補講後に女子寮に戻って化粧直しと他の服に着替える時間も無く、二限目が終わってから速攻で伊勢市駅に行かなければならない。
授業終わりに自分の席から立ち上がるや否や、同級生の栗原君が此方を向いて声を掛けてきた。
苗字が変わった事は教授が呼んだ事で生徒達に既に知れ渡っているので、「春日さん」と呼ばれた後に唇が何かを告げようとして
「こ、この後、一緒に昼飯とかどう?」
「ごめん、栗原君。先約があるから、また今度ね」
「何? 男?」
「
「行ってらっしゃ~い」
「行って来ます」
背後で「残念だったな」と栗原君を励ます
横浜駅に着く迄に駅弁の松坂牛よくばり弁当と天然水を腹に収め、何度もコンパクトに嵌められた小さな鏡で化粧崩れを起こしていないか確認をした。
改札を抜けてからは、源君には可愛い女性が居るし、あたしがお洒落したところで
彼が乗車している電車が来るまで、あと一二分。
細いボールペンの芯を出して走らせようにも、一文字も書き起こせない
ふと思い出すのは幼馴染の現状で、フョードルとの繋がりが気になっている。優しい彼が悪事に手を染める
そんな推測から、慎重に言葉を選んで書いていく。
世界欺く揺るぎない正義
フョードルの薄ら笑いが脳裏に浮かび、彼を噓
書きたい言葉のみを連ねて、細かい点は後で赤ペンで加えようと後回しにし、方眼紙のメモ帳と入れ替えて常備しているコクヨの青い五線譜ノートを取り出しかけた時、
「すまん、
「っ! う、ううん。そんなに待ってないよ」
「作業中だったか?」
「大丈夫。これ以上したら煮詰まってたと思うから、源君が来て丁度良かったの」
「そうか」
「あ。お仕事お疲れ様」
「
「っ。では、ご厚意に甘えさせて頂きます」
ペンをリュックのポケットに差し込んで、ジッパーでファスナーを閉じ、背負い直して幼馴染の隣を歩き出す。
夜の横浜は、彼が酔っぱらった時しか知らない。
いつもはお昼近くの明るい時間帯に会うから、
「
「うん。都合が合えば、近くの居酒屋でね。女性同士だから、話が弾むよ」
「合コンに参加したりは?」
「いや。不祥事に繋がる可能性があるから、全部断ってる。でも、今日は昼餉に誘われたなー」
「男か?」
「そうだけど……、顔怖いよ。源君」
「っ。すまん」
「気にしないで。君は結構飲めるほう?」
「そうだな。成人した途端、部隊の飲み会で散々鍛えられた。
「じゃあ、いつか四人で呑みたいな」
「ふむ……。来月の君の生誕日にするか。丁度
「賛成。
級友と同じ事を尋ねる点が気になりつつ、近況も交え
目的地の赤煉瓦倉庫に到着し、二号館三階のビアネクストに着いたかと思うと、晴れている為、店員の一人にバルコニー席へ案内される。
活気ある店内からビアホールの業態かと推測しつつ、着席して世間話をしていたら源君が予約し、事前にラインで苦手な食材を尋ねられ、それらを含まない食べ放題と飲み放題付の料理を選んだと聞いていたが食前酒が運べるらしい。これに加えて、好きな物を食べて
「酒は
「今夜はノンアルにするよ」
「そうか。
「……。すみません。ジンジャーエールが入っているカクテルはどれですか?」
「あ、はい。記載されている物ですと、シャーリーテンプルとサラトガクーラーになります」
「ありがとうございます。最初は
「嗚呼。エビス生
「畏まりました。ヱビス生ビールと、サッポロプレミアムアルコールフリーをひとつずつですね。少々お待ち下さいませ」
『はい』
店員が注文を復唱し、届いた
一口含んでから、改めてノンアルコールを作って下さった方々に感謝する。こうして酒場の雰囲気を壊す事無く溶け込めるのだから、一生頭が上がらない。
瓶
コース料理なんて聞いてない。
あと、微笑むな。惚れる。少しは自分の面と声の良さを自覚しろ。イケオジめ。いや。四十代になってないから、未だおじさんではないか。……口髭を剃ったらどうなるかな。無くても十分格好良いよね。元が二枚目だし。
思考が脇道に逸れ、言葉の羅列を喉元で飲み込み、
「っ……。頂きます」
「頂きます」
正直に白状すると、遅れてやってきた緊張感から味が朧気になっていく。
店内から外へ照らす暖かい橙色の照明で、夜であっても彼の表情が判り、笑顔が可愛いなとか顔色が変わらないからお酒に強いのだなとか、新しい一面を知っては心臓が忙しなく高鳴るばかりで落ち着かない。
