姉上の三度目の行方不明の報道を受けてから一週間が経ち、大晦日の一日を共同住宅の一角で生後八ヵ月になる娘──琥々音を世話しつつ、眉を顰めた。
原因は、徐々に薄れゆく姉上の記憶だ。
それは、彼女がこの世界から存在そのものが消えた事を意味し、歯止めが効かない状況を打破せねばならない。
幾ら此処が物語の世界だからって、もう少しどうにかならんのか。
誰が書いたか知らないが、それを棚に上げて胸中で独り言ちた。
答えは決まっている。
そうしなければ、話が面白くないからと作者は考えたからだ。これは恐らく恋物語であり、登場人物達を最終的に幸せにする物語なのだから致し方あるまい。
推測後に「父上、どうしたの?」と四歳になった長男に心配されたが、さも何事もありませんといった口調で「大丈夫だ」と返し、数ヵ月前に連絡先交換をした福地先輩の携帯電話の番号に電話をかけた。
数コールで出た彼の声音は、元気が無いようにも思える。
「こんにちは、福地先輩。音八です」
『嗚呼。如何した?』
「また姉上の記憶を失いましてね。福地先輩も同じ現象が起きているでしょう?」
『そうだな。今度は不可解な現象が起きたそうだ。夕刻、横断歩道を渡っていた時に霧に包まれ、女性陣が消えている』
「……なるほど。僕の観点から申し上げますと、不吉な事が重なっていますね」
『不吉? 夕刻は解るが、横断歩道がか?』
「はい。横断というのは、別の世界に足を踏み入れる通過儀礼です。となると、何処かしらの異界に行った可能性が高いと推察しました。時の政府管轄になるでしょうから、田中さんにご相談したほうが宜しいかと思います」
『解った。残留組に報告しておく』
「ありがとうございます。それと、これから何度も忘れると思うので、僕達はお互いに、姉上を思い出せる物を側に置いておくか身に付けるかしたほうが善ですね」
『そうか。検討しよう』
「お願い致します」
通話を切り、姉上が自身の決断で名字を変えて縁を切った秋月家にも連絡をかけたかったが、母方祖父母は高齢のために最悪心労で他界するかもしれないと思い、止む無く取り止める。そして、連絡先を姉上の家に同居している春蝉君と富山君に変更し、泊まりで独自に調査すると約束を交わしてから開いた携帯電話の電話帳を閉じた。
*
年明けの二〇〇五年、一月三日の夕刻。
忽然と消えた横断歩道前に来訪すると、ひやりと冷たい空気が流れて冬の寒さに身震いした拍子に目を細めた時、土瀝青の地面に僅かな揺らぎを感じる。
「……?」
最初は火の粉が地面に落ちて燃えているか、地面の熱で空気が揺らいでいるのだと思っていた。
だが、よく観察して凝視すると霊力とは違う力を発しており、時折訪れる武蔵雑貨店の一角から感じるものと一致する。
それは、西洋人と物に宿る魔力だった。
この国には馴染みの薄い、だが創作物に登場する事が多い代物だ。
馬の蹄鉄が幾つも連なり、真っ直ぐ横断歩道まで近づいた形跡がある。
移動手段は二頭の馬で曳く馬車で西洋人が姉上を拐したと検討を付け、三鈴神社の参道へ繋がる橋を渡り、木製の門を潜り抜けて姉上の家に一泊した。事前に年末に宿泊する旨を同居人に伝えていたため、すんなりと上がらせて貰い、客間に布団を敷いて就寝する。
翌朝の十一時頃に表門を叩く音がして、春蝉君が応対に出た。
そのまま、庭門が見える位置の縁側に出て、そこから正座の姿勢で出迎える。
生まれつき白髪の先輩は、腕に紅白の組紐に鈴を首に着けた黒猫を抱え、同色の手綱を手に持っていた。
「おはようございます。福地先輩」
「嗚呼、おはよう。音八。昨夜言われた事を考えたのだが、俺にはこれしか思いつかなくてな。着けてはみたが、記憶は戻らない儘だ」
