一度で二歩は進めない   作:小沼高希

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014 幻覚の日常

少しだけ、頭が回るようになった気がする。

 

昨日の夜に映像授業で予習していたのもあって、授業には追いつけている。先週の分がすっかり抜けているが、それについては角野さんから綺麗なノートと解説のメモを送ってもらえた。

 

ノートの作者については、言う必要もないだろう。少しだけ丸い筆跡は、見覚えのあるものだった。

 

ちらりと隣を見る。角野さんにとっての得意教科である英語の授業の横で、教科書ではない何かを開いているのははっきりとわかる。一応僕はちゃんと例文のあたり開いてますとも。

 

角野さんは翻訳が得意だ。ただ、個人的な意見ではあるがそれと英語の成績がいいのはまた別だ。なにせ角野さんの得意分野は中日翻訳なのである。星际私侠(ステラ・コルセア)は一応中国のゲームですからね。

 

そういえば、どうやって角野さんが翻訳の腕を身に着けたのかとかぜんぜん聞いたことがなかった。短めの髪から出ている耳の形を見ながら、僕は角野さんの視線の先を見る。

 

なにかの資料、だろうか。色がないところを見ると白黒。メリハリのなさからして文章。スクロールの長さからして、十ページは超えていそうだ。

 

少し疲れたらしく目を上げた角野さんがこちらを見たので、慌てて目をそらす。これは陽香とは別の意味のやつ。

 

いやその、好きだって告白してさらっと流された相手に視線向けているのバレるのってとても恥ずかしいじゃないですか。角野さんが気にする気にしないじゃなくて、僕の問題として。

 

またちらりと角野さんの方を見ると、また何かを読んでいた。その姿勢は比較的しっかりしていて、画面を見ないと真面目に教科書でも読んでいるのかな、となる。

 

陽香のほうは、と視線を向けようとして、少しだけ迷って、ちゃんとその背中と結んだ髪を見ることができた。走るのに邪魔だからと結構まとめているけど、ほどいた時はかなりふわりと伸びるんだよな。そして思い出してしまったので声を出さずにうめいて机に突っ伏しながらかわりに思い出すものを考える。

 

ステラ・コルセアの今度のバージョンアップの話とか。翻訳データが含まれた状態でバージョンアップが公開されるため、角野さんは一足先に内部データを見ていることになる。このあたりは、公式寄りだからできることがあっていいなと思ってしまう。

 

英語版と中国語版の公式Wikiは開発者が編集することもあるので比較的早くバージョンアップに対応するけれども、日本語版だと比較的人海戦術を使うことになる。内部ファイルを見ることはできるので、それと一つ一つ照らし合わせながら作業中のスタブを貼った記事を作っていくわけだ。

 

じゃあ先にこっちに翻訳を回してよ、と以前冗談交じりに言ったところ、かなり本気で角野さんに説教を喰らった。妥当だと思った。そういうところが魅力的だな、と思っている自分がいる。たぶんもし誰かと付き合うことがあったら引っ張る側じゃなくて引っ張られる側になるだろう。付き合ってくれる人がいたとしたらの話だけどな。

 

はい、また陽香に思考が戻ってきてしまいました。なにせ陽香と僕の付き合いは長すぎて、そうそう記憶から消すこともできないのでこうやって避けるしかないのです。つらい。今までの恋心の経験があったから助かっているが、そうでない人にとってはずっと思考の中にそれがあるっていうのは辛いものだろうな、と思う。

 

なんだかんだで、僕は幸運なのだろう。加害者側と話ができる環境にある。共通の知り合いで、かつ協力者を買って出てくれた角野さんがいる。それに、僕も、たぶん陽香も仲直りというか、この崩れてしまった関係をどうにかもとに戻したいとは思っているはずで。

 

「……角野さん」

 

「なーにー?」

 

落ち着いたように言う彼女。

 

「陽香と話すのって、いつ頃がいいと思う?」

 

「……それがね、正直わからなくて」

 

そう言って、角野さんはちょいちょいと指で招くようにした後に廊下を指した。あっちに行こう、というわけだ。他人に聞かれると面倒な話だったな、そういえば。

 

「問題は色々ある。君にどこまで話すべきかすら、それには含まれている」

 

移動して、人が少なくなったのを確認して角野さんは語りだした。

 

「……僕は角野さんを信頼するよ」

 

「感情も碌に読めない私に?」

 

自嘲なのか、角野さんは小さく笑うようにして息を吐いた。

 

「……この点は、陽香さんに協力をお願いする。彼女は君にとって加害者だけど、今の状態を理解していて、感情をしっかりと捉えられる人だから」

 

「わかった」

 

「……相当、無茶を言っているつもりなんだけどな」

 

「角野さんが必要だって考えたんでしょ?」

 

「そうだけどさ。本来こういう対応って、ある程度距離を取れる専門家が、それなりの時間をかけて行うものなんだよ」

 

「……もしかして、さっきはそういうのを読んでたの?」

 

「……そういうのを別タブで開いて小説読んでたかも」

 

素直な懺悔に、僕はちょっと面白くなって吹き出してしまった。

 

「笑えるんだ」

 

「僕だって面白くなったら笑うよ」

 

「……よかった」

 

心配してくれているんだ、と思おう。

 

「今は君の調子がいいけど、そうじゃない時が来るかもしれない。辛くなった時に、できるだけ私に吐き出せるようにして欲しい」

 

「……うん」

 

「色々と、私は君の話を聞きたいのもあるから、何かあったら声をかけてほしいな」

 

そう言って、角野さんは笑顔を浮かべる。一瞬だけ、この笑顔も相手に緊張感を与えないようにしようって考えてしている表情じゃないかと思ってしまう。陽香みたいに直接的じゃない、わざとらしい笑みというか。

 

でもそれがなんだ、と思うところもある。僕を心配してくれている人がいて、その人が苦手なことでもやってくれていることで、それ以上を望むのはちょっと僕には不相応だろうって。

 

「……角野さん」

 

「なに?」

 

「他の人には……特に男性には、そういうこと言わないほうがいいんじゃないかな」

 

「あー、桂介くんがそう言うなら考え直したほうがいいか。陽香さんにも同じようなこと言ったけどこっちは大丈夫だったから、具体的にどこが問題になりそうか、よければ教えてもらえる?」

 

そう真っ直ぐな視線を向けながら言う角野さんに、僕はどうにか誤魔化しながら一般論としてだとか角野さんの負担が大きくなりすぎるだとか、そういう話をしてごまかすしかなかった。

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