彼の職業柄、相手の事によく気が付き、安心させるように気遣いの言葉をかけている。中也達と接する場面でも、視線を合わせるために服が汚れるのも構わず自ら進んで片膝をつき、一人一人の話に傾聴してくれる。その姿が母方祖父母やお父様と重なり、愛情を示しているのだと
自分も同じようにしている筈だが、きちんと子供達に向き合っているという達成感より、ほぼ放置している現状から罪悪感が勝っている。同居人や幼馴染に世話を任せ、自分は遠い土地で通学しているなど、仕事人間の亡き母の二の舞を演じているに過ぎない最低な育て親だ。何が『あたしは母とは違う』だ。
自身に対する苛立ちからコールドハムと
「おお。
「そう、かな?」
「嗚呼。……悩みでもあるのか?」
「……ちょっとだけ、自己嫌悪に陥ってたの」
「そうか。俺で善ければ話を聞くぞ」
「ありがとう」
思い返せば、小中学生の時にもこうして親身になって悩みを聞く姿勢を見せてくれていた。
当時は精神的に余裕が無く、記憶の空白が頻繫に起きており、何が起きているのか理解出来ずに、只「大丈夫だよ」と返すしかなかった。
「あたしは、源君とこうして食事を取ったり、遊びに来てくれる事が嬉しくて楽しいって思ってる。だけど、子供達を家に残して遊んでる自分が嫌になるの。……母と同じ事を、育児放棄してると考えてしまうんだ」
「……成程。
「秋月は兎も角、あたしに?」
何かしただろうかと記憶を辿ってみるも、感謝されるような事は特にしていない。
独り疑問符を浮かべる中、彼は
「今年の五月頃に、子供達から手紙を貰っていないか? 寮に送ったと聞いたんだが」
「……あ」
授業参観に保護者として行けない代わりに、何故か母の日に合わせて複数の手紙を受け取っていた。
銀は、普通の親のように膝に乗せて読み聞かせをしてくれた事や、部屋掃除を褒めてくれた事。
龍之介は、料理の作り方や、刀の手入れを教えてくれた事。手入れが切っ掛けで、骨董品が好きになった事。
中也は、庭掃除の出来や、習い事のギターとピアノの腕を褒められた事。
ルーシーは、片言の日本語で挨拶して通じ、抑揚が可笑しくても馬鹿にせず褒められたのが嬉しかった事や、神隠しに遭った自分がこれから日本に住む為に、
貧民街や孤児院で育った為、大人に守られない上に称賛された事が一度も無く、家に置いてくれた秋月だけでなく、具体的に褒めて自分という存在を見てくれる燈さんが居てくれる事が嬉しいと拙い文字で綴られていた。
源君が
「……。あたし、ちゃんとあの子達の母親代わりになれてるのかな?」
「俺から言わせてみれば、あの子達の安心しきった顔と、君自身に懐いている様子を
「っ……」
子供達の手紙に綴られていた事で感謝されるとは想定外だった。
そんな事でいいのかと疑問に思っていたのは、自分が母親に一切されなかったもので褒められもしなかったからだ。自分が彼らを褒めたり時間を作っているのは、幼かった時に本当は母に褒めて貰いたかったと、一緒に親子として過ごして欲しかったのだと理解する。同時に、女性としては高身長で声も低い部類で劣等感しか無く、自己肯定感が低い自分に誰かが味方になって欲しかったと心の悲鳴をあげ続けていたと、数十年経って遅蒔きながら気付いた。
目頭が熱くなるのを感じて
「っ……。ありがとうっ、源君」
感謝の言葉をどうにか絞り出して伝える。
涙が零れ落ちる前にジーンズの
パンの盛り合わせとビーフシチューに舌鼓を打ち、気持ちが落ち着いてコース料理も残り一品になったところで、ワイングラスを空にした幼馴染が問う。酔いが回ってきたのだろうか。顔にほんのり赤みが差している。
「今日は慌てていたのか?」
「そうだね。それが
「
「あー……。あれは
家に置いているのは本当だが、彼に好いた人が居ると知って以降、何故か着ける気にならない。
幼い頃から身に着ける事が多くなった淡い紫色は、不思議と自分を落ち着かせてくれる。紫水晶が嵌められた装飾品が眼前にあるというのに、身に着ける事を渋った。理由は解らないが、無性に遠ざけたくなり、一層の事宝石箱ごと
「そうか。似合っていたんだがな」
「え、あ、ありがとう……」
突然の褒め言葉に動揺して、二枚目の微笑みを