黒猫を地面に降ろしてから、これと称して見せてきたのは浄化の白に魔除けの黒、姉上の瞳の色を模した黄色の糸が使われた組紐で、色褪せている様子も無く大切にされている事を伺い知れる。
「庭に在る南天の木を探そうと思う。時の政府から、そこから異界へ行けると言われてな」
「嗚呼、守護神の名前が冠されていますからね。栄区の社家ならば植わっていますし、加護とお導きもあるでしょう」
《ええ、そうね。先導は私がするわ》
男しか居ない敷地内に女性の声がして、下を見遣ると先程の黒猫が手綱の一部を前脚で踏みつけつつ、ちょこんとお座りしていた。金色の瞳を細めて微笑み、牙が見える口を開く。
《私の名は琥珀。嘗て、燈に名付けられ、この坊や、源一郎に飼われて天寿を全うした猫よ。今は南天様の神使をしているの。二人共、どうぞ宜しくね》
「……俺は、猫を飼った覚えが無いのだがな」
《あら。その様子だと、私の事も忘れたようね。源坊や》
「すまん」
《大丈夫よ、気にしてないわ。逸れないように手綱を持って頂戴。今から先を歩きますからね》
「家の事はお気になさらず。どうぞ行ってらっしゃいませ」
「そうか。……では、行ってくる」
福地先輩を見送った数時間後。
向かう時には無かった背嚢と共に、信じられない物を見たと言いたげな顔で先輩が庭から帰還した。
「お帰りなさい。……い、如何でしたか?」
「姉君は無事だ。誘拐犯は、魔法士。……魔法使いを養成する学校の学園長になる。彼方は魔法が存在する世界で、彼女が言うには、ディズニーの世界観が基になっているらしい」
「そ、そうですか。では、姉上は何処に居られるのです?」
「その学園だ。男子校だがな。魔力持ちで、授業と部活、バイトに勤しんでいるぞ。十代の男子に混ざって、駆けずり回っている頃だろう」
「無事なら善かったです。……。その表情ですと、他にも何かありますね」
「何故解る?」
「長年、福地先輩達と稽古してましたから」
眉を寄せていた彼は、ひとつ溜息をついてから後頭部を乱暴に掻いて白状する。
憲兵だのに降参だと示して両手を上げ、縁側に座って腰を下ろしてじろりと睨まれた。
「姉弟揃って、勘が鋭いな。……嗚呼、あるぞ。彼女と長年一緒に居たからか、余波を受けて俺も魔力を持っているらしい」
「ほあ!?」
想定外の報告に、阿呆らしい声が出てしまった。自分の口を塞いでも既に後の祭りだ。
「その影響で、俺も彼方で入学手続きを済ませ、彼女とは別の寮に配属されてな。暫くは、憲兵と学生の二足の草鞋を履く事になる」
「三十路になって学生服はきついですね」
「髭を剃れば何とか馴染めたぞ。……世界が違えば、常識も違うのだと思い知らされた。そこは悪役を育てる場所で、周りは悪餓鬼ばかりだぞ」
「姉上なら兎も角、福地先輩なら余裕で馴染めるのでは?」
「どういう意味だ? ん?」
「痛い痛い痛い痛い痛い!」
立身流の道場で幼い頃から姉上の幼馴染達三人の様子を間近で見ているため、彼の悪餓鬼と言える話ややんちゃ度合いはよく知っている。今更大人らしく格好良く取り繕ったところで、何時か襤褸が出る。
その考えを容易に見抜かれ、ヘッドロックを掛けられた上で彼の腕を片手でばしばしと叩きながら身悶えしたのは言うまでもない。こういうところですよ、福地先輩。
余りの痛さに生理的な涙が出てしまい、逞しい腕から解放された後にそれをティッシュペーパーで拭った。片や、技をかけた本人は素知らぬ振りをして、中也君が用意した緑茶を啜り、龍之介君が出した茶菓子を食んでいる。恨めし気に睨んでも効果は無いと解っているので、諦めて自分も緑茶を啜った。
「……姉上は、此方の世界へ生還できそうですか?」
「如何だろうな。試しに俺が出現した場所である学園裏の森に連れて来たんだが、強い電撃を浴びたような痺れと見えない壁で弾かれ、その拍子に手が離れてしまった。……すまん」
