角野さんのことを色々と考えてみる。歯型、だったっけ。最初は。
それを思い出すことは陽香にされたことを思い出すことと繋がるから、今までは目を逸らしてきた。でも、今なら多少は大丈夫な気がする。
ここは僕の部屋で、扉には鍵がかかっている。鍵と言っても内側からリングとフックで止めるようなやつ。でも確認したらちょっとやそっと押したり引いたりしても開かなかった。陽香が思いっきり扉を壊すつもりで突進してきたらわからないけど。
だから、何かを思い出したって怖くはない。そういう話は、前に角野さんから色々聞いた。専門書を直接読むよりも聞いたほうがわかりやすいだろう、みたいな話だ。
それはそうと、あの時のことについて考える準備は難しい。きっとそれは、もしちゃんと行われていれば、いいものになったかもしれないのに。
動けなかった。声も出なかった。今でも、その時を思い出すと辛くなる。もしもう一度、陽香にああいうことをされたら、僕はきちんとその手を振りほどけるだろうか、とかを考えてしまう。
わかってる。あれが恐怖で動けなくなっていたってことぐらいは。陽香はそれをわかっていなかったんじゃないかとは思う。
息を吸って、吐いて。大丈夫。まだ過呼吸にはなっていない。
本当は角野さんと通話でもしながらこういうのはするべきなんだろうけど、問題は角野さんについてなのだ。だから話せない。
呼吸をしても、まだなにか詰まったというかうまくできない気がする。心臓の音は聞こえない。
角野さんのことは、陽香から以前に聞いていた気もする。ステラ・コルセアを紹介した同級生ができた、みたいな。そういえば、角野さんは話し方の訓練を中学校時代にやっていたと言っていた。とはいえ、高校に入った時に積極的に友だちを作るとかそういう性格ではなさそうだ。
そんなことをするのは陽香のほうだろうし、陽香は多分そんな感じで声をかけたのだろう。僕と雰囲気も似ているとか言っていたし。わかると思うのが半分、角野さんに失礼だろと思うのが半分。
角野さんは陽香と挨拶をする程度の仲で、僕と陽香が話している時にちょっと入ってきたとかそういうのがきっかけじゃなかったかなと思う。ステラ・コルセアまわりの話ですぐに盛り上がってゲーム特化のトークアプリの連絡先をすぐ交換し合う程度には、僕と角野は気があった。
で、その時の名前を互いに知っていた。僕は日本語のローカライズ関連で角野さんのアカウントの名前を見たことがあったし、角野さんも僕を知っていた。というより、トークアプリにある日本語圏のステラ・コルセア情報共有サーバーで互いに話したことはないが見知った名前だった。
あとはそれで驚いて、ひとしきり僕が笑って、角野さんも小さく微笑んで、そんな感じ。なので、もしトークアプリ側で僕と角野さんのアカウントを見ている人がいたら最近絡みが多くなったなとか思っているかもしれない。
高校一年生でろくに友達ができなかった僕に陽香が気を利かせた、というのはちょっと邪推がすぎる気がする。そこまでではないと思う。ないよね。
角野さんの明晰さみたいなものは、話しているとすぐに明らかになった。ゆっくりと落ち着きながら、少し考えるような素振りをしながら、それでもちょっと自分の得意なテーマになると少し早口になるのが、なんて言えばいいのだろうか。
かわいい、というのが近い気はする。あまりいい気はしないけど。これはたぶん角野さんに僕が可愛さを求めていないからだな。魅力的、とかそこまで硬いものでもない。なんだろう。このあたりって小説とかを読んでいれば語彙が身につくのだろうか。
ともかく、そういう感じで新しい友人ができた。最初のうちは友人だった。少なくとも、僕の方からは。
で、異性だって意識し始めたのがあれの一週間ぐらい前だろうか?正直、思い出せない。それがあの時のことと関連しているから、と記憶を引き出さないようにしていたせいなのか、あるいは単純に忘れてしまっているのかはわからない。
いやその、別に僕は異性しか今のところ好きになった記憶がないし、自分の中の劣情は異性相手前提のものだったりするのであれだけど、ここで異性として意識って言葉はいまどき使っていいのだろうか?こういう議論はたぶん角野さんけっこう乗ってきそうな気がするんだよな。あくまで考察とかの文脈であって、僕が角野さんをそういう風に見ているってことには繋がらないような形になると思うけど。
また深呼吸。考え込みすぎて、その上別方向に思考が寄っている。何だっけ、そうそう角野さんについて。僕が好きになるタイプっていうのは結構幅が広い気がするから、角野さんのどこが好きかって具体的に聞かれると難しい。
でも話が合って、落ち着いていて、それでいて僕より深い知識と高い視点を持っているとかだったら、憧れ混じりの感情を持つのはそう変じゃないと思うんです。ただこうやって思ってみると陽香に対して僕が持っている劣等感とかと似てなくはないな。劣等感というのは否定的な言い方でよくないか。
そして、今になって思えば角野さんとは感情関連の話をあまりしたことがない。誰かが好きとかきらいとか、何かが楽しかったかどうかとか。角野さんは楽しいって言葉よりも興味深いとか人気のあるとか、そういう言い回しをする。
別に、他人と感情を共有したり他人の感情に影響されたくないっていうのはよくわかる。だから、たぶん僕もあえてそういう話はしなかっただろうし、角野さんから振ってくることもなかった。だから感情を読めないって話も始めて知ったし、苦労して今の状態になったというのもそれまでは聞いていなかった。
だから好きじゃなくなったのか、と思うところがある。そうじゃないと断言できないのが辛い。めんどくさそうな相手になったから、好きじゃなくなったんだろうというのはこれどこから来ているんだろうか。なにかの自己正当化かな。ああ、やっぱり角野さんとこういう話はしてみたいよな。
でもそれが、危ないことだということぐらいはわかる。良く言えば信頼だけど、悪く言ったら依存だ。それに、角野さんが僕の話を聞こうと時間とか気力とかを無駄に使ってしまう可能性もある。少なくとも、僕は陽香の話を聞くのが少し大変だ。
角野さんについて、ちゃんと考えるのは怖かった。それは自分の中のものを見なくちゃいけないということだし、角野さんをちゃんと一人の友人として捉えなくっちゃいけないということでもある。
でも、陽香に角野さんの話をするために、そして僕たちの間にいる人として角野さんにいてもらうために、避けては通れないというのはわかる。
わかっていても辛いものはある。きっと角野さんはそれを切り分けたから、話し方とか考え方を変えられたのかな、とは少しだけ思ったが、角野さんについてそのあたりを詳しくは知らないので邪推になるだろうと思って思考を止めた。