今まで写真でしか見た事がなかった燈の幼馴染は、美丈夫。又は、美人になって我が家に来訪した。それだけで無く、手土産を持参して礼儀作法を心得ており、滞在時間も短いものだから、私も夫も好印象を持つのは至極当然の事だった。
「良かったわね、燈ちゃん。お友達が来てくれて」
「万里さん。あの方達は、私のお友達ではありません。上司と同僚です」
「そ、そうよね。ごめんなさい。お婆様が間違ってたわ」
「はい。源一郎様達とお友達なのは、私に似た燈さんのほうです」
淡々と告げてから、燈ちゃんは入浴を済ませて就寝をするために二階の部屋に上がった。
翌朝になって、足を伸ばして去年開業したばかりのウニクス秩父に寄り、そこで三人で買い物をする。先日、思い出のわらじカツや味噌ポテトを食べても記憶が戻る様子が無く、不安と焦燥感が募るけれど、私達には見守る事しかできない。
燈ちゃんは、詳細な報告書を書くために更に漢字や常識を学ぶ必要があると、本屋で小学生から中学生までのドリル一式を大量購入した。本当は中学を卒業して必要な知識があるはずなのに、彼女にはその記憶が丸毎抜け落ちている。リュックサックにそれらを入れ、重さに驚く事なく平然を背負い、私達二人の買い物に同行すると言うので快諾した。買い物と言っても、ここは惣菜が高いので御菓子を食べるだけになる。
サーティーワンで、彼女はジャモカコーヒーとストロベリーチーズケーキを選んだ。昔、秩父に引っ越して来たばかりの孫娘を連れて、第一号店の麻布店に連れて行った時には、抹茶とチョコレートを選び、以降必ずそれを注文していた。
燈ちゃんの反応から、初めてコーンに乗せられたアイスのうち一つを完食し、フードコートにて彼女が夫に質問する。
「凰賀さん。仕事をするために、私はどうすれば良いですか?」
「うん? ……そうだな。アルバイトという部類の仕事なら履歴書の紙一枚で済む。もし、学校に通うのであれば、中学校を卒業した証明書が必要になるかな。今日も時間あるし、孫娘が通ってた中学校に行ってみるかい? 窓口に行けば、手続きをしてくれると思うよ」
「いいえ。私は、貴方達の孫娘と姿形や年齢が一致するだけの他人です。記憶が途中からしか存在しない自分を雇う所は少ないと思います」
「それでも、無いよりはマシだ。孫娘の経歴も戸籍も、君がこれから生きていくために必要な物なんだよ。利用できる物は利用しなさい」
「……はい」
帰りに寄り道をして孫娘が通ってた中学校に寄っても、燈ちゃんは相変わらずの無表情だった。
ちょうど昼休みの時間帯で、断られるかと思いきや手続きを了承して下さったため、応接室にあるソファーに腰を落ち着けて待っていた。給食を食べ終えたばかりの校長先生がやってきて下さり、孫娘の代から代わっていたものの、彼女に何が起こったのかは聞き及んでいるらしく、『無事に帰って来てくれただけでも、私は嬉しいです』と仰った。しかし、その意味を理解できない燈ちゃんは無言を貫くだけで、困惑する校長先生に夫が『記憶喪失のようで……』と告げれば、『必要な事があれば、何でも仰って下さい』と助力を申し出られたので、私達夫婦は一礼をして提案を受け入れた。
証明書が発行されるの前日の朝。
燈ちゃんは、朝食の時間になっても二階の部屋から降りて来なかった。
様子を見に階段を伝って上がると、毎朝私がしているのを見て覚えたのか、引き違い窓を開けたまま背中を向けて立ち尽くしており、部屋には裏庭に植えている今朝開花したばかりの金木犀の香りが漂っていた。
「燈、ちゃん……?」
「おはようございます。万里さん」
振り返った彼女の両目から、涙が今にも零れ落ちそうになっている。
異変を感じた私は燈ちゃんに駆け寄りたい気持ちを抑え、瞬きをした際に頬を伝った涙を目撃してゆっくりと数歩近づき、一度深呼吸をして尋ねた。
「どうしたの? 泣くほど、何処か具合でも悪いの?」
「泣く……? ……私は、涙を流しているのですね。これが、泣く。理解しました」
「ええ。原因は判る?」
「……この匂いです。これは何ですか?」
「ああ。金木犀っていうお花の匂いよ。孫娘が好きでね。裏庭に咲いてるから、見に行ってみる?」
「はい」
一階に降りて雨戸を開けた縁側で、小さな橙色の花を幾つもつけた木を指差して教えれば、秋になって冷えた空気を身に受けながら佇む。私は何も言わずに燈ちゃんの隣からそっと離れ、気が済むまでそこに居る事を許し、後で居間で新聞を広げて心配する夫と共に三人で朝食を囲んだ。
その夜。職場から帰宅した娘の美里に、燈ちゃんの記憶が途中からしかない事や金木犀の香りで涙していた事を話すと、『明日、病院に連れて行く』と決断し、孫娘が幼少期から二週間に一度病院に通っていた事を思い出して、孫娘の身に何が起きたのか解らずに不安に駆られながら就寝する。
