陽香が問題用紙と解答用紙の写真を送ってくれた。とてもありがたい。点数は僕より悪かった。ちょっとだけ安心してしまう。
僕が陽香に勝てるものはほとんどない。身長と化学の成績ぐらいと言っても過言ではない気がする。腕相撲みたいな筋力はどうだろう、たぶん勝てない。もし勝てたら多少無理やりにでも落ち着かせることができたのかな、とか考えて考えを止める。この方向は良くない。
慣れてしまった呼吸による感情の制御。このメッセージの相手は僕を襲った人かもしれないけど、画面越しに僕に危害を加えることは出来ない。
鍵も閉めている。この部屋は安心だ。だから、怯えることはない。そういうふうに自分に言い聞かせて、なんとか落ち着くことができた。
画面に表示された画像をゆっくりと見ていく。最後の方の計算問題は僕でも間違えたし、問題を改めて確認したらわかりくいひっかけが混じっていたのでそれは別にいいか。
暗記分野はある程度はきちんとできている。問題は少し考えたり計算したりするやつね。かなりよくある真面目にやっているけどコツを掴んでいないから伸びない、みたいな状態。
もちろん、コツさえ掴めば伸びるわけではない。前に陽香から聞いたことがあるが、ある程度まで行くとプロのコーチでもアドバイスが難しくなるそうだ。色々と直すべきところがある状態なら一つ二つの改善で劇的と言えるほど良くなるが、そういうところを潰してしまうともう残りはかなり根本的とか、気をつけてもどうしようもないとか、直しても本当に意味があるかわからないようなものになってしまうそうだ。
陽香はあくまでこれをそういうふうにコーチが言っていたという形で認識していて、まとめとしては結局地道な練習積まないといけないみたいなところに持っていっていた。間違ってはいないがそれでいいのかはちょっと疑わしい。
僕にとって、苦手な教科のコツというのは簡単なアドバイスみたいなものなのかもしれない。もちろんそれで伸びることもあるが、基礎体力とか練習不足とかを覆い隠してくれるほどではない。根本的に走った経験が少ないと足がもつれて転ぶことになるわけだ。
陽香が間違えた問題をリストにしていって、どこまで理解しているのかを陽香に聞いていく。例えば塩化ナトリウムの計算のあたりは純粋に結晶格子の中のイオンの数を数え間違えていた。たしかに図の中に黒い丸は七個ありますが、うち六個は半分しか格子の中にないんですよ。
── だったら最初から半分に切ったやつを図に描けばいいのに
受け取ったメッセージからはふてくされている陽香の顔が見える。なので教科書のページ数を送ってちゃんと半分になっているような図もあるぞと送っておこう。諦めるんだな。
テストは基本的に何がわかっていないか見つけるために作られている、と前に角野さんが言っていた。考えてみればそれもそうだ。教えたことをきちんと理解できていれば点が取れないような試験は意味がない。
混合気体の平均分子量の話。陽香はあれだ、なんと物質量の比ではなく実際の質量の比を使っていた。じゃあなんでこれが間違っているのかって言われるとちょっと怪しいので調べて確認しておく。
なるほど、一部のジャンルでは使われることはあるけど理想気体の状態方程式が分子レベルの個数というか質量じゃなくて物質量に着目しているからそのあたりを反映しているのね。
理解したら、言葉にしなくちゃいけない。式変形を入れて、個別に計算したものと一致することを示す。
陽香の問題用紙は、けっこう綺麗だ。僕の場合は書き込みが多い。選択問題ならまず除外できるものは最初の数字にバツをつけて、怪しいところに下の線を引いて、正解のものはその理由を軽くメモして、みたいなことをやっている。
実際、かなり無駄は多いと思う。それでもこういうふうにすると後から悔やむことが少ない。あの時にあれだけ考えてわからなかったんだと逃げられるというか。
きちんと考えると自分は結構消極的な理由からこういう事をしている。布団にくるまって現実から逃げたくなったが立ち向かうしかない。ちょっと気になったので角野さんに問題用紙を見せてもらうようにお願いするか。
── なんとなく。これかなってやつを選んでる
陽香にどういうふうに解いているか確認したら、返答がこれだ。なんとなくでこの点数が取れるかよと思うが、たぶんわかっているけど言葉にできていないだけだな。別に言葉にしなくたって解けるものは解けるが、そうすると記述とかで苦労するのだ。
わかりやすいのは単語をいくつか使って説明をするやつ。陽香は文章はそれらしいが途中の展開が逆になっている。いい加減なやつだ。しっかりと理解していれば、あるいは関連分野と繋がりのある把握をしていればこうはならないのに。
でも、そこまで理解するのが難しいのはわかる。英語の文法の説明の言葉だって、歴史の事件の名前だって、僕はちゃんと覚えていない。ちょうど気になった分野というかステラ・コルセアのSF設定のあたりでこのあたりの用語が出てきて調べたことがあったので覚えているだけで、興味がなかったらわからなかったと思う。
単純に興味が噛み合っているかどうかだけだな、と僕は判断する。世界にはものが多すぎて、それら全ての知識を持つことなんてできない。だから最初から好きなもの以外注力しないと割り切ってしまうか、あるいは学ぶ範囲だからある程度はやろうと考えるか。
角野さんは、たぶん興味の幅が広いのだ。そういう意味では僕に近いのかもしれないなと考えて二重の意味でそんな考えをした自分が嫌になる。そもそも僕と陽香と角野さんの間に無理に線を引いたら陽香が仲間外れになるかもしれないけど、それでも僕と角野さんの間には大きな違いがあるだろ。
何にも手を伸ばせなくて、どうせ成功しないとか思って、自分に向けられていた好意さえ気がつけずに、そのせいで苦しむことになっているわけで。角野さんも陽香も否定するだろうけど、自分のせいでこうなっている部分はあるんじゃないだろうか。
一旦落ちつこう。嫌なことを考えるのはもうずっとやってきたじゃないか。今は問題の総評を描くのに集中しよう。陽香が化学得意になられたら嫌な気はするけど、それはたぶん感じちゃいけない類のよくないものだ。