一度で二歩は進めない   作:小沼高希

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051 日常の再開

まだ残る蝉の声。少しだけ襟の裏に染みる汗。クリーニングに出してそのままクローゼットにしまっていた制服は、まだ折り目が残っている。

 

「……眠い」

 

完璧な計画は破綻していた。そんなことは、最初からわかっていた。ずっと目をそらしていただけ。それでも、今日提出のぶんはきちんと終えることができた。

 

教室に入る。一ヶ月半前に自分がどこに座っていたのか一瞬思い出せないが、埋まってきた席と雰囲気でたぶんここ、と割り当てる。

 

隣からの足音。荷物を机の横のフックに引っ掛ける音。

 

「おはよう、桂介くん」

 

「……おはよう」

 

角野さんは、やっぱり今日も綺麗だった。なんていうか、制服姿の角野さんをじっと見ることができるようになったのも変な気分だな。

 

今でも嫌いではないし、好きかどうかと聞かれれば胸を張って肯定できる。恋愛的な意味で、というわけではないと僕が思っているけど。

 

夏休み前まではトレードマークみたいだった藍色のベストじゃなくて白のポロシャツになっている。暑いからかな。最近は衣替えのタイミングもわからなくなっている。

 

「……何か、面白いものでも観察できた?」

 

「視線を向けられているの、気がつくの?」

 

「相手が何を見ているのかを知るのは、相手を把握するための最初のステップだから」

 

なるほど、そういうふうに角野さんは見るのか。たぶん陽香とかはこういうのを無意識のレベルでやっているんだろうな。勝てるわけがない。

 

「……わかった」

 

「ただ、相手の目を直接見ると良くないから少しだけ視界の中心から外して端で見たほうがいい」

 

「もしかしてこれってだれでも使えるわけではないテクニック?」

 

「そうかもしれない」

 

こんな馬鹿な会話ができるほど、僕と角野さんの関係も落ち着いたのだろうか。

 

「……桂介、今日は早いね」

 

僕と角野さんの隙間を通るように、陽香が教室の後ろから入ってくる。朝練かな。

 

「いつも遅刻ぎりぎりで登校してるわけじゃないから。あと、今日はどのくらい走ったの?」

 

「ストレッチメインで、ゆっくりと二キロぐらいしか走ってないよ」

 

「……はい」

 

二キロメートル。僕にとっては相当長いですね。

 

「陽香さんの足だと、十五分ぐらい?」

 

角野さんが聞いたので、陽香は一歩引きながら角野さんの方に振り返るように身体を向けた。

 

「十二分。ペース把握もあるから、全力じゃないよ」

 

「なるほど、となるとマラソン大会は三十分を切れるのね」

 

「できたら二十分代の前半を狙いたい。二十分切れたら最高かな」

 

「なるほど」

 

納得したように、角野さんが頷いた。

 

視線、と言われたことを思い出す。ちらりと陽香の方を見ると、角野さんの方に向けていた視線をすっと一瞬こっちに向けてからそらした。ええと、これってどういうことなんだろう。

 

「で、桂介って宿題終わったの?」

 

「今日の分は」

 

これについては胸を張って言ってもいいだろう。お陰で今の脳の機能はかなり落ちている。始業式とかなんとかやって、その後はなんか交通安全と薬物のセミナーがあるけどそれでも普段より早く、昼食には遅いぐらいの時間だけど帰れるのでなにか食べて寝よう。

 

「……よかったね」

 

「頑張ったよ……」

 

そんな幼馴染らしい、ある意味でわざとらしい会話をして陽香は自分の机の方に向かって言った。嫌な感じは、しない。そんな事を考える余裕もないぐらい疲れている可能性もあるけどさ。

 

クラス委員の人が宿題を前に回してほしいといったのでプリントを後ろの人のやつと重ねていく。うわ、丁寧な字。僕のは見るからに走り書きで、時間がなかったのだなとわかるような代物だ。

 

「早く回せよ」

 

「わかったって」

 

後ろの席の男子はなんていうか、明るいやつ。確か野球部だったっけ。たぶん陸上部の元気さと体力と体格、あと雑なところがある気性を混ぜればそれっぽくなるのだろう。もちろんそんな世界は単純じゃないってわかってるけどさ。

 

陽香だって、ただの元気な陸上部の女子じゃない。角野さんも、クラスの隅で本を読んでいる文系女子じゃない。文系理系の選択はあるけどこの高校のこのクラスだとそこまで意味がないんだよな。国公立目指すなら結果として共通テストで文理関係なくやる必要があるわけだし、大学でやる二次試験ででてくる範囲はかなり多様化しているから結局個人で頑張るしかないし。

 

ああ、嫌だ。受験が迫ってくる。来年はきっと宿題のかわりに大学の過去問をやるんだ。宿題と違って自分で結局やるしかないから誰かとペース合わせたほうがいいと思う。陽香か角野さんか。どっちも嫌だなと思ってしまう。劣等感で潰されそうだ。

 

そんな事をやっていると校長室からの配信が黒板のプロジェクターに投影される。確かにこの暑さで体育館なんかに全員集めたら死人が出るな。空調があるとはいえそこまで強いわけでは無いし、体育の授業とかでやる分には大丈夫だけどもっと人が入ると大変そうだ。それに制服なんて熱がこもるしね。

 

校長の落ち着いたトーンの話は別に面白くもなく記憶にも残らず進んでいく。いや、こういうのは楽でいいな。見られているって感覚がない。一応こちらの教室の様子も向こうの画面には映せるはずなのだが、クラスの数を考えればそこまででもないだろう。解像度からしても、僕が目を時々つぶって眠気を誤魔化していることは気がつかれないはずだし。

 

なんていうか、周囲を見れるようになったんじゃないかと思うところがある。陽香との関係が酷いことになってしまったあの時から、僕の頭の中は陽香のことでいっぱいだった。悪い恋みたいだ。さらに悪いことに、思い出しても楽しくないし身体が変な反応をするし忘れられない。

 

角野さんに無理やり視線をずらされなかったら、と考えるとたぶん危ないなと思って深呼吸。話をしている人は警察の方から来たというおじさんに切り替わっていた。自転車使ってないから関係ないな。

 

イヤホンをつけて外の音がわからないようにするなとか、歩行者優先の場所では歩行者を優先しろとか、そういう話ばっかりされる。自転車は最近乗ってないな。やろうと思ってすぐに乗れるようなものなんだろうか。

 

そうして、薬物の話がやってくる。中学校でも聞いたことがある気がするけど、正直どういうものだったか覚えていないな。うとうとしてきたので顎を支える右手を胸に押し付けるようにして固定しつつ、あくびを噛み殺してスクリーンを見た。

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