*
孫娘と初めて会ったのは、彼女が七歳になる年の三月だった。
(は、はじめまして。かす……。秋月、燈です。……よろしくおねがいいたします)
背負った小さなリュックサックが見えるほど深々と頭を下げられた事で、由緒正しき家柄の春日家の教育がよく行き届いていると感じた。
日本人には珍しい琥珀色の瞳は、不安や緊張が色濃く映っており、表情も暗く固い。それは、娘が娘婿と離婚し、父と弟と離れ離れになってしまった事が起因だろう。
誰が悪い訳でもない。
娘婿の精神状態がここ二年で悪化した事は聞き及んでいる上、『これ以上、僕と居たら君も倒れる』という悲痛な願いを聞き入れ、美里はそれを了承した。実際、娘に隈が出来ており、ギリギリまで夫を支えていたのだろう。別れた婿と孫の今後は、諫早にあるご実家の父君や彼の兄夫婦が面倒を見て下さるそうで、一先ずは頼れる場所と区切りがついている。
(はじめまして。お婆様の万里です。よろしくね。燈)
(はい……。おばあさま)
我が家は、長男と次男が就職の為に家を出たので空き部屋が複数ある。私達二人の隣の和室を娘に、二階の板張りの部屋を孫娘に与え、口頭でどの場所に何があるか説明をしていく中、黙して傾聴し、年相応にはしゃぐ事も破顔する事も無く、大人しい印象を受けた。
燈が完全に眠った後、美里が浮かない顔をして孫娘の事で相談して来た。離婚の他に何か問題でもあるのかと不安になり、夫と居間でホットミルクを前に座す。
(夫の異変に最初に気付いたのは、あの子なの。人じゃないモノが視えて、聞こえて、話せる体質で、やっ……。八雲君を連れて三鈴神社の宮司さんに相談したら、娘みたいな子は居るって)
確かに、そういう類が視えるのは子供が多いとよく聞く。
孫娘もそうだろうと思っていたが、美里の表情が晴れる事は無く、険しいままだ。
(
(美里。焦らなくていいから、ゆっくり話して頂戴。ミルクでも飲んで。ね?)
(……うん。ありがとう)
娘の震える声を聞き、落ち着かせるために温かい物を飲むよう促して、話の先を進める。
燈は生後数日頃から、父親の右肩付近を異常に怖がり、絶対に左腕で頭を支えないと眠らなかったので、乳離れする迄は
『おかあさま。しらないおばあさまがいる』と。
美里や八雲君には視えないが、燈が指差した先である娘婿の右肩には何かが居るらしい。
後日。夫を旅行がてら横浜の三鈴神社に連れて行くと、馴染みの宮司さんが『生き霊に憑かれています』と告げられ、経緯を説明すれば、『娘さんは、良い目と耳をお持ちですね』と言われた。
(何故、馴染みなんだ?)
凰賀さんが問うと、
(燈のお宮参りの翌月に参拝した時、宮司が孫娘を一目見て心配したの)
彼の説明は、あまりにも衝撃的だった。
御魂の影響が強く、前世と違う人生を歩んでいるが故に、これから生誕日を迎える度に呼吸が止まり、
その指摘は的確で、長崎に居る間はお世話になっていたらしい。
(お盆もハロウィンも、生誕日も年末も、春と秋のお彼岸だって燈だけまともに過ごした事が無いの。悪霊達に狙われないように、体を乗っ取られないように、いつも地元の神社の一角で保護されてた……。私も八雲君も何もできない。燈を守る刀すら、高くて買えないのよ)
(待て。何故、今の話で刀が出てくる?)
(……宮司さんが仰ったの。『今すぐにとは言いませんが、悪霊達から守るには、この子に武器が必要です。付喪神が護って下さるでしょう』って)
(それは、春日家に伝えたの?)
美里は、私の問いに首を横に振った。
自分達でお金を貯めて、直接贈りたかったに違いない。しかし、家宝ならまだしも、新しく買うとすれば、数十万円から数百万円はする。ましてや、子育てや仕事に追われ、税金や通院も重なるなら、貯金は微々たるものだ。
(どうして、宮司さんは『今すぐ』って仰らなかったのかしら? 命が掛かっているなら、猶予は無いはずなのに)
(っ……。それは……、燈に守護神が、女神様が居るから暫くは大丈夫ですって……)
孫娘の事情を
引っ越しの翌朝。
夫の出勤を見送った後、燈が縁側で私の目には見えない誰かと話しているのを目撃して、美里の話は真実なのか試してみた。
(燈。誰と話してるの?)
(え、あ……。どうだぬき、まさくにさん。かたなのつくもがみで、この家にずっといるといってます)
その名前に、聞き馴染みがあった。
同田貫正国。
秋月家の家宝で、旅館『十五夜』の創業者の遺品であるそれは、夫がよく手入れしている。
(……そう。どんな姿をしてるの?)
(すがた?)
