巡り巡る   作:桃木野

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鏡と心の中

 万里さんから金木犀の木と匂いを教えて頂いた夜。

 私は、就寝していたはずの場所から見知らぬ場所に居た。

 

『……?』

 

 着た事も無い背広を(まと)った格好をしているが、自分の両手首と両足首が金属製の枷で拘束され、じゃらりとどこかに繋がる鎖で繋がれていた。

 いつ移動したのかと周囲を見渡しても、濃霧以外何も見えない。

 ひんやりとした空気に身を包まれ、石畳を素足でひたすら歩いていく最中、突然眼前にぽつんと台座のある丸い鏡があった。

 それに触れなければならない気がして、金属製の枷で拘束されている関係で両手でそうする。

 

『っ!!』

 

 太陽が反射したのかまぶしい光に、咄嗟に目を閉じた。

 強い光が収まって、弱い光に目が慣れた頃に瞼を開けてみる。

 周囲の状況を知るために頭を上げてみれば、鈍色の曇天が広がっていた。さらに、荒廃した敷地内に外側から自分の周囲を囲む和式の外壁と木製の門、自分、その眼前にマッチ棒。赤煉瓦の外壁と金属製の門、立派な日本家屋以外何も無かった。

 和と和の間に洋風の物が鎮座しているトンチキな状態にどうすれば良いのか判らないが、鎖が繋げられている方向に歩を進める。

 立ち止まる訳にはいかず、どれほどの時間を歩いたか判らないが、遠くに丸い光が視認できた。それを頼りに近づいていくと、左右に揺れ始め、女性の声も聞こえてくる。マッチ棒だと思っていた物体は、直立している人間だったらしい。

 

『こちらですよ。あかりさん』

 

 そして、その光まで数歩の距離で、私は立ち止まった。

 

『誰ですか?』

『はじめまして。私は、この奥に御座います屋敷を管理をしている、黄花(きばな)乙女畔菜(あぜな)と申します。長いので、畔菜(あぜな)とお呼び下さい。以後お見知り置きを』

 

 私と同じ背格好で顔も同じだが、髪と瞳の色が黄色で口調が柔らかい点は違う。軍服によく似た服に帽子を被り、白い手袋を嵌め、丸い光に細長い棒と腰辺りから金属製の物を複数所持している。

 そこまで観察してから私は彼女に敬礼し、自己紹介をした。

 

『秋月燈です。元軍人で、先月復員しました』

『はい、存じております。こちらから見ておりましたから』

『? 私には、貴女の視線も気配も感じませんでした』

『ええ。ここは簡単に言うと、心の中。または、精神世界。現実世界とは別の場所にあります。現在の状況なら、貴女の身体は眠っていますが、ここでは私のように、誰かが起きているといった具合ですね』

『……。つまり、私にとって初めて経験した事も、ここにいる誰かが覚えている、という事ですか?』

『その通りです。あちら(・・・)で何かご不明な点が御座いましたか?』

『はい。今朝、知らない匂いを嗅いだ後、涙が出ました。万里さんに、庭に植えている金木犀だと教えて頂いたのです』

『畏まりました。その香りを覚えている者をご紹介致します』

 

 畔菜さんが、丸い光の持ち手を右手から左手に持ち替え、腰に手を回して何かを引っ張り出す。

 それは鍵がたくさんついた金属製の輪で、私達が立っている場所は、秩父の自宅よりも大きな両開きの門前だと知った時、重い解錠音がした。先を促す彼女に対し、私が立ち尽くしているのは、この開閉音を覚えているからだ。

 

 この精神世界ではなく、現実世界でだ。

 

 畔菜さんは数度瞬きしてから、私の行動を理解し、この外壁や金属製の門が十一年前まで私がいた軍の研究所を模しているのだと説明される。その証拠に、案内のためにすぐに敷地に入らず、向かって左側に歩いていくと、本牧(ほんもく)研究所という文字が彫られた金属製の看板が、上から下へ畔菜さんの弱々しい光で照らされて見えた。

