一度で二歩は進めない   作:小沼高希

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071 傷跡の想起

角野さんは、ぼんやりと外を見ている。

 

さっき話しかけようとしたら、小さく首を振られた。仕方がない。別に今の時点で角野さんに頼らなくちゃいけないことはないから、と落ち着いて僕は自分のやらなくちゃいけない問題を見る。

 

単語を覚えるのをさぼっているから、知らないものが普通に出てくる。でもなぜか知っている単語がある。catalystって触媒ですよね。なんでさらっと出てくるんだよ、普通に難しいだろうが。と思って末尾を確認したら単語解説がついてた。意味までついていた。僕のゲームで学んだ語彙はオーバースペックだったらしい。

 

環境問題系のやつに取り組みつつ、選択肢を考えていく。ええと、たぶんこれ。というかこれ英語じゃなくて理科の問題ではなかろうか。でもthatがよくわからないので結局英語の問題だよ。

 

角野さんが悩んでいるのはわかる。今まで目を背けていたものを直視しなくちゃいけないというのは相当辛いだろうし、するべきだなんて言えない。僕も正直、陽香にされたことをちゃんと言葉にするのが嫌だし。

 

嫌だ、か。何が嫌なんだろう。恥ずかしいとか?でもさ、恥ずかしいっていうのは誰かに自分の秘密を知られて、それで勘違いとか、自分を嫌われるのが怖いっていう話じゃないですか。例えば陽香は僕にしたことを覚えているでしょうし、それを僕が陽香に話すのは陽香が思い出したくないことを思い出させてしまうとかそういう問題を置いておけば恥ずかしいわけじゃないはずだ。

 

ただ、それはそれとして、言葉にするのが嫌だっていうのもわかる。直視したくない、っていう角野さんと同じようなものだろうか。でも僕は、自分の心がざわつくのを感じることができてしまう。角野さんみたいに全部を無視することができない。

 

「……真面目だよな、陽香は」

 

授業の様子を後ろから見れば、それはわかる。陽香は陽香なりのやり方で自分がしたことに向き合っている。それがうまく行っていないのはわかるけど、僕はそれでいいと思う。

 

ええと、何をされた、だっけ。正直、あの時に僕の身体はそこまで傷ついたわけじゃなかった。いや、噛まれはしたけど、向こうは血を出していたわけで。こっちはにじむ程度だったし。

 

噛んで、何をしたかったんだろうか。食べたいとか、傷つけたいとか、跡を残したいとか。たぶんこういうふうに陽香に聞いたら、そうじゃないって言われそうだ。たぶんぐちゃぐちゃに混ざったもので、陽香にとってちゃんとそれを表せる正解の言葉なんてない。

 

だから悩んでいるし、その上で陽香はまだ僕に未練みたいなものを持っていると思っている。別にそれは未練じゃないと思うんだよな。少しでも可能性があったら好意を捨てられないみたいなのはわかるし、それにしがみつくことを悪いとは言えない。

 

良い悪い、か。つまり僕もなにか悪いことをしそうとか考えているんだろうか。角野さんみたいに。

 

誰かを好きになることが、僕は嫌なのだろう。

 

いやその、こうやって言ってしまうと簡単ですけど実際はもっと難しいんですって。他人を傷つけないようにって僕は育てられてきたわけで、そこで恋とかいう思いっきり相手の心に触れなくっちゃいけない行為が人を傷つけるみたいな話も聞いていて、だからその、何もできなくなるんですよ。

 

それはそうと自分の心は苦しい。自分がしたいことを分解してしまえば結局は性欲とかで相手への愛とかいうのは実際はただの建前なんじゃないかって気になって、自分が建前を守りきれるわけがないという負の方向の自信から結局自分の感情を押し殺すのが最適解になる。

 

良いとか悪いとかじゃなくて、そうするしかなかった。だって他にどうしろって言うんですか、信頼できる相手に話せって?僕にとって今なおそんな話ができる相手は陽香と角野さんしかいなくて、どちらも好きになったという負い目を僕が持っている相手です。どうすればいいんですか。

 

いや、世間の高校生はもっとちゃんとこの手の話ができる友だちがいるのかもしれない。少なくとも陽香は友達と恋バナしていたのを見たことがある。ただ陽香が自主的に好きな人の話とかする印象はないんだよな、よくわかんないって笑顔で言ってそう。この認識っていつ頃のもの基準だろう、高校一年生か、もっと前かもしれない。

 

あとはまあ、性的なことが良くないって言われていたのはありそうだ。別にインターネットが完全に規制されていたとかそういうわけではないけど、ステラ・コルセアというフィルタリングにかからない趣味を見つけられたのは大きかった気がする。課金ゲームじゃなければ時間制限つきで許可は出たしね。

 

だから、そういう話をオンラインでするのは今でも怖い。怖い、のかな。嫌とか、いけない気がするとか、駄目だと思うとか、そういう感じ。例えば虫を潰すのはいけないって思うぐらいに、誰かを性的に見たり、性的な話をすることに変な感覚がある。いや見ないわけじゃないですけど、文章とかイラストならそもそも人間相手じゃないからいいじゃないですか。

 

それはそうとどうしても人間を好きになってそういうことしたいって思うことはあるわけで、そして高校生にもなると恋愛の話の裏にそういうものが稀に見え隠れするようになるわけで。こうやって無理矢理に思考を回しても、結局自己嫌悪にしか繋がらない。

 

陽香とかは、きっとこういうことを言葉で考えないのだろう。それが羨ましい。言葉からは逃げにくい。僕は感情に逃げたり言葉に逃げたりと器用に使い分けられるのでまだマシだけど。

 

そうやって考えて、角野さんの苦しみはほんの少しだけ、わかる気がした。角野さんが自分を変えたのは自分が嫌いだったからで、その嫌いな自分が受け入れられる世界を信じられなかったわけだ。

 

僕や陽香は、その信用を勝ち取るには弱すぎる。あくまで相対的な問題だけどさ。だからしばらくは、角野さんのことが嫌じゃないし、話したいよと声をかけてみるのとかがいいのだろうか。でも角野さんのことだ、それが計画されたものだって見抜きかねないよな。面倒だ。僕が策略を練って何も考えない陽香をけしかけるのが一番良さそうに思えてきてしまう。どうせ意思疎通で失敗するのに。

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