十月初旬の土曜日。
予知の異能力で三日前に寮長に外泊届を提出したお陰で、早朝五時に女子寮を出発して横浜に帰省すると、龍と中也が視線で『何故帰って来た』と訴えている。昨夜、『銀さんが風邪をひいた』と
「龍。銀の具合は
「……体が熱くて咳が止まらず、食欲も無かったです。……
「あー……。来られないんだって。お大事にって言ってたから、後で
「はい……」
紅葉がグループラインで森一族の本家が経営する診療所で順番待ちだと知り、
そして、気持ちを切り替えて、付喪神も含め同居人全員に感染防止の為にマスクを二重に着用するよう伝え、銀の寝巻を洗濯機に掛けて布団を干した後に、芥川兄妹の叔父から預かっている母子手帳で彼女の病歴を調べていった。幸い、兄妹共に乳児期から幼児期に受けるべき予防接種をしており、貧民街で拾われた事もあって新たな病気にかかりませんようにと居間の神棚に願っておく。
週末だから患者も多いと踏まえ、事前に銀に食べたい物を紅葉の個人ラインで尋ねて、来客用の棟に設置されている台所でお粥を中心とした昼食に向け、病人の胃腸に優しい献立を妹思いの龍之介と一緒に決めていった。
「銀の具合が悪くなったのは、この家に来てから初めて?」
「いいえ。
「……知らせなかった理由を教えてくれる?」
タブレット端末をつつく小さく細い指と材料や作り方を鉛筆で書き取る手が止まり、薄い唇が一文字に結ばれる。答えを急かさず、彼の調子に合わせて沈黙して待っていると、僅かに口を開いた。
「中心になる
「……そう。あたしを思い遣ってくれて、ありがとう。もう大学には慣れたから、これから知らせてくれたら嬉しいな」
「はい。今度からそうします」
「善し。じゃあ、続けようか」
干し貝柱の中華粥と卵
安全性を考慮して、火を扱う料理は大人や年上の作之助と紅葉が側に居る時のみに限定しているが、三年ともなれば慣れた様子で調理器具と食材を出している。あたしは足りない食材を買い出しに商店街に行くと告げて、見張りを作に代わり、家を出て乾物屋と八百屋から帰宅した十分後に呼鈴が鳴った。
来客用の玄関を開ける前に、大柄な図体から其処に立っている人物を察する。
「おはよう、
二週間振りの白髪
事情を説明した上でドタキャンになって申し訳無く思い送信し、彼も労わる言葉を投げた故、てっきり来ないものと思っていた。
「おはよう、源君。七度八分で、今は新しく出した布団で眠ってる。……今日は、お互い断ってたよね?」
「嗚呼。そうだが、子供の体調が急変するのは当然だろう。気になって、ゼリー飲料やらアイスやら
がさりと下でビニール袋が擦れる音を聞きつけ、視線を
膨らみから見るに大量購入したらしく、袋が今にも破れそうになっていた。それを慎重に受け取って両腕で支えて、安堵を感じて肩の力が抜けた瞬間、徐々に視界がぼやけていき疑問符が浮かぶ。
「
「え? ……あ」
顔を上げて瞬いた時、何かが頬を伝って両手が少し濡れた事で、自分が泣いている事と無意識に気を張っていた事に気付いた。
「ご、ごめん。君の顔見たら、っ、安心して、気ィ、緩んだ」
「そうか。一旦、上がり
「だい、大丈夫」
「……無理はするなよ」
「うん。……お土産、ありがとう。助かっ、たよ」
「無駄にならずに済んだな。治ったら又来ると伝えてくれ」
「解っ、た」
呼吸が浅く、一言断りを入れて深呼吸を複数回すると、幾らか落ち着いた。
「ところで、この家の門番は新しい同居人か?」
「そうだよ。正確には付喪神になるよ。二週間前に顕現したんだ。訳有って、私物の刀と秋月家の家宝をね」
「……。初めて見たぞ」
「まァ、滅多にお目にかかれる物では無いからさ。勉強はしてたけど、霊力の質と量は君達のお墨付きだったから、それが後押しになった」
「そうか。善かったな」
はにかむ自分に自信が見て取れたのか、彼の目が細められて微笑んでいるのがマスクをしていても解った。
「では、何かあれば連絡を寄越してくれ。またな」
「またね」
体調を考慮して玄関先で別れ、彼の姿が本日の門番を務める同田貫と近江守に因って表門から消えていく光景を眺めてる最中、声を掛けて引き留めて縋りたいと思う自分に驚き、戸惑いから玄関で立ち尽くしていた。
──
(よく解らない感情が募って、驚いて戸惑っています。……
──ええ、勿論。
(ありがとうございます)
光の柱の外から語りかけてきた彼女に礼を告げてから、ゆっくり引き戸を閉めて施錠し、土産物の物品を