 現実世界に戻ってから地図で本牧研究所を探そうと決め、案内する管理人の彼女の背中についていく。

 本牧研究所の金属製の門と屋敷の表門を経て、外灯が灯る引き戸の玄関を開け「失礼します」と言い終える前に、視界が黒い靄に覆われた。

 しばらくして陸軍の訓練通り、片目を開ければ、屋敷内部は一面暗闇に覆われている。天地が判らなくなるが、辛うじて自分の足裏が接している所は床だと認識している。しかし、何かが違うと感じ、畔菜さんが傍らで待機して下さる状態に一言謝罪を入れ、中と外の建物の状況を思い返してみた。

 外から見れば、二階建ての日本家屋が一棟。だが、千里眼の異能力『含羞(はじらい)』で内部を確認すれば、自分が真っ直ぐ行った場所に、天井から降り注ぐ光の柱が見えた。さらに、部屋は遥か遠くに等間隔で、家屋と言うより陸軍駐屯地内に在った独身寮のようだ。視覚情報が一致しないのは、ここが精神世界だからときちんと理解してから、自分に繋がる鎖が暗闇の中で擦れ合って短く響く音で全て入っていると確認し、管理人が戸を後ろ手で閉める。

 橙色の電球に照らされる事の無い広間の床には、自分以外に鎖が繋がれている証拠に、爪先や当たったり足裏で踏みつけてしまっている。ともすれば、つんのめりそうな場面が多々あったが、慣れてしまえばどうという事は無い。

 彼女の先導で、蛍光灯の灯りが切れている踊り場を挟み、ゆっくり一段ずつ階段を降りていく。二つ目の踊り場とこの階の入口は蛍光灯が点いているものの、自分と畔菜さんが立っている場所より奥は真っ暗だった。恐らく、一番手前で辛うじて両側に見えている部屋が、奥まで同じように並んでおり、鎖の方向から奥に私を繋ぐ誰かがいると推察する。

 

『……ここは?』

『牢屋です。ここに、先程お伝えした者がいます』

 

 万里さんが複数所持しているため、見覚えのある似た草履を履いている自分と違い、コツコツと畔菜さんの靴音と灯りを頼りに再度歩を進める。

 牢屋を四つ過ぎた時、彼女が左の牢屋の扉を解錠して、寝台の上で座っている人の名前を呼んだ。

 

『こんばんは、金木犀さん。管理人の畔菜です。あかりさんと一緒に、外に出ましょう』

『……外に? ……そう。良かった』

 

 髪と瞳の色が薄い橙色で、肩甲骨辺りまで髪を伸ばし、へらりと気の抜ける笑みを浮かべる。

 牢屋の中も暗いが、畔菜さんが持つ光を介して金木犀さんの姿を視認でき、自分から自己紹介後に初めて握手をしてから、彼女達が外と呼ぶ場所へ行くために、そのまま右手に力を込めて金木犀さんを立ち上がらせた。その拍子に私と同じ金属製の鎖が音を立て、それを踏んだために数歩よろけた彼女を支える。そして、歩行には問題無いと判断し、地下一階の入口まで管理人が器用に後ろ向きで歩き、私達は本牧研究所の門を一緒に素通りした。そこから数歩歩いて管理人が不意に立ち止まり、金木犀さんの両手足の枷を腰の鍵の一つで外していく。その先にある私が出てきた場所へはまっすぐ行けば良いと管理人に言われたため、小指の爪の半分ほど遠くの距離にあるそれを目指した。

 

『あそこが外の世界へ繋がる光の柱です。では、行ってらっしゃいませ』

『行って来ます』

『枷を外して下さってありがとうございました。畔菜さん』

 

 一礼して来た道を戻り、管理人が光の柱と呼ぶ場所まで歩き続ける。

 

『私は、自分が気付いていなかっただけで、十一年間あそこに立っていたのだと思います。なので、今度は金木犀さんが光の柱に立って下さい』

『え? ……それは構わないけど、あかりさんは、私が立っている間どうするの?』

『万が一に備え、あの外側で待機しています。疲弊したら交代します』

『ありがとう。……でも、急に私が立って大丈夫? 明日の予定があるなら遠慮するわ』

『明日、ですか。……あります。美里さんに病院という場所に連れて行かれます』

『なら、私はその後でいいわ。時間はたくさんあるんだし、またね』

『了解しました』

 