「いいえ。連れて来ようとしただけでもありがたいです」
身振り手振りで説明されたが口を噤み、軍刀を右側に置いて敵意が無い事を示し、地面に下ろした足を上げて姿勢を正した後、座布団の上で正座をして深々と頭を下げられる。
彼が悪い訳では無く、何らかの魔法か人の意思が介入している可能性があると検討をつけ、福地先輩の謝罪を受け止めて礼を述べた。だが、彼は一向に面を上げる様子が無い。それどころか、そのまま言葉を続ける。
「音八。何年かかろうと、俺は姉君を必ずこの世界に連れ帰ると誓う」
「っ……」
お互い姉に近しい者で、既に三度も誘拐を経験している。故に、もう彼女が居なくなる事態は沢山だと感じていた。
彼の誠実さを知っているからこそ、僕も彼に姉上を託す事が出来る。
硝子戸を開け放した縁側で、澄んだ冷たい風を身に浴び乍ら自分も座布団の上で姿勢を正して彼と向き合い、板張りの廊下に両手をついて頭を垂れた。
「春日家を代表し、心より感謝申し上げます。姉上も貴方と再会出来、さぞお喜びになる事と存じます」
その言葉を受け止めて、漸く彼は面を上げ、上官に報告と体調を整える為に駐屯地に戻り、自分も姉上の家に残された男性陣に顔を出し続けると言い残して帰宅する為に表門を潜った。
背後で黒猫の間延びした声に見送られ、これからも二人の縁を繋げてくれと胸中で願うばかりだ。
*
新年度になっても帰還の報せは無く、橘神社の御祭神である友比古命は本殿にて今日も今日とて神使の鴉天狗と黒猫にお話し遊ばされる。
僕は、会話の邪魔にならぬようゆるりと板張りの縁側に膝をつき、湯吞みに注いだ緑茶を零さぬようこれもそっと床に置いた。緑茶の香りにお気付きなられたのか、面布の下ですんと僅かに鼻を鳴らす音が聞こえ、此方へ衣擦れの音と共に注意を向けられる。
《おや。もう八つ時か》
「はい。本日は千里家本家からの供物、みのや本店の花弁餅で御座います。鴉天狗の清一様の分もご用意しております」
《そうか。千里も氏子としてよく仕えているな。……然し、其方の姉は、何かと巻き込まれておるのう》
「……ええ。そのようで御座います」
友比古命に一度も姉の事を話した事は無い。
三鈴神社の主祭神で有らせられる通称、南天様に剣術を教え遊ばされたと木簡で記録されており、今年二〇〇五年八月──あと七ヶ月──で二〇一七歳を迎えられる。
《だが、南天の猫がついている限り問題無い。後は、鴉を送るだけだな》
「鴉ですか」
鴉が神使となったのは、その昔、友比古命が怪我をしたその者を看病し、恩返しとして木の実や花を持って来ては神に可愛がられ、村人の真似や仕事を見守っては彼らの顔を綻ばせたそうな。そうして月日が流れ、人間の純粋な想いが集った末に鴉天狗という妖怪に成り、人の身を得た事で更なる恩返しとして修業を経たと知り、それに感銘を受けた友比古命が使いにしたらしい。
三鈴神社に祀られている三柱の女神は、師匠の友比古命に肖り、鴉天狗と野良猫を自分の使いにしたそうな。
《お目付け役だが、縁さえ在れば如何様にも出来る。あとは、音八の姉次第よ》
「初耳です。姉上にそのような者が居られるとは」
《先程告げた事態と特殊な体質が重なった故、何かと不都合な事が起こるのだ。今回で終わりにしたいが、如何転ぶかのう》
「私としては、神のみぞ知るとしか言いようがありませぬ」
《そうであるな》
朗らかに笑って友比古命は盆の竹製又匙を手に取り、それを。
無言を貫いていた清一様は友比古命が餅を嚥下したのを一瞥後、緑茶で喉を潤してから両手を合わせ、一言「頂きます」と告げてから花弁餅を一口食んだ。
彼等から視線を外して澄んだ青空を見上げると、一羽の鴉天狗が東京方面へ飛んでいくのが視えた。
彼が姉上のお目付け役である事を願って瞼を閉じて合掌し、彼女が無事である事を祈願した。