一度で二歩は進めない   作:小沼高希

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047 手首の円周

夏休みは過ぎていく。やることが多いのにすぐに眠くなって、起きて少しぼんやりしたらお昼になっている。

 

それでも、宿題の進捗は順調だ。陽香がきちんとどれぐらいやったかを定期的に聞いてくるので、それに合わせるために急いで終わらせている。計画性という表現が完全に当てはまらないような行動だが仕方がない。

 

たまに、ベッドで以前のような向きで寝てみようとしてみる。でも、常にうまくいくわけじゃない。大抵は嫌な感じというか、自分がなんでこの向きで寝ているんだっけと考えて嫌なことを思い出して叫びを噛み殺したような少し高めの響くような音を声帯から出すことになる。

 

パソコンに映る英語の四択問題を答えていく。こういうのは何を聞かれているかわかれば案外難しいものじゃない。問題はそういう前提なしにいきなり出されたときに、何を聞かれているか、どの知識を使えばいいのかわからなくなることだ。

 

でもそれが問われているし、それがわからないといけないんだよというのはちゃんと理解してますから。多分このあたりは、やっぱり慣れというかそれなりに時間をかけないとうまく行かないことが多いのだろうなとは思う。

 

陽香はああ見えてきちんと勉強をするタイプだ。休日とか放課後に結構遊んでいるように見えるし、部活も頑張っているけど、それでもちゃんと宿題とかができるような体力がある。羨ましい。

 

角野さんはたぶん勉強が苦じゃない人だ。本を読んだり知らないことを知ったりするのが楽しくて、それに疲れることがあまりない。だからいろいろなものを取り込める。

 

僕については、ほんの少しの分野を除いてはそういう得意というかやっていて辛くないみたいなものがないし、興味を持ったところでやれるかどうかは話は別だ。それに義務感みたいなものがあるとやったところで定着が低い気がする。義務感がなければそもそもやらないけど。

 

そして進めた量は全体から見れば微々たるもので、今日やる予定の半分にも満たない。そしてこの今日やる予定のペースだと夏休み終わりに追いつけないんですよ。どうすればいいんですか。

 

叫びたくなる。何かを殴ったりジタバタしたり蹴飛ばしたりそういうことをしたくなる。しないけど。どうせ僕が壁殴っても痛むのは僕の手です。ひ弱だから。

 

疲れたのでベッドに寝転がる。天井の電気を隠すようにして眩しさを軽減し、自分の手首を見る。陽香って僕より太いんだっけ。

 

少しだけためらってから、僕は左手で右手首を掴んでみる。手の中にすっぽりと入った。

 

「……わかるな」

 

思わず呟いた。何がわかったのかは、正直今はわからない。でも、なんていうか、陽香について納得できた気がする。

 

落ち着こう。僕は一体何に納得したんだろう。少しずつ、考えていこう。

 

いや、わかっていることはある。あの日のことだ。僕が今、ここで寝っ転がっているのと同じような姿勢でいた時に、されたこと。

 

陽香の気分は、わからなくはない。自分の腕の中の手首の細さを感じたら、それを支配できそうな気分がしてしまうのもわかる。きっと、それで動いた身体のことを、心がわからなかったのだろう。いや、これはかなりこじつけとか偏見とか、そういう感じのやつだな。

 

深呼吸をする。大丈夫。怖くはない。僕はちゃんと、前も陽香と一緒にいることができた。陽香だって、自分のしたことの重大さがわかっている。

 

怖かったのは間違いないけど、今、ここで、怯える必要はない。

 

まあ、そういうことを考えてもやっぱり心臓の音が少しづつ強くなっているのはわかるし、嫌な感じみたいなものはあるけど、それが全部、間違ったというか、本来起きなくていい反応なのはわかっている。

 

我慢するわけじゃない。少しだけ、落ち着いていればいい。無理だったら、すぐに逃げられる。もっと心が安全だと思う姿勢だってある。だから、今は少しだけ、逃げてたことから考えてみよう。

 

陽香は僕のことが好きだった。僕は角野さんと楽しそうに話していて、陽香は僕を取られるとか、そういうことを考えたのだろう。

 

性格からすると、多少乱暴にでも取り返そうとするはずだ。僕はものじゃないし、そもそも角野さんは僕を取ったわけではないけどさ。

 

最初は軽いアプローチを掛けてきた。一緒に帰ろうとか。僕は最初は断った。いやだってあの陽香がわざわざ帰ろうって言ってくるんだよ、何か面倒事とか振られそうじゃないですか。クラスの案件でもあるのかな、とか。

 

でも、今考えたらもっと穏当な提案の可能性だってあったわけだ。陸上の試合を見に来ないか、とか。いやそれもあまりなさそうだな。ステラ・コルセアでハイスコアが出た。あっこれはありそう。

 

好きって言われたら、僕は受け入れられただろうか。昔恋人がいたらしい時のことを思い出す。どういう人だか、結局覚えてないや。顔を見たことあるのかもわからない。僕と陽香が中学生の頃。

 

角野さんじゃないけど、僕も顔とかのあたりは苦手だ。ましてや僕は嫌な記憶とかを思い出さないようにしているから、その過程で色々なものが消えてしまうのかもしれない。

 

何をされるかわからなくて、身体が固まって、何をされたんだっけ。鮮明に思えた感覚も、丁寧に考えていけばぼんやりしていく。嫌なものはそうなんだけど、思ったよりも覚えていないというか、忘れ始めているんじゃなかって。

 

陽香は痛かっただろうな、と思う。僕にする以上に、陽香は自分に乱暴だった。別にだからといって陽香の罪が軽くなるとか、そういうことじゃないけど。

 

幼馴染から襲われた、なんて他の人に言ったら変なことを言われるのはわかる。最悪、良かったなとか言ってきそうな知り合いがいる。いや、別にそういう方面じゃなければそこまで悪いやつじゃないただの知人なんだけどさ。この手の話をできる信頼がないってだけ。

 

もしあれが、もっとゆっくりだったら。例えば、僕が動けるようになるまで陽香が待っていてくれていたらとか、そういう事を考える。もしそうだったら、僕も陽香も、あと巻き込まれた角野さんも辛いことにはなっていなかったはずだ。

 

僕は何も言えなかったけど、陽香から見たら受け入れたように感じられたのかもしれない。そういう事に不慣れで、ちょっとだけの知識で感情的に動いて、それで大失敗した。いつもの陽香だな、とそれだけ聞くと思える。

 

この考えを進めるのはやめておいた方がいい雰囲気が心のどこかでした。それに逆らう理由もないので、僕はベッドから体を起こして残っている課題をやることにした。

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