 枷から開放された金木犀さんが手を振って別れの合図を出したため、私は控えめに真似をして同じ合図を返し、光の柱に立つ。

 

*

 

 目を覚ますと、朝を迎えていた。

 一度あくびをしてから、布団の中で足などが()らないようゆっくり伸びをし、朝日が差し込む部屋で布団と枕を片付けて、洗顔と小水のために階段を利用して一階に降りる。壁掛け時計は〇五五二(マルゴーゴーニ)を指しており、まだ誰も起床していないので、認識阻害の異能力で足音と気配を消し、洗顔と小水を済ませ、お茶も自分で淹れて二階に戻った。

 異能力を解除して硝子窓を開けて換気し、日記を付けてから段ボールの上にあるノートパソコンを起動させ、グーグルマップを開き、管理人に教えて頂いた本牧研究所を調べる。

 衛星写真で見る限り、地面に巨大な穴が空いて跡地になっており、拡大すると家とも呼べないような建物が青いビニールシートと呼ぶ敷物と元に乱立していた。別のタブを開いて検索すると、現在はその形状から擂鉢街と呼ばれているらしい。さらに、数々のサイトの報告を閲覧した結果、そこの治安は悪く、犯罪者が流れこんでいる模様。

 ここが、不死聯隊所属の東雲実紅里から得られた人物が居る場所と一致する。

 

「現地調査の必要有り。榊さんと共に行けば捗る可能性は大きい。……?」

 

 まずは日記に記し、後日、源一郎様に手紙の形で報告書を出す必要があるため、短く内容を書き出す中で眼前の未来の光景が見えた。

 予知の異能力『愛と死』。

 その鮮明さから十年以内に起こる事態であり、どちらも擂鉢街に住んでいる子供が出てきて、頭部や腕に包帯を巻いた子供の戦略によって人殺しをする組織に属する事になり、血に(まみ)れた仕事をしていく事になる。彼らは異能力者であり、片方は毛先が白く細い体で、妹と同じ灰色の瞳を持っている。もう片方は茶髪碧眼で、敵に自ら向かっていく性格だ。

 さらに、念動力の異能力『浮雲』の《声》が聞こえた。

 

 ──貧民を救え。

 

 私は、その《声》を無視するつもりだった。

 しかし、ある国で、自分の部隊が遊撃隊と見分けられなかったが故に民間人を拷問した記憶を読み取り、源一郎様が雨の最中で無表情で曇天を仰いでいた事を思い出す。命令をしたのは彼ではなく、階級が一つ上の新しく就任した少佐だった。

 部隊の皆は、兵士ではない母親と子供を殺した事に精神的な打撃を受けている様子で、毎晩謝罪の言葉と共にうなされていた。だから私は、自分の異能力を酷使して脳に負担がかかろうとも、民間人を生かす事に専念したが、源一郎様の上官は私の行動を止めるよう命令した。敵兵を殺すよう一番最初に天白大将に命令された自分は、理解不能の命令と行動に疑問を覚えたが、源一郎様の命令に従った事を覚えている。

 貧民を助ける事で拷問で殺害した民間人の代わりになるとは言えないが、戦時中とは反対の事を為そうとするには、この子供達を助けて自分の家で育て、いずれ人を殺さない未来にするしかない。

 そう日記に追記し、本日が休日の美里さんの足音がしたので、朝食を作る手伝いをするためにノートパソコンを閉じ、マグカップ片手に一階に再度降りて挨拶をした。そこで精神世界で予知した通り、私に異常が無いか病院に連れて行くと伝えられ、それを了承する。

 行き先は大きな病院らしく、新しい担当医という方と話をしていく。 

 こちらからは見えないが、デスクトップパソコンに表示されているであろう画面に目を通しながら、担当医が昼の挨拶をする。診察は十五年振りだと言われたが、私にその記憶は無く、セイリと呼ばれるものも止まっている事が話す中で判明した。さらに、担当医は今まで何があったのか詳しく話を聞く必要があるらしい。

