角野さんが黒板に書く字は、縦に細長めで、少し癖のある字だ。ただ、読み取りにくいわけじゃない。
「で、ここの分詞は色々な接続詞と主語のかわりだってのはいい?」
「はい」
黒板の英語の文章を見る。結局はこれも暗記じゃないか、と思うが言葉というのは覚えないと使えないから仕方がない。理科とかはもう少し思考とかでどうにかなるところはあるけど、それでもある程度は知識が必要になってくる。
ちらり、と隣を見る。まだ外が明るい放課後の教室で、教室には三人だけ。
黒板の前でチョークを持った角野さん。最前列の席の僕。
そして、陽香。何もしない、何も言わない、角野さんが僕を教えているのを見ているだけ、という条件でここにいてもらっている。
「本来こういう分詞構文は共通の理解が互いにあるものを省略して歯切れを良くするためにあるから、翻訳によっては直訳しないほうがいい。でも、逆に言えば二つの部分の関係が曖昧になってしまっているところがある。だから自動翻訳でこの手のやつをやるときは、サブプロンプトとして解説的文章を添えることもあるんだけど手間がかかって……」
っと、専門的な話になってきた。とはいえわかる。角野さんが具体的に書いている文章はステラ・コルセアで王道ルートを通るとよく見る駆け出し商人の台詞だ。
「というわけで、分詞構文の話はこのくらいで。あとは……何があるっけ?」
「英語の期末試験の範囲はこれぐらいだと思う」
そう言って、僕は画面を切り替えて配られた出題範囲を見る。こういうものがしっかりと出るから試験対策はやりやすいけど、先生が言うには昔はこんなものがなかったそうだ。あるいはこの学校が積極的にそういう事をしているのかも。詳しくはわからない。
「……ありがとう、わかりやすいよ」
「それを言われると、先生たちもちょっと悲しいだろうけどね」
そう言って、角野さんは僕の言葉に笑った。こういう時にはわざとらしいとは思わないんだよな。何なのだろう。そもそも僕は何が理由で角野さんについてそういうふうに思っているのか、正直わからない。
他人の感情を読むのが苦手だとは言っていたし、僕や陽香のそういうあたりについてあまり理解がないのもわかる。理解がないっていい方はよくないな、読み取れないから触れないでいる、というのが正しいだろうか。
それがいいことなのか悪いことなのかはわからないけど、少なくともずけずけと踏み込んでくることがないのでいいのだろう。角野さんはそのあたりはきちんとわかっている。
「角野さんって、教えるのがどうして上手なんだろうね」
「うーん、一対一なら色々と読み取れることがある、とかかな」
「例えば?」
「桂介くんは理解した時には小さく頷いてくれるから、逆に言えばそうじゃなければ説明が足りていないんだなって」
「……なるほど。でもそれって、僕がなんていうか……頭良くないからじゃない?」
「それを言ったら本来は教師ってその頭の悪い相手に教えるわけだから、それ自体は別に問題ないよ。問題になるのは相手にわかるように伝えられていないってことで、今回の問題はそれなんだから」
「そういうものかな」
「そういうもの。陽香さんなら、もっとたぶんタイミングとか理解度まで読み取って調節できるだろうけど、私は少し難しいかな」
そう言って、角野さんは黒板消しを持った。プロジェクターもあるのだが、角野さんは直接手で書いたほうが楽な場合が多いと考えているらしい。
「ところで、陽香さんと一緒にいる事自体は多少は大丈夫そう?」
「……うん、なんとか」
何が怖かったんだろう、と今になるとやっと思えることがあるようになってきた。別にそこにいるだけで、何かをしてくるわけではないのに。こう言うとなにか幽霊とかおばけみたいに思えてくるな。怖いという意味では似たようなものかもしれない。
「とはいえ、私でも全部を理性でちゃんと認識することができるかって言うと難しいから、嫌な感じがするとか、無理って感じたら遠慮なく距離をとって、君が安全だと考えている場所に行くこと」
「……うん」
安全な場所、ね。今のところは自分の部屋の床とかだろうか。扉には小さなフックで内側から開けられないような鍵をつけたからだれも入ってこないと安心できるようにはなったけど、ベッドでいつもの姿勢で眠ろうとするとあの時のことを思い出してしまう。
寝る向きを変えたら多少はマシになるけど、それでもなんとなく嫌な感じがする。起きるとたまに動悸がするのはまだ残っているし、硬い床で眠るとどうしても調子が悪い気がする。気のせいだと思いたいけれども。
「例えばさ、ガラスの床って歩いたことある?」
「展望台とかタワーとかにある?」
「そういうやつ」
SNSで流れてくる動画で見たことはあるが、実際に足を置いたことはない。僕は首を振る。
「あれって、どれだけ安全だとわかっていても踏み出すのが怖い人はいるのよ。もちろん練習したりすれば多少は踏み出しやすくなるし、もともとそういうのを怖がらない人はいるけどね」
「……うん」
「だから、受けた傷に関連するものを見てまた傷つくんじゃないかって思ったり、それを避けようとするのは別におかしなことじゃない。でも、それを続けると君の中にはずっとその傷の原因が残り続けるし、逃げることに人生のリソースを費やしすぎてしまう」
「もったいない、ってこと?」
「そう。それに、苦しいだろうから。秘密にする以上、君は陽香さんと同じクラスであとしばらくは過ごさなきゃいけない。陽香さんのほうには協力をお願いしているけど、できることも限られる」
「だから、僕が変わるしかない……って言いたいの?」
「私はそれをお願いできる立場にはないけど、もし変わろうというか、自分の中にそういう物があるって理解できるなら、それはきっといいことだと思うんだよ。陽香さんとの付き合い方を変えていくためにも必要だしね」
名前に引っ張られて、視線を横の方に向ける。いつになく真面目そうな表情で、陽香が頷いていた。そこまでかな、という気もするが。
でも、陽香が僕の状態を知ってくれたのは少しだけ嬉しい。今まで言えなくて隠していたことを表にするというのはかなり緊張するというか恥ずかしいというか、嫌なものではあるんだけど、その結果があまりひどいことにならないような気配を、僕は少しだけ感じている。