秋学期の講義開始日が明後日に迫った夕方。
九人分の夕食を作り終えて食べさせ、鼻歌まじりに片付けを済ませてから、自分にとっては昨年の冬が初対面の、軍学校に通っている
対面で無いのが実に惜しい。この世界には、可愛い子が多過ぎる。尊い。生きてて良かった。
「龍之介。
「珍しいですね。……何か善い事でもあったんですか?」
「うん。
「酔っぱらってンですか?」
「中也、酷くない? 吞んでないから。
「それにしては、やけに感情駄々洩れですね」
「子供達とちゃんと向き合って話し合えるのが嬉しいからね。秩父の家では、母と
「
「そうだね」
過去の記憶に臆したり動揺せずに、淡々と返答する。
中也の指摘通り、母は布団の上で流血した状態で発見されたが外傷は見付からず、検視の結果、内部にのみ全身に渡って複数の刺傷が確認された。
異能力者の関係が疑われたが、秋月家は予知が
軍事機密で、あたしは異能力者ではないと捜査から除外されたが、身内として事情聴取を受けた記憶がある。
その頃は
これらの証拠から、お母様が殺害された時間に自分が犯行に及ぶ事は不可能だと判断し、
結局、神様の怒りに触れたとして、犯人不明の
(岡っ引き相手にああは言ったが、
南天様があっさり犯行を認めたのは、事情聴取を終えた数十分後だった。
秩父駅から羽生方面に向かう駅の乗降場の席で、遅めの昼餉を摂っている最中に告げられ、割り箸で摘まんだロース豚カツを口に運ぶ手が止まった。
三ヵ月経てば独り言を呟く事無く、別人格と会話が出来るようになったものの、他者から見ればボーっとしていると映るらしい。
(善くも悪くも、参拝者の願いを聞くのが御祭神の仕事であろう?
素顔を隠した面布の向こうで得意顔になっている守護神の所業に対し、神たる
物思いに沈んだ後、厭な予感がした。
この予知にも似た感覚は幼少期からあったが、ずっと精々人より勘が鋭いだけだと思っていた。然し、最近になって
その内容は、数時間後に男友達──福地源一郎が桟橋で寝過ごして、上官に怒られるというものだった。
「悪い予知を止めに行ってくる。説教は帰ってから聞くよ。ごめんなさい、行ってきます!」
そう告げて急遽彼らに留守番を任せる次いでに、子供達だけに留守を任せる自分を諌める紅葉に口約束を取り付けて、自室から薄手のパーカーと紫のスリングバッグを引っ掴み、電子交通カードのスイカ片手に港南台駅で乗車し、慌ただしく関内駅で降りる。
映像で見た景色──赤
目星を付けていた場所である横浜港大桟橋国際客船ターミナルに到着し、息を整える時間を設けない
周囲を見渡しつつ探し続け、三階に位置する大桟橋の屋上広場『くじらのせなか』に繋がる
ある程度強度がある桟橋の防護柵に身を乗り出す形で、体を内側に折り曲げるように友人が引っかかっていた。もし、芝生を挟んだもう一つ先にある柵に今の状況で居たら、確実に海に転落して溺死していた事だろう。
海の
「うぅ……」
「……よっと」
意識がある事を確認して、両脚で踏ん張り、横から半身を乗り出して胸部に片腕で支え、もう片方の腕で襟首を掴んで一気に引き寄せる形で如何にか助け起こす。そのまま後ろから両脇へ腕を通し、体格と体重差の関係上、彼の踵が木製の床に付いて引き
そして、地上から数階分高い此の場所では吹き付ける夜風も強く、いくら秋口に差し掛かったとはいえ、反射的にぶるりと身震いしてしまう。そうして『寒い』と理由をつけて突き放し、如何でも良いと感じている相手なら、放置する事は残念ながら可能だ。しかし、自分は源君相手にそう感じず、薄情ではないから、床に片膝を突けて彼の両肩を両手で押さえ、力を込めて支えて正面から向き合う。
「こんばんは、源君。かなり吞んでるね」
「……
「うん。君の幼馴染の、
「……福沢と、道を違えた」
「え。喧嘩別れでもした?」
「
「……。一緒に軍警で働きたかった?」
「
「……同じ道を歩めないのは、辛いし、寂しいね」
「……」
果たして、彼の気持ちを辛いや寂しいの一言で済ませ、更に代弁して良いのか悩ましいところだが、今は彼を独りにするほうが問題だ。