 そこで、源一郎様が私自身が複数の異能力を持つ事を伏せた事を考慮し、それ以外全てを話した。

 二十歳より前の記憶が全く無いこと。

 自分の名前や年齢は、当時の陸軍大将に与えられたこと。

 十一年間、戦場にいたこと。

 直属の上官と共に、敵兵や民間人に対して拷問も(おこな)ったこと。

 現在、自分の親や祖父母だという秋月家に世話になっているが、彼らに関する記憶を持っていないこと。

 昨夜、精神世界で管理人の黄花乙女畔菜さんと、金木犀の花の匂いに関する記憶を持つ金木犀さんのこと。

 担当医は黙って聞いて下さり、キーボードを叩いて会話を全て入力していった。感謝の言葉を述べ、来週血液の検査を行なうため、再度来院して欲しいと伝えられる。それを了承し、次回の予約表と手紙を頂いてから退室した。受付の時に紹介状を持っていなかったために、七千円強ほど費用がかかったが問題は無く、次回から費用が安く済む自立支援医療という書類を貰う必要があるので、秩父市役所に行くと美里さんから告げられる。

 

「……燈ちゃん。先生とのお話、どうだった?」

「私に関する事を全てお話しました。貴女への報告が遅れましたが、昨夜、精神世界で管理人の黄花乙女畔菜さんと、金木犀の匂いの記憶を持つ金木犀さんと接触しました。それから、担当医が十五年振りと仰いましたが、燈さんはこちらの病院に行っていたのですか?」

「……うん。いつも私達家族の前では笑顔を浮かべていたけど、なんだか一人で思い詰めてる感じがして、ここの先生に相談してたの。たぶん、昔と違う先生になったかな」

「はい。燈さんの経歴が残っていて良かったです」

 

 次の信号待ちの時に、ボディーバッグのジッパーを開けてから封筒を取り出して、隣で待機している美里さんに話しかける。

 

「美里さん。先生から手紙を貰いました。知らない漢字があると思うので、帰宅後に読んで頂けますか?」

「……わかったわ」

 

 

 二階で、病院名が印字された手紙を開封し、時折詰まりながら、美里さんが記載されている文面を読み上げる。自分の現状が、今までの記憶を全て失っている状態である全般性健忘。長期記憶障害が起こっていると書類で説明して下さり、納得して理解した。

 

「読んで下さり、ありがとうございました」

「ど……、どういたしまして」

 

 書類を畳んで手元に返して頂き、黙して急な階段を降りていく美里さんの背中を見送ってから、『燈さんも、飯能靖和病院の精神科に行っていた経歴有り』と日記に追記して手紙を間に挟み、遅くなったが凰賀さんが用意して下さった菓子を食べていく。

 

*

 

 あかりさんが一日を過ごして光の柱から出てきた時、寝間着から袴姿に変わり、手元に手紙が出現して、それを持っていた。現実世界では日記の冊子の間に挟んでいたけど、精神世界ではどんな事でも可能になる。でも、彼女はその事をまだ自覚しておらず、私はそれを指摘しなかった。

 

『お帰りなさい。あかりさん』

『只今戻りました。こちら、本日の担当医から受け取った手紙です。金木犀さんにお渡しすれば良いのでしょうか?』

『ああ。病気に関する事は私の分野ではないので、畔菜さんが然るべき方に渡してくれると思いますよ』

『了解しました。では、金木犀さんが一日を過ごされた後、管理人の所に行って来ます』

『お一人で行かれて大丈夫ですか?』

『問題ありません。道は覚えています』

『そうですか。じゃあ、お言葉に甘えて行って来ますね』

『はい。何か成された事がありましたら、机上の日記に書いて下さい。後で私が報告書のために見返します』

『わかりました』

『行ってらっしゃい』

 

 光の柱に初めて立ち、服の感覚がワンピースから寝間着に変わって、自分が目を閉じて眠っている事が解る。

 

 

 目を開けてみても矢鱈(やたら)眠く、布団から頭と腕を出して冷たい空気を身に受けながら、手探りで枕元にある時計を探して上部にある切替器(スイッチ)を押し、橙色の光で数字が表示される。今は夜中の二時過ぎで、二十四時間制表示になっているのは、元軍人のあかりさんが設定したからかと推測し、この身体の眠気に従って瞼をゆるゆると閉じた。

