「……陽香さんのことを思い出す時に感じることを、もう少し言葉にできる?」
そう言った角野さんに、僕は少しだけ待って頷いた。
「それは、怖かったり、怯えてしまったりするようなもの?」
「……そう、だけど、それだけじゃない」
「具体的には、言えそう?」
息を吸って、吐いて。心を落ち着けて、僕は視線を落とす。角野さんの藍色のベストの胸の部分が目に入る。
「……どうにかならなかったのかな、って」
「うん」
「陽香ってさ、悩みがあると身体が考えるより先に行動することがあって」
「具体的な事例って、ある?」
僕は首を縦に振る。ええと、詳しいことを思い出すのは難しいな。
「中学校から陽香は陸上部に入って、ランニングとかもするようになっていたんだ」
「一緒の中学校だったよね」
「うん。それで、確か三年生の時にちょっと捻挫したとかで、病院に行ったことがあって」
「そうだったんだ」
「そこで、ちょっと走り過ぎで栄養失調とまではいかないけど、貧血みたいなものが起きているからもっとしっかり食べて、運動を調整したほうがいい、って言われたらしい」
「らしい、なんだ」
「……僕も、ちゃんとは聞いていないから」
陽香の両親から聞いた断片的な内容と、陽香本人が僕に語ったことからぼんやりと知っているだけ。
「それで、陽香さんって走る量を減らしたの?」
「……確か、それでもランニングは続けていたはず。もちろん捻挫が治るまでは激しく動いたりはしなかったけど」
「なるほど、でもそれは、陽香さんらしいところではあるね」
そう言って、角野さんは小さく息を吐いた。
「そんな陽香だけどさ、他人を傷つけるとか、そういうことってほとんどなくて……」
「ほとんど?」
「……小学校低学年のときかな、喧嘩になったことがあって、ぶつかった頭のせいで鼻血を出したことがある」
「陽香さんが?」
聞いてきた角野さんに、僕は首を振った。
「……桂介くん?」
「……そう。あの時は、結局仲直りまでそれなりに時間かかったはず」
絶交だ、とか言っていたよな。あの時に比べれば陽香は色々と変わったけど、あの真っ直ぐで真面目で、それでいて目指すもののためにしっかりと考えるところはあんまり変わっていない。
「そんな事が、あったんだ」
「陽香も、話したがらないことだろうから」
ええと、何でこんな話をしているんだっけ。そうだ、陽香について思うこと、だっけ。
「だから、もしちゃんと僕が陽香と話していれたら……もしかしたら、もっと、いい、形になったんじゃないかって」
「……なるほどね」
角野さんは否定も肯定もせず、ゆっくりと言った。
「例えば、どういう事をしてあげたかった?」
「……一緒に帰ろうって言われていたから、その時に嫌だとか言わないほうが良かったと思う」
「そこでもし一緒に帰ったら、どういう話をしていたと思う?」
「ええと、ステラ・コルセアの話とか……あと、陽香が陸上部で頑張っている、とか」
「色々あるけど、そこで陽香が君のことが好きだって、言えたと思う?」
難しいだろあいつが、と昔の僕なら言えたかもしれない。今の僕も同じように難しいと思うけれども、そんな軽くは言えない。
「……それでもさ、陽香の勘違いを解けたかもしれない」
「勘違い?」
「……陽香はさ、僕が角野さんのことを好きだって、思っていたわけでしょ?」
「そうだと言っていたね」
こういう話をしているのに、角野さんはゆったりと話すペースを崩さない。だからいくらでも、何でも話していいような気分になってしまう。でも、相手がどう受け取るかに関係なく、言う時はちゃんと覚悟を持たなくちゃいけないものもあるわけで。
「それが原因で、ああいう事をしたなら……そういう話をしたかもしれないし、もしそうだったら、あんなに陽香が苦しむこともなかったんじゃないかって」
「君の言いたいことは、わかった」
角野さんは、意外にも大きく頷いた。
「じゃあ、一口飲もうか。冷めてない?」
そう言われて、僕が触れたマグカップの中に入ったミルクティーは少し冷房が効いている喫茶店の中で人肌より少しあたたかい程度になっていた。
僕が飲むのと合わせて、角野さんもマグカップを口に運んでいる。喉乾いてたのかな。ずっと話していたわけだし。
「桂介くんは、ときどき自分が被害者で、傷ついているってことを忘れがちだよね」
「……はい」
「責めてるわけじゃないよ、私は」
僕の声色か視線を観察したのか、角野さんは言う。
「そう考えたくなるのはわかる。でも、ちゃんと自分が苦しんでいて、対応をしなくちゃいけない状態にあるって認めないと、状況を改善させるのは難しい」
「……たとえ勝っていると思うときでも、戦隊耐久値の確認をしろ」
「ステラ・コルセアのチュートリアルにあったね、人間って思い込みの激しい生き物だから、一度そういう考え方にはまってしまうと、そこから抜け出すのってかなり難しい」
僕は角野さんの言葉に頷いた。
「よくあるのは、公正世界信念っていうもの。公正っていうのは公平に分けるのコウに、正しいのセイ」
「うん」
「悪いことをすると罰を受ける、良いことをすると報われる。そういう考え方。いいことをしたから運が良くなるとか、そういうのって正しいとか正しくないとか関係なしに、ゲーマーなら持つでしょ?」
「……なんか、名前から受け取る印象に比べて角野さんのたとえ話だと小さくならない?」
「そうかも」
そう言って角野さんは少しだけ笑って、また真剣な表情に戻った。
「もちろん、それは世界を良くすることもある。悪いことが起きないように良いことをしようとか、自分は今までこんな良いことをしてきたから、ちょっとやそっとの不幸が起こってもきっと逆転できる、とか」
「……後半って、よくドロップ率が悪い時に思うやつ」
「そうそう、それにそう思ったほうが楽しいことも多い。でも逆に、それが人の心を縛ることもある」
藍色のベストの奥、自分の心臓のあたりに手を当てるようにして角野さんは言った。
「なにか悪いことが起こったのは、自分が悪かったせいだ。あるいは、誰かが悪い目にあったのは、その人が悪いことをしたからだ。もちろん、本当にそういう場合もある。でも、そういうふうに誤って考えていたら、考えは負の方向にぐるぐると回ってしまう。ましてや、心が傷ついているときならなおさら」
「……わかるよ」
「今はたぶん大丈夫な気がしている。けど、そういう風に思い詰めてしまうことがあるのには注意して。陽香さんは私の友達で、君の幼馴染だけど、加害者で、君が苦しんでいる原因であることは変わらないから」
そう言う角野さんの言葉は理屈ではわかった。けれども、少しだけ落ち着いてきても、まだ僕は陽香を加害者として認めたくないようだった。