一度で二歩は進めない   作:小沼高希

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006 解体の開始

「いい、桂介くん」

 

角野さんの目は今までよりも真剣で、まっすぐと僕を見ていた。

 

「たとえ君に原因があったとしても、君に責任があるわけではない。君の精神に起こっている現象は、決して珍しいものでも、異常なものでもない。もし責任を負うべき人がいるとしたらそれは陽香さんだけだ」

 

そこまで言って、角野さんは僕の肩に乗せていた手をびっくりしたように離した。

 

「……今、身体は大丈夫?」

 

「大丈夫、って……」

 

「どこか緊張していない?心拍数が上がったり、あの時の記憶が蘇ったり、そういうのは……」

 

「……今は、大丈夫」

 

「よかった……」

 

角野さんは息を吐きながら、本棚に体重を預けるようにもたれかかった。

 

「何を、心配しているの?」

 

「君の急性ストレス障害のトリガーがわからなかったから、もしかしたら他人との接触とか、声とか、距離とかじゃないかと思って」

 

急性ストレス障害。名前はしっくり来るけど、聞いたことはなかった。

 

「……違う、と思う」

 

思い返してみると、自分がどういう時にそれに怯えていたのかがはっきりとは思い出せない。それが起きた事自体を忘れようとしていた気がする。

 

「今後、しばらくの話をしたい」

 

そう言う角野さんに、僕は頷いた。

 

「この件の秘密を共有できるのは……確実には三人」

 

「三人?」

 

「私と、君と、陽香さん」

 

「……そっか」

 

僕に何があったか知っている人には、陽香もいるんだ。加害者なのかもしれないけど、それを知っている相手が僕をよく知っているだろう幼馴染だというのは少しだけ安心してしまう。

 

「長期的には、陽香さんの側の対策もしたいけど、今は桂介くんのほうが優先。できれば、これが短期間で終わればいいんだけど……」

 

「……終わらないと?」

 

「心理学用語になるけど、心的外傷後ストレス障害と呼ばれるものになる」

 

また文字通りっぽいな、と思ったが、僕は意味がわからなかったので素直に首を振った。

 

「トラウマ、と言えばわかる?」

 

「聞いたことはある」

 

怖いものを見てトラウマになったとか、高いところがトラウマだとか、そういう言葉として使われている。たぶん心理学の言葉なんだろうけど、ちゃんとした意味は知らない。

 

「……雑に言ってしまうと、それは心にできた傷なんだよ。さっき骨折の話をしたけど、似たようなもの。治療法もある程度決まっているけど、それで完全に治るわけじゃない」

 

「……うん」

 

治るものなのか、というのは少しだけ心に余裕を与えてくれた。前の過呼吸の時に角野さんが死ぬことはないと言っていたけど、似たような感じ。少し直球な言い方で、悲観的なものが混じっているけど、僕はこういう言い方に慣れている。

 

「そのトラウマの原因から一ヶ月ぐらい続くのが急性ストレス障害。それ以上なら心的外傷後ストレス障害になる」

 

「……何が違うの?」

 

「そのまま期間が違うし、あとは薬の利用とかも異なってくる。でも、基本的な症状も、それへの対処も基本的には同じだよ」

 

「何をするの?」

 

「一つは、それが普通のことだって知ること。嫌なことを思い出すのも、眠れないのも、辛いのも、それを吐き出しにくいのも、おかしなことじゃない。骨が折れた時に、階段を登れないのは当然だし、その時にはエレベーターを使うべきでしょう?」

 

「……うん」

 

「ただ、問題は辛い時にはそういう知識が悪い方向に働くこともあるってこと。気分が落ち込んでいる時には何を見ても良くないことしか考えられない、ということもあるから」

 

「……詳しいね」

 

僕がそう言うと、角野さんは視線を僕からそらして目を何回かまばたきさせた。

 

「うん、昔さ、その手のことを調べてた時期があって。最近も調べたけど、私はどうしても経験がない。話しすぎることもあるし、君ときちんとした距離感を保てるかはわからない。だから、専門家に頼るのも手の一つだと思う」

 

「……でも、そうすると他の人に」

 

「そう。どういうルートで流れたのかはわからないけど、私と桂介くんの関係の嘘が出回っている。その点では、君に迷惑をかけた」

 

「それは、いいよ。角野さんが僕のことを……その、嫌いなわけじゃないでしょう?」

 

角野さんは、大きく頷いた。

 

「これは、仕事じゃないから。私は、私の嫌いな人のためにはこんな事をしない。桂介くんは私にとって価値ある人だし、大切な友人だから」

 

「……そっか」

 

「だから、頼れるところは頼ってほしい。自分で判断できないと思ったら、信じてほしい」

 

「角野さんに、負担がかからない?」

 

「そうならないよう、私は私でなんとかがんばるよ。それは君が心配しなくてもいいことだし、君はまず自分をきちんと心配するようになるべきだ」

 

「心配……」

 

「そう。陽香さんについても、私が間に入るよ。向こうから信用してもらえるかはわからないけど」

 

「……大丈夫だと、思いたいけど」

 

「私から見れば、落ち込んでいるように見えた。桂介くんは、陽香さんのこと、見れた?」

 

首を振る僕。一昨日の放課後の教室のことを思い出してしまう。たぶんあの時の陽香さんは、とても辛かったはずだ。僕はそれを、自業自得だとは言いたくない。

 

「そっか……。私の立場を、先に説明しておくね」

 

そう言って、角野さんは僕から一歩下がった。

 

「私は、桂介くんも陽香さんも幸せになって欲しい。それは別に二人が元通り仲直り、ってわけじゃない。それはきっと無理だし、目指すべきじゃない。二人の関係が一旦置いといて、それぞれが落ち着いて自分を大切にできるようにしたい」

 

「……陽香にも、僕と同じようなことをするの?」

 

「同じようなこと、って?」

 

「こう、説明したり、話したり……」

 

「あまり効果的じゃないと思うけど、するよ。君はこの手の話が得意だけど、陽香さんはそうじゃない。でも、話してわからないはずじゃないはずだ」

 

「……そう、だね」

 

別に陽香は感情で動くことが多いだけで、きちんと考えてはいるのだ。それに、考えるのだって苦手じゃない。長距離を走るためのペース配分が難しいことを前に話していたし、ステラ・コルセアだって何も考えずできるゲームじゃない。

 

「それは、君の目には私の裏切りに見えるかもしれない。加害者への肩入れに思えるかも……」

 

「そんなことはしない」

 

「言い切らないで。もし責めたくなったら、そのことに嘘はつかなくていいから」

 

「……そんなことは、したくないし、もししたら、言って」

 

「それなら、約束する」

 

そう言って、角野さんは右手の小指だけを立てたようにした。

 

「……指切り?」

 

「こういうの、したほうがいいかなって」

 

「……大丈夫」

 

少しだけ角野さんに触れられる機会だったじゃないかと考えた心をなかったことにして、僕はあまりうまくできない笑顔を作った。

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