保健室のベッドで目を開ける。開けたってことは、閉じてたってことで、つまりは寝れていた、のかな。
上体を起こす。やけに心臓がうるさく鳴っている。息切れしているわけでもないのに、こんなに鼓動が激しいのはたぶん身体が疲れすぎているのだろう。
見渡しても、角野さんはいなかった。それはそうだ。少しだけ、身体が楽になっている。もともと激しく動いたわけじゃないから肉体的な辛さはそこまでなくて、精神的なものだったけど、それでも寝て少しはすっきりとできたはずだ。
ぼんやりと、自分にかかっていた薄手のシーツを見る。保健室はあくまで横になって休めるところであって、暖かくするとかみたいなことはあまり対応していないんだな。頑丈そうだけど寝心地はそこまでいいものでもなかったし。
「そうだ、時間……」
ポケットに入っていたスマホは取り出されて、枕元に置かれていた。たぶん角野さんだろう。一瞬だけ人のものを勝手にさわるなと思ったが、たしかに寝返り打って壊れたらなんで出してくれなかったんだと怒りそうだ。
なんていうか、疲れているのかうまく感情を抑えられない。角野さんは親切にしてくれるのは嬉しいけど、あまり頼りすぎないようにはしたい。そういう意味では、あまりいいタイミングではなかった。あとしばらくすれば、自分の中でもこれをどうにかできただろうに。
まあいい、起こってしまったことは仕方がない。
スマートフォンの電源をつける。時間は六時少し前だから、部活がそろそろ終わる頃だろう。自習室を使う人はもう少し遅くまで残れるけど。視線を時計から下のほうに動かすと「起きて余裕があれば返信を」との一文とともに、角野さんはやってくれたいくつかのことがメッセージに書いてある。
担任の先生と保健室の先生に僕が疲れていると言って、参加しているゲーム関連のコミュニティの方で僕が低浮上になるという話をしていて。確かにトークアプリのほうからの通知を確認すると、確かにそういうトークがあった。
つまり、角野さんは僕があと数日は動けなくても仕方がないという空気を作ってくれたのだ。良かったのだろうか。それは決して簡単なことじゃないだろうし、僕がもし落ち込んでいる角野さんを見てもここまでできなかっただろう。距離感がわからなくて関われないか、あるいは突っ込んでしまって余計なものを出してしまうか。
身体を起こす。カーテンをくぐると保健室の先生がいた。あまりお世話になったことはないけど、顔ぐらいは知っている。
「少しは、楽になった?」
「はい。ありがとうございます」
そう口では言えたが、正直まだ辛かった。それでも、何かあったら話せる人がいるというのは少しだけ安心だ。
鞄を取りに教室に戻ろうとして、電気がついていることに気がつく。誰かいるのだろうか、と覗き込む。
「あ……」
それがどちらの声だったかは、わからない。あれから初めて、陽香を正面から見た。
いつも丁寧に手入れされているはずの髪がすこし跳ねていて、いつもみたいに明るく真っ直ぐ前を向いているわけじゃなくて視線が落ちていて、それで、僕と目があって。
急に世界が眩しく、それなのに周りのものが見えなくなって、ゆっくりになった気がした。背筋をぞわりとよくわからないものが走って、思わず喉が鳴って、胃から何かが出そうになった。
陽香は、鞄を持って逃げるように駆け出した。それから僕が動けるようになるまでは、どれぐらいかかっただろう。金縛りというものを僕は知らないけど、こういう感じなのかなと思いながら、足に力を入れられなくなって、へたり込んでしまった。
身体を動かせなかった。陽香は僕を、どういう目で見ていたっけ。顔を合わせられないのは、わかる。でも、何かを伝えなくちゃ、いけないわけで。
通知音がした。しばらく経ってから、スマホを取り出せた。
来てた僕を心配する角野さんからのメッセージをスワイプして、通話ボタンを押す。
「桂介くん?今は大丈夫だよ」
「……ちょっと、さ。今、学校で……帰るまで、話をしない?」
「いいよ、どういう事を話す?もしないなら、いま私がやってる翻訳の相談に乗ってほしいんだけど」
「……ステラ・コルセアの?」
僕はそのゲームの名前を言う。僕が陽香に紹介して、陽香が角野さんに紹介して、結果として僕と角野さんが仲良くなるきっかけとなったゲームだ。
「そう。バージョンアップの話があって、それに合わせて過去の台詞を調整中」
となると、角野さんは作業しながら会話をしているのか。すごいな。僕が公式Wikiを編集する時はそういう事をすると気が散って仕方がないのに。
「あれ、来るの?」
「昨日出したよ、日本語版の開発ログ」
「……読めてない」
「読めそうなら、見てほしいな」
「……うん、ちょっと、帰る準備するね」
「わかった、私はここにいるから」
「……ありがとう」
「いいの。君に助けてもらったから、これぐらいはね」
助けた、か。そんな記憶はないのだけど。四月に会って、共通の知り合いの陽香の話で盛り上がって、そこからステラ・コルセアの話になって。
「だいじょーぶ?」
考え込んでいたら、スマートフォンから声がした。
「うん、聞こえてるよ」
「よかった、無言だとちょっと怖くなっちゃって」
そう言って、回線の向こうから小さな笑い声が聞こえた。
「……角野さんも、怖くなるんだ」
「……そうだよ。怖がることは、別に変なことじゃない」
角野さんが話すペースが、少しだけゆっくりになった。
「暗闇とか、失敗とか、過去とか。確かに、それに立ち向かうのはすごいことだけど、そうできなかったからと言って誰も責めないし、悪いことじゃないんだよ」
「……うん」
「それはそうと桂介くんは編集長とかいうかなり大変な仕事しているんだから、普通にすごいと思うよ?」
「公式の日本語翻訳やってる人に言われてもな……」
「私たちはチームだけど、桂介くんはリーダーでしょ」
「……引き継いだだけだよ」
「引き継ぐに足るって思われているんだよ。その点では、胸を張っていいと思うよ」
胸を張る、か。そういえば、陽香っていつも元気で、背中を伸ばしていたよな。中学生の頃からずっと、僕とは違った人だと思っていた。もう別の世界を過ごしているんだなって、そう思って、気持ちを抑えつけたんだっけ。
「おーい」
「ごめん、今から学校出る」
「わかった」
「それで、翻訳の話だっけ」
「そうそう、口調をどうするかなんだけど……」
そう言って話し出す角野さんと通話している時間の間は、少なくとも昨日の事件を思い出さずに済んだ。