「……これから、君は如何したい?」
「……」
「解る迄付き合うよ。君を独りにしたくはないから」
酔いが醒める迄、
すると、少しでも楽な姿勢になろうと彼が肩に頭を乗せて寄り掛かってきた。
仕事の疲れか精神的疲労からか定かではないが、誰にでも甘えたい時はある。彼にとって今がその時で、そうしたい相手が
そう解釈した矢先に、彼が口を開いた。しかし、声に
「……付き合うなら、地獄でも
「
「っ……」
ぎりっ、と奥歯を嚙み締める音がしたが、聞こえない振りをする。
「駄目だ。
「構わないけれど、それじゃァ、君が独りで死にに行くように聞こえるよ。……理由を聞かせて貰っても善い?」
「……」
「……?」
顔を覗き込むと、彼の形の良い唇が一文字に固く結ばれ、理由を告げる事を拒否していた。
視線を外した京藤色の瞳は、今迄見た事の無い憂いの色を映している。
それを目の当たりにして、無理に聞き出そうとも問い詰めようとも思わない。辛い事は口に出し辛いと経験しているからだ。
「今は黙しても大丈夫。話したい時に伝えて欲しい」
「……すまん」
「気にしないで。誰にだって話したくない時があるもの。気分転換に、これから二人で何処に行こうか? ……嗚呼。でも、もう深夜になったから、君を寮に送らなければいけないね」
「……寮に、帰りたくない」
「どうして?」
「……」
「……帰りたくないなら、何処に行きたい?」
「……
「あたしは構わないけれど、源君は明日仕事なの?」
「休みだ」
「その言葉、信じよう。善は急げだ。他にやりたい事があったら、道中でもどんどん言って頂戴。……身体に触れるけれど、加減が悪くなったら直ぐに伝えてね。御手洗に直行するから」
「……嗚呼」
彼の片腕を自分の首の後ろに回し、自分の片腕を彼の背中に添え、相手の体調に合わせてゆるりと立ち上がる。
自身の影を経由して、軍人の人格──秋月に
体重差及び体格差から幾度もよろめき、幼馴染を半ば引き摺る形で帰路に就く中、
降車の数十分迄、彼の側頭部に手を回して自分の肩に乗せて眠らせ、写真に彼の顔が映らないように自分の帽子を被せる次いでに、名も知らぬ一般人の撮影者に対して睥睨しておくのも忘れない。
降車前に『降りるよ』と一言耳元で囁き、停車を機にヨタヨタと彼を支えて立ち上がり、乗降場と電車の隙間で躓かないよう力を入れる。其処から改札を通過して徒歩で帰宅し、住民用玄関の式台に座らせたは善いが、此の酔っ払いは取次に横たわり、床の冷たさから身
腕時計と確認すれば、あと十分で日付が変わる。
溜息をつきたい気持ちをぐっと堪え、もう一踏ん張りだと自分を鼓舞して話しかける。
「……。源君、シャワー浴びられる?」
「風呂に入る……」
「溺死するから駄目だね」
「風呂が善い。君が手ずから殺してくれるなら、俺は幸せ者だ」
「っ!」
呆れて口頭で注意したが、彼の朗笑を前にして靴を脱がせようとした手が止まり、自分の意志とは正反対に言葉と息が詰まる。
一時間前の地獄
男友達の一人が死を望んでいると確信した。
しかも、女友達であるあたしの手にかかる事に喜々としている。
「……」
震える自分の指先を呆然と眺め
PTSD。
死んでは駄目。
綺麗事より寄り添う事が最優先。
否定するな。
希死念慮。
自分が知らない右頬の傷。
笑顔の仮面。
原因は
戦場。
陸軍少佐。
拷問。
女子供も自ら手にかけた。
少佐よりも上の命令。
絶望。
失望。
生きようと微塵も思っていない。
唇を噛んで一旦思案を頭の隅に追いやり、彼を不安にさせないよう笑顔を貼り付ける。
昔からお母様の顔色を伺ってきたお陰で、表情を偽るのは得意だ。大丈夫。問題ない。
「その件は考えさせてね。ほら、風呂場に直行するよ。立てる?」
「んー……」
見慣れない軍靴を脱がせるのに手間取り、酒の抜けきらない彼に肩を貸して玄関を左折して、狭苦しい洗面脱衣所の床に座らせかけた矢先、彼が吐き気を催した。慌てて洗面台の栓を抜いて吐かせ、窒息死を避ける為に襟元の留め具を外して緩めてやる。大丈夫だと言い聞かせる最中、彼の広い背を
