身体が重い。噛まれた跡が痛んでいる。まぶたは重い。でも脳や感覚はやけに冴えていて、背中が触れる冷たい扉越しに、廊下にいるはずの陽香の呼吸までわかる気がする。
暗い自分の部屋。明かりになっているのは窓からわずかに差し込む光だけ。その中でぼんやり、床と机と壁、あとさっきまでいたベッドが照らされて浮かんでいる。体育座りみたいな状態になって、床に直接触れているお尻のあたりが痛くなってきている。
何もわからなくて怖いという感情を、無理やり息を吐いて落ち着かせる。本当に落ち着いているかどうかはわからないけど、少なくともそういう気分にはなれる。僕の高校生男子にしては細めの腕が、暗闇の中に見えた。
叫ぶような声がまだ耳に残っている。いつもと調子が違う、それでも聞き間違えようもないほどの陽香の声。
── なんでわかってくれないの
── あたしだってわかんないよ、どうしてこんな事になってるかなんて
── 嫌だったら言ってよ、ねえ
シャワーを浴びたいな、と思った。そうすれば全部洗い流せて、明日になったらまたいつものように学校で日常を過ごせるんじゃないかって。
でも、ここから出て廊下に出たら、きっと陽香がいる。その目はいつもの元気なものじゃなくて、もっと辛くて、壊れそうなものだと思う。それが怖い。また何も選べないで、結果として陽香の傷を大きくしかねないのが怖い。
陽香とは決して短くない関係だ。小学校の時からだから、もう十年以上になる。中学校になってからはどうしても異性なのもあって疎遠になったし、向こうは向こうで楽しんでいるらしいからいいや、なんて遠くから見ていた。
僕の方だって、我慢するのは慣れていた。飲み込んでしまえば、それはきっとそう長い時間残るものじゃない。苦しくたって何もなかったかのように挨拶をするぐらいはできる。そんなことはもう、陽香程の長い付き合いじゃないけど小学生の頃から続けてきている。
それに、あんな声で、すがりつくようにされたら、責める気にはなれない。それでも、本当だったら、あの時に嫌だと言うべきだったのだろう。学校で少しだけ習った知識から、そういうのは理解しているつもりだった。きちんと嫌なことは嫌だというべきだ、って。
あのとき、身体は動かなかった。頭が真っ白になって、本当に何も考えられない状態だった。それなのに、何を見て、何を聞いて、何を感じたかははっきりと覚えている。噛まれた時の痛みも、ズボンを脱がされたときも。その後に何をされるかだいたい理解していたけれども、それに興奮とかする余裕もなくて、たぶん怖くて。
座るようになっていた身体を、床にゆっくりと倒す。扉を背中で押さえて開かないように。大丈夫。ここは僕の安全地帯だ。こうして自分で扉を塞いでいれば、誰も入ってこない。入ってこれない。だから、恐れなくて大丈夫だ、と考える。
胸が重くて、苦しかった。
陽香も、正直混乱しているんじゃないかと思う。何かやりたいことができたら一直線で、後先考えないところはある。だから、今回もそういうやつだ。
ちゃんとどこかで話すべきだったんだろう。もっと気を使っていたら、先に陽香のおかしなところを見つけられただろう。同級生と共通のゲームの話題で盛り上がっていたから、そういうのに気がつくのが遅れたのかもしれない。もっと話しておくべきだった。
そういえば、最近陽香に一緒に帰らないかとか誘われていたことを思い出す。断るんじゃなかった。そうしたら、話を聞けたかもしれないのに。苦しんでいたなら、それを共有してもらえたかもしれないのに。やっぱり僕が悪いんじゃないか。
肺に酸素が足りない。どれだけ息を取り込んでもぜんぜん吸えている気がしない。胸が動かない。息を吐いてもまだ、自分の中に出すことのできない何かが残っている。
傷ついているのは陽香のほうだ、とは思う。血の匂いがした。無理に入れられたほうの僕でも痛かったんだから、たぶん陽香も相当痛かったと思う。たぶんその痛みでパニックになって、廊下に出ていって、なんとか動けるようになった僕は自分で扉を塞ぐようにして。思い出そうとしても記憶はバラバラで、まとまっていない。それなのに、ところどころは鮮明に覚えている。
眠れる気がしない。まだいつも寝る時間よりも早い。明日の朝まで、まだ十二時間以上あるってことだ。時計の秒針の音でもあれば気を紛らわせることができたかもしれないけど、部屋にある時計はデジタル式だった。
頭の中を空にしようとしても、どうしても余計なことを考えてしまう。暗闇の中で見た肌が綺麗だったな、とか。頭を振って、それを忘れようとする。
どうするのが正しかったんだろう、と思う。今日は家に両親がいない、みたいな話を冗談交じりでして部屋に上げた時だろうか。あるいはわけがわからないぐらいに辛いという話を持ち出されて押し倒された時だろうか。陽香が服を脱いだ時かも。
断れなかった。本気で嫌だとは思っていなかったのかもしれない。後で陽香に謝られたら許すだろうな、というのは思う。陽香は僕にとって一番長い付き合いのある相手で、互いの性格も考えそうなことも大体わかっているつもりだ。きっと何か、原因があったんだろう。起きたらそのことについて聞こう。十年の付き合いは、一晩で壊れるには長すぎる。
少しだけ、脳が疲れてきてくれた。あまり難しいことを考えられない。よかった。あとしばらくすれば、気を失うように眠れるだろう。目覚めは最悪かもしれないけど、それでも多少は落ち着ける。
結局互いに痛くて中断した形になったので、僕と陽香が黙っていれば、たぶん何事もなく普通の生活に戻れるはずだ。
大丈夫。残るものはない。全部なかったことにもできる。話をしないと。色々僕も話せていないこともあるんだろうな。小学生の頃みたいに、一緒に最近読んだ本の話とかしたい。
喧嘩したこともあった。あれってどれぐらい互いに話さなかったんだっけ。絶交とか言ってたよな、なんて思い出して懐かしくなる。噛みつかれた事はあったっけ。覚えていない。でもありそうだ。なら別に、今回のことも特別じゃない。
そうか、僕は本当に陽香から目をそらしていたんだろうな、と考える。これは僕への罰みたいなものなのだろうか。陽香にとって重荷にならないといいな。結局小学生の時だって、許したのか忘れたのかは思い出せないけど仲良くできたわけだから。
朝になったら電気をつけて、汚れていないか確認して、洗濯機を回して、それでシャワーとか浴びてしまおう。今日は春なのに少し熱い日だ。裸でもそこまで冷えないし、床の温度が心地よい。
たぶんベッドの方に散らばっているのであろうズボンとパンツとシャツを取りに行くのは、もう眠くて面倒になっていた。