憲兵学校卒業後にも、律儀に月に一度届く手紙に綴られた報告書は、いつも通り『秋月』の筆跡だった。
だが、内容は普段とは違っており、二年前の温泉旅行で
「……」
彼女と会うのを待ち侘びていたはずだ。
だが、俺の事を忘れているとはっきり書かれてしまえば、自然と息や言葉が詰まる。
痛む心を落ち着かせるために深呼吸をしてから、彼女達別人格が『
*
客間に茶菓子と緑茶を持ってきた立原に会釈し、一人増えた子供にも挨拶を交わした。
新入りの少女は赤髪を三つ編みにし、そばかすがついた小さな顔に翠眼で不安や警戒を隠す事無く
「俺、呼んでくる。
俺は以前、
猟犬の制服や外套が汚れるのも構わずに地面に片膝を着き、視線を合わせてその事と情報提供を褒め、「そのおかげで、彼女を助けられた。礼を言うのはこちらのほうだ」と頭を下げて本音を伝えた覚えがある。
そして、いつも通り月に一回──この時は月末──に顔を出せば、茶髪碧眼の少年──中原中也──が「源おじさん」と開口一番に言ったのだ。十中八九、
「あ……」
そして、顔を合わせるや否や、目を細めて微笑み、こう告げた。
「久し振り。源君」
自分の視覚と聴覚を疑ったが、生体手術を受けているので『それは無い』と即刻脳内の選択肢から除外する。
用意された座布団に座す様子をぼうっと眺めて、もう一度名を呼ばれて我に返り、話を伺った。
記憶が戻った切っ掛けは、精神世界で金木犀の香りを嗅いだこと。三日前の診察で、七五三の記憶を思い出したこと。先程も、料理の仕方や学校で経験したであろう出来事全てを「忘れている状態だけれど、焦らずにやっていくよ」と前向きな気持ちで締め
「改めて、金木犀の香水を贈ってくれてありがとう。
「あ、嗚呼……」
「凄く嬉しい。一生大切にするよ」
「っ、……そうか。喜んで貰えたなら善かった」
彼女の一人称があたしという事は、間違い無く俺が知っている
脳が情報整理している最中に、この身体は小学生の頃とは違う屈託の無い笑みを前に言葉を失い、早鐘を打つ心臓を無視して、
「来年は何が良い?」
「え、もう? 早いなァ。……諭吉君と加澄も誘って、四人で遊びに行きたい」
「いいな。何処に行きたいんだ?」
「んー……。今は何も浮かばないな」
「そうか。決まったら連絡してくれ」
「うん。解った」
それから、土産の
三年前より大所帯になったため外食する事は諦め、
そして、商店街に軒を連ねる初来店の武蔵雑貨店で、
「セーンキュ、猫ちゃん! いや~、善い目を持ってるね。
「
「そんな謙遜しなくて良いって! この地区では
帽子に簡略化された
彼の発言から、
考えを中断するように、また魔力持ちを示す鈴が鳴って来客を知らせる。
今度は、店主の武蔵より薄い褐色の肌を持ち、白髪にターバンを巻き、金の耳飾りを付けた
「カリームさん。ここに来るなんて珍しいですね」
「お! 中也じゃないか。龍之介も此処で買い物か?」
「はい」
「あれ? 銀は?」
「魔力があるとかで、あの扉の向こうに行きました」
「へー、良かったな。じゃあ、今度、髪を一房でも三つ編みにしたほうが良い。アミュレットになるからさ」
「アミュレット?」
「うーん……。日本語だと、護符って意味だ。エネルギーの結束とか、魂の保護になるんだぜ」
「そうですか。
「銀だけじゃなくて、龍之介と中也も試しにやってみたらどうだ?」
「え? 俺、男ですよ」
「それを言うなら、金ピカの鬼ちゃんも同じだろうに。とにかく、彼の言う通りにしたほうが
「ほら! 店主の武蔵さんも言ってるから、ちゃちゃっとやろうぜ。あそこの椅子借りて、俺が結ってやるよ。ついでに髪留めも買ってやる」
「
「お、おう……。そうだな」
「こんにちは。俺は、カリーム・オスマンオール。カリームって呼んでくれ。……ところで、俺達、何処かで会った事あるよな?」
「
「おう!!」
差し出された手を見遣って握手を交わし、
「でも、俺の記憶違いか? 生え際に稲妻の切れ込みがある奴なんてそうそう居ないし、見覚えがあるんだけどなあ」
大きな独り言に聞こえない振りをして、然り気無く買い物を促し話を逸らした。
彼は籠目紋の御守りを購入後、笑顔を浮かべて嵐の如く去って行く。
背中を見送る俺に対して、二冊の分厚い本を抱えた
断る理由も無いので其れを受け取り、彼女の家の客間に再度座して開封すると、黒い石と緑の石の
「黒い石は、黒瑪瑙。戦いに赴く時の護符とか邪や魔から護る石。緑の石は、
「そうなのか。効能があるとは初めて聞いたな」
「あたしも今日初めて知ったよ。
「……ありがとう。大切にする」
