一度で二歩は進めない   作:小沼高希

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002 傷跡の発覚

噛み跡はワイシャツで隠れる場所に全部あったから、制服を着ていれば隠すことはできた。

 

眠ったのか眠ってないのかわからないような夜が明けて、シャワーを浴びて、制服を着て、今日も学校に行く。陽香は起きた時にはいなかった。たぶん、夜のうちに帰ったのだろう。さすがに幼馴染の家とはいえ、泊まったとなると少し問題だ。

 

いつもより、ずっとはやい学校への到着。身体は重くて疲れているのに、眠くはない。変で嫌な気分だった。

 

椅子に座る。持っていた鞄から教科書とノートPCを取り出して、机の中へ。

 

何も考えなくてもできることはし尽くしてしまって、あとはもう、昨日の夜のことだけが頭の中を回っていた。

 

別に、僕は陽香のことが嫌いだとか、そういう目で見れないとか、そんなわけじゃない。正直に言えば、むしろいいって思っていた。今は……どうだろう。好きとか嫌いとかじゃない、怖いっていうのも違うけどたぶん近い。

 

噛みつかれた時の光景が一瞬閉じていた目の裏に浮かぶ。机から身体を起こす。心臓がドクドクドクと音を立てて耳にも聞こえるぐらいに血液が流れている。うなじが冷えるのは汗だろうか。

 

「……桂介くん、徹夜?」

 

隣から僕の名前を呼ぶ声がして、まだ緊張していた身体が跳ねた。

 

「……おはよう、角野(かどの)さん」

 

なんとか、いつもの挨拶は口を動かしてすることができた。

 

「おはよう」

 

時計を見ると始業まであと十分少しになっていて、隣の席にはいつものように角野さんが座っていた。

 

「それで、昨日の開発ログは読んだ?」

 

落ち着いた声色で、角野さんがゲームの話をしてくる。僕は気分を切り替える余裕がなくて、小さく首を振った。

 

「……高校二年生にも慣れてきたことだからね、油断すると体調を崩したりするし、気を付けて」

 

「……そうだね」

 

いつもみたいに楽しく話せない。普段は意識して抑えないといけないぐらいに僕の中で角野さんの声が響いて、今とは違う形で胸が締め付けられるようなことがあるというのに。

 

ぼんやりとしていた自分に気がつくと同時に、僕を覗き込むように見ていた角野さんと目があった。

 

「……どうしたの?」

 

心配してくれているのだろう、とはわかる。そこから行動するまでに、どうしても色々なものが引っかかってしまう。蜘蛛の巣に絡まって動きにくい感じ。

 

「なにもないよ、大丈夫」

 

「……そう」

 

呟くように言った角野さんは身体を引いて、自分のスマートフォンを取り出して何かを読み始めた。おおかた海外の小説だろう。彼女はそういうのが好きなのだ。今のメインは別のものに変わっているけど。

 

「……おはよ」

 

またうつ伏せになっていると聞き慣れた声が耳に入って、少しだけ落ち着いていた身体がまた緊張してしまった。そちらのほうに目を合わせることができないのに、会話の内容は嫌でも聞こえてくる。

 

「陽香ちゃん、なんか今日調子悪くない?」

 

「……そう、かも。大丈夫。心配してくれて、ありがと」

 

いつものように朝のランニングを済ませてきて、陸上部の人たちと一緒に教室に来たところだろう。練習のし過ぎで医者からほどほどにと言われているのに、とまで考えて昨日の記憶がまたやってくる。

 

「なんか今日、いつもより集中力なかったよ?私が言わなかったら赤信号渡っちゃいそうだったし」

 

「……そっかな、あの時はありがと。気をつけるね」

 

「陽香はそそっかしいから」

 

陽香と友達たちの笑い声混じりの会話が聞こえてくる。息を吐く。息を吸う。吐いて、吸って吐いて吸って。息切れしたみたいな呼吸になっている。大丈夫。落ち着けばちゃんと呼吸ができるようになる。

 

自分が自分じゃなくなっている気がした。いつもならもっと自分の考えを落ち着かせることができるのに。

 

考えているとチャイムが鳴って、授業が始まった。何かを考えたくないなら他のことに集中すればいいはずなのに、頭は動かなくて、それで時折昨日のことを思い出してしまって、そのたびに自分が嫌になってくる。

 

授業の内容がわからない。黒板の文字は一つ一つが読めるけど内容がぜんぜん頭に入ってこなくて、先生の言葉も集中しないとその意味がわからない上にすぐに内容が変わってしまう気がする。

 

熱でもあるのだろうか。風邪のときとかはたしかにこういう事になる。昨日は裸のまま寝てしまったし、そういう事があるかもしれない。

 

「……角野さん、少しいい?」

 

昼休みになったが、食欲はなかった。それよりも怠すぎて、身体を横にしたかった。

 

「ん」

 

お弁当を開こうとしていた角野さんが僕を見た。迷惑をかける事になるけど、僕には頼れるクラスの知り合いがあまり多くないから仕方がない。

 

「保健室、行ってくる」

 

「ついてくよ、朝から見るからに調子悪そうだったから」

 

「いいって」

 

「遠慮しないでよ」

 

「いいって!」

 

その声が自分のものだと気がついたのは、教室の中の反響を聞きながらだった。周りの視線が全部こっちに刺さってきている気がする。吐きそうな気分になったが、それはどうにか我慢できた。

 

「……落ち着いて。私は別に、桂介くんの敵じゃない。一人で行くのが心配だから、ついていくだけ。気にしたくなかったら、そうしてくれて構わないから」

 

「……ごめん、ありがと」

 

「いいのいいの」

 

体温計を借りて、熱がなかったらこっそり擦って温度を上げたらいいかな、なんてことを考えてしまう。いつもはそんな事をまずしないような僕だけれども、それぐらい追い詰められていた。何にかはわからない。

 

「ところでさ、鎖骨のところ」

 

隣を歩いていた角野さんは、自分のブラウスの襟あたりをとんとんと叩いた。

 

「なに?」

 

「血がついているよ、ニキビでも潰れた?」

 

保健室の扉を開けた角野さんの隣で足が止まった。なんて答えればいいのかわからなかった。

 

それが何の血かは、すぐにわかった。たぶん、かさぶたがふさがりかけていた所がなにかの時に開いてしまったのだろう。

 

「そう、そうだと思う」

 

「……先生、いないみたい」

 

そう言うと、角野さんは慣れた手つきで机の上にあった保健室利用カードを埋めていく。

 

「ほら、体温計」

 

「……うん」

 

角野さんに背中を向けて、受け取ったケースを開ける。ワイシャツはボタンを外さないと入れられないから、第二ボタンまで開けてしまう。

 

裏から見ても血はそこまで滲んでいなくて、体温は平熱より少し高めだった。

 

「……これでよし、と」

 

そう言って角野さんは体温を記入したボールペンを置いて、座った僕と目線を合わせるように椅子に腰を下ろした。

 

「桂介くん、私は君の味方をしたい。黙っていて欲しいと言われたことは、絶対に他人に言わない。だから、もし話をしたくなったらいつでも言って。メッセージを送ってくれれば、授業中でも保健室には行くから」

 

「……見たの?」

 

何を、とは言えなかった。

 

「噛み跡なら」

 

こうして、僕の隠しておきたかった幼馴染との事件は、次の日にはもう角野さんに知られてしまっていたのである。

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