未だ思考が明瞭になっていないのか動きが緩慢で、彼が手袋を着けた儘という事もあり、口元を水で洗い流した後、綺麗な
手袋と詰襟、ドレスシャツ迄は順調だった。だが、ドレスシャツの下にある半袖ティーシャツから見えた逞しい腕に視線が釘付けになってしまう。
彼が男友達だと、男性だと頭では解っていた。
けれど、こうして間近に見ては否が応でも異性として意識してしまう。
このままでは駄目だと感じて、ばちんと自分の頬を両手で叩き、
「……失礼。脱がせるから、万歳してくれる?」
為すべき事を為す為にティーシャツの裾に親指を掛け、一気に押し上げる。
「っ……!」
当然、鍛え上げられた胸筋や腹筋が在るのだが、それらを再度至近距離で目撃して、ひゅっ、と息が詰まるのを自覚する。折角平常心を取り戻したというのに、振り出しに戻ってしまった。
「……
「すみません風呂ですね直ぐにお入れ致します」
慌てる余り敬語になっているとは知らず、息継ぎも無しに言い終えて、肩口に引っ掛かっている上半身最後の砦であるティーシャツを脱がす。そうして、やっと終わったと安心するのも束の間、問題の下半身が残っている事態に顔面蒼白になった。
いくら男友達とはいえ、これは許されない。最悪、双方のお家問題に迄発展する。かと言って、今の時間、同居人の男性陣を起こしている間に窒息死すれば友達を失ってしまう。
独り洗面脱衣所で苦悩している最中、頭の中で声が響いた。
──
(
それは、自分の中の唯一の男性の別人格──
名前に関しては、本人が『長いから』と言ったので、多少短くして
がしがしと短い金髪を乱暴に掻き、眠そうな金に近い琥珀の瞳で光の柱の外からあたしを見遣る。
──今、
(源君が酔っ払って、自宅に行きたいだの風呂に入りたいだのと言い出し、自宅の洗面脱衣所で服を上だけ脱がせた)
──
(違う。放置したら海に転落して溺死し兼ねなかったからで、保護したんだ)
──物は言いようだな。
主人格である自分をせせら笑い、顎に手をやって何故か感心されたが、お門違いも善いところだ。
現実世界での姿勢から彼を見上げる形で睥睨し、
──解った。
(シャワーだけで済ませて。それ以外の事はしないで頂戴)
──それ以外って、飲んだくれが自分で身体洗えるとでも思ってンのか? 次いでに着替えも済ませとく。
(……)
──真顔になるなよ。俺の恋愛対象は女性だから、野郎相手に変な気は起こさねェっての。……あー。でも、光の柱の中では俺は女の体になるし、
(やってみなさい。分家とはいえ、あたしが
──お堅いねェ。家柄関係無く付き合えば善いじゃねェか。んじゃ、代わろうや。
(血筋を守る為には必要な事だ。……議論は明日にしよう)
──へいへい。
話を切り上げて議論を避けた
此処からでは、彼と源君の会話や音が聞こえ、
《おら、
《……?
《おう。俺は
《……男性と思う程声が低く、粗野だからな。……そうか。君が唯一の男の人格か。軍人の秋月から手紙で報告は受けている》
《そうか》
初めて光の柱から
楽の人格である菜の花が体験した全てを引き継いだ自分が彼を鍛えれば、光の柱に立つ機会も増えて誰かしらに受け入れて貰える可能性がある。試しに、ニコニコ動画で
『
『……嗚呼、解った。ありがとう、
考えこんでいるうちに、源君の入浴を済ませ終えた
「お帰りなさい、
「大丈夫だよ。ただいま、
「いえ。俺の異能力が引き延ばされた妙な感覚で、貴女が困ると予知しましたので」
「そう。助かったよ。こんな時間に起こして御免ね」
「俺は構いません。福地さんの嘔吐に備えて、
「お願い」
今年十七歳になる彼は、無表情で必要物品の確認と指示を交わし、それらを受け取った後、自室がある二階に向かって踵を返した。
辺りを見渡すと、左手にある勝手口に繋がる引き戸が開けられており、体感で先程迄籠っていた吐瀉物の臭いが幾らか軽減されている。胸中で再度赤毛の少年に礼を述べてから、手元に持っているヘッドバンドを
「……源君、未だ眠るのは早いよ。お布団敷くから、もう少し起きていてくれると助かるのだけれど」