銀を治す為の食材ばかりに思いが向き、お菓子や喉の通りが善いゼリー飲料の発想が無い。
それは、幼い頃の経験から来ており、祖父母と母は仕事を優先しなければならず、風邪
銀の部屋に近い台所で中身を確認すると、森永乳業のマミーやゼリー飲料、アイスに子供用の熱さまシートまで入っていた。ただ、栗入り小豆最中アイスだけは十個と貰って来た薬の日数分より多く、「快気祝いに皆で食べよう」と龍と約束し、冷蔵庫と冷凍庫にそれらを詰め込む。
そうして、一足早く出来た昼餉を持って行く前掛け姿の龍の代わりに襖を開け、廊下に正座して様子を見守る。特別にお盆に載せて、「お薬飲めたら、源君が
それ以上兄妹の時間を奪う
壁を背にして体操座りの体勢で座り込み、瞼を閉じて別人格の彼女達と話し合うのは後回しにして、
泣いてしまったのは、彼に告げた通り安心したからだ。
何故、源君の前で安心するのだろう。
最初に思い付く理由は、幼い頃から一緒で、
共に過ごしていたのは幼稚園という短期間で、それ以降は長崎と秩父の遠距離になっている。お互い実家の住所を教えず、文通も
次に浮かんだのは、話に傾聴して否定された事が無いから。
これは、前述の幼馴染に加えて諭吉君や加澄にも言える事だが、今は源君に集中する。
十九年分の記憶の空白があるものの、二週間前の会話で、彼は別人格の事も、前置きをしてあたしの現状も事前に理解している口振りだった。恐らく、空白の
心が壊れて
この感情の名前は、楽しいなのか幸せなのか解らない。後で、
彼と友達で居続けている理由は、人として尊敬出来て、礼儀を
「……嗚呼。そうか」
辛い時も楽しい時も、君が側に居てくれたからやってこれたんだ。
「んえへへ……」
自分の中で結論が出た事で控え目な笑い声が出てしまったが、別人格の中にあたしを拒絶したり否定する者は、今のところ居ない。
だから、聞き慣れた声が頭の中で響く。
──あら、嬉しそうね。
(これ、嬉しいって感情なんだ。初めて知った。先生なら、この温かい気持ちも解りますか?)
──それは、
(勿論です)
看護師の夢の欠片が具現化した別人格──
状況説明をすると、その正体が好きという言葉で表され、好意を持っている事が判った。
『そうか……。あたしは、ずっと源君の事が好きだったんだ』
『
『はい。
『あら、嬉しい事言ってくれるわね。私も
『! ふへへ……。
母方祖父母にもお父様や弟にも時折言われ続けてきた言葉だが、心が疲弊していた頃は受け止める余裕が無く、同情や気休めで言っているのだろうと相手を疑っていた。今は、そう思っていた自分を恥じ、すぐにでも彼らに連絡を取って謝罪と共に自分の気持ちを伝えたい衝動に駆られる。
それとも、この関係に
*
今日は三十五歳の生誕日で、体感では二十年振りに親しい間柄の人に祝って貰える。
三週間前に電車賃を渡して自力で帰った秋月家の家宝、同田貫正国──愛称、たぬ──から、「貸した額を働いて返す」という宣言と共に祝いの言葉を出掛ける矢先に受け取り、幼い頃から見守ってくれた兄貴分に感謝の意を示した。
そうして、待ち合わせ場所の上野駅公園口前に集合時間の五分前に到着して周囲を見渡し、日陰で壁を背にして待機している源君を見かけた時、後ろから女性に声を掛けられる。
「
あたしの名前を呼ぶ白髪碧眼の彼女は、腰まで伸ばしていた幼稚園児の頃と違い、ベリーショートの髪型も相
「おはよう、加澄。中学の頃と変わらないな」
「
「そこまで有名じゃないよ。未だ駆け出しだもの。……おはよう、諭吉君。昔より髪が伸びたね」
「嗚呼。……息災で何よりだ」
「うん。君も凛々しさが増したな」
「? 俺の他に誰か居るのか?」
「
会話に夢中で
「そんなに安売りしないよ。外見は善くても中身が台無しな方も居るから、双方善いと感じた人だけを褒めているに過ぎないからね。源君もその一人さ。挨拶が遅れたけれど、おはよう」
「おはよう、
源君と加澄が横目で視線を交わし、自分が知らない何かの合図を送る。
「そうだね。せーの……」
『生誕日おめでとう』
次の瞬間、各自手にしていた紙袋を手渡され、この再会の趣旨を理解した。
全員仕事に就いているため一日遅れになったが、それでも胸に込み上げる温かい感情の名前を、あたしはもう知っている。
「……っあ、ありがとう、みんな。嬉しい……!!」
「ん゛、ごほんっ。開封するのは帰ってからにしてくれ。……
『おー!』
軽く咳払いをして音頭を取った源君を筆頭に、完全にこの場のノリで拳を空中に突き上げたのは加澄とほぼ同じ
