一度で二歩は進めない   作:小沼高希

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003 秘密の保持

僕の方を見てはいるけど、視線を合わせてこない角野さん。彼女に背中を向けて、保健室のベッドに横になろうとして、そこで身体が動かなくなった。

 

「……何に、困っているの?」

 

角野さんが、ゆっくりと僕に聞いた。

 

「……ええと」

 

疲れたから眠りたい。眼の前にはベッドがある。たぶん今なら目を閉じて、そう時間も経たないうちにぷつりと切れるように眠れるだろう。夜にほとんど眠れた気がしなかったから、たぶんかなり体力が持っていかれている。

 

それなのに、それができない。寝たらどうなるのかも言葉にできなくて、それがなんでできないのかもわからない。脳の考える所がどんどん真っ白に塗りつぶされていって、何かを思い浮かべることができない。

 

ぱん、と柔らかい音が聞こえた。僕の顔の前で合わされた角野さんの両手の音だった。

 

「ベッドに座ることは、できそう?」

 

息を吐いて、腰を下ろすことはできた。角野さんも自分用の椅子を持ってきているから、目線があう。

 

「私は、いまからいくつか質問をしたい。いい?」

 

「……うん」

 

なんとなく自分の手が何かに触れていないのが不安になったので、ひとまず指を組むようにして膝の上に乗せる。

 

「口に出さなくてもいい。答えなくても構わない。私は君をちゃんと見ているから」

 

そう言って、角野さんは軽く息を吸った。

 

「それがあったのは、昨日?」

 

小さく頷いた僕に、角野さんも小さく頷き返した。

 

「相手は、君の知っている人?」

 

また、無言の頷き合い。

 

「……これ、以外のことをされた?」

 

そう言って、角野さんはブラウス越しに自分の鎖骨に触れた。

 

「……うん」

 

「……そっか」

 

なんとか出した声に、重さのある返事が来た。

 

「横になると、それを思い出して怖くなる?」

 

「……そうかも」

 

ようやく、僕の身体が固まった理由がわかった。横になろうとすると、それだけで陽香との事を思い出してしまう。息を吐く。あの時の声が頭の中に響いてくる。なんであの苦しそうな顔をどうにかできなかったんだろう。何も言えなくて黙ったままで僕は逃げようとしていたんだ。

 

「落ち着いて。……じゃないな、落ち着ける?」

 

言い直した角野さんの前で変なところを見せられないと考えるたびに息をうまく吸えなくなる。そのたびに胸が苦しくなってどんどん早くなった呼吸が止まらなくなる。

 

「はい、息を止めて」

 

角野さんが手を叩いて言う。言われたとおりに止める。苦しい。

 

「口から吐いて、吐いて、ゆーっくり吐いて……」

 

肺のなかから空気を全部しぼるようにやっていく。溺れているみたいに胸全体が痛い。

 

「鼻から吸ってみて。できるだけ長く、ゆっくり。……しばらく、私の合図で呼吸ができる?」

 

頷いて、しばらくその通りにしてみる。心臓の音が収まるころには、呼吸も落ち着いてきていた。さっきまでは永遠に続いていたような苦しみも、時計を見てみればほんの五分かそこらのもので、今はもうそれを思い出せなくなりはじめている。

 

「過呼吸になったこと、ある?」

 

「……かこきゅう」

 

聞いたことはある気がした。これがそうか。大昔、泣いていた時になったかもしれない。なんで泣いたんだろう。もう思い出せないぐらい前のことだ。

 

「血管の中に溶けている二酸化炭素をね、吐き出しすぎると血液が塩基性になるの。ほら、炭酸水って名前にもあるように酸性で、それが抜けるから」

 

頷く僕に、膝の上で指を組むようにしていた角野さんは話を続けた。

 

「そうすると、脳は呼吸を抑えようとするの。でも息苦しいのに止めようとするから、身体が混乱する。そうすると脳もさらに混乱して、ひどいことになるわけ」

 

そう言って、角野さんは僕と目を合わせた。

 

「それは別に、おかしなことじゃない。知ってさえいれば、落ち着くまで待てばいいってわかる。もちろん、過呼吸になっている時はそういうこと考えられないかもしれないけど」

 

「……角野さんは、そういうのに詳しいの?」

 

「詳しいってほどじゃない……けど、昔、私もそうだったから」

 

ちょっと恥ずかしそうに、角野さんは笑った。

 

「過呼吸で苦しくはなるけど、酸素が吸えなくなることはない。だから、死ぬことはない。辛いのは仕方がないけれども、無駄に怖がることもないでしょ?」

 

「……うん」

 

「一人で眠りたいなら、私は外にいるよ。鍵を内側からかけてもいい。先生には、私から伝えておくから」

 

「……あのさ、角野さん」

 

席を立とうとした時に声をかけてしまった、失敗したなと思っていると、角野さんは座り直して僕を見る。

 

「なに?」

 

「……上手すぎない?」

 

さっきまで、僕はとても角野さんと話していて楽だった。過呼吸のこともあったけど、昨日のことを少しだけ忘れて、楽しく話を聞いている自分がいた。

 

「そういうやり方を、知っているだけ」

 

「……例えば?」

 

「色々あるけど、下手だよ。本当はこういうときには君から話を聞くようにしなくちゃいけないけど、私がずっと喋りっぱなし」

 

「……ううん、角野さんの話は……いつも、楽しいから」

 

「なら、いいんだけどね」

 

またしばらく、無言の時間が流れた。

 

「……そうだ、お昼休み、大丈夫なの?」

 

「なんとかなるよ、君のほうが辛いだろうから、私はそれに合わせるよ」

 

「……うん」

 

そっか、僕は今、辛いんだ。角野さんに言われて、なんとなくわかった気がした。

 

「まずは寝て、できればしっかり食べて、あとはそうだね、走ってみるとかどうだろ。陽香さんみたいに」

 

それを聞いたときの僕の表情の変化を、たぶん角野さんは見逃さなかった。

 

「……ごめん」

 

そう言って、角野さんは深く頭を下げた。うなじと藍色のセーターの背中が見えるぐらいに。

 

「角野さんは、悪くないよ」

 

「そうじゃない。悪いとか悪くないとかではなく、私は君に良くないことを言った。もっと考えて、落ち着いて言葉を選ぶべきだった」

 

そこまで言うってことは、もう角野さんはだいたいのことをわかってしまっているのだろう。ただ、それが嫌だとは思わなかった。

 

話すようになったのは本当に四月からだけど、それでも僕は彼女はいい人なのは知っている。仕事をしっかりとするし、秘密は友達にだって黙っているし、なにより話が丁寧だ。

 

「……今は無理かもしれないけど、話すから、その時は聞いてもらえる?」

 

「わかった。なら、その時まで待つよ。場所は君に合わせる。あまり変な時間や待ち合わせ場所だとちょっと困るけどね」

 

角野さんはそう言って、頬を指でかいた。

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