「角野さんってさ」
ある程度食べ進んだところで、陽香が口を開く。
「自分の思ってることを誰かに言うの、怖いの?」
「……怖い、のかな?」
角野さんは首を傾げていた。こういうのはあまり見ないな。いつももっと素早く返事をする気がする。頭の回転速度が僕と違うから結果としてそう見えているだけかもしれない。
「角野さんにも、うまく言葉にできない時があるんだ」
「いや言葉にできないわけじゃないよ、質問の意図がわからない?違う……思っていること、というより感情だよね」
「じゃない?」
「……私は、感情を表に出せているように見える?」
「とても」
「けっこう」
陽香と僕は言う。諦めたような表情の角野さんは、目をぱちぱちとさせた。
「そっか、なるほど……」
「あたしが最初に角野さんに話しかけたときよりも、今はずっといろいろなことを楽しんでいるし、さっきまでちょっと辛いっていうか嫌そうだったし……」
「それは、ある意味では私の訓練が失われているってことでもあるんだよ」
角野さんの声色には、悔しさと諦めみたいなものが滲んでいた。
「……陽香、ちょっと」
「なに?」
「……桂介くん、私の過去の話をするなら、それは私から言うべきじゃないかな」
「直接言える状態?」
「……うん」
「僕が知っている冷静な角野さんなら、そんな時間をかけて断定したりしないよ」
「……陽香さんはどう思う?」
「あたしも一旦桂介から聞きたい。でもそれは、角野さんを信じてないってわけじゃなくて……桂介がどう聞いたのかを知りたい、みたいな」
「桂介くんの視点からの意見を聞きたい、と。わかった、それなら大丈夫だけど、ちゃんと後で私の話も聞いてね」
「わかってるって、桂介は説明に抜けとか普通にあるし嘘は言わないけど間違ったこと言われたときあったし」
「あったっけ」
「小四の遠足の時。休んだあたしに遠足に必要なもの言った時に水筒って言ってなかったでしょ」
「いつの話だよ、っていうかそこまで覚えてるの?」
「ちゃんと桂介が言ったとおりにメモ取ったのに。そのメモ、まだ残っているよ」
「捨てなよ」
「あの、二人とも……」
角野さんがちょっと声をかけてきて、僕たちは両方とも落ち着けた。深呼吸をしよう。
「……角野さんの、昔の話。僕も全部、きちんと聞いたわけじゃないけど」
そういして、僕は話していく。それは、きっと僕の想像や勝手な思い込みも混じっているだろう。でも、僕には陽香よりも角野さんに似ているところが大きい。前に聞いた自閉スペクトラム症の話。中学生の時の練習の話。
それが、どれだけ大変かは僕にはわからない。でもそれはきっと、左利きを右利きに直すような、そういう辛いことだったのはわかった。
「……じゃあ、角野さんの話し方って」
「全部、練習したもの……だと、思う」
しばらく、陽香は黙っていた。
「桂介、話は終わり?」
「たぶん」
「……ねえ、角野さん。私が聞いた話って、どれぐらいあってる?」
「前後の関係が少し怪しいところがあったけれども、概ねその認識で間違ってはいないと思うよ。ただ、少し補足を」
そう言って、角野さんは手元のアイスティーをストローで一口分吸った。
「小学生の頃の私は、いじめられやすいような子だった。おどおどとしていて、でも教室の中では大人しくできなくて、授業を質問で中断して、そして同級生の顔も名前も覚えられないような。そういう生徒に、心当たりは?」
一部は、僕にも当てはまるだろう。陽香にはたぶん当てはまらない。
「いた、そういう子。あたしが小学校五年生ぐらいの時かな」
ちょうど僕と陽香が別のクラスになっていた時期だ。そういう話は聞いたことがなかった。
「それまで保健室登校で、たまにクラスに来て、うるさいことがあった。その時のあたしは、ああまたあいつが来たよって嫌になってた」
「だろうね、そう思う感情は否定しないよ」
「今なら、そう思うべきじゃなかったとはわかるけど。で、角野さんがそういう子だった……わけだよね」
「そう」
角野さんの口調には、恥ずかしさとか誇りとか、そういう過去の自分に持っているような感情が感じられなかった。
「それで、小学六年生の時かな。決定的な問題をおこした。私は嫌なことを言ってきた、と私が当時感じた同級生を殴った。小さくない問題になったよ。私を擁護してくれくれる人もいた。私が殴った彼女も、他の生徒からは威張っていると言われていたらしいから」
淡々と、角野さんは会話を続ける。
「もちろん、今なら相手の人にもそれなりの事情があったのだろうし、対応できる環境があれば良かったのだろうなとは思う。でも私は、当時私を責めた人も、かばってくれた人も覚えていない。卒業まで、私はまともに学校に通えなかった。かわりに精神科にある病院に行って、診断を受けた」
陽香は頷いたが、それはけっこう精一杯の頷きだったのだろう。
「そこで、私は自分がどれだけ他人から嫌われるようなことをしていたのかをやっと理解できた。そうして自分が嫌になって、変えることにした。中学校という新しい環境で、ずっと練習をしていた。話し方がおかしくならないように。いきなり騒いだりしないように。散らかしたり、物を忘れたりしないように」
「……そういうのって、やめようって思ってできるものなの?」
陽香が言う。
「普通はできないから、周囲の人がどうにかするしかない点も多い。でも、私はできてしまった」
「……そっか」
「でも、私は全員が自分で直せると思っているわけじゃないよ。私がちょうど、そういうのが多分他の人よりも得意だっただけ。自分の中で何が起こっているか考える癖をつけて、いつでも気にするようにした。それを忘れないように、いつでも気がつけるようにって」
陽香にとって、それは多分想像できないものだろう。そういう意識的な継続行動は、陽香にはあまりない。僕もしないし、想像できないけど。
「そんなことしたら、自分の思っていることを言えなくならない?」
「それで他人を傷つけたら、例えば具体的に私は衝動的に桂介くんに暴言を吐いたら、陽香さんはそれをゆるせる?」
「……わかった。角野さんって、とってもいい人なんだね」
「陽香さんからそう言ってもらえて、本当に嬉しいよ」
「でもさ、そういうことしてたからなんていうか……素直じゃなくなったっていうか、下手になったんじゃないの?」
「何が?」
角野さんは、不思議そうな顔をした。
「自分のやりたいことをしたり、他人のやりたいことを考えたりするのが」
「……それは、元からだよ。私は人の感情が読み取れないし、共感も難しい。たぶん、陽香さんが普通にできることを、私はできていない。だから、素直に見えないだけだと思うよ」
角野さんの言葉に、陽香はまだ不満というか、すっきりとはしていなさそうだった。