「
「え、あ、うん」
昔より積極的になった彼女の願いを受け入れたは
男性の感性が解らないが、決定事項なので大人しく従おう。
帰りの事も考えて右回りで行こうと提案し、順番に回っていく。
鶴のタンチョウを見れば鶴丸国永の事を思い出し、フードショップにて限定品に目が無く、カワウソの顔を
パンダミルクアイスで喉を潤した後は、北極熊と熊、
ふと、現在漫画で追っている魔法使いの嫁に出て来る
「え。さっき食べたばっかりでしょう」
「あれしきの量は菓子だな」
豪快に笑う彼を横目に諭吉君を見
「……解った。もう少し時間を空けて行こうか」
園内の地図に
「……どうした?」
「あー……、特殊体質で橋とか坂の類を一人で渡れなくてさ。今は、愛染を中に入れてるから大丈夫。条件反射でついね」
幼い頃や中学時代ならいざ知らず、芸能人としての給料で
「そうか。無理するなよ」
「うん。ありがとう」
西側を会話をし
あたしは加澄の隣に座って軽めの湯葉餡かけ丼を頼み、加澄と伊達鶏のナゲットとフライドポテトが一つになったもの、粒餡とカスタードクリームの猿饅頭が二個セットを分けて完食し、腹ごなしに未だ東園で観に行っていない動物と家でお留守番をしている子供達へのお土産を楽しみにしつつ、満足感に満ちた気持ちで席を立った。
東園の土産屋『リトルトランク』で子供達と保護者代わりの同居人達へのお土産と、大人になって四人で出掛けた最初の記念に動物の種類は違えど、お揃いの根付を購入した後、上野公園の大噴水周辺の
澄んだ秋空を見上げて落ち着き、歩き疲れた脚と腕を伸ばして疲れを取っていると、源君が一人分の空間を開けて隣に座す。
「今回は上野公園だったが、他に何か要望はあるか?」
「うーん……。特に無いかな」
「なら、今度は刀を見に行かないか?
「
「来年の六月九日、月曜日からだ。東京国立博物館で、三日月宗近が展示されるらしいぞ」
「へぇー。検索してみるね」
携帯電話の液晶画面を見せられ、自分の携帯端末も開いて東京国立博物館の位置を地図から探した。すると、この大噴水広場から徒歩五分圏内に
秋月から聞いた二度目の誘拐を切っ掛けに、今から二百年後の未来の技術で付喪神が存在する事が実証されたが、あたしは未だ彼らに直接会っていない。だが、源君は特殊事案部の方と共に救出作戦に参加しており、それを機に彼らに興味を持ったのだと解釈して、当然の様に『次』を約束してくれる幼馴染の隣で微笑んだ。
一人を除いて居住地が違うので、田端・池袋・新宿方面の山手線と川崎・横浜方面の京浜東北線の電車に乗る為に上野駅構内で別れ、諭吉君と加澄は川崎駅で下車し、自分と同居人達の土産を片手に二週間ぶりに自宅へ帰った。
「
『おかえりなさいませー!』
「
『やったー!!』
「
「え!?
「てっきり子供達だけかと……」
「何を言ってるのですか。あたしが安心して大学に行けるのは、貴方達大人がしっかりしているからです。微々たるものですが、報酬の一部として受け取って下さいまし」
うがいと手洗いを済ませて、本来なら夜は全員から祝われる
銀を発端に子供達が順番に風邪に
あたしは今のところ症状は出ていないが、念の為に市販の風邪予防薬を飲んでマスクをしていたが、動物園で過ごす中でずっと気に掛けていた。
「ルーシー。具合は
「お薬飲んだから、少し
「そう。……今はゆっくりお休みなさい。治ったら、お土産のクッキー食べよう」
「っ!! ひゃい……」
三つ編みを
海外では額や頬に挨拶代わりや愛情表現で接吻をするから、我が国で積極的に示さない文化だからこそ、自分の中で許容範囲を決めて出来るようになった。
本人は
そんなに嫌だったか。これからは気を付けよう。各自
二階から一階に降りて、入浴後に今日の土産を開封する。
加澄は遮光性の高い折り畳み傘で、諭吉君は今治のフェイスタオルで速乾性に優れているらしい。最後に、源君からの紙袋は、白狐が特徴的な京都
梅が施されたゴムを恐る恐る外して開封すれば、
「……え。わ、
マニキュアらしき商品が五本セット。
しかも、持ち手が紫色の
今まで化粧をするのは芸能人として活動する時のみで、ほとんど素顔だ。
職業柄、常に人に見られる為に肌や歯の手入れや体重と体型維持に加え、本業の予備役の訓練も欠かさずにしているものの、心の何処かで『どうせ自分には似合わない』と諦めていた。
その考え方が払拭出来ない要因の一つは、母から
それなのに、男友達のお土産一つで自信を付けても