電車は空いていたから、三人で二人がけの向かい合うような空間に座れた。
「……陽香さん、寝ちゃったけど」
そう言う角野さんに寄りかかって、陽香は寝息を立てていた。疲れていたのだろうか。昨日寝不足だったとか。いや僕じゃないし、ストレスとか緊張とかそっち方面だろうか。僕じゃないし出かけた程度でそうなるとは思えないが。
「重かったら逆向きに倒しておけばいいよ」
「大丈夫。嫌じゃないから」
「ならいいけどさ……」
羨ましいとかは、思えなかった。むしろ寄りかかられることを想像すると、今は嫌な感じが込み上げてくる。ふらつくような、背筋を濡れたものでなぞられるような。
わかっている。これは少なくとも、正常な反応じゃない。せいぜい鬱陶しいな、ぐらいで終わるはずのものなのに、僕はそれを感じられない。
「少し、顔色悪くするかも」
「わかった。なら、黙っておくね」
少しだけ暗くなっているけどまだ空は明るい外を見る。夏休みももう半分終わってしまった。宿題や課題は半分も終わっていない。いや別にやらなかったら死ぬとかそういうわけじゃないけど、それで授業に追いつけなくなったり難しい問題が出た時に手間取るのは僕で、苦しむのは僕だ。
陽香のことは、まだ、元通りに思えてはいない。近くにいるのは、大丈夫。話すのも、できている。たぶん。でも、あの時のことを思い出すようなことは、だめ。
「……角野さんから見て、僕って良くなってきている?」
黒い街の部分が向こうに見えるガラスで反射した先に見える角野さんの目を見て、僕は言う。
「たぶん。少なくとも、問題が起こった時にきちんと自分で対処している。私が動けなくなる前に、その状態まで持って行けて本当に良かった」
「……動けなくなる前、って?」
僕の質問に答える前に、角野さんは陽香の頭が乗った肩の位置を動かさないようにしながら器用に背中を伸ばした。
「誰かを助けるって、かなり負荷がかかるものだから。私がそれにどこまで耐えられるかわからなかったから」
「……無理してないよね」
「定義にもよるよ。私は今日、ちょっとだけ無理して君と陽香さんと遊びに行った。背伸びと言ってもいい」
「そういう意味での無理じゃない。……あのさ、角野さんがいないと僕はとても困ると思うし、すごい感謝しているけど、だからといって角野さんがやめちゃいけないわけじゃないっていうか……その……」
「支援を受けている側があまり考えなくていいよ、これは私の問題で、二人は気にしなくていいから」
「……信じられない、って言ったら?」
「その場合は普通に理由を聞きたい。そんなに危ないように見える?」
角野さんの言葉に、僕は少し考える。僕は陽香ほど相手の気持がわかるタイプじゃない。それでも、角野さんは得意なんじゃないかと思っている。
「……あのさ、角野さんってあまり感情的なことを言わないよね」
「そうだね」
「だからさ、辛いのか、わからないことがある」
「……辛いって認識したこと、確かに最近ないな」
「それが本当に辛くないのか、感じることができていないのか……っていう違い、でいいのかな」
「わかるよ。音声を切ってて警告音が聞こえない、みたいな……私もたとえが良くないな」
「でもそう、そういう感じ」
「心配してくれたことに、まず感謝を。それでも、私はこれに慣れているし、危ないタイミングは見極められているはず」
「……わかった」
「とはいえ陽香さんにももし危ないって言われたら、たぶんしばらく休むよ。というより、夏休みは結構休んだからね」
「休めてた?」
僕と陽香はちょくちょくメッセージをやり取りしていた。それを角野さんは監視していたわけで、きちんと肩の荷を下ろせていたのかは正直言って怪しい。
「うん。しっかり寝たし、運動もした。朝ご飯も食べた」
「僕より健康的だ……。というか、運動って暑くない?」
「日が昇る前なら比較的大丈夫だよ」
「何時だと思ってるのさ」
「早く寝れば良いんだよ」
当然のように言うが、自堕落な高校生にとってそれがどれだけ難しことか。いやこれはただ単に僕が自堕落なだけだな。
「……うん」
「あたしももう今は昼に外で走らないよ」
僕が言うと、陽香が目を開けた。陸上部だから練習はやめられないのか。
「……起きてたの?」
「なにか言ってたのは覚えてるけど、何言ってたか覚えてない。なんか聞いたらいけないこと話してた?」
「特に問題ないよ、ところでなぜまだ私の肩に頭を?」
「……だめ?」
陽香の声色は、聞いたことがないものだった。頼るような、お願いするような。
「……いいよ」
角野さんの声は、諦めたようにも受け入れたようにも聞こえた。何が違うのかは考えた自分でもよくわからない。
「あのさ、あたしってこうやって他人に寄りかかって寝たこと、ずっとなくて」
「前にはあったの?」
角野さんが聞くと、陽香は小さく頷いた。
「……桂介と一緒に、車で出かけた時」
「いつだよ」
記憶を探る。具体的なことを覚えていないか、あるいは陽香が勘違いをしているか。
「……覚えてない」
「……そう」
車で出かけた、か。多分僕の両親と陽香の家族とで出かけた時だろう。あの時はええと、確か全部で七人かな。陽香のお姉さん、今では思い出せない。
「……昔から、そういう繋がりがあったんだよね」
角野さんが聞いてくる。僕は頷く。
「小学一年生の頃から、だから」
「そっか、いいね」
角野さんは、軽く目を閉じて言った。
「私はさ、それぐらいの時期の友達はほとんど覚えていないから」
「……忘れたの?」
僕の質問に、角野さんは首を振った。
「覚えられていない。覚えてないことって忘れられないから」
「どういうこと?」
陽香は寄りかかったまま質問をした。
「人間の顔と名前を、かなり意識しないと覚えられない。今は慣れてきたけど、当時はね」
「……あの、さっき言ってた覚えていないっていうのは」
僕が言うと、角野さんは頷いた。顔を覚える気になれないのは僕もたしかにそうだけど、慣れるものなのか。そういう方法を見つけたのか学んだのかは知らないけど。
「そういうこと。だからもし、今日の桂介くんがいきなり現れたら、私は君を認識するまでに少し時間がかかると思うよ」
角野さんがそう言うと、降りる駅が近づいたアナウンスが電車の中に流れた。