勤務中は身に付けられず、霊的な物は全く信じてないがと胸中で付け加え、微笑む彼女を前に心苦しさを隠した。
男性用で購入したのか、体格がしっかりしている自分でも丁度良い着け心地で不快にならない。ジーショックの腕時計を一度外し、左手首に装着しても洒落っ気が足されるだけで、奇抜な印象は受けないので実用できそうだ。
それから駄菓子を摘まみつつ、富山の私物であるデスクトップパソコンでルーシーの為に先程の雑貨店で購入したと言う、ディズニー作品のアラジンを英語で視聴し、日本語字幕を追って詐欺師と一国の姫君の恋物語に没頭する。子供達は不慣れな言語に戸惑っており、表示されている漢字は小学二年生では未だ習っていないものもあったが、音楽と
映画を一本観終わって共に片付けに従事し、玄関先でお暇の準備を済ませた俺の眼前で、
「駅まで見送るよ」
「そうか。なら、お言葉に甘えよう」
「へへっ」
はにかんで出掛ける旨を留守番組に伝えて出掛け、石畳を踏んだ反響音の中を進み、最寄り駅を目指すも互いの間に会話は無い。だが、職業柄相手を観察してしまうもので、先程迄視線は俺の足元にやっていたが、今は俺の肩をじっと見ている。彼女の性格上、本当に言いたい事を吞み込み、相手を気遣って誤魔化す事は知っていた。
住民達専門の表門が見えてきた頃、尋問にならぬよう注意して、なるべく自然に聞こえるよう問い質す。
「
「うん。憑いてるけれど、大丈夫だよ。……源君。三つ聞いても良い?」
「構わんが、俺が答えられる範囲にしてくれると助かる」
「わかった。右頬の傷は大丈夫?」
「うん? 此れか。大丈夫だ。傷も塞がっているしな」
「そう。次はね、……ずっと、肩が重いなとか足取りが重いって感じた事ある?」
「……嗚呼。最近になって特にな」
「そう……。体は丈夫に見えても、疲れが溜まってる可能性もあるかな」
「そうかもしれん。次が最後の質問になるが、大丈夫か?」
「大丈夫だよ。最後は……、悪い人と縁があるよね。今も続いてるでしょう?」
「っ……」
それは質問という形をしているが、彼女の琥珀色の視線と表情は真剣其の物で、何かを確信しているのだと自分の直感が告げている。
「……何故判る?」
「昔から人じゃないモノが見えるんだ。お母様には他言無用だと言われたけれど、此処に彼女は居ないし、友達が危機なら話は別だよ。……人間の頭蓋骨に鼠の耳と体が合わさって、肩や足元を彷徨ってる状態だね。数も多いから、君と複数回会ってるのかな? まるで、君を死へ
死の鼠と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、国際指名手配犯である
「……そうか。原因が判って良かった。ありがとう。……その、なんだ。例え、母君や他人に疎まれる能力だとしても、視える目は
「! ……こちらこそ、信じてくれてありがとう。君にどんな事情があるか知らないし、無理して聞いたり詮索もしない。でも、いつかその人と縁が切れる事を祈っておくよ」
隣に寄り添って、励ます為にポンポンと背中を優しく叩かれ、その際にバキッと何かが割れる音と「ギッ」と苦悶の声が背後から聞こえてきた。そして、
「……早速御守りが効いたな。流石、
悪寒を気取られぬよう安堵した微笑みを作って、女友達を褒めて自信を付けさせ、自己肯定感を高める事を忘れず、他愛ない話をし
*
習志野駅で下車し、庁舎内にある独身寮に到着した頃、玄関先で一匹の灰色の猫が全身の毛を逆立てて威嚇する。
「シャーッ!!」
「おう、ちゃんと帰還したぞ。
澄んだ碧眼を持つ雄猫は、三年前の冬に庁舎内に迷い込んだのが切っ掛けで、白い首輪のみを装着して飼われている。
しかし、入隊以降自分に一向に懐く気配が無い。
猫を飼っていた経験から来る自信を打ち砕くには充分な衝撃だったが、慣れてしまえばこの子の個性だと受け入れていた。
床に片膝を付いて挨拶代わりに俺の指に鼻先を近付けるどころか、烏賊耳と尻尾を倍に膨らませて俺を警戒している。相も変わらずこんな態度を取られているのだが、今日は初めて足元に近づいて、何も無い床を猫パンチでバシバシと強めの攻撃を何度も繰り出ししていた。
──ずっと、肩が重いなとか足取りが重いって感じた事ある?
──昔から人じゃないモノが見えるんだ。
──人間の頭蓋骨に鼠の耳と体が合わさって、肩や足元を彷徨ってる状態。数も多いから君と複数回会ってるのかな? まるで、君を死へ
「お、わッ……! 痛ッ!」
「……ありがとうな。
「ふなー」
ピンと尻尾を真っ直ぐ立てて上機嫌で鳴いた雄猫の頭部を、左手でくしゃりと