無自覚イケメン怖い。笑顔だけで人殺せるよ。イケメンは遠くから見るに限るのに、なんで近くに居るかな。……あたしの幼馴染だからだわ。誰か助けて。
自分でツッコミを入れて、
その時、最後の一品を店員が
「どういたしまして。腹ごなしに公園まで歩かないか?」
「うん。
行きよりも歩調は緩く、急いでいたのは予約時間に遅れないようにする為だったのかと気付く。
火照った身体を冷ますように横浜湾の風を受け、それに身を任せつつ山下公園に近付くにつれ、奇妙な既視感に陥った。
前も、この道を歩いた気がする。
最後にあの公園に行ったのは
街灯は灯っていなくて静かではなかったし、辺りが眩しかったから朝か昼の時間帯だ。
隣を歩いていたのは、こんなに背の高い人ではなかった。
精神世界の自分の部屋に引き
温かな街灯に照らされた公園に設置されている
中学の卒業旅行で最後に寄った場所。
母方の大叔父──秋月
そこで抵抗した覚えがあるが、何故だろう。
ジーンズの
幼馴染のお陰で、朧気な記憶が徐々に鮮明になっていく。
抵抗したのは、交わした約束を果たせなくなると思ったからだ。
十九年前の小さな口約束を。
「……具合でも悪くなったのか?」
「大丈夫。
「差し支えなければ聞いても?」
「勿論。……中学生の時に交わした約束を果たせなくて、横浜のお土産を買えなくて御免なさい」
「っ……。土産など
言葉に詰まった際、僅かに彼の手が動き、拳を作って元の位置に戻ったのを見て見ぬ振りをして、肩をすくめて譲れない気持ちを表に出す。
「それでも、ずっと言いたかった事なんだ」
「そうか。……おかえり。
「ただいま。源君」
胸中に巣食っていた疑問と心残りが解け、
「
「うん。その前に飲み物買ってくるね。何か欲しい物ある?」
「水で大丈夫だ。嗚呼、俺も行こう。公共施設といえど、こう暗くては危ないからな。暴漢に襲われる可能性がある」
「? その時は、異能力で相手を燃やすか、短刀で刺すよ」
「……。心意気は素晴らしいが、本気で襲われれば一溜まりもなかろう」
「そうだろうけど、あたしなんか襲って何になるの。狙うならこんな高身長より、平均的な背丈の可愛い女性でしょう」
自虐的な笑みが自然と出て、自信の無さから無意識に視線を逸らす。
歩むのを再開しようとした瞬間、「何故……」と珍しく後の言葉が続かない友人の声を耳にして、ふと彼を見上げた。大柄な幼馴染は口を一文字に結び、眉間に皺を作って悲しげにあたしを真っ直ぐ見つめ返す様子に、何か気を悪くさせただろうかと焦る。
「……
「何故、そう自分を卑下する。誰かに揶揄されたか? 味方になる者は居なかったのか?」
味方と言われて、小中学時代を通して友達が余り出来なかった事を思い出した。
一部仲が良かった女友達の実家も連絡先も知っているが、表面上の付き合いで
「居なかったね。級友とか母にも揶揄され続けて、自分が女性扱いされる姿とか、誰かと恋仲になる期待が抱けないの」
「……そうか。君に正当な評価をしなかった連中が、自信を失わせたのだな」
笑顔を浮かべていても言葉に怒気を孕んでいれば、無意識に息を呑み身体が硬直してしまう。
現役軍警が相手の状況を見落とす筈も無く、落ち着かせて慰めるように酷く優しい声音で語りかけられた。
「辛かっただろう。よく頑張った」
「ありがとう……」
「高身長だから
「ん?」
今の台詞は、自分の聞き間違いだろうか。
美人で可愛いと言われた気がしたがお世辞だと解釈しつつ、
「お世辞、だよね?」
「俺はそこまで器用じゃないぞ。社交辞令でもないからな」
「じゃあ、本音……?」
「当然だ」
何か問題でもあるのかと言いたげに少し首を傾げる仕草が可愛く見えて、危うく蛙が潰されたような声が出る所だった。だが、劣等感から来る疑念が沸き上がり、口を衝いて出てくる。
「他の好きな人に言ってない?」
「
「……?」
受け取った情報を上手く処理出来ずに、
彼が好きな人は、彼より背が低くて美人で可愛い。
彼の今後を考えると、ここは忠告したほうが吉だろう。
「褒めてくれてありがとう。そうだとしても、他の方に美人だの可愛いだの言ったら駄目だよ。自分に気があると勘違いするのだからね」
「解った。肝に銘じておく」
結構真面目な顔で告げた
自宅に遊びに来てふとした時に視線が合った時、
