暑い日が始まった。最低気温が二十五度を超え、教室のエアコンが起動するようになる。
そして、夏休みの気配がしてくる。夏休み明けの学園祭の出し物とか、夏休みの課題で何をやるかとか。いいよね。僕の学校だと結構コンテストとかコンクールみたいなやつを夏休みを使ってやる人もいるらしい。
僕ですか?ステラ・コルセアの大型アップデートがそろそろくるのでそれに備えて大規模編集の準備でしょうか。やっとWiki編集コミュニテイに顔を出せる程度にまで色々と回復してきたので、そういうことができるようになった。
一方で角野さんはかなり忙しいらしい。重要なことは一切言わないが、いつも以上に翻訳が多いと言っている。大丈夫かな。今日から試験だけど。
試験の時は、教室が独特な空気になる。張り詰めたような同級生たち。専用のものに切り替わる時間割。そして始業式と同じような名前順の席。
「緊張している?」
こっちに歩いてきた角野さんが手元に本を持って言う。こうやって見るとまるで真面目そうに見えるが、角野さんの手の中にあるのはラベルと表面の光沢からすると図書館から借りたらしいライトノベルだ。
「……角野さんよりは。ところで、何を読んでいるの?」
「少し気になることがあって、あまり手を出したことがないジャンルに手を出してみようと」
タイトルからすると、たぶんラブコメってほどにはコメディしていないような落ち着いた恋愛ものかな。角野さんがそういうのを読んでいるのは、正直ちぐはぐな気がするし、嫌だ。
「……いいね」
心のなかで浮かんだよくわからない感情を置いといて、そう言った僕は自分の席に戻る。
試験日程も内容も公開されているから、少しやれば赤点を取らないぐらいなら僕でもなんとかなる。いい点数を取るとなると、話は別。ただでさえ色々と辛くて勉強できていなかったので、今回は赤点取らないだけで勘弁して欲しいところだ。
そう考えると、陽香っていつ勉強しているのだろうか。朝はランニング、放課後は陸上部の練習、それにステラ・コルセアを隙間時間にちょくちょくやっているとなれば、まともな自由時間がない気がする。
そういう話を前に角野さんに聞いたら一日に五、六時間は勉強する時間があるだろうと言われた。何かと思って説明を聞いたら授業中だった。なるほど、確かにそうだと思ってしまう。授業をきちんと聞いて理解することができればいい、と。
理科ならまだしもそれ以外はちょっと辛い。というかなんで僕は理科はそれなりにできるんだろう。計算だって問題文を読めばわかるし、基本的な知識もある程度はついている。なのに数学となるとそこまで良くないし、暗記系が重要となる科目だとさらに良くない。
文理選択で理系が苦手だから文系に行く人は多いと思うが、文系がダメだから理系に逃げるという人はあまり多くないと思う。ただ、この高校はあまり文理選択がないんだよな。上位大学を目指すクラスなのもあって、基本的にはそういうの関係なく全部やろうぜということになる。
選択できるのは芸術ぐらいだろうか。ちなみに僕は一年生の時に工芸を選んだ。他の高校にはほとんどないらしい。その時にデザインした革のキーホルダーは普通に使っている。どういう物を作りたいかのあたりからしっかりと考えさせられたから、作っても使わないなんてことにならないのは良かったな。
そんな余計なことを考えているといつの間にか問題用紙が配られていた。地理。うーん、授業に結構時事問題とか入っていて嫌なんだよな。
めくってみると三人の生徒が新聞を見ながら対話をしている。今どき新聞を見ている高校生がいるのかどうかは知らない。ええと穀物?ええとたぶんアメリカが輸出国で良いんだよな。
三人組のわざとらしい会話を見ていると、僕と陽香と角野さんも周囲からはこういう風に見られているのかなとか考えてしまう。僕は一応ちょっとは顔を合わせたら天気の話をするぐらいの知り合いはいるけど、角野さんにはいない。
いや、本当は僕が見ない範囲でいるのかもしれない。去年のクラスの同級生とか、そういうの。そういうところに少しだけ勝手に嫉妬の感情を浮かべるあたり、僕も本当に面倒くさい。陽香のことを責める資格なんてないわけで。
そういった余計な事に思考を取られながらわからないところを飛ばしていくと、半分ぐらい空欄の解答用紙と半分ぐらい余った試験時間だけが残る。バランスが良い。問題は残りの時間を全部使っても空欄の半分が埋まるわけではないこと、そして空欄を埋めたところであっているかどうかはまた別の問題と言ったところだ。
とはいえ、救済用の問題はある。五つめの大問として、それまでの四つの問題で扱ったテーマをどれか一つ選んで、用語リストの中から三つを選んで、それといい感じに絡めた文章を作ればいい。角野さんはこういうの得意そうだよな、と思う。
僕は苦手なので、事前に予告されていた問題傾向からちょっとだけ考えていたアイデアをもとになんとかシャープペンシルを動かしていく。手が少しだけ疲れてきたが、今日はあと三教科残っている。がんばらないと。
角野さんが読んでいた本をふと思い出す。あれって、何が嫌だったんだろう。
嫉妬に近い、のはわかる。角野さんが僕以外に興味を向けていたから、とかそういうのではないよな。そこまで僕も傲慢ではない、はず。
こっちを見てくれない、じゃないな。もっと自己中心的な、相手に何かを押し付けているような。こうあってほしいと思う理想と違うから、それをどうにかしたいような。
恋愛に興味を持ってほしくない、とか。恋愛だけじゃないかも。人間関係とかって呼んだほうが良いだろうか。そこまで考えて、少しだけ納得できた気がする。
僕が思っている角野さんのいいところって、どこか浮いていて、まわりと距離を取っているところなわけで、だから角野さんに近づければ、それだけで角野さんの世界の中でかなり重要な場所に立てるんじゃないかとか、そういうことを僕は考えていたんじゃないだろうか。
もちろん、これが正しいかどうかはわからない。言葉にすることで、最初に思っていたものと違うことを考えているなんていうのは珍しいことじゃないだろう。そういう意味では、陽香はまっすぐに自分の思ったことをするから、このあたりの歪みとかは少ないんじゃないだろうか。
角野さんが恋愛とか、そういう細かな感情をきちんと理解した時のことを考える。そうした時に、僕は角野さんの何かでいつづけることができるのだろうか。恋愛というか劣情というかそういう感情抜きでも角野さんは面白くていい人だし、できれば仲良くしたい。