 次に目覚めた時には朝になっており、ひとつあくびをする。

 それから身体を伸ばし、光の柱に立っていたあかりさんの真似をして全てを済ませ、一階へ降りると万里さんが朝食の準備をされておられたので、手始めに挨拶をした。

 

「おはようございます」

「お、はよう……? 燈ちゃん、よね?」

 

 私が笑顔を浮かべて会話をした事で違和感を持たれたと気付き、即座に間違いを訂正する。

 

「お初にお目にかかります。私、金木犀と申します。昨日は、あかりさんが手紙を頂いたようなので、管理人に渡しに行かれています」

「そ、そうなのね……。私は、燈の祖母、万里よ。よろしくね」

「はい。よろしくお願い致します。万里様」

 

 光の柱に立つのは初めての事で、たどたどしく朝食の準備を手伝いながら、彼女は私の事について尋ねた。

 

「金木犀ちゃんが覚えている事は何かある?」

「……そうですね。これは主様が話された事ですが、一番古いものですと、まだ幼稚園に通われていた頃、彼女の御母堂に、金木犀の花と香りを主様に教えて下さったこと。主様のご友人の源一郎様に、金木犀の花と香りが好きだと伝えておられたこと。主様の母方の祖父母の御自宅が埼玉の秩父に御座いまして、裏庭に金木犀が植えられていたことです」

「あら。ここがその秩父の家よ」

「え? ……ここが」

 

 主様が小学一年生から中学を卒業された時まで過ごされておられた家に、今自分も居る事を知って嬉しくなり、思わず笑みが(こぼ)れる。

 

「ところで、主様って何方(どなた)なの?」

「ここに越して来られた時から万里様達と過ごされていた方ですよ。随分と無理をされたので、今は休まれています。……大丈夫です。時が来たら、ちゃんと目覚めて下さいますから」

「……そうなの。それなら良かったわ」

 

 笑顔で問題が無い事をお伝えすると、彼女は無理に笑みを貼り付けて調理を続行する。

 味噌というものを溶いていく作業をする私は、それ以上会話は続けず、ただ相手の言葉を待った。

 

「……金木犀ちゃんは、どうやって目覚めたの?」

「一時期眠っていましたが、一昨日、管理人とあかりさんの話し声と、鎖を引き摺る音が聞こえてきまして。解錠音が聞こえた時に起きました。管理人に解放されて、あかりさんに光の柱まで案内して頂いて、その中に入ったらこうして初めて外に出られた訳です」

「……成る程?」

 

 御母堂はお仕事らしく、今朝は朝食をお二人と食べ、初めての食事が美味しくて嬉しくなる。

 それから特にする事も無いので、裏庭の金木犀の香りを嗅いでから自室に戻って、あかりさんに言われた机上の日記に朝食に関する事を記していった。そして、主様について思い返し、学年が上がるにつれ主様の満面の笑みが減って作り笑いになり、夢がより現実的なものに変化していき、いつしか喜びを感じる事も少なくなっていたと書き加える。

 どうすれば彼女に笑顔が戻るのか考えて、楽器を演奏している間や剣道に勤しんでいる時の表情が心底嬉しそうだった事を思い出し、高校に行けなかった代わりに、音楽を学べる学校に行けたら良いのではという案が浮かんだ。

 早速、昨日のあかりさんの真似をして機械を開き、操作入門書を開いてローマ字入力に苦戦しながら学校がないか探し始めると、専門学校ESPミュージカルアカデミーが最寄りで東京にあるらしい。そこで入学資格を調べると中学卒業でも可能と記載されており、中学校の卒業証明書が必須だったので、それを凰賀様に尋ねれば今日発行されると伝えられて、早速彼の案内で証明書と秩父市役所にて住民票記載事項証明書を受け取り、来月一日の出願に必要な書類を揃えられた。しかし、一般常識なら未だしも、私には面接試験に必須の知識を持ち合わせおらず、それらを覚えている方の協力が必要だと内心焦ってしまう。

 

「焦ったら台無しになるわ。……落ち着こう」

 