「ん……。解った」
洗面脱衣所を左折し、八畳の自室の入口付近に彼を座らせて押し入れから来客用と自分の布団を出していく。
彼の枕元に
*
結局、彼の介抱で明け方迄嘔吐の兆候の度に飛び起きて対応に追われ、眠りが浅いままポリ袋の処理後にしっかり手洗いとうがいを済ませてから、昨夜洗濯を終えた物を友人の分も含めて全て干していく。そして、入浴出来なかった代わりにシャワーを浴び、着替えた後に前掛けを着けて朝餉を作っている。
一晩経っても幼馴染の悩みを解決するに至らず、下唇を噛むぐらいしか自分を戒める事が出来ない。
戦争が幼馴染の性格や将来を変えたなら、見守る事しか側に居られない。
自室に入る迄、彼の足元や肩に骸骨鼠が視えていた。
彼が死を望む理由も解らないが、精神的に追い詰められているのは確実だ。
『ご馳走様でした
「お粗末様でした。嗚呼、お銀。髪に寝癖が付いてるよ。洗面所で直しておいで」
「はい……」
冷蔵庫の上に置いている置き時計は、七時半を過ぎている。
駐屯地は何処も八時十五分から勤務時間が開始されるが、平日の朝に幼馴染が自宅に居る現状に慣れていない。そもそも今回が初めてなのだから、致し方無い面もある。
先月には小学校の夏休みが終わり、子供達は日常へ戻っていた。言葉の壁の問題で中区のサンモール・
同居人とは別に、出汁巻き卵も含めて源君の為に
軽く息を吐いて板張りの床に正座し、すっと作法に基づいて静かに襖を開けると、状況把握が出来ていない寝惚け眼の幼馴染が上半身を起こし、抱き枕を片腕で抱き締めた状態で起床していた。
「あ。おはよう、源君。朝餉もうすぐ出来るから、お顔洗ってきてくれる?」
「……嗚呼、お
「……?」
「俺は、君に変な事をしてないか……?」
寝癖が付いている白髪をそのままに、血の気が引いた顔で尋ねてくる様子に微笑を浮かべて即答する。
「してないよ。安心して」
「なら、変な事を言ったりは……」
「それも問題ないね。仮にあったとしても言えないよ」
「何故だ」
「ごめんなさい。問い詰められる時間は無いの。君の為に朝餉を作っているから、直ぐ戻らなきゃ」
「待て。
「君が横浜大桟橋の柵に引っ掛かっていたから。君を支えて帰宅したのが、日付が変わる十分前。同居人を起こすには遅過ぎる時間帯だったから、あたしの部屋に寝かせたんだ。途中、
「有りません……」
「そう。じゃあ、此処を出た先の扉が御手洗。その隣の引き戸が、洗面脱衣所。突き当たりが台所だから、終わったら自分の朝餉を取りに来てね」
「嗚呼……。解った」
のそのそと抱き枕を逞しい腕で抱き締めた儘、見知った間取りを頼りに洗面所に行くかと思いきや、普段の来客側とは違うので自室前で突っ立っていた。
大丈夫かと心配になったものの、口頭で説明したし、昨夜発した休みという言葉を信じているので口出しはせず、抱き枕を離さない様子が可愛く映って胸がきゅっと締め付けられる感覚にある言葉が浮かぶ。
ギャップ萌え。
納得して腑に落ち、幼馴染の一面に陥落する人が多いだろうという考えに至り、彼の事を末恐ろしく感じた。
台所を向かうと、けほ、と軽い咳をする中也の背を
五ヵ月前に十二歳を迎えた事を機に声変わりを経ているので、念の為、喉を傷めないよう声を出し過ぎず、飴を舐めるよう言ってある。
「中也、火の番ありがとう。代わるよ。喉の調子は如何?」
「大丈夫です。蜂蜜檸檬の飴を舐めたので。……さっき、源おじさんの声がしたけど、悪い予知は止められましたか?」
「うん? そうだね。お陰様で」
「良かったです」
「うん。龍も、もう大丈夫だから着替えておいで」
「はい」
食器棚から食器を取り出して大人達の朝餉の用意を済ませ、子供達を表門の前迄見送ってから『頂きます』と手を合わせた矢先に、
「ごめん下さい」
と来客用玄関の方向に声が聞こえたので、そこを開けると、幼い頃の面影がある実弟が立っていた。
「お早うございます。お姉様」
「お早う……。
思い掛けない来客を前に、貼り付けた笑顔が固まるのを自覚した。