「自販機の前まで、手を繋いでいても
「……い、
胸中で転倒したら危ないからと尤もらしい理由を付けて、幼稚園以来初めて手を繋ぎ、普段とは違う言動が目立つ男友達に調子が狂う。係留されている氷川丸近辺に在る自販機まで五分程の道のりを歩けばいいと気軽に考えていたが、お互い成長した事もあり、今はあたしの手を包める程大きく骨ばっていて、再度異性なのだと強く意識させられた。
そこに辿り着くまで無言で歩き、傍目から見れば、繋ぎ方が違うだけで間隔を空けて
記憶を頼りに屋根付きの自販機に到着早々、これ幸いとスリングバッグの帯をずらして長財布を取り出そうにも、片手ではファスナーを開けるにも一苦労で、ぞれを察したのか握られていたするりと片手が離された。
「げ、源君は水だよね。あたしもそれにしようかな」
「アイスもあるぞ」
「甘味は、さっきのチーズダンジュで十分だよ。これ以上糖分摂ったら、モデルに有るまじき体型になるからね。……はい、どうぞ」
「ありがとう」
笑いながら硬貨を投入して二本分購入し、取り出し口から受け取って先に彼に渡すと、お礼と共に受け取ってくれた。
そこから空いている
ペットボトルの水を飲み終わる頃には二十一時を過ぎており、自然とお開きになった。
「送ってくれてありがとう。源君も帰り道気をつけてね」
「嗚呼。
彼の姿が見えなくなるまで見届けたは
*
翌日の夜に、一本の電話が掛かってきた。
相手は源君で、興味本位で調べた軍の一日の過ごし方から、この時間帯は自由時間だと確信する。子供達と居間でお喋りをしていたが、そこを出て自室に繋がる廊下で通話
「はい。春日です」
『福地です。今、時間大丈夫か?』
「うん。自室に移動したから、大丈夫だよ」
『すまんな』
酔いが
「
数秒間の沈黙の後、電話口から恐らく安堵の溜息が出た。
『そうか……。善かった』
「握り返した事も覚えてない?」
『
「残念ながら
本人としては此れも酒の失敗に値し、二度目でも謝罪したのだろう。
だからこそ、親切心からこう提案した。
「じゃあ、今度は
『は!?』
「え。君が
彼の反応から
拒絶や否定からくる胸の痛みなど慣れているが、出過ぎた事をして自信を無くすには充分だ。
『……
「無理してない?」
『してない。大丈夫だ。努力する』
「えらく早口だね。何か隠している事でもあるの?」
『っ……。嗚呼。今は言えない』
「そう。その時まで待ってるね」
『おう』
口では安堵させる言葉を告げていても、内心は不安が募っている。
この電話が掛かってくるまで、家事の合間に昨夜の状況を
「話は変わるけれど、昨夜は、あたしの悩みを聞いてくれてありがとう。お陰で自信が持てたよ」
『そうか。
「解った。源君も……、
『……』
危うく、源君も言える範囲で愚痴や弱音を吐いてね、と言い掛けて
自分の意見を押し付ける形に聞こえて、
十数秒程待っても返答が無く、何か間違った事を言ったのだろうかと不安になり、
『
「そうなんだ。……あれ? 諭吉君は?」
『
「お酒持参で?」
『当然だ。酒が無くては始まらん』
「へェ。源君が好きなお酒は何?」
『日本酒だな。大暴君を愛飲している。急に好みを聞いてきて
「そうね。でも、把握してるのは何月かだけでしょう。これじゃ、幼稚園の頃を変わらない。大切な男友達の事を、もっと知りたいんだ」
『俺も、今度会えたなら、
「解った。ちゃんと思い出せるといいけれど」
好きな食べ物を尋ね、冬休みまでに用意出来るが頭の中で費用を計算する。
駐屯地の外での飲酒は先日の一件で可能だと立証されている為、冬休みは自分が彼の所に行こうと決意したのも束の間、肝心の勤務する駐屯地を知らないと思い至った。
もっと話したいと感じても、卓上型時計が無常にもそろそろ入浴しろと知らせているせいで、心を鬼にして会話を切り上げる。
「……じゃあ、再来週会えるのを楽しみにしてるよ」
『俺も心待ちにしている。……お休み。
「お休みなさい。源君」
相手の通話が切れた事を確認して携帯電話を折り畳むも、喜びの余韻に浸った末、ルーシーに呼ばれるまで二十分ほど文机に突っ伏していた。
作品コード:711-6832-0
挿入歌は、ハニーワークスさんのアイのシナリオです。
この歌詞は福地さんの状況に合致するのでは? と思い、拝借致しました。