 換気をしていたため、私の名前の由来となった花の香りが部屋に幾分か入り込み、深呼吸して(はや)る気持ちを抑える。

 主様が限界が来て倒れられるまで、彼女が長年光の柱に立たれていた。

 それを私達は柱の外から眺めていて、必要な事や物が欲しい時には時々交代して立って、どうにか暮らしてきている。管理人になられた畔菜さんの説明を繰り返し聞き、私達がいつか主様の代わりに振る舞えるよう、そこに立つ準備をしてきたつもりだ。だから、今ここで主様の人生を棒に振る訳にはいかない。

 

「日記の代わりになる連絡方法は……。あ」

 

 主様が使われておられた、机上の掛子付き小物入れ葛籠(つづら)に付箋が入っていた事を思い出し、重要な事には黄色のマーカーを教科書に引いていた事を真似して、黄色のそれを取り出す。これなら、日記のように(ページ)(めく)って出来事を遡る必要も、誰の筆跡なのかと頭を悩ませる事は無い。

 そこに、あかりさん宛てで『音楽の専門学校に通うため、ESPミュージカルアカデミーの入学に必要な書類を揃えました。一般入学で入学する予定なので、十一月一日に東京の入学事務局に持参し、出願して下さい』と書き置きを残し、他に何が出来るか考え、筆跡が違っても付箋の色で連絡の仕方を変えていく事を思いついた。

 今回の入学に関する事など重要な連絡事項は、黄色。悲しい事は、空色。恋愛については、桜色。安心できた事は、紫色。嬉しい事は、橙色。その他日常に関する事は、若葉色。そして、末尾に誰が書いたのか判るように、自分の名前を必ず記載することと、新しい黄色の付箋に追記する。

 小物入れ葛籠の(ふた)にそれらを貼って、不格好になってしまう葛籠を前にして伝言板を買わねばと決意し、ノートパソコンでダイソーの四十六センチ×三十二センチのコルクボードを探し、緑色の付箋であかりさんに買って欲しい物をお伝えした。しかし、入学するならばカワイの電子ピアノが必要だと書き加え、横浜市栄区澤町に一軒家購入と、同市中区に在る擂鉢(すりばち)街という貧民街で子供を保護する予定の記述があったので、必要最低限の家具家電と物品をオンラインストアで片っ端からお気に入り登録し、その一覧表をルーズリーフという紙に書き連ね、引っ越しの時に三味線とアコースティックギターを忘れないようにして日記の間に挟む。

 達成感に満足していると、万里様からお声が掛かった。

 どうやら昼前で、献立の品をどうするか悩まれているらしい。食に特に(こだわ)りは無く、食べられたら何でも良いのでそう答えると、朝食とは対照的に洋食にするそうで、クリームソースがかかった南瓜のニョッキが私の好物となった。

 

「金木犀ちゃん。お昼の予定はあるかしら?」

「はい。調べ物がありますが、気分転換に家の外に出掛けてみたいです」

「あら、そうなの。じゃあ、片道二時間かかるけれど、道の駅に行かない?」

「道の駅、ですか? 電車が行き交うのではなく?」

「ええ。車を運転する方達にとっての休憩所ね。これから行く所は、十五年前にできたの」

「わかりました。支度をして参ります」

 

 そこに徒歩で二時間かけて到着したのは十五時で、あと一時間で閉店するらしく特産品のお店で、手焼き味噌煎餅と味噌饅頭と素早く選んで購入し、早めの夕食に郷路館で豚味噌丼と注文して運動後の小腹を満たす。

 十七時半頃になると日没を迎え、二木屋という閉業してしまった旅館を横目に、ぽつりぽつりと立つ街灯が照らす暗闇の中を三人で歩きながら、あと三十分の帰路につく。肌寒くて冷えた身体とお風呂で暖め、温かい牛乳を飲んで凰賀様達と談笑し、急な階段を登って自室へ向かった。

 吊されている紐で照明を点け、寝かせていたノートパソコンを起動し、当初の予定の調べ物をしていく。

 子供達を迎えるなら、年齢と人数は不明だが、幼いなら絵本や玩具(おもちゃ)、子供用の服が必要になってくるだろう。もし、学校に行く意思があるなら、ランドセルやハンカチ、鉛筆類も要る。ランドセル等は色の好みがあるので後回しにして、昔の黒と赤だけとは違い、どうやら九年前からイオンというお店で二十四色のランドセルが登場したらしい。