(ええとね。髪の色とか着てる服、判る?)
(はい)
昨日渡したスケッチブックとクレヨンを二階の部屋から持って来て、迷いなく描いていった。
短い黒髪と黄色の瞳を持ち、顔や手に切り傷があり、黒い甲冑を着ている。口を一文字に結んでいるため、武骨な印象を受けた。
燈は『合ってますか?』と母親が居る方向を向くが、視線は彼女ではなく虚空を見ていた。一拍の間があって、初めて嬉しそうな笑顔を浮かべる。
こうして、私と美里は孫娘が視える事を信じ、埼玉県で一番有名な氷川神社に燈を連れて行くに至った。
八歳になってからは呼吸が止まる事は無くなったものの、死霊などの類は視えるらしく、視えない秋月家の親戚一同に気を付けるよう注意する様子が多々見受けられる。
美里曰く、『相変わらず』橋を一人で渡る事や川や海など水辺での遊びは絶対にせず、従兄弟達の誘いにも応じなかった。訳を燈に尋ねようとしても『よく解らない』と返されるだけだが、美里が言った『御魂の影響』だろうと解釈し、我儘を言わない孫娘を見守っていた。
しかし、燈が高校に入学する事も、振袖を着て成人式を迎える事も無かった。
元軍人である私の義兄──凰賀さんの兄──によって、誘拐されたのだから。
*
帰宅後に娘の話に耳を傾けると、自分に関する全てを忘れてしまう全般性健忘。長期記憶障害が起きており、昨日の金木犀の香りで心の中に住む『その香りの記憶を保持している金木犀さん』と、『心の中の世界を管理する管理人の黄花乙女
「……まさか、燈は──」
「うん……。先生が出して下さった書面には書かれてなかったけど、精神世界の事を話した後、個人的に調べてみたら、昔で言う多重人格。今は名前が変わって、解離性同一性障害かもしれない。……燈ちゃんに記憶が無いのは、軍人として新しく生まれた人格だと思うの。お父様達にはずっと黙ってたけど、こっちに帰ってくる前から兆候はあったわ」
「え……? どうして言ってくれなかったの?」
「娘が精神疾患を抱えてるって周りに知られたら、幼稚園とか学校で虐められるでしょう!? 唯でさえ、あの子は何かが視えてるから頭が可笑しくなったのよっ!! 私の気を引こうとして、嘘をついてるに違いないわ!」
「落ち着いて、美里。燈は嘘をつく子じゃないわ」
普段、声を荒らげない美里に驚きつつ、疑念に駆られて孫娘を否定している彼女を何とか落ち着かせて話を聞く姿勢を示せば、深呼吸して一旦落ち着き、娘の前で現れた人格は一人だと言う。
燈が五歳になって暫く後に初めて現れ、粗暴な男口調で話した。
当初、燈だと思って話し掛けると否定されたらしい。自分が男の子だと信じて疑わず、風呂場の鏡で女の子の体である事に大層驚き、衝撃を受けて『なんで俺の体が女の子なんだよ!? 何もついてねェじゃねェか!』と泣き叫んでいた。彼は、平然と殺意を口にする凶暴な性格だが、女子供には優しい。恨みを買わなければ表に出て来ず、娘婿と観た時代劇の影響で燈の事を『主』と最初に呼称したらしい。
「……もしかして、燈は、心と体の性が合ってないのかい?」
「違うわ。合っているの。そのはずなのよ。燈や燈ちゃんの話には出てこなかったけど、性同一性障害の可能性があると書面で書かれたわ。でも、燈が好きなのは長崎の幼馴染なの。あの子の好きは、人とか友達として好きって意味だって私に昔直接言ってたから、そこは安心してもいいと思う。嗚呼。でも、何とか正気に戻さないと……」
慌てて美里が異性が好きだと付け加えたものの、凰賀さんはかける言葉を失い、孫娘がそんな素振りを一切見せなかった事に衝撃を受けて隣で放心しているので、代わりに私が話の続きを切り出す。
「……ええと。燈が中学二年生の時、ピアノ教室から帰って来なくて、深夜に秩父駅で見つかったでしょう? もしかして、あの時も他の人格が表に出たのかしら?」
「た、たぶん……。燈はそこから出た所までは憶えてて、駅前で私と会った時、時間が進んでる事と、どうして自分がそこに居るのか理解できてなかったの。記憶に空白があって、お小遣いが減っている事も何を買ったのかも知らなかったわ」
「そうだったわね」
私の記憶が確かなら、その後、病院で解離性健忘と解離性遁走が起きていると診断されたと燈が言っていたが、美里が頑なに認めなかった覚えがある。聞けば、美里は娘の受診に付いて行かず、一階の待合室で待っていたらしい。『燈が精神病だなんて、何かの間違いよ』と否定するので、その言動が孫娘を追い詰めていると考え、やんわりと孫娘の話に耳を傾けるよう言ったが行動に移したかどうかは定かではない。
取り敢えず、離婚による精神的打撃が原因だと仮定して、また一つ孫娘の事態を知り、一先ず安心した。