは売って居ませんし、ペット同伴禁止ですから》
「そうか。では、目的地に到着したら油揚げを買おう。腹が減っては集中力が切れるだろう」
《ありがとうございます。助かります》
そんな会話をしつつ、
先程通過した東北道を下道でぐるりと回る形で
詫びに何か購入しようと
俺は塩おむすびとスパムむすびに加え、式神の油揚げと緑茶を二本購入して車内で小腹を各自満たしつつ、こんのすけと最終確認をしてから、榊を車内に残して徒歩一〇分の場所にある
『数年前から、異世界に繋がりそうという噂が流れていたんですよね』と言う狐の言葉を耳にしながら。
*
踏切の先に向かう遮断機代わりの防壁同士の幅は、人一人が通れる程で、車は通行不可になっている。
《さて、福地殿。これより本丸までゲートを開きます。準備は宜しいですか?》
「ああ。始めてくれ」
俺達の眼前に、こんのすけが事前に時の政府と交渉して構築していたゲートが、『壱肆肆伍』と干支の文字、鳥居の文様と共に浮かび上がり、短く息を吸ってそこを潜った。
夢のように弾かれる事は無く、十秒程暗闇が支配し、こんのすけの声が響く。
《当該本丸への外部接続を確認。……繋がりました。続いて、刀剣男士、及び人間のスキャンを開始。……全員、異常無し。福地殿。到着しましたよ》
「……そうか」
暗闇に目を慣らす為に片目を閉じていたが、やがて眩しくなった矢先、眼前には立派な木製の表門が鎮座し、重厚乍らもよく手入れされているそれに感嘆した。
「じゃあ、開けるぜ」
《宜しくお願いします》
表門が開き、向こう側は夏なのか蒸し暑さが伝わり、熱気に当てられて制服の内側でじわりと発汗しているのを肌で感じた。
「ただいまー!」
「お帰り、愛染。後ろの方々、は……。え?」
「ん?」
「ふ……、福地さんだー!!」
「こら、鯰尾。客人に大声を上げるものではないよ。失礼した」
「いえ、大丈夫です。私は、特殊事案部の田中と申します。本日は、
「!! では、
「我々が責任を持って、元の世界に戻します。福地さんの援助が不可欠ですがね」
額を出す形で前髪を結んでいる薄紫色の髪を持った青年は、手にしていた竹製の籠に力を入れて、泣くまいと唇を一文字に結ぶ。
「鯰尾。
「了解!」
「愛染も、晴れ姿を
「ああ、行ってくる!」
どたばたと駆ける様子に、カセンは母親のように『廊下を走るな!』と叱るが、二人の少年達は背を向けたまま手を振るだけだった。余程嬉しいのだろう。
その後は、洋風の応接室に通され、赤く丸い耳飾りを着け、ジャージ姿の黒髪に澄んだ碧眼の少年が丸盆に茶菓子と緑茶が注がれた湯飲みが二人分。こんのすけ用の油揚げが運ばれて、それらを
先に平らげた自分に対して、こんのすけと田中さんに『え、もう終わったんですか? 早いですね』と言われ、『癖になっているので』と返せば、軍関係の環境で納得された。
彼らが味わって半分を胃に収めた頃、壁掛け時計の時間にして十五分が経ち、扉の向こうで人間の気配がして居住まいを正す。
「お待たせ致しました。……
柔らかく微笑む事は無く、神職らしく白衣に身を包み、見慣れない松葉色の袴姿に薄紫色の羽織を
琥珀色の瞳は、見ようによっては黄色にも見える。
ふと、左手首に着けた組紐の色の一つを思い出し、彼女の瞳の色なのかと推測した。
田中さんに
「鯰尾と愛染から聞き及んでおります。しかし、その言葉を鵜呑みに出来る程、貴方達を信頼出来かねない事情をご理解頂ければ幸いです」
「そのような感情を
深々と頭を垂れる政府職員に対し、その瞳はなんの感情も映していない。
次に俺を見やったが、
その無表情を、昔
「それで、具体的には私をどう救出するのですか?」
「今から一時間以内に、この本丸担当の上司の情報を私に提供し、我々と本丸を出て下さい。その後の事は、
「上司、ですか」
「はい。本丸の経歴は把握しておりますが、十中八九、現担当者も貴女を誘拐した一味の派閥に属している可能性が高いです。
「……つまり、私の誘拐に関わった彼らは、歴史のおまけだと」
「悪い言い方をすれば、そうですね。しかし、既に隣の彼を含め、貴女の人生は丸
「……」
丸盆を笑顔のまま握り締め、片手で破壊しかねない堀川は、横目で
だが、形の良い薄紅色の唇を結んだ彼女は、沈黙して返答せずにいた。彼女からして見れば、自分の歯車が一つ狂えば歴史のおまけだと言われて帰る理由が弱くなったに違いない。なかなか回答を得られないので、
「……。私から一つ聞いても?」
「どうぞ」
「元の世界に帰りたくない理由でもありますか?」
「はい。ですが、
「はい。ありがとうございます」
どうやら、あの沈黙は自分の価値と住んでいた世界の歴史を天秤にかけて考えあぐねていたらしい。
残りの水羊羹を完食した頃に、防犯カメラに移っていた服装と黒いボディバッグをかけて、SDカードを持参して応接室に戻ってきた。
「
「はい。必ずやそう致します」
彼女は数十人にも及ぶ非番の部下達に見送られ、表門を潜った先には、俺にとって三十分前に見た踏切の光景が眼前に広がっている。
「……帰って来たのですね。本当に」
「ああ」
《では、
「はい」
踏切を渡り終えて、彼女の足音が途絶えて立ち止まったのが判り、振り返ると空気中に漂う匂いを嗅いでいた。
俺も同じようにすれば、金木犀の香りが
「……この香りは、金木犀。福地少佐が私に下さった香水と同じです」
(あのね、げんくん。あたし、この匂いの花がすきなんだ)
不意に、幼い頃に誰かがそう言っていた事を、笑顔を、その人の名前と記憶が次々と溢れ出す。故に、彼女が現在、解離性同一性障害──昔で言う
「……
「それは、
「そう、だな。それでも、俺は君の
「……そうですか」
気付けば片想い相手の名を呟いていて、
「何かあったら、
「……はい」
俺と差し出した手を見比べて、迷子の手を引くように彼女の細い手を握り返す。
香りは、記憶と結び付く。
誰が言ったのか、記事に載せてあったのかは定かではない。
「申し訳ございません。未だ、
「君が無事なら、それで良い」
「そうですか。感謝します。……名前で呼んでも宜しいですか?」
「構わんぞ」
「只今帰還しました。源一郎様」
「お帰り。
この時、未だ記憶が戻っていなくとも彼女との再会を喜び、温かい目で狐と田中さんに見守られている事態など頭から綺麗に抜け落ちていた。