 

「音八様は、誕生花のラベンダー色。主様なら、菫色を選ばれるかしら?」

 

 もう主様と弟君は大人になられているのに、ついそんな感想を抱いて、さらに独り言を呟いて笑い声が(こぼ)して、主様の事を思うと胸が痛む。

 彼女は、いつしか金木犀の香りを嗅いでも嬉しそうなお顔はされなくなった。

 きっと、年に数回会えるとはいえ、遠く離れた源一郎様達の事を思い出して心苦しくなっておられたのだろう。だから、金木犀の代わりに藤を愛でられるようになった。そのきっかけは、秩父へ越して一月も経たない頃。御母堂と祖父母を前に心配をかけさせぬよう、常に気を張り、また気遣って『良い子』でいるように振る舞い、無理をして作り笑いを浮かべる主様を休日の御母堂が藤花園に連れて行ったからだ。それを鑑賞しておられる間だけは肩の力が抜け、心なしか嬉しそうに微笑まれていたのを今でも覚えている。

 主様が嬉しく思うならば、好きな花が金木犀から藤に変わった事も、剣術の合宿先で御友人達と再会された事など、私にとってどんな些細な出来事でも構わない。私達がこうして存在出来ているのは、全て主様のおかげなのだから。

 

 

 日記の末尾に光の柱に立てた事の感謝を記し、就寝して光の柱から出れば、寝間着姿からいつものワンピース姿に服装が自動的に変化した。

 

『お帰りなさい。金木犀さん』

『只今戻りました、あかりさん。色々体験出来て嬉しかったです』

『そうですか。……待って下さい。畔菜さんから私達に話があるそうです』

『……?』

 

 私が牢屋がある建物へ戻るのを彼女が手首を掴んで制止し、傍らに立つ管理人が挨拶代わりに帽子の(つば)を軽く下げ、口頭で説明をされる。

 

『提案なのですが、せっかくあの研究所から出られた事ですし、寮に入ってみられませんか?』

『寮? ……ああ、ありましたね。ここへの通り道に』

『ええ。諸事情で閉鎖していましたが、今なら開けられます。まァ、金木犀さんが光の柱に立っている間に鍵を開けたんですけどね。事後報告になって申し訳ありません』

『いえいえ。大丈夫です』

 

 私も彼女に言われるまですっかり忘れていたが、主様による無意識の『発想』によって生み出され、管理人によって詳細に具現化したため、この精神世界に寮も学園も存在する。気まずそうにポリポリと頬を掻く畔菜さんを気遣ってから、私は疑問を呈した。

 

『それにしても、なぜ開けようと思われたのですか?』

『いつまでも暗い牢屋に要れば気が滅入るので、一人ずつ部屋を与えて、こちらで学園に通いながら好きに過ごして寛いで頂きたいと思った次第です』

『なるほど。学園に通う目的はなんですか?』

『今の段階では、二つ。まず、これから解放されるであろう他の方達と、協力して過ごすこと。次に、この身体に何が起きたのかを整理することです』

 

 あかりさんの現状を気遣って、主様の存在を伏せた管理人の説明を聞き、彼女の案内で提灯片手に来た道を途中まで戻っていく。その道中で、今夜から住まいとする私達と、その世話をして下さる寮母の方が入る『灯籠寮』に入寮して、これから好きな物を揃えていこうと決意して管理人に間取りを教えて頂いてから別れた。

 照明が灯る寮の居間に二人が突っ立ているのも間が悪いので、どうにか話題を切り出す。

 

『……あかりさん。自分の部屋を部屋を決める前に、寮母さんが入って来られるまで、しばらく二人で自炊しましょうか』

『了解しました』

 

 こうして、必要最低限の決まりを一つ決め、一日を終えた疲れから板張りの居間から二階に上がった。

 そして、何も敷かれて八畳一間の畳の上に、押し入れからお天道様の匂いがする蒲団(ふとん)を引っ張り出し、どうにか寝間着に着替えて、身を投げ出すように倒れこんで眠りに就いた。

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